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ギドラの巣「新」映像作品掲示板

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ただいまゴジラ祭り開催中!
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ルンペン浜松吉田元昭 - 吉田元昭 (?)

2017/04/22 (Sat) 16:55:54

くたばれ

アニメ映画『ゴジラ』はどうなるか? - エクセルシオール (男性)

2017/03/12 (Sun) 20:48:43

 『シン・ゴジラ』の話題に押されて忘れられがちですが、今年は長編アニメ映画の『GODZILLA(ゴジラ)』が上映される予定になっています。今回はこの作品について考えてみました。

 といっても今のところ何が何だかわからない状況です。現在公開されているのはスタッフとキャストの一部、そしてたった一枚の絵だけ。そしてのその絵たるや地球なのか他の惑星なのか、はたまた異次元なのかわからない場所を、SF的な防護服に身を包んだ人間や『スターウォーズ』に出てきそうなメカが進んでいるものでした。これから内容を想像するのは極めて困難です。
 過去のゴジラ映画でも探検要素が含まれていたものはありましたが(『キングコング対ゴジラ』等々)。こんな妙な構成の物はありません。まさか元ネタが映像化されなかった幻の怪作『ゴジラの花嫁』などということはないでしょうが(この作品は地底にゴジラやアンギラスなどが生息するロストワールドがありそこに探検隊を送るという話があった)。
 なお、『ゴジラの花嫁』は『「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ』に掲載されていましたが、映像化されていたらカルト映画になっていたでしょうね。

 私はアニメは好きですし、アニメだからと言ってそれだけで悪いと言うつもりはありません。マニア受けを狙わずにまともな怪獣映画を作ってほしいと願うだけです。しかしながら、現在この映画に関して予想されている内容は、その真逆になりそうな感があります。何といっても脚本担当の虚淵玄氏はマニア向けの陰鬱な物語を作ることで有名ですから(まともな作品もなくはないが)、『シン・ゴジラ』の庵野秀明氏よりもさらにわけのわからない「ゴジラ」を制作するおそれは低くありません。
 厄介なのは『シン・ゴジラ』が箍を完全に外してしまっているため、虚淵氏らはもはや「ゴジラはどうあるべきか」ということを一顧だにしないおそれがあること。何とも寒心なきをえない事態です。

 とりあえずの朗報は出演者に関してのみです。近年の大作アニメは素人同然の人を知名度重視で起用することが少なくありませんが、現在公表されているキャストは人気もありますがきちんと実力のある本職の声優を起用しており、そこは安心できます。

 この作品は今のところ公開日すら未定ですが、さてどうなりますことやら。

 余談ですが、日本国内で本格的な「ゴジラ」のアニメ作品が作られるのは初めてだそうです。アメリカではハンナバーベラ版(日本未公開)とエメリッヒ版『ゴジラ』の続編にあたる作品と二種類のアニメシリーズが製作されていたのですが、日本では前例がありません。そのこともありなおさら予測がつかないことになっています。
 なお、日本では学研製作の幼児教育用オリジナルビデオアニメーションとして『すすめ!ゴジランド』という作品はありました。ゴジラもラドンもアンギラスも他の怪獣も大変可愛くデフォルメされている楽しい作品です。

Re: アニメ映画『ゴジラ』はどうなるか? 殿様ギドラ (男性)

2017/03/13 (Mon) 18:25:49

アニメゴジラにも不安というか恐怖がいっぱいですね。

私も表現形式としてのアニメーションには偏見はなく、それどころか40年ほど前までは日本のアニメに大いに期待していたほどです。

けれども、例外はあるにせよ、日本のアニメが女性と兵器に固執し始めるようになって全体として腐ってしまったと考えています。(言い過ぎ?)

そんな中、形式としてアニメーションというだけでなく、日本アニメの監督に作らせるというのですから、期待せよというほうが無理。

オフィシャルサイトで公表された画像やツイッター
https://twitter.com/GODZILLA_ANIME
に上がった画像なんか見ると、まあ、ほんとにいままでのゴジラ映画とはまるで別物になるんだろうなとは思います。

私がひっかかったのは、ツイッターにある、雑誌エンタミクスの見出し。
テーマは「人間とゴジラの因縁の戦い」とあります。

どうも未来世界を舞台にする雰囲気がありますし、またしてもゴジラを人類の前に立ちはだかる永遠の宿敵、という扱いにするんじゃないでしょうか。

嘆息・・・・。

Re: アニメ映画『ゴジラ』はどうなるか? - エクセルシオール (男性)

2017/04/16 (Sun) 22:49:58

 公式サイトやイベントで配布された資料からアニメ映画『ゴジラ』の内容が少しずつ明らかになってきました。正直、ものすごい内容となっているようです。なお、映画は三部作となり第一作目のタイトルは『ゴジラ 怪獣惑星』となりました(公開は11月予定)。

 ざっと述べると、人類は怪獣との戦いに敗れ、一部の選ばれた人間だけが別天地を求めて地球を旅立ったものの、ようやくたどり着いた移住先候補地は人間が住める星ではなく、再び地球に戻ることになります。しかし、リスクの伴う航行方法を採用したため、帰還した地球では2万年が経過しており、ゴジラを頂点とする怪獣惑星となっていたというものです。主人公はゴジラに両親を殺された青年で、地球を取り戻すための戦いを始めるというのが基本ストーリーです。

 これだけでも「うーん」と首をかしげてしまいたくなりますが、公開された情報だけでも疑問点が上がってきます。この映画のキャラクターには二種類の異星人がいるのです。地球よりはるかに優れた技術を有する彼らと友好関係にあるのですから、無理して地球に戻るよりも、否、そもそもはるか遠くの惑星を目指さなくても、どこか適当な惑星又は衛星を改造(テラフォーミング)するなり、スペースコロニーを建造するなりして定住した方が無難なのではないか?相応の理由はあるのでしょうが、異星人を登場させたため無用の疑問を生じさせています。

 また、「アニメジャパン2017」というイベントで資料が公開されたそうですが、そこには作品世界の歴史が語られています。カマキラス、ドゴラ、ダガーラ、ラドン、アンギラス、オルガといった怪獣が出現して人類を脅かし、その後に全ての怪獣を超越するゴジラが現れ人類を存亡の危機に陥れます。驚くべきはその被害者数。ゴジラが現れてから億人単位で死傷者が出たという設定です。「ゴジラってここまで凶悪だったかな?」と思ってしまいますし、もはや設定が暴走している感があります。また、中国に現れたラドンとアンギラスを倒すため、生物化学兵器「ヘドラ」を用いたとの記述もあり、さすがに頭を抱えてしまいました。やはり『シン・ゴジラ』が箍を外してしまったとの懸念は現実化したものと思われます。

 なお、私がこの内容を見聞きしてふと思ったのは、地球に取り残された人類はどうなってしまったのかということです。いまのところみんな怪獣に殺されたという可能性が高いですが、それではありきたりです。もしも彼らが何とか怪獣と共存する道を探し出して、どうにか平和に暮らしていたところへ、宇宙から自分たちの祖先を置いてけぼりにした者たちが戻ってきて、迷惑極まりない地球奪回戦を始めてしまったという展開なら面白いのですが。

 

 

Re: アニメ映画『ゴジラ』はどうなるか? 殿様ギドラ (男性)

2017/04/17 (Mon) 18:54:52

嗚呼。

アニメゴジラの情報もざっくりとは仕入れていましたが、そこまで詳しくは知りませんでした。

大まかな設定と導入部の劇展開から、怪獣を英米的なSFの枠にはめ込もうとする意図を感じていましたが、それどころじゃないですね。

印象としては、『ゴジラ・ファイナルウォーズ』をまたやるの?

というところです。

怪獣たちの名前と形(デザインには大幅な変更が考えられる・・)だけを流用して、怪獣映画ではないものを作るのでしょうね。

元々の設定や背景を無視した形でうじゃうじゃと怪獣を登場させるだけで、怪獣のスター性は薄れます。
そこにボスキャラとしてのゴジラですか。

怪獣と怪獣映画の歴史に疎い人が考えそうな設定です。

そして安易きわまりない、ゴジラに復讐心を持つ主人公、と。
(手塚昌明監督の影響でしょうか)

怪獣を生命体として人間と並列するのではなく、人間と対立する障害として扱うのでしょうか。
そこに小賢しい存在理由を付加するんでしょうか。

怪獣に意味づけを行って、それがテーマだ、とでも?

そうなるかどうかはわかりませんが、怪獣素人は怪獣そのものに意味(人類に対しての役割)を持たせようとしたがりますから。
84年版の準備のために書かれたSF作家たちによるプロットなんてゴジラに意味づけするために必死だもんなぁ。

とはいえ、アニメにする以上、王道の怪獣映画を作っても所詮実写にはかないませんから、
アニメっぽい飛躍性を取り込まないと成立しないような気もしますね。
(設定改変を認めるわけではありません)

とかなんとか考えると、アニメ「ザ・ウルトラマン」の後半部を思い出す・・・。
(頭いてぇ)

キングコング髑髏島の巨神 殿様ギドラ (男性)

2017/03/26 (Sun) 16:45:03

『キングコング髑髏島の巨神』、見てきましたよ。
 まだご覧になっていない方のために、内容はばらさないように簡単に印象を書いてみます。

 この映画、事情通ならご存じの通り、レジェンダリー版ゴジラと同じ世界を舞台にした物語です。
そして2020年公開予定の『ゴジラ対キングコング』への布石であり前哨戦です。

 第一に怪獣観が正しい。
あくまでも自然の驚異という扱いです。これは前作『GODZILLAゴジラ』と共通する思想ですが、
前作ではゴジラを核実験と切り離してしまったためにゴジラ本来の個性が薄れるという欠陥を招いてしまいましたが、
キングコングならなんら問題はないです。
(本作でも1954年の核実験はある生物を殺すために行われた、と核実験の非道をごまかすような発言はある)

 ただちょっと文句を付けるなら、怪獣たちは人類以前に地球を支配していた種族であり、モナークは再び怪獣が地球にはびこるのを
阻止するために活動しているという説明があって、その考え方はいたずらにゴジラ(怪獣)を人類と対立するものという概念に誘導するので危険です。
(日本のアニメゴジラもその考え方を踏襲しているらしい。これは平成VSシリーズが招いた間違いである)

 あ、それで、『GODZILLAゴジラ』でムートーの命名がなんか適当だったという苦情がありましたが、やはりそれは字幕の出来がわるかったのでした。
その後、『GODZILLAゴジラ』の吹き替え版を見たらMUTOというのが略語だったことがわかり、さらに今回の『キングコング髑髏島の巨神』ではっきりしたのは、
MUTO(ムートー)というのはモナークの用語で陸上タイプの怪獣を示す言葉だったらしいことです。
 あのムートーちゃんはムートーという種族名を付けられたのではなく、名無しの権兵衛だったということです。(それはそれでひどいけど)

 第二に武力で問題解決を図るという思想を否定していることが素晴らしい。
メインキャラクターに軍人もいるのですが、彼はアメリカンマッチョ思想を代表するような人物であり、部下の敵討ち、ひいては母国を守るため、と
コングを殺そうとします。その彼がどうなるか・・・。また、ダメなシナリオだとこういう人物を単純な暴力野郎にしてしまうところ、
ちゃんと情のある部下思いの軍人としているところがリアルです。

 映像面では、コングおよびほかの怪獣による大暴れや襲撃を、臨場感を持って描いているのがお見事。音響も7.1ch。
カメラは主観・客観を縦横に切り替えて観客を現場に立たせます。

 ストーリー上、人間が余計なことをしたからコングの怒りを呼んだのだとはっきり表明していますし、そのあたりは映像面でも感覚的に表現されています。

 キングコングマニアの方がどのように感じるのかはわかりませんが、本作のキングコングの性格付けはオリジナル版に非常に近いと思われます。
そして東宝コングへのオマージュまであって驚きました。

 それから日米協調も大事だと言いたげな出来事も織り込んであって、まあ、それはそうなんだけど、アメリカさん、そちらの政府は世界平和を願ってますか??と苦笑。

 んー、あんまり長くは書かないようにしましょう。
最後に、エンドロールが終わったあとに次回作につづくおまけシーンがあるので怪獣ファンは見逃さないように!

Re: キングコング髑髏島の巨神 - K4 (男性)

2017/04/02 (Sun) 18:55:12

ご無沙汰しております。
キングコング。
正直、やられた、という感じです。
逆に、私がこれまではギャレスゴジラの評価があまり高くなく、シン・ゴジラは楽しめた
と、なぜ思ったのかも見えてきました。
またコングを観ると、怪獣映画に求めているものが凝縮されていて
シン・ゴジラにはそこが欠如していることも明らかになってます。
私がシン・ゴジラを楽しめたのは、やはり怪獣映画としてではなく
80年代のアニメブームを原体験してきた世代以降の人間に共通する
オタク文化の土壌の上に成り立つものだと思いました。
またそれは昭和ゴジラとは全く別物であって、いわゆる平成ゴジラ作品の
ゴジラ観を極めたものなのだと思います。
あくまで個人的と断っておきますが、それでもシン・ゴジラはこれはこれで
作品としてはありだと思ってます。
ただ、従来のゴジラの名前を借り新しいものを作ったというなら
名前はとにかく伊福部音楽に頼らず、独自の世界観で突き進むべきだった、という
考えは変わりません。

今回のコングが、ギャレスゴジラの反省からなのか、はたまた
元からの世界観の設計なのかはわかりませんが、コングを通して、
この世界観が見えた事でギャレスゴジラの評価が自分の中であがりました。
シン・ゴジラはあの話の延長で次作を作ろうとしても、怪獣映画には
ならないと思います。
あのゴジラが最後の一匹だとは思えない、から広がった昭和ゴジラ。
そして、前の時代なのだけれどもギャレスゴジラの世界観をうまく補足し
更に次作以降の展開にうまくつなげたコング。
単体の作品として楽しんだシン・ゴジラより、今回のコングを観て
レジェンダリーのゴジラの展開の方がわくわくしている自分がいます
(中国資本になったことの影響がどうでるかは不明ですが)。


Re: キングコング髑髏島の巨神 殿様ギドラ (男性)

2017/04/05 (Wed) 16:19:07

K4さん、いらっしゃいませ。

単独の作品としての評価が分かれているとしても、『シン・ゴジラ』の中身が元祖ゴジラシリーズとは別物であるという点で一致できたことはうれしいです。

そこでレジェンダリーの怪獣世界(なんとかというシリーズ名がつけられていたみたい)がどう展開するか・・。

いずれにせよ、原典に忠実と言うことはないでしょうし、ハリウッド流のアレンジを加えるのでしょうけれど、
次回作が三大怪獣地球最大の決戦を模した物になるのは決定のようですね。

モスラの扱いをどうするんでしょう。
インファント島の設定には明確な反核思想がありますが、やはりそこは改変して、なかったことにするんでしょうか。
それから、キングギドラをちゃんと宇宙怪獣にしてくれるのでしょうか。
さらにラドンをゴジラと並び立つスター扱いにしてくれるのか・・・。

どうなろうと彼らの「大活躍」を現在のハリウッドクオリティで丁寧に映像化してくれたら、日本の怪獣もの(ウルトラ含む)よりずっと楽しめそうです。

などと、不安と期待がぐっちゃぐちゃですね。
(不安がいっぱいなのは東宝のアニメゴジラだ)

Re: キングコング髑髏島の巨神 - K4 (男性)

2017/04/07 (Fri) 23:18:10

シン・ゴジラは
・作品は鑑賞時は楽しんだ。
・鑑賞後は怪獣映画としては違和感が残った。
・新しいゴジラを作りたいと意気込むのであれば
 伊福部音楽は使わなかった方が、別の作品として割り切れた
 のに、という思いが消えない。
・映像は予算の制約のある日本でここまで出来た事は
 素直にすごいと思っている。
・・・だから何?というのがうまくまとめられない、と言ったとこで
思考が停止してました。

でも、ここでキングコングが出てきた。
>レジェンダリーの怪獣世界
モンスターバースですね。
憶測ですが、過去の地球では自分たちのテリトリーとして
陸上では髑髏島のコング、インファント島のモスラ他がいて
更に空中のラドン、海洋のゴジラが存在してバランスを保っていた。
そこに宇宙怪獣のキングギドラが来襲していたんじゃないかと
(モスラ3っぽいですが)勝手に想像してます。
前作、ムートーと呼ばれた怪獣も外来種なのかもしれません。
まったく的外れかもしれませんが、ギャレスゴジラが消化不良だった私ですが、
妄想が膨んでしまう、うまい世界観の設定だと思いました。
(今回、地下空洞世界の存在の可能性も示唆されてましたから、
環境変化で退避した他の何かが潜んでいるという展開もある?)

