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ギドラの巣「新」映像作品掲示板

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解釈を客に委ねること - なんじぇい (?)

2023/06/06 (Tue) 23:16:40

よく物語には、結末や重要な箇所である程度の解釈を視聴者に委ねるというものが使われます。

個人的には『ゴジラ』のラストの、「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」は、山根博士がゴジラがもう1匹いることを期待してそう言っている事を含んでいるのではと考えていたことがあります。
山根博士がゴジラの研究を作中で主張していたことと(ゴジラがかわいそうだから殺すなという意味で山根博士が言っている箇所はなかったように思う)、香山滋さんの小説版ではゴジラを殺すまいと電撃を止めようとしていたことから思い至ったものです。


それはともかくとして、上の用件で、「『シン・ゴジラ(というより庵野氏の作品)』を意図的に話をワケがわからないようにしていると否定するなら、作中で全部の理由を説明して一切の解釈の振れ幅を許さないようにしないといけないのではないか。そんなことをしたら作劇が狭まるし、余韻もへったくれもなくなるのではないか」と言われたことがあります。
まあ、確かに泣ける映画で感動する理由を延々と言葉で示していたら逆に臭いでしょうし、そもそも映画は動きが主ですから確実に分からせるには言葉で説明するのが一番でしょうが、それをしたら映画の本分から外れるのも確かだと思います(だったら言葉で説明しまくる『シン・ゴジラ』はダメなんですが)。

解釈を客に委ねるのはどの程度ならOKだと言えるのでしょうか。

Re: 解釈を客に委ねること 殿様ギドラ (男性)  URL

2023/06/08 (Thu) 18:55:46

 意図的に解釈を曖昧にするのはよくないでしょう。
曖昧さ自体がテーマであれば話は別になりますけれど。(代表的な例は『羅生門』)

 登場人物の感情や動機などをいちいち言葉で説明するのは論外で、説明ではなく、描写で感じさせる(わからせる)のが正解と思います。

 そして、はっきり描いていない部分でも劇中の描写から観客が裏設定や描かれなかったストーリーを想像するのはぜんぜん問題ないことですが、
何のヒントもない空白を観客が勝手に埋めるのは鑑賞ではなくて二次創作に属しますね。

 物語の基本は、なにが、どうして、どうなった、を見せることでしょう。
どこの誰かもわからない人物が、いつのどこかもわからない場所で、何のためかもわからない行動をして、何が起こったのかもわからない、というのは極端にダメな例ですが、
ストーリーを理解するために必要な、人物の属性設定、時代設定、場所設定、人間関係設定は明らかにしておかないと、
そこで起こる出来事に対して観客は反応できません。
共感や反発を感じるために知るべき情報があります。
ですから、作り手は全力で観客に必要な情報を伝えなければなりません。

 それでも、言葉を使う文学とは違って、出来事を映像で見せていく映画の場合、登場人物の感情や意思が正確に伝わるとは限りません。
さらに人間をリアルに描写していけば、もともと人間に備わっている揺らぎというか、曖昧さも描くことになります。
そこに観客が想像を巡らす余地が出来ます。

 また、簡単に結論が出ない問題を扱えるのが物語の特性でもあります。
解釈に幅を持たせるとしたら、説明しないことで曖昧にするのではなく、設定や出来事の因果関係がきっちり理解できたとしても、
何が正解か判断に迷うような深い物語にすればいいのです。

『ガス人間第1号』のラストで藤千代はどうして○○(未見の方のため伏せます)したのか、なんてあたりは解釈に幅がありそうですよ。

 それと、本論には直接は関わらないことで、
『ゴジラ』のラストの話が出てきたので、この機会に私の考えを書いておきます。

 ネットの意見で、山根博士の最後の台詞は、ゴジラにもう一度出てきてほしいという願望の表れだ、というものを読んだことはあります。
あの台詞を字面だけで読み取ると、そんな心の裏側を感じることもあるかもしれません。
けれども、実際に山根博士が、どんな表情で、どんな声で話していたかを見て聞いて感じれば、ストレートに、もう核実験をやめてくれ、という意思の表れだと受け取るのが当たり前と思います。
 もっと過激な意見では、エンディングでの海上保安庁が取り仕切る芹沢博士追悼儀礼に山根博士が参加していないことを、
ゴジラという研究対象のみならず同じく未知のオキシジェンデストロイヤーまで失わせた芹沢を弔う気にならなかったからだ、なんてことをおっしゃる方もいる。