コングを観て思ったのが、
映像では、まだまだハリウッドには敵わない。
怪獣映画(自分なりの感覚ですが)としての満足度が高い。
モンスターバースの設定は私の好み。
というのと同時に、これまでのキングコングをこよなく愛してきたファンは
どう感じているんだろうか・・・
ということでしたが、ここでシン・ゴジラと今回のキングコングの違いを
感じたわけです。
同じ名前でこれまでの設定とはまったくの別物をつくる、その時の
過去作への敬意があるのか。
その差ではないか、と感じ始めています。


Re: キングコング髑髏島の巨神 - エクセルシオール (男性)

2017/04/08 (Sat) 22:16:59

 『キングコング 髑髏島の巨神』を私も観てきました。感想としてはまずまず良い怪獣映画だったと思います(管理人さんが挙げる美点にもほぼ同意いたします)。

 怪獣の元祖であるキングコングにもほぼ定着したイメージがありますが、本作品ではそれから大きく逸脱することなく、映画を観ながら「これでこそキングコング」とうなずかされる点が多々ありました。この映画はキングコングを「凶暴残虐な巨大猿」にしてしまうような愚かなふるまいはせず、基本的には穏やかな性格で弱いものには優しさを示す存在として描いていました(恩には恩で報いる姿も見られた)。これは良かったことだと思います。
 
 個人的にほっとしたのは髑髏島の先住民の描き方。ピーター・ジャクソン版では疑問を感じずにはいられなかった部分ですが(ほぼ意思疎通不能の野蛮人として描いていた)、本作品では私欲を捨てて悟りを開いたような穏やかな存在として描かれており(言葉なしで意思疎通が可能と言う設定)、彼らと共に暮らしていたマーロウ中尉が仲立ちとなり主人公達とも悪くない関係を築くことができました。
 キングコングシリーズにはどうしても文明社会から来た者(多くは西洋の白人)が上から目線で「未開社会」の先住民と交流するという差別的な要素が残存しがちです。でも、本作品ではむしろ文明社会の住人の方がよほど野蛮であるという要素を盛り込んであり、そこはベターなものであったと思います(この点は非西洋である中国の会社が製作に加わったことが良い方向に作用したのかもしれない)。

 レジェンダリー版ゴジラと作品世界を共有する本作品。何でも地球空洞説が事実らしいという面白い設定があるようです。ジュール・ヴェルヌの名作『地底旅行』以来SFの代表的設定ではありましたが、地球の中が岩をも溶かす高温の世界だという事実が知れ渡ってからはやや低調になっていました。そこをどうクリアするのかは見物です。もっとも地球内部が超高温だと分かってからも地底世界の存在余地を追求する作品(例えば大長編ドラえもんの第8作目『のび太と竜の騎士』。「薄い」地殻と言っても数十キロの厚さはあるので地底世界の存在は十分可能だとしていた)もあるので、全く荒唐無稽というわけではありません。

 さて、エンドロールが上がりきった後、この世界にはゴジラ、ラドン、モスラ、キングギドラが存在することが明かされます。どうなるのか分かりませんが、きちんとキングギドラは宇宙怪獣にして、モスラは高度の知能を持った守護神として描いてほしいです。また、インファント島を荒廃させた核実験の罪悪からも目をそらしてほしくないです。
 そして願わくばゴジラ・ラドン・モスラ対キングギドラで怪獣決戦を描いてほしいですね。

 

Re: キングコング髑髏島の巨神 殿様ギドラ (男性)

2017/04/12 (Wed) 17:37:22

 みなさま、どうもです。

 モンスターバースでしたね、レジェンダリーが構想する怪獣シリーズ。
マーベルスタジオがヒーロー世界に横のつながりを持たせて立体的にシリーズ化していることに触発されたんじゃないか、
などと言われていますが、
実は昔の東宝怪獣映画がやっていたことにも通じる考え方でもありますね。

 本多・円谷時代の特撮映画ではそれほど自覚的ではなかったにせよ、別作品に登場した怪獣を組み合わせることで、
一本ずつの作品では出来ない作品世界の広がりを作っていました。

 これもハリウッドに取られたか~、という思いです。

 ただ、レジェンダリーピクチャーズがどこまでうまくやれるかは今後の展開を見ていかないとわかりません。
昔の東宝のやり方は、作品同士の関連を限定しないことで自由度を上げていました。
 はっきりと繋がっていることを示したり、まるで無関係であるなどと規定しないわけです。

『ゴジラ』と『ゴジラの逆襲』は完全に続編扱いですが、では『空の大怪獣ラドン』は『ゴジラ』の世界と繋がっているのか?
劇中でゴジラに言及することはありませんし、『ゴジラ』と共通の人物も登場しませんから一般的な見方をすれば別の世界のお話と考えるのが筋です。
しかし、重要なのは、『ゴジラ』の世界とは切り離されていると断じるべき表現もないことです。
 これによってのちにゴジラと共演することが可能になっているわけです。
 ラドン以外の怪獣たちにも同様な曖昧さを残していたから、『怪獣総進撃』という企画が成り立ったと言えるでしょう。
(しかし、「総進撃」はモスラをインファント島から切り離してしまったのがまずい)

 レジェンダリーのモンスターバースは、モナークという人間側の組織ががっちりと縦糸になるようなので、
ひょっとすると怪獣対人間という図式の中でストーリーが行き詰まる可能性があります。
人間が怪獣を征服するのか、和解するのか、あるいは怪獣の勝利に終わるのか、みたいに終点を探ることになったらまずいです。

 怪獣とは自然の者。人間と自然の付き合いは終わることがないのですから、終点を決める必要はないはず・・・。

 さて、次回作、どうなるんでしょう。『キングコング髑髏島の巨神』エンドロール後のおまけシーンには、日本列島の地図にいくつかの地点が示されていたようでもあるし、
怪獣たちが洞窟壁画に描かれていたようにも見えます。やはり太古の昔、宇宙からキングギドラが襲ってきたことがあり、そのときゴジラ・ラドン・モスラ連合が地球を守ったのでしょうか。
そして、再びキングギドラの脅威が迫っているというところからお話は始まるんでしょうか。

 ううーーん、あるいは、有人金星探査をしてみたらキングギドラの落とし物(岩石)があり、それと知らずに地球に持ち帰ってしまったら金星の石がどんどん成長、
めでたくギドラ登場! なんてなーー。

 おっとキングコングの話を全然書いてないや。

 私も髑髏島の住民の描き方には好感を持ちました。ジャクソン版はほんとにひどかった。あの映画はどうにも体に合わなかったので劇場で一回見たっきりなんですが、
島の住民は意味不明に撮影隊に襲いかかってきて、さらに白人たちは原住民をばんばん射殺していませんでしたか?
 1933年のオリジナル版より一層白人上位思想が見えて気持ち悪かったのです。
 対して、今作ではエクセルシオールさんがおっしゃる通り、髑髏島の住民は科学文明を持っていないだけで高度な文化を持っているような描き方をされており、自然と調和して生きている人々という
扱いだったと思います。(ちょっと作り手は東洋的な神秘に憧れすぎているかも、と思いもしましたが・・)

 コング(今作ではまだキングコングではないらしい)が変なアレンジを加えられていなかったのは本当に喜ばしいことです。
レジェンダリーのゴジラよりずっと原典に近い。
 まあ、キングコングは基本的にはでかいゴリラなので(とはいえゴリラとは体型・姿勢など違いはある)あからさまなデザイン変更はやりようもなかったんでしょうけれど。

 このコングがキングコングに成長した暁、ギャジラ(ギャレスゴジラの略です)と戦うとなるとなんらかの追加設定は必要な気もしますねぇ。
帯電体質になっちゃう?

『シン・ゴジラ』という蒙昧を斬る(ゴジラファンとして) 殿様ギドラ (男性)

2017/03/23 (Thu) 18:32:12

『シン・ゴジラ』に登場した化け物はゴジラではない。
名前がないのも不便なので、ギドラの巣では「ちんごじら」という名称で呼ぶことにしています。
(「ごじら」という言葉を残しているところに優しさがあると思って欲しい。発案者はルー等級つつ大臣さん)

 ゴジラというのは、爬虫類とほ乳類の中間型の生き物で、水爆でも死なず、体に放射能を持っているのは水爆のせいである、という生き物です。
これは『ゴジラ』(1954)劇中で山根博士が発表するゴジラに関する説明を要約したものです。姿形を文章で説明するのは難しいので、みなさまお手持ちの写真やビデオを参考になさって下さい。

『ゴジラ』(1954)劇中で山根博士の意見を否定するような反証は出てきませんので、これがゴジラの基本設定だと考えて間違いないでしょう。
その後登場した二代目ゴジラも外見は初代とほぼ同じで、同種族の個体差と言って差し支えないでしょう。

 ここで特に注意していただきたいのは、ゴジラは核兵器の放射線で変異した生き物ではないということです。
付け加えれば、放射線によって突然変異を起こすのは被爆した個体ではなくその子孫であることも覚えておくとよいでしょう。

 上記の設定は『メカゴジラの逆襲』までは守られていました。

 ところが『ゴジラ』(1984)において、ゴジラは原発を襲い原子炉を抱えてうっとりします。この作品からゴジラは放射性物質をエネルギーとすることにされてしまいます。
二代目ゴジラが放射性物質を求める描写などありませんし、それどころか初代は大戸島で家畜を食べたことが示唆され、二代目は鯨の群れを追っている様子(『三大怪獣地球最大の決戦』)が描かれています。
オリジナルのゴジラは肉食動物であったと考えられるのに、1984年版では別の動物にされてしまいました。

 84版から繋がる平成VSシリーズにおいてはさらに設定が付け加えられて、恐竜が放射線で変異したものとされます。(科学的におかしなことになってしまった)

 私の厳しいゴジラ基準では、平成VSのゴジラももはやゴジラではないのですが、その姿形はゴジラに分類しても問題ない範囲に収まっていました。
口から吐く熱線とか発光する背びれなどその能力もゴジラと同等と言えます。
(ただし、性格や劇中での立ち位置は二代目ゴジラとは違う)

 俗にミレニアムシリーズと呼ばれるシリーズではそれぞれのゴジラに関連がなく、明らかに設定が違うのは『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃』に登場した白目ぐらいで、
その他のゴジラたちがどんな出自、生態を持っているのかは判然としません。

 ここまで大まかにゴジラ像の変遷をまとめてみましたが、そこから見えてくるのは元祖ゴジラシリーズでは見た目こそ多少の違いがあるもののゴジラという生き物の設定を改変することはなかったのに、
84版以降、ゴジラの設定は変えても良いことにされているらしいこと。

 ゴジラという同じ名前でありながら違う動物にしてしまうことをどのように正当化するのか私にはわかりません。
しかし、なぜそうなったのかはある程度想像できます。

 それは1984年以前のゴジラ復活待望論の時代にさかのぼります。
当時、ゴジラ映画は『ゴジラ』(1954)のみが傑作であり、その後の作品は付け足しであるという論調が支配的で、ゴジラファンの中にも怪獣同士が戦うものは子供っぽいから良くないという意見が多かったのです。
これは1970年代のいわゆるヒーローゴジラ(人間社会に害を為す怪獣をゴジラが倒すという形式のストーリーだった)に対する反動だったのだと思いますが、1960年代の怪獣対決映画に関する分析が不足している意見です。
さらに『ゴジラ』(1954)が傑作なのは、反核映画だからだ、という意見が支配的になりました。

 そこで84版では反核映画感を強めるためにゴジラ自体が放射性物質で活動することにされ、ゴジラ=核兵器の構図を強めたのだと推察されます。
(『ゴジラ1954』でのゴジラは核実験の被害者であったことにも意味があったのに・・・)
もうひとつ、84版では1954年の初代ゴジラ事件はあったことになっていますが、なぜか『ゴジラの逆襲』以後の二代目ゴジラの存在は消されています。
ここで、二代目の存在もありつつも、それとは別の放射性物質をエネルギー源とする三代目ゴジラ、ないしゴジラに見えるが別の生き物であるとしていればその後の混乱が起こることもなかっただろうと思われますが、まことに残念な結果です。

 この84版がやらかしたことに対する分析も反省もないまま、それもゴジラ史の一部となってしまいました。
それは、作り手の都合でゴジラを改変してもいい、という間違った認識を生みました。

 R・エメリッヒの偽物も同じこと。あのとき、東宝が厳重に監修して姿形や生物としての設定を守り抜いていればゴジラ像がこんなにぶれることはなかったでしょう。

 そうです。ゴジラ像はブレ続けています。

 VSもミレニアムも白目もギャレス版もみんなゴジラと呼ばれる。
もはやゴジラファンといっても同じ物が好きなわけではない。

 まず、こんなに中身の違うものを同じ名前で呼ぶことに私は反対です。

 それでも、エメリッヒ版は核実験の放射線で変異した怪物であり、その部分ではVSゴジラと同じ設定であり、核兵器との関連を守っています。
また、ギャレス版は放射線をエネルギー源とするものの、何かの生物が変異したものではなく大自然が生んだ驚異の生物という点は元祖ゴジラと同じです。

 このように84以降の改変ゴジラたちもどこかに元祖ゴジラから引き継いだ要素を入れようとはしていました。(うまくいっているとは限らないけれど)
例外は『GMK』の白目。あれは人間の意識だか霊魂だかが集合したものらしいので、根本のところでゴジラとは違う。どこかの「穿ち」好きが初代ゴジラの中に英霊の意識を勝手に感じて、『ゴジラ』感想文を発表したことに影響されているらしい。
(一例として「映画宝島 怪獣学入門!」1992年刊内「ゴジラは、なぜ皇居を踏めないか」赤坂憲雄)
しかしそれは劇中のゴジラ像を表すものではなくて、映画『ゴジラ』の解釈でしかない。個人の感想は自由なのでその人がゴジラの中に戦死者の霊を見るのは自由だが、ゴジラ映画の設定として使うべきではない。

 平成VSからゴジラに入った人にとってはゴジラはゴジラザウルスが放射線で変異したものなのでしょうけれど、歴史をたどればそれは本来のゴジラとは違うということは理解できるはずです。
しかし、そんな差異は劇中で言及されたときには違いを意識させられてしまうものの、ストーリー上で設定の違いが問題にならないときには見た目と生態でゴジラと認識しますから、たとえば『ゴジラvsモスラ』を見た私が、
「こんなのゴジラじゃねぇ」と感じるほどではありません。(こんなのモスラじゃねぇ、とか、結局ゴジラ退治かよ、とは思う)
 逆に平成VS世代の方が『モスラ対ゴジラ』を見たときに、こんなのゴジラじゃない、とは思わないでしょう?

 日本のゴジラはぎりぎりのところでゴジラ像を守ってきたのだろうと思っておりました。
(白目が登場しても次の機龍篇では比較的にまともな形に戻る)

 12年の空白ののちにギャレス版のヒットを受けて作られた日本のゴジラ映画『シン・ゴジラ』。
あの映画の作り手たちは、どうすればゴジラではないものを作ろうかと腐心したように見えます。
なんらかの海棲生物が放射性物質を食べて放射線耐性を身につけ、それが人の手で品種改変されて怪物化したのがちんごじら。
ちんごじらは変態し(ゴジラはそんな生態を持たない)、口、尾の先、背中から直線的なビームを発射する(ゴジラの熱線とは別物)。
性質も違う。
姿形も似ているのは背びれだけで、あとは何もかも違う。(ゴジラのアイデンティティは背びれだ、とでも?)
 核兵器の影響もなく科学を超える大自然の象徴でもありません。

 あれはゴジラではありません。

 ちんごじらの表層がゴジラと違っていてもその精神性はゴジラなんだ、という人もひょっとしたらいるんでしょうか?
としたら、その認識は間違っていますよ。
 ゴジラに込められた精神とは何ですか?
 冒頭に書いたゴジラの基本設定から考えて下さい。

 第一にゴジラは人間が作った物ではありません。これを誤解している人が多すぎる。そんな誤解の出発点は、ゴジラは水爆の放射線で恐竜(ないし何かの動物)が変異したものだという思い込みにあります。
核兵器は人間が作ったものであり、その影響で生まれたならゴジラも人間が作ったものだという論法があるのはそんな誤解のせいでしょう。

『シン・ゴジラ』公開当時に書いたことを繰り返します。
 ちんごじらデザイナーの一人、前田真宏氏は劇場パンフレットのインタビュー記事で「第一作では爬虫類が変化したものという説明がされますけれど」と発言している。
この勘違い。そんな説明は『ゴジラ』(1954)にはありません。
 どうして『ゴジラ』(54)を見直さずに勝手な解釈をするのですか。これは初代ゴジラの骨が溶け残っていたと勘違いしたまま突っ走った機龍二部作と同じ不勉強である。

 ちんごじらは放射線による突然変異体であり、さらには人間の手が加わって出来上がった怪物。ゴジラとの共通点はない。

 また、ゴジラは水爆でも殺せない動物とされていて、オキシジェンデストロイヤーという人類科学の行き着く先を象徴した架空の技術でようやく殺されます。発明者とともにオキシジェンデストロイヤーは永遠に失われ、
その結果人間はゴジラを殺せないという図式を作ったのが元祖ゴジラシリーズ。
それに対し、ちんごじらは核ミサイルで滅却できるという。

 ゴジラが背負っていた精神性の何をちんごじらは受け継いでいるというのか?