 山根博士が最後まで芹沢を心配しているのは、オキシジェンデストロイヤーが気になるからではなく、劇中ではっきりとは描かれていない二人の関係性にあると見るのが正しいでしょう。
これが、劇中の描写を元にして描かれていない裏設定を読むことになります。
芹沢が恵美子の事実上の婚約者であったことは劇中明かされています。(芹沢が山根の養子になる人物だ、と言われるシーン)
芹沢は一人暮らしではあるものの、結構な豪邸に住んでいます。
想像できるのは、芹沢の親は資産家か著名人であったこと。
すると山根博士と芹沢の親がなんらかの繋がりを持っていたのではないかと想像できます。
さらに恵美子が「(芹沢には)子供の頃からお兄様のように甘えたりして」とも語っていることから、山根にとっても芹沢は息子のような存在だったのではないかということが想像できます。
親を失った芹沢の面倒を見てきたとか??
 そうなると山根が芹沢を心配するのは、オキシジェンデストロイヤーに興味があるからではなく、肉親の心配に近い物があるからだと解釈できます。
芹沢の死は山根にとって大変な悲しみであったことは容易に想像できます。

 ではなぜ追悼儀礼に参加していないか。
これは時代背景を理解しないと難しいのかも知れません。
ゴジラ事件の9年前まで日本は大戦争をやっていました。
戦死者を、国は英霊などと称揚して遺族の感情とは関係なく名誉なこととしていました。
そして海上保安庁は、開設当時、再軍備ではないかと批判されたようです。
(映画『ぶっつけ本番』(1958東京映画・佐伯幸三)でそんな空気が描かれています)
 息子のように思っていた芹沢が、かつての戦死者のごとく「国」から感謝される様子に山根がなんとも思わないわけがありません。
オキシジェンデストロイヤーを為政者の手に渡したくなかった芹沢の気持ちまで山根が知っていたかどうかはわかりませんが、
「官製」の追悼式なんかに出てられるか、という思いがあってもおかしくないです。
それは当時の観客にもわかる感覚ではないかと推察します。
観客の感情に寄り添うなら、演出としても山根は海保職員の敬礼に参加すべきではないのです。
尾形・恵美子の若い二人はそこまで思い至っていないのでしょう。
 山根博士が芹沢の死に何の悲しみも感じない人非人であるという説よりは説得力があると思います。

Re: 解釈を客に委ねること - なんじぇい (?)

2023/06/08 (Thu) 21:23:07

>そして、はっきり描いていない部分でも劇中の描写から観客が裏設定や描かれなかったストーリーを想像するのはぜんぜん問題ないことですが、
何のヒントもない空白を観客が勝手に埋めるのは鑑賞ではなくて二次創作に属しますね。

https://bunshun.jp/articles/-/8650?page=1
https://kazenotori.hatenablog.com/entry/2018/11/03/203057

皮肉にも、今まで連綿と続くSS(二次創作小説)という文化を作ったのはテレビ版や旧劇エヴァに魅せられたか、あるいは結末に納得がいかない人たちだったので、エヴァはある意味創作のあり方やファンの楽しみ方をを変えてしまった罪作りな作品と言えるとは思いました(エヴァは物凄く謎を作ったことで、推理欲を刺激されると共に非常に自由度が高く、二次創作を書きやすかった。そしてそれがインターネット黎明期と重なった)。

よく言えば作品の楽しみ方が増えて、悪く言えば投げっぱなしの作品が増えたということでもあります。

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