『ゴジラ』(54)と『シン・ゴジラ』の作品内容を比べても、両者に共通点はない。

『ゴジラ』(54)は科学技術を軍事に使うことを批判した作品であり、科学者の倫理を問う作品です。(極めて今日的なテーマである)

『シン・ゴジラ』は?
 出来の悪さを割り引けば、危機管理のためには素早い意思決定が必要だという話であり、日本の国防には米軍が必要だという主張が含まれ、なにより大災害でも国家権力がうまくやるから国民は安心しなさいという作品でしょう。
科学と人間の関係を考察するエピソードなどどこにもない。科学がらみの設定、ストーリーは極めていい加減に流している。

『シン・ゴジラ』はゴジラからなにも受け継いではいない。

 こんなものをゴジラ映画として認めるとは笑止千万である。

『シン・ゴジラ』にゴジラは出てこないし、ゴジラ映画でもない。

 さらに、ここからはゴジラファンの皆さんへの問いかけです。

 皆さんがゴジラファンなのは、どうしてですか?
 ゴジラ映画がおもしろかったことや怪獣ゴジラのキャラクター性に惹かれたのではありませんか?

 その魅力とは何ですか?
『シン・ゴジラ』にそれはありましたか?

 あった、というなら、ずいぶん浅いゴジラ観をお持ちですね。
 でかい怪物が現れて、軍隊とドンパチやるのがゴジラ映画ですか?
ならばそんな映画は世界中にたくさんありますよ。エメリッヒ版でもいいですね。ゴジラじゃなくてもいいでしょう?

 ゴジラを人類の前に立ちはだかる壁扱いし、基本的にゴジラ退治をストーリーの主眼に据えていた平成VSシリーズでは初期にはゴジラが人間の技術の前に倒れるという展開はありましたが、
軌道修正されて人間には決して倒されないものという扱いに変わっていきます。
そして、VSゴジラでもゴジラには心があるという描写はなされていましたし、ちんごじらのような感情のない脊髄反射生物のようには描かれていませんでしたよ。
『シン・ゴジラ』には平成VSとの共通点も少ない。

『シン・ゴジラ』以前からゴジラファンだったという人で、『シン・ゴジラ』もゴジラ映画に見えたという人がいるなら、どうしてなのか説明して欲しい。
私にはまったく想像も出来ない。

「特撮秘宝vol.5」に『シン・ゴジラ』エグゼクティブ・プロデューサー山内章弘氏のインタビュー記事があります。
氏は「実はこれ、ゴジラが登場しなくても成立するお話なんですよ」と発言している。
その通りです。実際にゴジラは登場しない。
ストーリーの要求に合わせた形の怪物を登場させて、ゴジラと名付けただけだ。

 ゴジラファンがこんなものを受け入れてはいけない。
『シン・ゴジラ』はゴジラという名前をプロモーションのために使っただけであり、はなからゴジラ映画を作るつもりはなかったのですよ。

 ゴジラはすでにブレてしまったキャラクターですが、こんな改変を受け入れていくならば「ゴジラ」という名称は何者も表さなくなり、「ゴジラ人気」など雲散霧消するでしょう。
そんなゴジラ消失を止められるのは、ゴジラファンしかいない。
 製作サイドがゴジラという名前を宣伝材料としか考えていない現在、ゴジラファンがゴジラを守らなくてどうするのですか。

 もう十数年前になりますが、ある方が「どんな出来でもゴジラ映画が作り続けられさえすれば、いつか傑作が生まれるはずだ。だから製作が止まるようなことはしない」とおっしゃいました。
それはおそらく、私が新作への批判記事を書くことが多かったので、それを牽制する意図があったのだと思われます。
このご意見、一見正しいように見えますよね。最近も身内から同じようなことを言われてびっくりしました。

 しかし、上記の考え方はあまりにも楽観的で性善説に立ちすぎです。
 前提として、ゴジラ映画を作る人はゴジラが好きでありおもしろいゴジラ映画を作るために日々研究努力しているはずだ、という思い込みがあります。

 水は低きに流れ、悪貨は良貨を駆逐するのです。

 批判にさらされなければ、人は楽な方へ流されます。
 映画の作り手も同じこと。
 ゴジラと銘打ちさえすればゴジラファンは必ず見てくれるとなれば、中身は好き放題に出来ます。何をやっても批判されないのであれば、己を律することもないでしょう。
ただ客さえ入れば良いということになる。

『シン・ゴジラ』がやったことは、昨今流行りの日本賛歌でしょう? 『永遠の0』『海難1890』あたりと並べれば良い映画ですよ。
怪獣映画の楽しみなどない。
 しかし、商売としては成功した。

 ゴジラファンがそれをよしとしてはいけません。

 ゴジラ映画が作り続けられればそれでいいという理屈にだまされてはいけません。

 違うと思うなら違うと言いましょう。おもしろくなければおもしろくないと言いましょう。

 東宝は、今度はアニメのゴジラだと息巻いていますが、客層としてアニメファンを取り込みたいんですね。
『シン・ゴジラ』もエヴァンゲリオンファンを取り込むための企画だったようですから、発想は同じですね。

 日本のアニメはガラパゴス的な進化を遂げていますから、映画全般をよく知っていても日本アニメの定石には理解しがたいところがあります。
そんな日本アニメのクリエーターが日本映画史の核に(かつては)位置していたゴジラを正しく描けるものでしょうか。
またしても作り手が自分のフィールドに引き込んでゴジラでもなくゴジラ映画でもないものにするのではありませんか?
(そして新しいゴジラ映画だと言う。騙されるな。決して変わることのないゴジラを用いて新たな物語・映像を作るのが新しいゴジラ映画である)

 それでもゴジラと名付けられていれば受け入れるのですか?

 そんな欺瞞を私は許さない。

 さらに、ここからは『シン・ゴジラ』なんかNOだ、とお考えのゴジラファンのみなさんへ。

 諦めないで!
 地道に訴え続ければ、正しいことが認められるはずです。
 社会体制も経済も多数決の時代ですが、少数派でも誠実に議論を繰り返していけば、ゴジラファンではない人の賛同も得られるでしょう。
 そして、あなたが好きだったゴジラからもらった夢を忘れないで。
 二代目もVSもゴジラは強くてかっこよかったのではありませんか?
 人間の浅知恵や武力を蹴散らすのがゴジラなのです。
 そんなゴジラが復活するまで倦まず弛まず機会を見つけてゴジラの魅力を伝承しましょう。

 私は、二代目ゴジラこそゴジラ人気を作った立役者であり、ゴジラ映画を作るなら二代目ゴジラのあり方を研究すべきと考えます。

 巨大、不死身、直情的でも屈託のない性格。もちろん外見を変更してはいけない。
 そんなゴジラが現代社会に出現する物語を現代の映画技術で描いて欲しい。

と、長々と書いてきましたが、はたしてどなたが読んでいるのか、幾人が読んでいるのか、暗闇で拳を振り回しているような気がしますが、
私は諦めません。

『シン・ゴジラ』絶賛という蒙昧を斬る(映画ファンとして) 殿様ギドラ (男性)

2017/03/17 (Fri) 18:46:15

 映画の楽しみ方は人それぞれで、観客によって評価はさまざまに分かれるのは当然でしょう。
しかし、映像と音響でなんらかのストーリーを伝える劇映画には出来不出来を判定する基準があるのも確かです。
映画を見るのは人間ですから、人間の感覚や知性に訴えるためにはそれ相応のテクニックがあるはずです。
そんなテクニックを適切に運用してドラマを正しく(作り手の意図通りに)伝え、人間の感情や理性に刺激を与えているものが「上手な」作品でしょう。

 さらに、物語とは何か、と考えたとき、何らかの出来事を通じて喜怒哀楽という感情を喚起させ、精神に充実感(娯楽性と言っても良い)を与えるものであり、
加えて人間性や世界のあり方への理解を深めさせるものであると言えます。
 作品を通じてより強い感情の喚起、より普遍的な世界への理解を導くものが優れた物語と言われるのです。

 一観客という立場なら、それぞれの特殊性に準じた評価で善し悪しを語って良いでしょう。
しかし、評論家と名乗る人もそれでいいのか?

 この一文は映画評論家と自称・他称されている人への問いかけです。

『シン・ゴジラ』は名作ですか?

 シナリオは状況説明のセリフに溢れかえり、物語のターニングポイントを映像で見せることがほとんどありません。
 怪物の第三形態が海に没する映像はない。マキゴロウの所在を捜す捜査員のシーンもない。新法を作るための国会のシーンもない。怪物の残した放射性物質をサンプリングするシーンもない。前半での総理が命を落とす瞬間もよくわからない。その他その他・・・
そもそも全体として映像による場所の提示がほとんどなされない。

 これが映画か?

 怪物の出現がストーリーの発端であるにもかかわらず、怪物の設定が科学的に穴だらけ。状況証拠(マキの研究成果が怪物の体機能に応用されているという)から怪物は人間が作ったものであることを明示しているにも関わらず、
観客に対して怪物を作った人物のバックボーンを何も伝えない。それは劇中でも謎というわけではなくて、どうやら登場人物は知っているらしい。
(妻を見殺しにした日本を恨んでいるとか?)
このマキゴロウの背負うものを観客に対して隠すことがどんな効果を生むというのか? 重要な設定であるにもかかわらず、伝えようとしないのは「逃げ」ではないのか? 重要であるゆえに「突っ込まれる」とまずいのでぼかして逃げたとしか思えない。
同様にアメリカ特使の祖母が原爆でどうなったのか、も教えてくれない。
 ネットを眺めていたら、マキの妻が広島の原爆で死んだと思っている人がいる始末。
http://blog.goo.ne.jp/okudaidou/e/3cbc34fe2434f80c7c891cb82f467b2c
年齢から考えてそれはないでしょう。1945年8月6日にすでに結婚していたなら2016年には最低でも90歳オーバーでしょう? もちろん劇中でも広島の原爆で妻を失ったとは言っていません。
しかし、こんな誤解を呼ぶのは、マキゴロウについて何も描かないから。ストーリーの鍵を握る人物について観客に何も教えないのはフェアじゃありません。

 次に、ストーリーの全体像を考えましょう。
 いかにもヒーロー然とした主人公(冒頭で異常現象が生物によるものであることの可能性をいち早く指摘する)と彼が差配するグループが次々と快刀乱麻を断つかのごとく真実に到達。
彼らは何一つ間違えることなく事件を解決します。こんなストーリーの何がおもしろいのでしょう? 危機管理のストーリーにおいて間違いを犯さない人間を描いても、それはただの絵空事。人間性の真実には迫れない。
(ロバート・ワイズ『アンドロメダ・・・』を見よ!)
 構図としては「大人たち」に相手にされなかった「子供たち」が日本の危機を救うという出来の悪い児童映画そのものではありませんか。

 そして、怪物出現という想定外の危機に対して日本政府がどのように対応するかという物語であるにも関わらず、そこに「議論」がないのは単純すぎます。意見の対立のようなものは、主人公が生物説を唱えるのに対してまわりの者が抑えようとするくだりとか
上陸するのかしないのかという判断で意見が割れたりする程度で、異なる観点からの意見のぶつかり合いはまるで描きません。
 これではこちらの知性を刺激することがありません。
 そして、さらっと流していますが、劇中で総理大臣に全権委任する法律を作ってしまいます。しかし、その内容をまるで伝えません。全権委任とは? これも国会論戦のシーンを作れば、怪物事件に対してどんな対応が必要なのか、総理大臣に権力を集中することの危険性は何か、
と現実の危機管理に対する問題意識を喚起できたはずです。なぜ結論だけを押しつける?
 付け加えれば、これは現政権が実現を目指している緊急事態条項と同質のものではありませんか? それを議論もなしに成立させていることは正しいのでしょうか? たとえプロパガンダ映画だとしても、反対意見を劇中で論破する手間を惜しんでいるようなものは欠陥品ですよ。

 私は映画とは芸術であるべきだと思っています。それは美の探求であるとともに真実の探求です。何者かが己の利潤や権勢のために表現行為を利用して人心を操ろうとするようなものは芸術ではありません。(そういう意味で私はコマーシャルフィルムを芸術だとは思わない)
映画評論とはなんですか? 映画の芸術性を守るための戦いでもあるのではありませんか?
 商業としての映画なら、客がたくさん入って収益が上がればそれが良い映画です。ではなぜそこに評論が必要なのですか? 映画の芸術性を守るために客の入りとは関係なく内容を吟味し、善し悪しを論じていくのが映画評論の意義ではありませんか?

『シン・ゴジラ』が自衛隊の意向を汲み、現政権のお先棒を担いでいる国策映画なのに、なぜそれを積極的に批判しようとしないのですか?
まだ日本には言論の自由があります。(だんだん怪しくなってきたけれど)言論の自由を制限しようとする者とは戦って下さい。もし、製作会社が批判は許さないと言ってきたなら、それも含めて批判して下さい。

 それから、私のような観点から『シン・ゴジラ』を否定する人々を左翼だとする意見もあるようですが、劇中で何の検証も行わずに現政権の方針をなぞるようなストーリー展開を行っている映画を国策映画だと指摘するのは右だの左だの関係なく正しいことだと思いますが?

 一番大事なことを書いてしまったような気もしますが、まだ問題はあります。

 映像面では、人物による芝居はほぼ室内で、色彩に乏しく見栄えはしない。たまに屋外に出ても殺風景な場所ばかり。見ることの「美」はない。芝居に動きも少なく、カメラをひねくれた場所に置くことでどうにか映画っぽくする努力も少しは見られますが、
最終的にはしゃべっている人物の顔を映すだけ、という凡庸さに落ち着いてしまう。
 映画映像としてへたくそでしょう?

 怪物のシーンになるともっとひどい。
 カットの連携がなく、動く一枚イラストを並べたような構成。ワンシーンワンカットみたいなもの。しかも遠巻きに眺めているばかりで、怪物による破壊のスペクタクルにも臨場感がない。
 災害の報道映像を真似したものと思われますが、それは現実のTV報道がやっていることなのですから、劇映画映像にはもっと対象に踏み込む臨場感が必要なのではありませんか?
それが確信犯なのだとしたら、観客がTVを通じて現実を見ているということを利用した現実感の創出なのでしょうけれど、それこそ、TV報道では真実に迫れないという事実に無頓着と言うべきです。
あの怪物に恐怖を感じた人がどれだけいたのでしょう。少なくとも私にはまったく怖くなかった。自分の身に迫った災害とは思えなかったから。

 音響。
 なぜサラウンドにしなかった? スペクタクル映画なのですよね? 背後に音が回ることによって観客をドラマの現場に立たせるほうが効果的ではありませんか? これはまったく理解できない。
そして、曲調も音質もばらばらの音楽。この統一感のなさはなんだ? 伊福部音楽を持ち出したことは大失敗。ゴジラと伊福部音楽の関係性を知っている人になら何かは伝わるかも知れませんが、独立した作品としてはただちぐはぐなだけ。
そもそも従来のゴジラとは全く違う怪物なのですから、ゴジラに当てた音楽をつけるのは間違っています。

 ストーリー内容を度外視したとしても、映画テクニックが上出来な作品だとも思えません。

 こんな映画が映画賞総なめとはまったく納得できません。

 私は映画評論家ではありません。評論家と名乗るほど幅広い映画の知識はありません。それでも映画が好きなので、映画を見るときには真剣に向き合います。これまで、おもしろい映画とつまらない映画では何が違うのだろうと考えてきました。
そんな私は『シン・ゴジラ』を上記のように見ました。
 間違ってますかね?

春と修羅 - 海軍大臣 (?)

2017/03/17 (Fri) 18:01:02

 いまだにシン・ゴジラ論で特撮ファン界はざわめいている様子ですね。
 映画冒頭に出てきた「春と修羅」に付いても、あの詩の内容にばかりこじつけたみたいな解釈ばかりです。
 これは私の勝手な思い付きですが、あれは牧何某という人物のスタンスを、詩集の成立過程に絡めて揶揄しているだけではないのかな、なんて考えています。
 宮沢賢治は、自分が裕福な商家(確か質屋だったかな?)の生まれだったことを酷く嫌っていたとかで、貧しい農民を擁護する運動なんかに手を出したりしているけど、結局、金銭面ではあれだけ嫌っていた実家に頼り切りだったと聞きます。
詩集「春と修羅」にしても父親が株で儲けた金で漸く出版されたのだそうです。
 映画の中で、日本の原子力行政だとかアメリカの核戦略だとかを批判していた牧何某も結局のところ、自分の毛嫌いしていた大国の力を借りなければ復讐は果たせなかった訳なのですから、何となく宮沢賢治の俺様振りにダブって見えてきてしまいます。余談ながら、法華経信者だったことで有名な宮沢ですが、これがタダの法華経ではなくて田中知学の国柱会という愛国思想集団に帰依していたとか。グスコーフなんたらの自己犠牲も、じつは爆弾三勇士と同列の精神と変わらないことになりますね。
 まあ、あの映画のスタッフたちがそこまでアイロニーを込めていたかはわかりませんけど。
 それでは、また。
 
 

Re: 春と修羅 殿様ギドラ (男性)

2017/03/17 (Fri) 18:39:57

ううーーん、あの「春と修羅」に絡めてもいろいろ解釈が出ているんですね。

なんともエヴァっぽいと申しましょうか。
私は、あの本が初版本らしかったので、岡本喜八監督絡みで置いただけかと思ってました。
(たとえば岡本監督の蔵書にあったとか)

どうも私は単純でいけません。

でも、海軍大臣さんの解釈には別の意味で頷けるところがあり・・・。
宮沢賢治がそんな背景を持っているなら、あの映画の作り手が賢治に傾倒していてもおかしくはないなー、なんて・・・。

『シン・ゴジラ』絶賛という蒙昧を斬る(一人の日本人として) 殿様ギドラ (男性)

2017/03/13 (Mon) 18:35:48

 この一文では私が映画ファンであること、特撮ファン・ゴジラファンであることを排除して『シン・ゴジラ』をどう受け止めたかを書いてみます。

 なんのタメもなく怪物が登場して、役人や政治家のディスカッションが延々と続く構成から、これはドキュメンタリードラマのパロディであろうと見ました。
架空の事件を扱っているわけですから、事実の再構成たるドキュメンタリードラマではなく、その物まねだな、と。
 2011年3月11日の震災後にそんなドキュメンタリードラマがいくつか放送されましたから、その空気感をいただいて観客に現実感を与えようという目論見でしょう。

 ところが、その内容と言えば、怪物出現という現実にはあり得ない事態を使っているために「わかりません」「できません」のオンパレード。
 当たり前ですね。怪物対策の制度・法律なんてあるわけがないのですから事態が滞るのは当然。それを延々と見せられる。こちらの認識は何も改められない。『シン・ゴジラ』はなにも伝えてこない。

 続いて怪物に対して自衛隊が防衛出動することになる。これはひどいすり替えだ。外部からの武力攻撃に対して出動するのが防衛出動。この段階で怪物は武力行使していないし、ここで言う武力とは他国やテロ組織によるものを指すのではないか?
劇中人物の決めつけによって、怪物退治に自衛隊を防衛出動させている。意図的に怪物の存在を他国からの攻撃と同一視させようとしていないか?

 害獣駆除で武器を使ったこともあるのだから、防衛出動である必要はない。(石破茂氏の発言が参考になった)

 それから不審なセリフが登場。防衛拠点が関東近郊に偏っているとかなんとか記者たちが言う場面で、地方切り捨てか、という批判めいたセリフを受けて、東京には人口も経済も集中しているという理由で仕方ないだろう、と。
ここまでは記者の対話として、まあいいでしょう。その次、「国を守るって大変なんだな」とは? どうも意味が繋がらない。地方の人々を後回しにして首都圏を優先することに、なんらかの苦労があるのか?
 ここで言わせるべきは、「国家を守るって非情なことなんだな」でしょう? その非情さを登場人物のセリフを使って、為政者の正当な努力のようにすり替えている。

 為政者は国家体制を守るためには地方を犠牲にする。これは紛れもない事実。なぜ東京湾沿岸に原発がない? 原発は危ないからです。原発事故で首都が機能しなくなったらヤバいから東京の近くには原発を作らないのです。
地方ならいいのか?

 怪物対策チームが作られても、そこに集められたのは「官」ばかり。この映画、徹頭徹尾お上の視点を守る。と同時に、主流派は間違っていて、突拍子もない意見が常に正しいという展開をする。
その流れの中で怪物が原子力で動いていることになる。(論証は何もない。ただ怪物が歩いたところの放射線量が高いというだけ。ただし、軽微)

 こうなると怪物は原発事故の隠喩かと思われました。ところが放射線による被害は全く描かれない。これは一体どうしたことか? 現実に原発事故は起こりました。しかしこの映画では、原子炉を持つとされる怪物が放射性物質をまき散らすものの、
その放射能は軽微で、半減期も短く東京が死の街になることもない。現実の事故よりもまるで軽い災害である。なんのための原子力怪物なのだ? 観客に対して原発事故の現実を伝える気がないのだな。

 アメリカがしゃしゃり出てきて高圧的な態度を取る場面もありますが、日本の対米政策を批判するストーリーにはならない。アメリカはひどいぞ、と言いながら、結局はアメリカと協力して事態を収拾する。
これは日本国憲法などアメリカの押しつけ憲法だと言いながら軍事的には日米同盟を強化している現政権の姿勢と同じである。

 アメリカなしでやっていく道を示す姿勢はなく、現状を肯定するのみである。

 怪物をエセ科学で解き明かしていく諸々の場面などは噴飯物で、一気にリアリティがなくなる。(2016年8月8日、8月24日の私の投稿もご参照ください)

 怪物に対しては核攻撃か主人公が推進する根拠薄弱の博打作戦かと二者択一に落とし込むやり方も詐欺めいている。
 怪物が無数に増えて空を飛ぶかも知れない、などというこれまたなんの確証もない思いつきの可能性がまるで確定した事実のように扱われ核攻撃の根拠とされているが、アメリカが怪物の情報を秘匿したいならば同様にロシアであれ中国であれ、
怪物の秘密を手に入れたいはず。国連安保理が核攻撃を容認するとも思えない。

 フランスが原発推進国だから研究のため怪物消滅には反対なんじゃないか、などと反対票(核攻撃に猶予を与えてもらう)を入れてもらうために日本政府が動いたことになっているが、
そんな理由ならフランスは初めから反対するさ。

 怪物凍結作戦(血液凝固でどうして凍り付く??)のまえに主人公が自衛隊に演説するのも気色悪い。この映画のあと、2016年9月に国会で総理大臣と与党議員が自衛隊・海上保安庁・警察にスタンディングオベーションを行ったのと同様の気持ち悪さ。
あの演説シーン、要るか?

 怪物が凍った後、なぜそのまま放置する? 零下200度近くまで体温が下がっている(繰り返しますが、なぜ低温になる??)のですよね? ならばミサイルでもがんがんぶっ込めば怪物はバラバラになるでしょう?

 そしてストーリーは、怪物が再び動き出せば核攻撃のカウントダウンが始まると表明します。怪物をダモクレスの剣に見立てたいんですね。なんだか、北朝鮮のミサイルが危ないと言われているのと同じ匂いがしますな。
為政者が考えそうなことです。

 さて、しかし、私が一個の人間としてこの映画に感じた最大の気持ち悪さは、民の不在です。

 被災者を描く視点がない。大衆は塊として眺められているだけで、一般大衆に何が起こっているのかをまるで描かない。被災した人々の困窮、慟哭、悲劇にはまったく興味を示さないストーリー。
デモ隊は何を言っているかわからないし、避難所の人々の表情を丁寧に追うこともしない。3.11からヒントを得た映画であるのは間違いないのに、国民不在である。

 この映画を作った人間は一体何様なのだ? 為政者の立場を擁護することに必死か?(総理の仕事って大変なんだな、というセリフ!)
 災害を防がなければならないのは、国民の生命財産を守るためであって国家体制を守るためではない。

 このように国民をないがしろにした映画を絶賛とは、国民主権なんて日本じゃ廃れてしまったんだな。

ビオランテからでも今年で28年!ショック!! 殿様ギドラ (男性)

2017/03/02 (Thu) 18:19:04

 またまたスレッドを新しくします。

 エクセルシオールさんの『vsビオランテ』分析に影響されて、『ゴジラvsビオランテ』を見直してみました。

 いやー、細かいところで当時の大森監督のハリウッド趣味が鬱陶しいけれど、自衛隊とゴジラの力関係はエクセルシオールさんのご意見の通りでしょう。
ストーリー全体としても、人間の過ちを見つめる視点はあります。白神、大河内、黒木、三人のやり方を正当化するドラマではなかったと感じました。
白神は劇中で自ら反省していて、大河内(父)に関しては主人公がそのやり方に疑問を呈することで観客にも抗核バクテリアの開発は倫理的にまずいと感じさせています。
黒木の扱いは微妙なところですが、無感情な芝居をさせ、自分の目的のためには手段を選ばない人物として描くことで観客の反感を買うように演出されていたと思われます。

 ですから『vsビオランテ』もドラマの基本姿勢としてはそれ以前の怪獣映画とそれほど違ったものではなかったと言えます。

 平成vsシリーズは『vsビオランテ』が不入りだったことを受けて別の方向へ舵を切り、出来の善し悪しはあるにせよ関沢新一的ストーリーにも取り組むようになっていきました。
それで良かったのに・・・。

『vsビオランテ』を支持した人にもいろいろいるのでしょうけれど、平成ゴジラがだんだんゴジラに共感させるような作劇になっていったこと、あるいは未来人だのメカゴジラだのが出てきて空想度が上がったことに不満を持つ人が、
ビオランテはよかったなぁ、と嘆いていたように覚えています。

 そこに登場したのが平成ガメラ。

『vsビオランテ』からの影響は明白。客の入りは悪かったけれど特ヲタは熱狂。だけど、私には『vsビオランテ』のまずいところを取り入れてしまったと見えました。
 それは、怪獣をバイオテクノロジーで説明することも問題だけれども、映像構成も含め怪獣が主役になっていないことが大問題。ストーリーも映像も人間にとっての怪獣という描き方しかしない。
『vsビオランテ』もその傾向が強かった。そして、私が感じた不満はそこにもあった。

 平成ガメラと『vsビオランテ』には差異がさまざまにあるはずですが、似た空気感があるのは確かで、しかし、平成ガメラから逆流するような形で『vsビオランテ』の内容がゆがんで受け取られているとしたら大問題ですね。

 ところで、映画『ゴジラvsビオランテ』ではビオランテが自衛隊を壊滅させるシーンはなかったようです。それは小説版のほうかな?(読んでない、持ってない・・・)
ゴジラの感情にも考慮した内容のようで、うーん、興味深い・・。

今回は短くしました!(『vsビオランテ』からのゴジラシリーズ史、そこに挟まる平成ガメラ、その行き着いた先が『シン・ゴジラ』だったという悲劇の話をすべきか)

Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/03/02 (Thu) 20:35:23

こんばんは、『VSビオランテ』の後半で芦ノ湖の時よりさらに不気味な姿になったビオランテが出現するや否や触手でメーサー戦車や自衛隊が設置したM6000TCシステムを叩き壊す場面ありますよ。エクシオール氏が仰るビオランテが自衛隊壊滅させるシーンというのはそれでしょう。

『VSビオランテ』って特殊災害研究会議Gルームや特殊戦略作戦室といった国家機関が中心となりゴジラやバイオメジャーとの戦いが主軸の仮想戦記なんですよね。あくまでゴジラは日本政府が打倒すべき標的であり、そのために日本政府がありとあらゆる手を尽くすという展開です。主人公の桐島は白神博士や大河内誠剛に対して批判的なもの言いをしたりはしますが、ゴジラの体温が低いことを指摘してM6000TCシステムを使った作戦実行のきっかけを作る役回りで、あの大イグアナが出てくるエメリッヒ映画の主人公ニック同様に学者の立場で国家権力主導の怪獣討伐作戦に協力する御用学者的な立ち位置です。ニックもあの大イグアナの繁殖力の危険性を訴えアメリカ軍によるマディソン・スクエア・ガーデン爆破作戦実行のきっかけを作る役回りでしたし。そういえば『シン・ゴジラ』でも学者達がゴジラとも呼べない使徒モドキ打倒のために色々助言をしていましたよね。いずれにせよ『VSビオランテ』は1984年版ゴジラ同様に学者の英知が日本政府主導のゴジラ打倒作戦を進めるカギとなる物語と言えます。そして日本政府の暴力装置である自衛隊が怪獣に立ち向かう様子を描くのに力を入れた平成ガメラに繋がっていく作品であることは疑いようがありません。最終的には白神博士も二度と抗核バクテリアを作らないと言いますが、一度は抗核バクテリアを作って自衛隊に提供して使用させているわけです。最後まで日本政府や防衛隊にオキシジェンデストロイヤーを提供することも使用法を伝えることも無く全ての設計図を焼いた上で自らの口封じのためゴジラと心中する芹沢大助博士を描いた初代ゴジラと比べると為政者が強力な兵器を使用することへの批判が大幅に後退しています。1984年版ゴジラもそうですがゴジラ打倒ありきの日本政府の方針への批判的視点を後退させれば、結局ゴジラの物語ではなく日本政府主導のゴジラ退治物語になってしまうんですよ。『VSビオランテ』はゴジラの息の根を止めることは出来ずとも、最終的にはゴジラを海に追い返し原発をゴジラから守ることには成功しているわけですし。

『ゴジラVSビオランテ』について 補足 - エクセルシオール (男性)

2017/03/02 (Thu) 22:03:23

 ビオランテが自衛隊を壊滅させるシーンについては芹沢さんの書かれた通りの部分です。まあ、おまけみたいなシーンですが復活したビオランテの力を示すためのものだったと思われます。

 さて、小説版について若干補足します。記憶をたどってのコメントになりますが、この小説は映画版と大枠は同じでも内容はだいぶ違います。
 キャラについては白神も黒木ももう少し人間味のあるキャラになっています。映画版の白神は無責任な傍観者みたいだと批判されることも多いのですが、小説ではビオランテがゴジラに倒された後に「娘を殺された」怒りのあまり狂気の世界に足を踏み込みかける描写があります(彼を救ったのは三枝未希である。彼女は要所要所で重要な役割を果たす)。黒木も作戦が失敗して感情を爆発させたり、打つ手が無くなって途方にくれたりしたシーンがあったと思います。最大の違いは白神も権藤も死なない点ですね。
 メカについてはスーパーX2が映画と大きく違います。ファイヤーミラーはなく、代わりに超強力な粒子ビーム砲とアンコウの触角のような砲門から放つハイパーレイザー砲がついており、その他にも抗核バクテリア弾を撃つための小型ミサイルランチャーが付属しています。この小説では生身の人間による肉弾攻撃ではなく、スーパーX2が抗核バクテリア弾を撃つというある意味普通の設定なので、権藤は助かったのです。
 ゴジラがなぜ大阪に現れたのかについても映画版では「なんとなく」でしたが、小説ではいったん別の原発を襲おうとして三枝未希に止められたため、ルートが変わったためとなっており、ある種合理的な展開になっていました。
 そしてビオランテ。芦ノ湖では映画とほぼ同じ姿ですが、若狭湾では大きく異なります。最初は芦ノ湖と同じ姿だったのですが、再びゴジラに燃やされてしまいます。しかし、未希の超能力の支援を受けて「バラのイメージを持ったゴジラと同じような姿」になり放射火炎もはけるようになります。最後は両者とも海へ転落しました。それでビオランテは空に消え、ゴジラは海に帰るという落ちでした。
 最も大きな違いは未希によってゴジラが恐ろしい力を失ってしまったことが語られることです。この結末はゴジラは水爆を受ける前の元の姿に戻ったとも解釈でき(未希は「ずっと海の底で静かに暮らしてほしい」と願います)、かなり寂しいですが含蓄のある結末でした(無論「人類の愚かさを戒める脅威がなくなってしまった。それでよいのか?」という批判的な評価も可能です)。
 ちなみにこの小説には挿絵が一切ありません(表紙こそ今は亡き名ポスター画家、生頼範義さんの画いたポスター絵がそのまま使われていますが)。そのためビオランテやスーパーX2がどんな姿をしているのか想像力を駆使する必要があります。
 いずれにしても映画版との違いは結構楽しめますので、いつか機会があれば読んでみてください。

 なお、『ゴジラVSビオランテ』は漫画版も二種類あります。そのうち小林たつよし氏のものはタイトルも内容もほぼ同じのオーソドックスな作品でしたが、もう一つの平野俊弘氏の手によるものはタイトルが『ゴジラ1990』となっているだけでなく、内容も大幅に異なりますので(三枝未希を人間側の主人公としている)、なかなか興味深いものがありました(個人的には後者の方が好きですね)。

Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! 殿様ギドラ (男性)

2017/03/03 (Fri) 19:46:54

 いやどうも、これは失礼。

 ビオランテによる自衛隊壊滅シーン、んー、あれはビオランテ出現の余波、という表現に見受けました。
(円谷監督もよくやる、怪獣の強大さを示すための周囲への影響描写ですね。一例としてモスラが繭を作ろうとして糸を吐いたらヘリに当たってヘリ墜落という見せ方と同等)
つまり、ビオランテには自衛隊に対する攻撃の意図はないわけで、さらにその破壊も壊滅というほどでもなかったんじゃないかと。
というわけで、もっと別のビオランテ対自衛隊のシーンがあるのかと思ってしまったのです。

 私も『ゴジラvsビオランテ』がゴジラ退治の物語であることに不満があります。しかしながら、ミレニアムシリーズ以降のように怪獣を倒す人間は偉い、という見せ方はしていないと感じています。
科学者の倫理問題は正面から扱っていますし(もちろん芹沢博士と白神博士はまるで違うキャラクターです。芹沢は正しい倫理観を持った科学者で、白神は、大変な過ちを犯した科学者という扱い)
抗核バクテリアが国外へ持ち出されるのを止めるためとはいえ情報操作する様子を織り込んで、権力者(為政者)は嘘をつく、という表現を行っています。
これは見方によっては、敵を足止めするための正しい方法と受け止める人もあるのかもしれませんが、「それは情報操作ではないか!」と憤る人物を配置することで作品としては批判性を出しています。
『vsビオランテ』では人間のダメな面(サラジアもバイオメジャーもダメな奴ら)を積極的に取り込んでいて、人間批判の意識があるという点で基本姿勢はそれほど違っていないと申し上げました。

 主人公がゴジラ退治のためのアイディアを出していくのも、劇中のリアリティを考えれば当然のことで、彼がゴジラ災害を無くそうと努力することを批判はできません。問題は、その作戦が成功してしまうこと。
そのために作品全体の表現としてゴジラもまた科学で抑え込めるのだ、という結論を出してしまった。この作品のストーリー上最大の問題がそこにあると考えています。
(うーん、それは同時に権力者批判が薄まったことにもなるか・・。政府主導ではない対怪獣作戦だったらいくらかマシになったと言えるかもしれない)

 怪獣に関すれば、ビオランテに人間の要素を入れてしまったこともあまり褒められない点です。白神の娘の意識がどれほど残っているのか曖昧にされていますし、途中で「もうエリカさんの意識はなくなっている」
というようなセリフはありましたが、ラストでは再び意識が戻ります。前半で白神博士の研究所に忍び込んだバイオメジャーを襲うのは、娘の心がビオランテを動かしているという表現ではありますまいか?
今回、手元にあるシナリオも参照してみましたら、シナリオには芦ノ湖でボートに乗る自衛官を襲うシーンがありました。しかし、それはカットされている。ビオランテは悪いことをしないのだ、という線引きがなかったか?
クライマックスでゴジラの前に天から降ってくる(ここの表現は非常にわかりにくい。金粉状の物が降ってくるけれど、ビオランテは地中から姿を現す)のも、ゴジラ退治のために参上したようにしか見えません。

 こうなると怪獣対決物というより、ウルトラマンの怪獣退治に近い。(ウルトラマン的な非人間ならいいけれど、ビオランテはエリカだもんなぁ。いやそのうえゴジラでもあって、ここにも大問題が潜んでいるけれどいまはカッツアイ!)

 この、人間がゴジラを倒すという発想がのちのちまで尾を引きます。

『vsキングギドラ』でもメカキングギドラには人間が乗っている。その後平成vsでは人間がゴジラを倒すという考えは薄まっていきますが、『×メガギラス』においてストレートにゴジラは人間が倒すのだ、という作劇が始まります。
途中のあれこれはいまは割愛しますが、『ファイナルウォーズ』ではゴジラを倒すどころか敵怪獣に負けそうなゴジラを人間が超能力で救うというとんでもない人間至上主義が登場。

 かつての怪獣映画では生命として人間と怪獣は同列のもので、怪獣描写には観客の意識を怪獣と同化させるような演出も盛り込まれていました。(例外はありますよ)
そのうえ害獣とされる怪獣が人間の武器では殺せないことを前提にすることで人間存在を客観的に見る視点を涵養せしめていたはず。(ちょっと小難しい表現だけどほかにいい言い回しが思いつかなかった)

 しかし、おそらく『vsビオランテ』を境に人間中心(なにもかも人間の業とする)でしかない怪獣映画が増えていったのではなかろうかと思われるのです。
(『2000ミレニアム』でも「ゴジラは俺たちの中にいる」というセリフがあります)

とはいえ、『vsビオランテ』が好きな人がいるのもわかるのです。もし、怪獣映画の歴史がまったくないところに登場した作品なら(ゴジラの存在とか相当無理がある想定ですが)、
おそらく私も楽しんだことでしょう。突っ込みどころはあるけれど、もたつかないドラマ構成や科学が政治経済の道具にされている現状を斬る視点などいいところがたくさんあります。
 間違いなく『シン・ゴジラ』より50倍はおもしろいですね。
(『シン・ゴジラ』、項目別に批判しましたが、総括的に批評する必要も感じています。しかし、あの映画は問題点が多すぎて突っ込みの大渋滞。全体としてどうとかこうとか非常に言いづらい)

 小説版「vsビオランテ」、かなり大胆なアレンジが為されているのですね。映画では踏み込めない領域でディティールを描いているような・・。

『シン・ゴジラ』が2016年日本一の映画に・・・ - エクセルシオール (男性)

2017/03/04 (Sat) 21:03:26

 『ゴジラVSビオランテ』に関していろいろ論じているうちに、またも卒倒しそうな情報が入ってきました。かの『シン・ゴジラ』が第40回日本アカデミー賞で最優秀作品賞を含む主要7部門を制覇してしまいました。管理人さんの考えによれば『VSビオランテ』の50分の1しか面白くない映画が(ちなみに私にとっては比較するのも『VSビオランテ』に失礼なものです)、「怪獣映画初の最優秀作品賞」になってしまったわけです。怪獣映画の末世的状況というほかありません。

 まあ、日本アカデミー賞という賞はいろいろと問題が多く本家と比べると権威も乏しいのですが、それでも「日本一の映画賞」と評されていることは事実であり、ただでさえ無批判な礼賛論が大勢を占めていた『シン・ゴジラ』論説が、さらに賞賛ばかりになるのは避けられません。この作品がゴジラ映画の、否、これからの怪獣映画のスタンダードになるとしたら、掛け値なしの地獄絵図というべきでしょう。

 それにしても日本アカデミー賞は「五大映画会社の大作以外は極めて不利」「授賞式を行う日本テレビの意向が大きい」「映画の内容とは無縁の要素が選考を左右している」等々と批判されてきましたが、今回もすこぶるうさんくさい(興行成績で判断するなら『君の名は』が受賞すべきだったろう)。ブルーレイ・DVDの発売・レンタルが今月から始まることや内容が国策映画に近かったことなどが影響しているのではないかと私はかなり怪しんでいます。

 ちなみに本家のアカデミー賞では『シン・ゴジラ』のような娯楽超大作はまず受賞できません。むしろその種の映画の多くはゴールデンラズベリー賞(最低映画賞)の担当になります。日本版ラジー賞もあるようですが、『シン・ゴジラ』を最低作品賞にするような気骨はおそらくないでしょうね。

Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! 殿様ギドラ (男性)

2017/03/06 (Mon) 18:53:33

これは申し訳ないことをしました。

『vsビオランテ』を『シン・ゴジラ』なんかと比較してしまいまして、どうもすいません。
『シン・ゴジラ』のよかったところはビルの壊れ方だけだったので、『vsビオランテ』の尺の50分の1ぐらいかなーと・・・。

さて、私もニュースで知って、まあそんなもんだよなぁ、と白けていました。

日本アカデミー賞はテレビで大々的に授賞式を放送したりするので、映画マニアではない人への影響が大きいでしょうね。
まったく困った物です。

それにしても、『シン・ゴジラ』、なにがどうして高評価なのか?
毎日映画コンクールの講評でさえ佐藤忠男氏が褒めている。
佐藤さん、呆けたんじゃ無かろうか。

なんと言うことはない、怪獣映画に対する偏見が裏返った結果の、「大人」に大好評なんじゃないでしょうか。

くだらないと思っていた怪獣映画に政治家や役人がメインで出てきて、法律の話だの外交の話だのしているので、おーおー、坊やたちよくお勉強ちまちたねぇ、と褒めてくれたということでは??

まあ、政治の世界が金権政治なんですから芸能の世界となるとそれ以上・・・・でしょうしね・・・。
評論家も人の子。あれば欲しいのが◯◯というわけで。

あんまり大人たちが褒めているので、自分がおかしくなったんじゃないかと不安になり、自分の『シン・ゴジラ』評を改めて読み直して見ましたが、私は変なことは書いていないよなぁ。

かつてドイツにナチスがはびこったときって、こんな感じだったんだろうな、と想像します。
どうすれば、この狂った状況を変えられるのか!?

みんな圧力に負けずに正直になろう!
偉そうな人が正しいとは限らない。自分で判断しよう!
映画はただの暇つぶしではない。もっと真剣に向き合おう!!

Re: Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! - ルー等級つつ大臣 (男性)

2017/03/09 (Thu) 00:35:39

えー!?あのちんごじらが日本アカデミー賞取ったざますって!?
実に世も末ですね。
あの個人的には東宝効果音くらいしか良い所の無い作品がよくアカデミー賞受賞したものざます…
でも冷静に考えてみるとこの日本アカデミー賞って端からみたら駄作じゃないの?って作品でも受賞してるくらいですからまぁこんなものでは。
(と口をあんぐり)
それよりもむしろ「VSビオランテ」公開からもう28年経過していたというほうがびっくりざます。
実を言うとこのビオランテ公開時は実に芳しくなかったのです。
というかあんまり面白くなかったというべきか。
(もちろんGMKみたいな屁理屈系のようなつまらなさではなかったけれども)
やはりこれは今考えたら大森監督のハリウッド映画の真似のような演出ぶりが鬱陶しいというところでしょうか。
やれバイオメジャーやらゴジラ細胞やらで確かに新しさはあったのですがただ一つ公開時から現在に至るまで許容出来ない点といえばやっぱりあの超能力少女の存在でしょう。はっきり言って彼女はいらん。正直私は苦笑しましたから。
それ以外は今はOKです。ただこの映画の悪影響かミレニアムシリーズでのゴジラを倒せ的なストーリーの狭さが生まれてしまったのは否めないざますねぇ…
少なくともちんごじらの数倍は面白いざます。

日本アカデミー賞のインチキっぷりはこちらの画像をご覧下さい。 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/03/09 (Thu) 18:54:32

この画像を見ればおわかりでしょうが、日本アカデミー賞会員は東宝の人間多いんですよ。監督、脚本、プロデューサー足しても東宝の票より少ないくらいです。要は東宝映画はヒットさえすれば東宝の人間がたくさん票入れて日本アカデミー賞総なめという図式を作れます。はっきり言ってこれは茶番どころかインチキでさえありますよ。本家のアカデミー賞も審査員の間でいまだに白人至上主義が強かったりと問題はありますが、大手映画会社の組織票でインチキできる日本アカデミー賞とは比べるのも失礼なくらいの隔たりがあります。『シン・ゴジラ』自体野党と国会で合意して物事を進める民主主義を放棄して政府与党の一握りの人間が文字通りの軍民一体化を進めることを全面的に肯定する戦時中の国策映画そのものなのでそういう映画に賞を与えて褒め称える日本社会自体に危機感を感じずにはいられません。

それと、私は『VSビオランテ』小さい頃ビデオで初めて観た思い出の作品ではありますが平成VSシリーズの中では『VSキングギドラ』と並んで最低ランクの評価です。どちらも国家がゴジラを殺すことは出来なくても日本国内から排除する力を持つことを肯定する結末になっていて、一見人類の愚かさを描いているようでその愚かさの大半を外国のせいにし日本を被害者の立場に甘んじさせているからです。日本を被害者の立場に甘んじさせることで日本がゴジラを撃退する結末を正当化しているともいえます。イグアナの巨大化をフランスの核実験のせいにしてアメリカを被害者にしたエメリッヒ映画を批判するなら、外国を悪者に日本を被害者にという構図のゴジラ映画もしっかり批判しないと筋が通りません。1984年版ゴジラのスーパーXのカドミウム弾でゴジラを昏倒させることに成功したのにソ連の核ミサイルがゴジラを復活させる引き金になるという展開も「日本はゴジラを倒せる軍事力を持っているのにソ連が余計なことをして台無し」という何ともせこい筋書なので容認できませんよ。もし他の国が「自国の軍事力で倒せる外敵だったのに日本が余計なことをして台無し」という筋書の映画を作ったらどう思いますか?

確かに『シン・ゴジラ』なんかより『VSビオランテ』と『VSキングギドラ』がずっといい作品であることは否定しませんが、この二作は「為政者がゴジラを科学や武力で押さえ込むのは正しいし実際にゴジラを日本国内から追い出す形で押さえ込むことが出来る」という内容なので、『シン・ゴジラ』に繋がる悪しき前例を作ってしまったんです。『VSビオランテ』の超能力者とはいえ民間人の少女をゴジラの目の前に立たせる特殊戦略作戦室室長の黒木の作戦がゴジラを方向転換させるのに成功したという展開や、『VSキングギドラ』の地球人には制御できない宇宙怪獣であるキングギドラが未来人とはいえ地球人が作った人工物へと設定を改変され、最終的には未来の政府によって地球人が操縦できるメカキングギドラに改造されゴジラを日本から排除するのに貢献する展開はいただけません。前者は民間人をゴジラとの戦いに利用する為政者のやり方が結局正しかった、後者は未来の政府の技術力がゴジラを撃退したということですので。こうやって「国家がゴジラを撃退するためなら何をやってもいいし、ゴジラは国家に負ける存在でいい」という図式を作ってしまったことが在日アメリカ軍の現行兵器で大量出血し、戦時中の民間商船徴用よろしく権力者である主人公が徴用した電車や工事用作業車に敗北するゴジラとも呼べない使徒モドキを描いた映画を許す下地になっているのは火を見るより明らかです。

Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! 殿様ギドラ (男性)

2017/03/10 (Fri) 20:22:58

『シン・ゴジラ』なる珍妙な映画がどうして出来上がってしまったのかを検証する必要も感じていて、そこから『vsビオランテ』の批評に繋がっていった次第ではあったのですが・・・。

日本アカデミー賞は発案者である水野晴郎さん自身が「映画人のためのお祭りである」とおっしゃっていて、優れた映画を表彰するという意識はあまりなかったようです。
というわけで、私はもともと日本アカデミー賞にはなんの権威も感じておりませんでした。

しかし。
『シン・ゴジラ』、その他の様々な賞で受賞ないし上位にランキングされている。
そのうえ、日本SF大賞から特別賞を受けている。
(さすがに大賞はちゃんと小説に与えられたようです)

これはほんとに異常事態。
科学性、思索性において極めていい加減な『シン・ゴジラ』にSF賞とは?

やっぱり『シン・ゴジラ』に集中して批判分析を進めねばならんとふんどしを締め直しました。
それで、総論みたいなものに着手したのですが、以前に書いたとおり突っ込みの大渋滞なので、ズバッと一発で叩き切るのが非常に難しい。
ちょっとまとめるのには時間がかかりそうです。

そんなポンコツ代表みたいな映画に表彰が集中とは。
これ、集団ヒステリー現象では??

批判論はあるはずだけど・・・ - エクセルシオール (男性)

2017/03/10 (Fri) 21:53:32

 確かに日本アカデミー賞だけでなく様々な賞を『シン・ゴジラ』は受賞していますね。こうも絶賛の嵐ばかりだと「この映画を批判している自分はどこかおかしいのでは?」と考えそうになります。

 この礼賛一辺倒の状況には様々な要因が絡んでいるのでしょう(同調圧力、怪獣映画への無理解、商業上の理由等々)。しかし、それでも異常すぎる。『シン・ゴジラ』はゴジラの描き方のみならず、ストーリーや人物描写、その思想背景すべてにわたってツッコミどころが満載であり、全方面から叩かれても不思議ではない作品でした。それなのに「ここはいいけどここは悪い」みたいな意見すら珍しい有様です。
 以前紹介したように映画評論家の中では山根貞男さんがただ一人『シン・ゴジラ』に批判を浴びせましたが、後に続く者ははいませんでした。今やこの映画の支持者たちは批判論に反論する必要性すら認めていないように感じます。

 しかし、いつかブームは去りこの映画をきちんと批判する動きも出てくるはず。以前にも同じようなことを書きましたが、体系だった批判論が存在していれば将来『シン・ゴジラ』に疑問を感じた人の助けに必ずなるはずです。その時が来るのを信じて今はこの気色悪い礼賛の嵐に耐え抜くしかないでしょう。

 

  
 

日本の怪獣映画は映画の革新だったはずなのに 殿様ギドラ (男性)

2017/02/06 (Mon) 18:28:03

 この記事も基本的には前スレッドへのレスなのですが、すっかり長くなってしまったので仕切り直します。

 というわけで・・・。

『シン・ゴジラ』が海外でコケたのは当然の結果と思います。あの映画にはストーリーのおもしろさ(意外な展開や人間性の普遍的な本質を突く、など)はなく、
映画ならではの娯楽性(怪獣が登場するならその強大な力をスペクタクルとして臨場感たっぷりに描く。簡単に言えば怪獣が大暴れする)もないのですから、
ヒットするはずがないのです。

 こう書くと、「それは、あくまでも日本の問題を扱った作品なのだから外国人の興味を引かなくても当然なのだ」という反論が出てきそうですね。
(この掲示板には『シン・ゴジラ』をよしとする人が現れませんので、勝手に憶測しました)
では、日本で外国の問題を扱った映画がなにもかもコケているのでしょうか?ざっと思いつくところでも『シンドラー・リスト』だの『プラトーン』だの『史上最大の作戦』だの(あ、戦争がらみばかりだ)が
日本で大コケしたのでしょうか。

 さらに、『ゴジラ2000ミレニアム』より成績が悪いのはどういうことでしょう? ゴジラブランドの力を持ってしても『シン・ゴジラ』は海外でコケている。
芹沢亀吉さんに教えていただいたBox Officeのデータによると日本でだけ突出してヒットしている。

 私には謎でも何でもありません。公開当時から感じていたことで、ものすごく宣伝費を使ったのだな、という感触があります。テレビや新聞がこぞって話題にしている様は気持ち悪いほどでした。
それを裏付けるのが、このたび芹沢亀吉さんが紹介なさった記事。
 製作費が20億以上とはいうものの、80億超えないと黒字にならないとは?? 何に大金使った????

 どんな宣伝戦略だったのかは知りません。けれども、「宣伝に限界はない」(多胡部長)のですからステルスマーケティングだってなんだってやったのでしょう。
口コミヒットの代表作として『君の名は。』と並び称されていますから、そりゃ、ネット工作部隊もいたんでしょうね。同調圧力に弱い日本人をたぶらかすには最適な方法でしょう。
あ、単なる憶測です。でもね、あの映画の製作費が80億に近いとはとても思えませんよ。そりゃ映画公開のためには直接製作費だけではなくさまざまな諸経費が必要でしょうけれど、
何十億も使うとしたら何のためでしょうかね・・。

 そんな宣伝も日本国内に限定されていれば、日本でヒットして海外でコケるのは理にかなったこと。

 どこかの誰かが褒めていても(貶していても)本当か?と疑う心が理性というもの。己の知識経験、悟性を駆使して判断するべきなのだ。多数派、あるいは権威者の判断に自分を合わせることで安心してはいけない。
かつて怪獣映画はゲテモノ扱いだった。しかし、「偉い人」がなんと言おうと、自分の判断を信じて、怪獣映画とは素晴らしい映画形式であると主張しつづけた人々がいるからジャンルが続いているのではないか?
 同様に、私は『シン・ゴジラ』は世論操作のためのプロパガンダ映画であり、劇映画としての完成度もお粗末きわまりない、と主張しつづける。

 そして、そうそう、ゴジラ総選挙なるものがありましたね。日本映画専門チャンネルがギャレス版への景気づけに行ったものでした。
お恥ずかしい。私は投票してます。ゴジラファンも世代交代が著しいので、一矢報いようと『三大怪獣地球最大の決戦』に投票したと思います。(上位には平成VSものが来るだろうな、と予想しました)
蓋を開けたら、なななんと、「vsビオランテ」が一位ということで、ひっくり返ったのを覚えています。

 公開当時の自分の感想を思い出すと、バイオテクノロジーを絡めた国際陰謀というアイディアやドラマ構成(エピソードのつなぎ方、緩急の付け方などなど)には感心しましたが、
とにかく怪獣描写に不満がありました。ゴジラは無表情に歩くだけで感情が見えず、ビオランテは人間社会に暴れ込むわけでもなく、さらには劇中、ゴジラの細胞を分析してゴジラ退治の方法に道筋を付けてしまう。
こんなことをしてしまってはゴジラは謎の存在でも何でもなくなってしまうし、シリーズを進めていくなら、最後には人間がゴジラを倒すことになる。こんな映画はゴジラ映画落第である、と思いました。

 しかし、当時のゴジラファンにも『vsビオランテ』を好んだ人は多かったのです。(最近は公開当時ファンに不評だった説が流布していますが、そんなことはない)
怪獣映画ファンだと公言していた金子修介氏が作った偽ガメラシリーズなど、怪獣の設定やドラマの雰囲気など『vsビオランテ』の影響下にあるのは明白。

 怪獣映画を誤解しているのだ!

 ギャレス版『GODZILLA』はエメリッヒ版を超えて世界的にヒットしました。
 なぜだ?

 私は、ギャレス版が名作だとは思いません。ここで細かいことは書きませんが、さまざまな部分に瑕疵がありとても上出来とは言えないと思っています。けれども、怪獣映画として高く評価するところがあります。
それは、怪獣をあくまでも野生の生物とし、その描写には彼らなりの意識・感情があることをしっかりと見せていたこと。彼らの闘争に横やりを入れてくる人間の軍隊が怪獣の前では無力であること。
野生の勝利を謳っていることがあの映画の魅力であろうと分析しています。
 だから世界的にヒットしたのではありませんか?
(主人公が人間だったとしてもワイルドなヒーローは受けませんか?)

 怪獣映画の価値、魅力とは、怪獣を倒す人間を称揚することではない!

 繰り返しになっても大事なことは何度も書かねばなりません。
 日本の怪獣映画がその他のモンスター映画と区別されるのは、怪獣が人間に倒されることがないストーリーを成立させているからです。
悲観的なエンディングを狙って怪物が倒されずに終わるのとは違います。
 東宝怪獣映画でも初期の作品では怪獣は倒されて終わります。しかし『モスラ』(1961)で事態は大きく変わります。
『モスラ』では怪獣が殺されません。善悪の対立は人間同士にあり、ストーリーは人間の悪を突くものとなっています。
そして、劇中でモスラ退治作戦が行われていても、観客の意識を怪獣退治には向かわせません。

 そもそも『ゴジラ』(1954)におけるゴジラも決して悪ではなく、水爆実験の被害者(ゴジラ)が人間社会と交わることで起きる災害でした。
被害者ゴジラを殺して終わるのはどうにも後味が悪い。ストーリー上は核兵器の象徴のような扱いにされていますから、それを退治する劇展開になるのは仕方ないとしても、
劇中世界でのゴジラには悪意などなく、もちろん水爆の化身でもない。そんなゴジラ、およびその他の怪獣を映画の中で殺し続けるのが正しいはずがない。

『空の大怪獣ラドン』のエンディングではラドンの死を悼むような演出が施されています。

 本多猪四郎監督の述懐に
「人間が万物の霊長である、人間こそが偉いんだという立場を僕は取らない。ゴジラにしろラドンにしろ、自然の中から生まれてきたもので、我々が考え出した架空の存在ではあるけれど、
やはり人間と同じ地球上に生を受けた一つの生命体、大きな宇宙生命の一つとして向かい合っているわけです。」とあります。
(ゴジラのトランク展パンフレットより)

 そんな思考から生まれたのが日本の怪獣映画である。

 だから怪獣たちは殺し合いをしない。本多・円谷コンビの作品では怪獣対決ものでも、負けた側が死ぬことはほとんどない。(『モスラ対ゴジラ』での成虫モスラは寿命が尽きかけていたのであり、
ゴジラに殺されたのではない)
 怪獣という命を大事にする視点があるのだ。

『三大怪獣地球最大の決戦』では、ゴジラ・ラドンが「人間はいつも自分たちをいじめているではないか」と訴えます。
 そうです。怪獣出現で被害を受ける人間たちは彼らを抹殺する努力をしますが、彼らにとっては謂われなき暴力をふるわれているのです。
怪獣たちには悪さをしている意識はない。

 それが基本。
 悪ではない者を死なせてはいけない。(大映のガメラは対戦相手を殺してしまいますが・・)

 観客が怪獣の大きさや強さに魅力を感じるのは当然として、さらにそんな怪獣が死なずに済む物語形式を確立したのが画期的なのです。対立構図を怪獣対人間ではなく、怪獣対怪獣とした怪獣対決ものの開発です。
怪獣同士が闘争することで巨大な「野生」が躍動する「祭り」になる。もはや怪獣が死ぬかどうかは問題ではなくなる。人間社会の問題は、怪獣出現という大災害を背景として人間同士のドラマという形であぶり出されるのだ。
ストーリーは、怪獣闘争が終結(勝ち負けがはっきりしなくても戦いが終われば良い)することで終わることが出来る。試合終了ということですね。

 しかし、これは革新的な発想なので理解できない人が多かったのでしょう。それでも怪獣ブームの頃に子供だった人なら体得している発想だと思っていたのですが・・。
(84ゴジラやVSビオランテなどは怪獣ファンではない人が監督でしたから、旧態依然とした怪物映画の域に戻ってしまったのだと考えていました。ぎりぎりゴジラが死なないのは、田中友幸氏がコントロールしたからだろう、と。
ただし、田中友幸氏が本多・円谷コンビと同じ思想を持っていたかどうかは怪しい。ゴジラを放射線で変異した生物だとする設定を許容しキングギドラが宇宙怪獣ではなくても良いのですから)

 先に挙げた金子ガメラの例にも明らかなように、ゴジラ退治を追求する『vsビオランテ』のフォロワーは多い。おそらく『シン・ゴジラ』も例外ではない。(白神博士とマキゴロウは似てないか?そして両者とも芹沢大助には似ていない)

 怪獣映画を限定的な形式に押し込める気はありません。怪獣退治を主眼にするものがあってもいいのでしょう。(私はあまりおもしろいと思わないけれど)
しかし、それは古い形式であると知れ!
『原子怪獣現る』や『放射能X』の時代に退行しただけなのだ。

 真に革新的であった怪獣対決映画の復活を望みます。主役怪獣が対戦相手を殺してしまうようでは、まだまだ甘い。怪獣はスターであるべきで、片方をかませ犬のように扱ってはならない。
怪獣対決映画のひとつの到達点たる『三大怪獣地球最大の決戦』では一匹も怪獣は死にませんよ。
 社会的メッセージは怪獣ドラマを背景とした人間同士の葛藤として十分描けます。怪獣出現の社会的混乱をきっかけにして人間社会の問題が浮き彫りになれば良いのです。
(なんですぐ人間の問題をストレートに怪獣に仮託するかね)

 ということは、もう十数年以上書き続けてきました。東宝さんが私の発言をまったく知らなかったはずはないけれど、上記のような怪獣映画がついに作られていないということは、
賛同を得られていないということなんでしょう。私の認識は本多・円谷コンビの特撮映画から得られました。ゴジラ映画を作るなら、その精神も引き継がなければ意味がないと考えています。
先人が残した遺産を名前だけ借りて中身を捨ててしまうのでは、偽ブランド品と同じこと。そんな不正はもう止めて下さい。

と、私の主張を述べました。
 この記事をどこのどなたがお読みになっているのか、詳しく知ることは出来ません。私の希望は、この意見をきっかけにしてお読みになった方々にそれぞれ怪獣やゴジラ映画について考え直していただくこと。
作品を見直し、ストーリーのことや演出のこと、設定が持つ意味などなど、自分の頭で考えてほしい。
 私が正しいのなら、多くの人が似たような認識にたどり着くはずだし、そうすれば正しいゴジラ映画が復活するでしょう。

 権力者(映画製作においては出資者、プロデューサー、監督であり、映画批評においては評論家やライターなどマスメディアを使える人々)の言うこと、やることが正しいとは限らないのですよ。
権力者は己の意思を通すためには大衆を欺くこともいといませんから気をつけて!!!

『ゴジラVSビオランテ』について - エクセルシオール (男性)

2017/02/18 (Sat) 22:26:52

 『ゴジラVSビオランテ』は私は好きな作品です。遺伝子工学の問題性に踏み込んだり、国家と多国籍企業がゴジラ細胞をめぐって暗闘を繰り広げたり、スーパーX2の良い意味でトンデモな性能(ゴジラの放射火炎を一万倍にして反射することができる。すごい!)、次々繰り出される大作戦等々、面白い要素はたくさんありましたし、生粋の新怪獣であったビオランテもよかったです(その後もキングギドラやモスラに頼らずにどんどん新怪獣を出せばよかったと思う)。また、なんだかんだ言ってもゴジラは強く描かれており、後のミレニアムシリーズのように人間に負け続けなどということはありませんでした。その意味ではオールタイムランキングで上位に入るのは理解できます。
 
 しかし、一方で管理人さんが仰るような問題が包含されていたことも否定できません。実は自衛隊が細かく作品内容に注文をつけだしたのはどうもこの作品からだったようです。ただ、この時点では主として組織構造に関してのものであり、その後の平成ガメラ三部作やゴジラミレニアムシリーズほど露骨な「我々を強く描け」というものではなかったようですが(この愚かな要求は怪獣映画を破滅させてしまうものである)、まさに躓きの石が含まれていたと言えるでしょう。
 また、この映画におけるゴジラを衰弱させる抗核バクテリアという設定がゴジラ映画をゴジラ退治映画に変質させる危険性のあるものだったことは確かだと思います。一応ゴジラは半病人且つ腹ペコでありながらも自衛隊を打ち破り原発に迫るのですが、第二形態のビオランテとの戦いの最中についに発病してひっくり返ってしまいました。その後、海水で体温が下がって甦るのですが、打ち込まれたバクテリアはそのまま。これでは「もうゴジラは脅威ではない」ということになりかねません(白神博士は暗殺されてしまったが、他にも作る人間はいるだろう)。今思えば、どうして「ゴジラの免疫がバクテリアを駆逐してしまった」という落ちにしなかったのかと思います。
 実は初期脚本段階では抗核バクテリアという設定はありませんでした。第一段階ではゴジラは第三の怪獣デューテリオスを倒し自衛隊を蹴散らした後にビオランテと対決しますが、激闘の果て相討ちになって海に沈むというものでしたし、第二段階ではビオランテを破り自衛隊を粉砕した後に、復活したビオランテと対決し一度は吸収されかけるがビオランテが細胞崩壊を起こして難を逃れ海に帰っていくという内容でした。興味深いことにはゴジラが原発を狙うという設定もありません(この辺は『「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ』(角川書店、2010年)に載っていますので読んでみてください。)。
 そうなると、わざわざ「ゴジラ退治話」に持っていくために抗核バクテリアの設定が付け加えられたようにも思えてきます。以前にも書いたように私は基本的にVSシリーズまでは好きで、平成ガメラ三部作を経たミレニアムシリーズから「ゴジラは許容限度を超えておかしくなった」と思っていますが、VSシリーズのころから既に問題の萌芽はあったということは否定しがたいと考えます。

 なお、「○○総選挙」という企画は考えものです。大体インターネットを使用するのですが(一人の人間が複数回投票して結果をゆがめる問題もある)、概して①古い作品は不利になる。②一般向けの作品よりマニア受けする作品の方が有利になることが多いですから(例えば、今、NHKが「日本のアニメベスト100』などという企画をやっているが、上位に来ている作品には最近のとても一般向けとは思えない深夜アニメが多い。一方、『鉄腕アトム』も『サザエさん』も『ドラえもん』も50位以内にいない)。ただ、『GMK』が一位になることを考えれば『VSビオランテ』で止まったことはまだよかったと思いますよ(普通に考えれば『ゴジラ(1954)』が一位になるべきだと思いますが)。
 仮に今同じ総選挙をやったらどうなるか?おぞましいことですが、確実に『シン・ゴジラ』がダントツの一位になってしまうでしょう。

 


 
 

Re: 日本の怪獣映画は映画の革新だったはずなのに - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/02/19 (Sun) 20:38:27

最近殿様ギドラ氏と私の一対一の対談みたいになっていたのであえて投稿をせずに他の方が投稿されるのを待っていましたが、エクセルシオール氏が来られましたか。

過去の投稿を見ればおわかりでしょうが私は『VSビオランテ』への評価低いです。理由は色々ありますが、スーパーX2や抗核バクテリアといった「日本にはゴジラに立ち向かう凄い武力と技術力があるんだぞ」という自国の力を過剰に誇示する設定が鼻につき、明らかに日本が国産のブラックホール砲を開発する『×メガギラス』やキングギドラでも倒せないゴジラにこれまた国産の削岩弾で致命傷を与える『GMK』等の先駆けになっているのが大きいです。劇中で大河内誠剛が日本が抗核バクテリアを保有することを手放しで肯定する台詞がありオーディオコメンタリーで大森一樹監督が名台詞だと絶賛していることも確認済みですが、初代ゴジラの芹沢大助博士がオキシジェンデストロイヤーを日本を含むどの国の為政者にも渡さないようにゴジラと心中したことの意味をまるでわかっていないと呆れましたよ。『原子怪獣現る』や『放射能X』と同様に怪獣に立ち向かい勝利する人達を描くことに力を入れた映画なので「ゴジラが凄い」という感想よりも「自衛隊の作戦が凄い」「スーパーX2かっこいい」という感想が多くなるわけです。エクセルシオール氏の仰る通り抗核バクテリアがゴジラの免疫により駆逐されたという結末だったらもう少し評価はよくなっていたでしょう。もっともゴジラ出現を外国のテロリストのせいにするなど徹底的に外国を悪者にして日本を被害者にする映画を手放しで評価することは出来ませんが。イグアナの巨大化をフランスのせいにしてアメリカが先制攻撃したわけでもないのに一方的にアメリカを襲う大イグアナを描いた某エメリッヒ映画と同じ発想ですので。

実を言いますと私は本多・円谷コンビが怪獣同士の対決を重視するようになって怪獣に武力行使する為政者の愚かさ、罪深さに関する描写を大幅に後退させてしまったことを残念だと思っています。『三大怪獣地球最大の決戦』のキングギドラは人類側が何もしていないのに地球を攻めてくる存在で、水爆によって目覚めたゴジラやアンギラス、自衛隊に攻撃されて阿蘇山の火口に消えたラドン、研究員らに眠りを覚まされたバラン、さらわれた小美人を取り戻しにきたところを防衛隊からナパーム弾や原子熱線砲で攻撃されたモスラ、ファロ島から無理矢理連れてこられたキングコングとは違って人類の罪の要素がありません。だからといって未来人のペットが水爆で合体巨大化した怪獣にしていいわけがありませんけど。私が本多・円谷コンビの生み出した日本の怪獣映画が革新的だと考えるのは、『放射能X』や『原子怪獣現る』といった当時のハリウッドの怪獣映画では人類、というより為政者が武力で倒すべき敵という扱いだった怪獣を権力や武力を濫用する人類の愚かさ、無力さ、罪深さを観る者に思い知らせる存在に格上げしたからなんですよ。怪獣を武力で倒すこと自体が間違いであることを主張する山根博士のような登場人物を通じて自然の大いなる力を体現している怪獣を敵とみなして攻撃することは本当に正しいのかと観客に考えさせるようにしたことも大きいですが。

だからこそ自衛隊などの国家機関がゴジラを攻撃することを当然視する為政者目線の映画を私は厳しく批判するわけです。それは怪獣映画じゃなくて映画化された架空戦記であって登場する怪獣は単なる国家権力の標的、サンドバッグですので。

Re: 日本の怪獣映画は映画の革新だったはずなのに(また長くなってしまったトホホ) 殿様ギドラ (男性)

2017/02/22 (Wed) 18:42:47

 エクセルシオールさん、芹沢亀吉さん、ご投稿ありがとうございます。
やはり複数の方から意見が寄せられないと話の内容が偏ってしまいますのでお二方からの書き込みは本当にありがたいです。
(『シン・ゴジラ』擁護の意見が寄せられてもいいような気もしますが、ネットを漁ってみてもさほど深い意見は見当たらないので、ま、いいや)

 近年の怪獣映画の問題点を考えるとき、どうしても『ゴジラvsビオランテ』に突き当たってしまいます。怪獣を生化学的に解明する展開に持って行きたがるのは『vsビオランテ』の影響であろうと考えられます。

 怪獣映画のストーリーで、人間社会が怪獣対策を行うのは当然のことであり、生き物を殺そうとすればその生態や生理を研究するのは当然です。ですから怪獣退治物語のリアリティを求めればバイオテクノロジーを取り入れざるを得ないのも当然のこと。
『vsビオランテ』で抗核エネルギーバクテリアなるアイディアが出てきたのは、ゴジラを倒す、ないしゴジラの弱点を作るためだったと思われますが、それは同時に人間の科学でゴジラを倒せる、という表現に繋がってしまう。
(オキシジェンデストロイヤーとはストーリー上の立ち位置が全然違うことにも留意)
どなたの発案だったのか? 大森一樹監督?(すいません、平成ゴジラにはあまり詳しくない)とすれば、怪獣映画への無理解が引き起こした設定と考えられます。その後、怪獣映画への造詣を深めた大森監督は抗核エネルギーバクテリアを使わなくなる。
しかし、その後の多くの作品が怪獣の謎を解く道具としてバイオテクノロジーを取り入れているのはいかがなものか? 結局、現行の科学知識ないしその延長で怪獣を説明してしまう。謎が解ければ倒すことも可能。しかし、それは間違いだ。

 怪獣映画の主眼は何か、ということを考えればわかるでしょう。そもそも怪獣とは架空の生物です。何のために映画に怪獣を登場させるのか? 芹沢亀吉さんのおっしゃる「権力や武力を濫用する人類の愚かさ、無力さ、罪深さを観る者に思い知らせる」ためであっても、私の解釈である「巨大な野生の祭典」であっても、
怪獣が人類に負ける必要はない。そして怪獣が大自然の驚異を体現するものならなおさら人類の科学ごとき浅知恵で倒されてはいけない。

 科学解説を入れるとなんとなく高級っぽく見えますから、まじめに作りましたと上っ面を飾りたいときには科学用語を入れたがる傾向があります。
(『vsビオランテ』は真剣にバイオテクノロジーを怪獣映画に取り込もうとしたのでしょうけれど、その害については無自覚だった)
科学啓蒙としては怪獣映画に科学解説が出てくるのもいいでしょう。しかし、劇中で科学的に分析された結果怪獣退治の方法(ないし怪獣の生理)が明かされてはいけません。

「科学の解説が何が驚異だ!」(これも多胡部長)

 怪獣はあくまでも謎の生物でなければならない。そうでないと、日本的怪獣映画は成立しない。

 ただ、まるっきり科学的分析を無視したシナリオでは観客の反感を買うでしょう。「この世界の科学者は何をやっているのだ?」と。ですから科学的視点や科学者を登場させるなら、科学の手法では何もわからない、ということを科学的に説明すれば良いのです。

 手前味噌になりますが、『vsビオランテ』原案と同じく1985年の公募に応募した私のストーリーでは、はっきりと、怪獣は生物学ではどうしても歯が立たない存在であると規定し、「不確定性生物」という言葉をひねり出しました。科学では倒されない存在とはどういうものだろうと考えた末のぎりぎり解説でした。しかし、そんな思いつきも30年以上も昔のことで、今では、そんな解説なんかいらないと考えています。

 怪獣映画では、怪獣という現象を見せればいいのです。その姿形、動き、力、性格・・・。外から見える怪獣の在りようを見せれば良い。
 そんな生き物は現実にはいないのだから、存在理由を説明されないと現実味を感じられない、というのはあまりにも科学を知らなさすぎる。この宇宙では光速より速く移動することは出来ないというけれど、その理由を説明できる科学者がいますか?
 理論があって現象が起こるのではなく、まず現象があるのです。特殊相対性理論は宇宙の限界速度が光速である、という現象から導き出されました。劇映画はフィクションであり、どんな現象でも起こせるのがフィクションの特性です。怪獣という現象を使って科学の限界を伝えるのもSF映画としての怪獣映画の役割です。

 てなことを言うと、「なんだお前、いままでさんざんいろんな作品について科学的な誤謬を指摘してきたじゃないか」と突っ込みたくなる人もいるでしょうね。

 違いますよ。私が批判してきたのは、科学的な設定が間違っていたり既知の現象を科学的に間違った描写をした場合です。『シン・ゴジラ』で怪獣が原子力で生きているという設定が出てきたとたん、なぜか体内に原子炉があることになってしまった。核分裂湯沸かし器である原子炉を使ってどうやってあの怪獣が生きているのか、雁首そろえた専門家たちは推論できたのか?こういう馬鹿な科学解説を批判するのです。

 怪獣は、説明すればするほど袋小路へ入ってしまいます。(『シン・ゴジラ』に出てくる怪獣は説明が多く、しかもその科学的なバックボーンが弱すぎてかえって信憑性を失っている)

 ゴジラは初出の『ゴジラ』が第五福竜丸事件をきっかけに企画されたものであるために、核実験によって出現した怪獣という設定が揺るがしがたいものであり、まさに人類の過ちが呼び覚ました災禍であるという「説明」がついて回ります。それは尊重すべき設定なのですが、どうも人間の業と結びついてしまっていて私としてはなんとなく居心地が悪いのも確かだったりします。
原点回帰を叫ぶ作品が、やたらとゴジラを人間の従属物にしたがるのもそのあたりに原因がありそうです。(「GMK」では人間の意識が凝り固まったものだし、『シン・』ではどうやら人造怪獣だし)

 これはグレーゾーンと申しましょうか、絶対にそうでなければならないとまでは言えないまでも、私としてはそうあって欲しいと思う怪獣観として、「究極のアウトロー」であって欲しい。
人間の行為や人間との関係の中で生まれた者とか、何らかの役割(◯◯を倒すとか守るとか)を担っていたり、その怪獣を登場させることによってストーリーになんらかの枠がかかってしまうような設定はない方が良い。
もちろん、怪獣というだけで枠は出来るわけですが、それ以上の枠はなしよ、と。

 そんなことを考えると、なんともキングギドラくんがいとおしいのであります。
 キングギドラが自由だったのは『三大怪獣地球最大の決戦』しかないけれど、それこそ、人類の過ちとも関係なく、何しに地球へ来たのかもわからないし、破壊の目的もわからない。あんなむちゃくちゃなヤツはいないです。
 それでも、わからないからこそ、逆にキングギドラがおとなしく座っていてもそれはそれで間違いではない。つまりキングギドラが登場するからといって、自動的にストーリーが規定される心配がない。この自由さがいい。
(でも、人間を助ける優しいキングギドラ、なんて絶対にNGだ。それは怪獣映画のおもしろさとはなにか、という観念が出来ていれば間違えない領域の問題でしょう)

 たしかに本多・円谷コンビの作品でも「権力や武力に対する批判」が薄いものはたくさんあります。それはストーリーのバリエーションと考えてもいいのではないでしょうか。『三大怪獣地球最大の決戦』では自衛隊(この映画では防衛軍)は怪獣に対し監視するだけで攻撃することがありません。そのため武力の無益さを伝える内容にはなっていないのですが、たびたび怪獣が現れるあの世界において怪獣に対して効力のない攻撃を加えるほど間抜けではないということでしょう。
それでも、防衛大臣がひたすら逃げの答弁を弄する様子を描いていて、権力者に対する批判を込めています。作品全体の主題はさまざまでも、その都度右に左に転向しているわけではないのでよろしいんじゃないかと・・。

(本多作品における武力や権力の扱いは細かく見ていくといろいろと興味深いところがありますが、それはまたいつか・・)

 「ゴジラ東宝特撮未発表資料アーカイヴ」、ひさびさに引っ張り出してめくってみたら、そういえば「vsビオランテ」原案コーナーに補足としてビオランテ発案者による守るべきゴジラ観があったっけな、と。
その第二条に「一、凶暴、残虐な獣性の復活」とあります。
この方、一体どの怪獣を復活させようと考えていたのでしょう?? ゴジラが凶暴残虐だったことがあったのでしょうか? 『ゴジラ』(1954)でのゴジラが「凶暴?」に暴れたのは攻撃されたからでしょう?虐げられて暴れるのが凶暴なら、ブルース・リーも相当凶暴ですな。残虐となると論外。
こんな誤解に基づいた原案からスタートしてしまったのが平成VSシリーズのつまづきであり、その後のゴジラ映画を狂わせた元ですよ。

『ゴジラVSビオランテ』について その2 - エクセルシオール (男性)

2017/02/28 (Tue) 20:59:58

 小林晋一郎氏の挙げた「凶暴、残虐な獣性の復活」云々という部分は、管理人さんの仰る通り違和感を覚えざるを得ないものでした。私も「ゴジラってそこまで凶暴残虐だったかな?」と思ったものです。それまでの16作品では大きく「こわいゴジラ」をメインにしたものと「親しまれるゴジラ」を強調したものとに大別できましたが、この時点では後者の方が優勢だったことを考えると、別の意味で行き過ぎていたと思います。おそらく、これは当時「子ども達のアイドルに堕落したゴジラを大人向けの正しい姿に戻すのだ」と息巻く意見が強かったので、それが極端な形になってしまったものと思われます(「子ども達のアイドル」というのはそれはそれで立派なもののはずなのですが)。

 とはいえ、そんなところからスタートしたVSシリーズも回を重ねるごとにゴジラに同情的な内容になっていきました。特にゴジラが再び「親」になってからは、「凶暴残虐な獣性」というものとはかけ離れたものになったと思います。ただ、そのことを批判するマニアが少なくないのも事実であり、その中にはその後の作品を全否定する方もいます。私自身は映画の出来は別にしてゴジラに関しては良い方向に動いていたと思うのですが。

 それに『VSビオランテ』に関しては近年解釈が変わってしまった印象もあります。最近の本作品の評価では「自衛隊がゴジラと対等以上に渡り合っている」「常に戦略的優位を保っている」等々という意見が目立ちます。黒木特佐にしても上映当時は「犠牲を顧みず勝つことしか考えていない、戦争をゲーム感覚でとらえる軍人」という否定的な見方が強かったのに、今では「これぞ軍人の鑑」みたいな持ち上げ方をされることがあり、寒心なきをえません。
 このような捉え方は内容とかけ離れています。ゴジラと何とか渡り合えたのは超現実的な性能のスーパーX2だけでその他は歯が立たず、スーパーX2も結局やられてしまいます。黒木はゴジラの出現ポイントを読み違える大チョンボをやらかし、しかもその埋め合わせを三枝未希に頼みます(女子高生をゴジラに一人で立ち向かわせるという確実に問題視される行動)。さらに、わざわざ生身の自衛官によるゴジラへの抗核バクテリア撃ち込み作戦を展開し(ゴジラがビルを壊したらおしまいであり、ほとんど特攻に近い)、権藤は殉職。総力を若狭湾に結集させてゴジラを迎え撃ちますが、ゴジラを阻止することはできず大損害。高浜原発破壊を免れたのはビオランテが現れてゴジラと戦闘になったからで、ほとんどラッキーでした。なお、ビオランテによって残った部隊が壊滅させられています。これでどこが「対等以上」なのか理解に苦しみます。『VSビオランテ』における怪獣VS自衛隊は従来の描き方からそうそう外れたものではないと考えます(それは別に悪くはない)。むしろ、対怪獣作戦は現実離れしているからこそ面白いのです。

 それがなぜ上記したような妙な解釈をされるようになったのか?無論、本作品に内包された問題や隙があったことは否定できません。しかし、私はその後の作品、特に金子修介監督による平成ガメラ三部作の影響が大きかったと思います。この作品では自衛隊によるストーリーへの不当な要求とスタッフによる自衛隊への阿りが激化し、「怪獣と対等に渡り合える強い自衛隊」が強調されました(その結果、怪獣の弱体化がおこった。例えば、第二作目の翔レギオンなど自衛隊が退治しやすくするために飛行速度がマッハ2から時速150キロに低下させられてしまった。これは大谷翔平の速球より遅い。)。本来「斬られ役」「やられ役」にすぎない防衛組織が主役である怪獣を脅かす存在になってしまった。この逸脱としか言いようのない内容に感化された人々が過去の作品も同様の視点で再解釈してしまい、付け入る隙が最も大きかった『VSビオランテ』を平成ガメラ三部作に最も近い作品と考えて、その評価を間違った形で上昇させた側面があったと思います。これは困ったものです。

 私自身は『VSビオランテ』はやはり嫌いにはなれませんし、娯楽作品として面白い映画だったと考えています。ただ、もう少し怪獣を大切に作ってほしかったとは思いますね。

 なお、今ではなかなか読めませんが角川文庫から出ている小説版ではゴジラは単なる凶暴残虐な怪獣ではないという要素も盛り込まれていたと記憶しています。例えば三枝未希が「ただ海を泳いでいるだけのゴジラに戦闘機が爆弾を落とし、ゴジラはなぜそんな目にあうのか悲しむ」という夢を見たりしており、彼女はゴジラに相当同情的な考えを持っていた姿が書かれていました。

 

ゴジラ観・・その存在が示すものについて - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/25 (Wed) 22:38:30

誠に勝手ながら、前スレッドが長くて読みにくくなってきたので殿様ギドラさんへの返信のために新しいスレッドを立てさせて頂きます。まあ私の長文が主な原因なんですけど(汗)。

古参のゴジラファンである殿様ギドラさんからそういうお言葉を頂けるのはありがたい限りです。何故か小学生の頃から新聞やニュースなどで自分なりに社会の実相を見極める習慣が身についていたのもあるでしょうが、ゴジラ退治物語が大好きな所謂ゴジラオタクの間では評判が悪いミレニアムやギャレス版がお気に入りになったことも大きいと思います。初めて映画館でミレニアムを観た頃私はまだ小学生だったのは先程お話しした通りですが、当時クラスでもゴジラと戦うGフォースや自衛隊かっこいいと言っている人達をゴジラが好きなんじゃなくてゴジラをやっつける人達になりたいのかとちょっと一歩引いた目で見ていました。

物質文明の発達によって人間がゴジラにとって邪魔な物をたくさん作り出してしまったという解釈には私も賛同していまして、だから『モスラ対ゴジラ』で工場から出る煙で汚れた空気に苛立ったゴジラが工場地帯で放射熱線吐いたという見解に至った次第です。年齢が一桁の頃から動物や植物の図鑑を読むのも大好きで、ゴジラが都市に引き寄せられるのはサメのロレンチーニ器官みたいに電気を感じ取る器官があって田舎や山林よりも圧倒的に多い電気の量に反応しているのかなと考えたりもしていました。といってもサメのように獲物に襲い掛かるのではなく人間よりはるかに優れた嗅覚を持つ犬が嫌な臭いを発するものに吠えるのと同じ感覚で大量の電気を使っている都市に対する怒りを爆発させるといった感じです。ミレニアムの冒頭でゴジラが根室の発電所を襲撃する場面を見ながらそんなことを考えていたのですが、『キングコング対ゴジラ』で氷山から出てきたゴジラが軍事基地を襲撃する場面等もそれで説明できるのではないでしょうか。

ゴジラが軋轢を引き起こすのは対個人ではなく対社会というご指摘もその通りだと思います。少なくともゴジラに攻撃を仕掛けるのは個人ではなく社会を動かす力がある国家権力の組織なわけですし。ゴジラ退治物語に成り下がっている作品でもその部分は崩していませんが、それは戦時中の国策映画と同じで「外敵」に勇敢に立ち向かう軍隊(ゴジラ退治物語では自衛隊であったり防衛軍であったりする)という国家権力の暴力装置をかっこよく見せるための設定に過ぎません。人間社会と対立する存在であるゴジラは社会を動かす為政者からすれば排除すべき敵であり、ゴジラが人間社会に深刻な打撃を与え為政者の無力さや愚かさを暴く作品は為政者からすれば不愉快極まりない内容なのは確実です。逆に言えば国家権力がゴジラに立ち向かい勝利することだけに重点を置いたゴジラ退治物語は為政者にとって望ましい作品でしょう。ちなみにゴジラ退治物語の典型である『VSビオランテ』の三枝未希が超能力でゴジラの意志を曲げて進路を変えさせる場面なんですが、防衛庁特殊戦略作戦室という国家権力の一端を成す機関の室長である黒木翔が「彼女もチームの一員」と明言していることから、国家権力主導の作戦にゴジラが負けた場面ということになります。あのイグアナの化け物が登場するエメリッヒ映画も結局「外敵」をアメリカ軍が打倒するという展開なので国家権力が主体となるゴジラ退治物語のハリウッド版に過ぎません。

私も別に無政府主義者ではありませんが、特撮映画の内容は勿論日本社会そのものが権力者や為政者への批判的視点が乏しくなってきている現在だからこそ日本社会で生活し税金を納めている有権者の一人として社会の実相を見極め国家権力、為政者のやり方を批判的に見る必要があると考えています。批判されなくなった国家権力が暴走し怪獣同様に多くの人々を抑圧し生命の危機に晒すことは歴史を見ればすぐにわかりますので。映画を使って一般人が国家権力に無批判になるよう誘導する事例が数多くあるのを知っている身としてはゴジラ映画がそういう形で利用されるのは真っ平御免ですよ。逆に片桐CCI局長が自衛隊指揮してゴジラに先制攻撃を仕掛けて怒りを買い自らゴジラに殺される原因を作ったミレニアムや、フォード親子を抑圧する日本政府やモナークの隠蔽工作がムートーの前では無力でスクールバスの子ども達を命の危機に晒すアメリカ軍のミサイルがゴジラには全く通用しない有様を描いたギャレス版を為政者の横暴が人智を超えた大自然の謎を象徴するゴジラの前では無力であることを描いた作品だと高く評価するわけです。そういえば『キングコング対ゴジラ』も結局日本政府にとってゴジラもキングコングも手に負えない存在だからこそ両者を戦わせるという手段を採らざるを得なかったという物語ですよね。『三大怪獣地球最大の決戦』も日本政府や自衛隊には手に負えない存在であるキングギドラをゴジラ、ラドン、モスラ幼虫が連携して敗走させる物語ですし。

私達は社会という枠組みの中でしか生きられない存在です。しかし社会を動かす為政者は自分達の過ちや愚かさ、横暴さや無力さをなかなか見せてくれませんし、社会で暮らすことで大自然の力の程度を体感できる機会の大部分を失うのもまた現実です。怪獣映画、特にゴジラ映画の大切な部分はそうしたものを観客に提示する点ではないでしょうか。人類の理解を超えた大自然の謎を体現しているゴジラが絶大な放射線耐性を持ち現行兵器が全く通用しない存在であり、国家権力の強権や武力には絶対に負けない存在であるからこそ私達はゴジラ映画を観て日頃忘れがちな為政者の愚かさや傲慢さ、そして大自然の力の途方の無さを知ることが出来るんです。ゴジラに勇敢に立ち向かい勝利する国家権力を描くことだけを重視するゴジラ退治物語は本来のゴジラ映画が持つ大切な部分を捨てています。現行兵器で大量出血し、自衛隊の総火力攻撃と同程度かそれよりも劣る爆発で重傷を負いブザマによろめく使徒モドキの醜態を描いた『シン・ゴジラ』なんかまさにその典型ですよ。そういえばUSJでその使徒モドキのアトラクションが出来たそうですが、例によって向こうから一方的に襲ってきた使徒モドキに観客が戦闘機に乗って立ち向かうというゴジラ退治物語です(参考:https://www.usj.co.jp/universal-cool-japan2017/godzilla/)。私の地元大阪でこんなのやるなという怒りしか感じません。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて 殿様ギドラ (男性)

2017/01/27 (Fri) 18:13:50

いや、どうも、長文を書いてしまうのは私も同様でして、正確に書こうとするとどうしても長くなってしまう悪い癖。

今回はなんとか短くまとめてみます。

芹沢亀吉さんのご意見を頷きながら読ませていただきました。

私たちが主張しているゴジラ映画のあり方は、少なくとも最初のゴジラシリーズを模範とすれば決して間違ってはいないはずだと思います。
ということは、ほかにも同じように考えている人はいるはず。
(もちろん完全に同じ、ということはないでしょう。私と芹沢亀吉さんにも相違はあるはずですし)

けれども、ゴジラ退治物語なんかNOだ!
という声はあまり聞こえてきません。

なぜだ?

ひとつは、現行のゴジラ映画が長い間ゴジラ退治物語を量産してしまったから、そちらが本道のように見えているのが原因かもしれません。
それから、議論が苦手な日本人は現状追認がお得意で、内心はNOだと思っていても、それを表明しないまま受け入れてしまうからかもしれません。
(ゴジラファンでもそれほどゴジラに入れ込んでいなければ、多少変な作品が出てきてもわざわざ批判するほどでもないや、という人もいるでしょうね)

もっとやっかいなのは、これは一般のファンよりライター業の人なんかに多いんじゃないかと思われますが、
批判(=貶すと考えている)すると自分のスタッフ受けが悪くなって仕事がしづらくなるんじゃないかと配慮して、批判を控えるという態度もあるでしょう。

少し文脈が違いますが、複数の特撮系ライターが雑誌などに発表した文章に、
「作品の出来が悪いと思っても現場の苦労を知ると貶すような評を書けない」(それぞれ表現に違いがあっても大意は同じ。二人以上の別のライターがこんなことを書いていた)
とあるのを読みました。
(出典を提示すべきなのですが、そこまで資料整理が出来ていないので誰がどこで書いた文章、と明示できません。
信じてもらえないかもしれませんが、私は嘘はもうしません。“池田さんみたいなことを言ってるよ”)

これではどんなものが出来上がっても批判されることがない。

私がいま考えているのは、元祖ゴジラシリーズこそ守るべき規範で本物だ、と考えている人々の力を結集するにはどうするか、ということ。
そんな人はもはや少数派なのかもしれません。
それでも、いないはずはない。

おっさんたち、面倒くさがるな! 声を挙げろ!
と檄ってみてなんとかなるかなー。

(USJ、まー商売だからそんなアトラクションも考えちゃうんでしょうね。ちんごじら・使徒モドキじゃなくてゴジラを使うなら、お客さんがゴジラになって軍隊を蹴散らすアトラクションがいいな)

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/29 (Sun) 21:18:31

ゴジラ映画のあり方について殿様ギドラ氏と私で相違があるのは自然なことです。大切なのは相違がある中でも国家権力によるゴジラ退治物語は本来のゴジラ映画ではないという見解で完全に一致しているということでしょう。

http://www.mdsweb.jp/doc/1449/1449_08a.html
こちらの記事を読めばお分かりと思いますが、日本のゴジラ映画でゴジラ退治物語が主流になってしまったのは旧防衛庁や現防衛省による映画製作への介入がどんどんエスカレートしたことと無関係では無いでしょう。自衛隊が部隊や戦車等を映す場面への撮影に無償で協力する代わりに映画製作側に自衛隊の印象を悪くする描写や展開を排除する指導が行われてきました。自衛隊幹部に最後は米軍の武力が勝利するエメリッヒ大イグアナ映画のような映画を期待するという声があることを踏まえてもやはり自衛隊側はゴジラ退治物語が望ましいわけです。『ゴジラ2000ミレニアム』を最後に防衛庁(当時)が一時的とはいえゴジラ映画への製作協力を拒否するようになったのは、ミレニアムの本編の自衛隊がゴジラに先制攻撃仕掛けて怒りを買い東京炎上の原因を作る展開や、イオに襲いかかる自衛隊機の爆風、篠田が自衛隊に見捨てられ自衛隊の設置したブラストボムの爆発で命の危機に晒されるといった描写が不興を買ったからではないかという疑念を以前から持っていた私ですが、先程の記事を読み疑念が確信に変わりました。現に『×メガギラス』以降の日本のゴジラ映画は自衛隊やそれに相当する日本政府側の組織が武力行使で直接民間人を巻き添えにしたり見捨てたりする描写が一切無い国家権力目線のゴジラ退治物語ばかりですし。いずれにせよミレニアムのそうした描写を物語に現実味を与えていると高く評価するのが私です。為政者に都合のいい自衛隊像ばかり見せられても白々しいだけじゃないですか。ミレニアム以来途絶えていた自衛隊の撮影協力が復活した『×メカゴジラ』がどういう作品かはもう言うまでもないですし。

自衛隊は紛れもない国家権力側の組織です。つまり国家権力による製作現場への介入が為政者にとって都合のいいゴジラ退治物語の量産に繋がっているのだとしたらこれは由々しき事態ですよ。ライター業の人がスタッフ受けが悪くなり自分が取材させてもらえなくなるのを恐れて批判を控えるのと同じで、ゴジラ映画製作側が自衛隊受けが悪くなり撮影協力を拒まれるのを恐れて自衛隊側の介入に無批判になってしまったと言うことも出来るでしょう。

私がゴジラ映画から国家権力の暴力性、自然を制した気になっている為政者の愚かさなどを読み取ることをゴジラ映画の政治利用だと叩く人がいます。しかし映画で表現していることを読み解くのを政治利用だというのは言いがかり以外の何物でもありません。大体国家権力の暴力性、自然を制した気になっている為政者の愚かさ等日頃実感する機会に乏しい真理を追究することの何がいけないのでしょうか?ゴジラ映画の政治利用をやっているのは映画製作に介入し自衛隊の良い面ばかりを見せつける作品に改変してしまう旧防衛庁や現防衛庁ですが、私を叩いている連中はそうした為政者側が主体のゴジラ映画の政治利用に対しては現状追認しかしていません。私はそんな下らない言いがかりに屈することなくゴジラ映画が表現していることを読み解いてきました。そして1984年以降に生まれたゴジラファンにもゴジラ退治物語なんか駄目だと考えている人がいるということを一人でも多くの方に知ってもらうためにTwitterをしたり、こうやって殿様ギドラ氏の掲示板に書き込みをさせてもらっているわけです。

ちなみにUSJのアトラクションですが、私なら自衛隊がゴジラに先制攻撃を仕掛けて怒りを買いUFJ一体が火の海にされるという展開にしますよ。ゴジラを武力で倒せるという為政者の思い上がりの愚かさやゴジラの途方も無い破壊力を目の前で見せ付けられる民間人というのがお客さんの立ち位置です。防衛省が激怒しそうなアトラクションですね(笑)。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて 殿様ギドラ (男性)

2017/01/30 (Mon) 18:39:20

やや、これはおもしろいまとめページですね。
情報に感謝します。

自衛隊が映画に協力するとき、ある程度内容に干渉することは知っておりましたが、ここまでとは・・。
つまりは自衛隊広報映画にせよ、ということですね。
そんなもの、国策映画に他ならないではないですか。

ごく初期の特撮・怪獣映画にも自衛隊は協力していましたが、
営利事業である民間の映画に自衛隊が協力するとは何事だ、と国会で責められて自衛隊の映画協力が一時期なくなったと聞いています。

『ゴジラ』や『地球防衛軍』には本物の自衛隊が出てきますが、
その後は「東宝自衛隊」と記録フィルム・バンクフィルムの組み合わせで、本物の自衛隊を新規撮影はしなくなります。

ところが近年(といっても平成ガメラなんて20年も前か)は再び本物の自衛隊が出てくるようになって、どういう風の吹き回しだ?
と思っていたのですが、積極的にメディアを使って宣伝することにしたのですね。(自国民に対する情報戦だ)
自衛隊機が撃墜されるような描写は拒絶、という程度の話は知っていたのですが・・・。

まったく・・・。

表現者なら、内容にケチをつけられるぐらいなら、自衛隊の協力など当てにせず、すべて特撮で勝負したらどうなんでしょうね。
庵野・樋口氏は自衛隊賛美映画を作りたかったのか、ただ、本物の兵器を自作に登場させたくて自衛隊の言いなりになったのか??

自衛隊がらみではない部分の脚本なんかを見ても、行政の実態を役人や政治家に取材するうち為政者の主張を鵜呑みにして、彼らにとって都合の良い法整備を劇中で実現してみせたように思えます。

つまり一方の主張のみを正当とする劇展開にしているんですね。

怪獣出現に対して防衛出動が出来る法律だの、内閣に権力を集中させる法律だのの、リスク(反対論)にはまったく触れないストーリーですから。
(あの映画の大きな問題点であり、間抜けなところだ)

映画を政治利用するというのは、ひとつの主張をさも正当であるかのように見せかけて大衆に体感的に刷り込むことであって、
作品の中からストーリーにおける社会観・世界観を読み取ることとは違う。

国家権力がともすれば覇権主義に走り、国民を抑圧し、人権を無視する行動に出るのは、これまでの人類史を見れば明らか。
だから民主主義思想が生まれたのであり、芸術を武器にして戦う表現者は、権力者の暴走を常に止める活動をしなければならない。

こんなことも今の日本人はわからなくなっているのですね。
それこそ平和ボケだ。

国民が監視・制限しなければ、為政者はすぐ戦争を始めるのですぜ。

本多猪四郎監督は戦争体験者であり、徴兵制度によって映画人としてのキャリアをねじ曲げられてしまった人。
声高ではなくても、その作品のあちこちに為政者・権力者への批判は含まれています。
ただし、戦場に出る兵士ひとりひとりのがんばりも知っている人なので、本多作品に出てくる兵士や警官は全力で職務を全うしようとするのである。
決して、組織としての軍隊を称揚しようとは思っていない。

自衛隊賛美映画なんか作る奴は、本多作品から何も学んでいない。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/31 (Tue) 19:34:35

こんばんは。私の紹介した情報が参考になったようで光栄です。

こうやって自衛隊員募集ポスターに使われていることを踏まえても『シン・ゴジラ』が自衛隊広報映画であることは疑いようがありません。アメリカ軍も新兵募集を行うことは勿論ありますがエメリッヒ大トカゲやギャレス版ゴジラを使ったりはしませんよ。もっともアメリカ軍万歳映画のエメリッヒ大トカゲならともかく、徹底的にアメリカ軍の行いを事態を悪化させるものとして描いたギャレス版ゴジラなんかアメリカ軍の広報には使いようがありませんが。

で、『シン・ゴジラ』もとい使徒モドキ映画の本編なんですが製作側の意図がどうであれ「自衛隊が出動すればゴジラにも対応出来る」「内閣に権力を集中させれば危機対応出来る」という為政者側の一方的な主張を正当なものだと観客に信じ込ませる思想誘導、プロパガンダ丸出しの国策映画になっていることは疑いようがありません。本来ならゴジラファンはゴジラ映画の国策映画化に対して怒りを表明しないといけないところなんですよ、これは。ところがそういう人はネット上でも少数派で不当な攻撃に晒される始末です。批判の声を弾圧する為政者と同じようなことをあの映画絶賛している連中がやっているわけですよ。弾圧は権力が無いと出来ませんが執拗な嫌がらせ等による抑圧は為政者じゃなくでもできますし。まあゴジラ映画を国家権力主体のゴジラ退治物語に改変すること自体がゴジラ映画の自衛隊広報映画化に繋がっているのは殿様ギドラ氏もおわかりでしょう。

無視できないのは、最初から外敵に勝利する日本政府という結論ありきの筋書に無理矢理合わせるために現行兵器が一切通用しないという本来のゴジラの設定を改悪して現行兵器で大量出血する脆弱な存在にしてしまったり、東京が壊滅したのに線路が無事、空気中の放射能濃度が上昇すればガンマ線の影響で機械が異常をきたすはずなのにアメリカ軍の無人機や自動操縦の電車が何の支障もきたさず運行されている等物語の根本的な部分に致命的な欠陥が多数生じていることです。実際に役所の人間の話し方を取材して本編に反映したようですが、平時の役人の話し方を真似たところで非常時の緊迫感が出せるはずが無いこともわかっていないのですからそれでもプロかと言いたくなります。その結果一本調子でダラダラと早口で話す人達が多過ぎて有名な役者を大勢出している割に大半の出演者が埋没して印象に残らない有様ですよ。初代ゴジラのBGMを劇中で使用しても音割れという有様でこういうところにも粗悪さが出ています。この映画ってゴジラ(とも呼べない使徒モドキ)に立ち向かうための法律とかをペラペラ喋ることだけに軸足置いていて他が全部雑なんですよね。使徒モドキ自体生物感のある描写に乏しくてハリボテを動かしているだけにしか見えませんし。為政者側に都合のいい描写ばかりに力入れてゴジラの設定を含む他の部分を全部雑にしているようではいくら自衛隊のご機嫌を損ねないようにおもねりながら撮影協力してもらっても意味ないですよ。最初から自衛隊の協力なんか拒否して自衛隊の武力行使が民間人を巻き添えにする等自衛隊、ひいては為政者ににとって不都合な現実を反映したほうがよっぽど現実味ある作品になります。

これゴジラファンに限ったことではなく日本人にありがちなことですが、空気を読むと称して自分の主張を押し殺して多数派になびくというのが酷過ぎるんですよ。ゴジラ映画を国策映画にされるわ、そのせいでゴジラは醜悪で脆弱な使徒モドキに改悪され、映画自体欠陥だらけの駄作とも呼べない何かになってしまったのに世間の絶賛の声に押されて「ふざけるな東宝!ふざけるな庵野!ふざけるな樋口!」さえ言えない人多過ぎます。それだけならまだしも批判している人達を嫌がらせして黙らせようとする輩、それを見て見ぬフリする輩まで出てくる始末です。そうやって批判の声を同じ日本人同士で抑圧し合った結果為政者の好き勝手を許して、本多猪四郎監督をはじめとする多くの方々の人生を狂わせる戦争が始まってしまったんですけどね。

ちなみに私は空気を読むというやつが昔から大嫌いだったので色々な人から叩かれてきましたが、そのお陰で世間的な固定観念に縛られないゴジラ観を確立できたともいえます。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて 殿様ギドラ (男性)

2017/02/01 (Wed) 18:24:39

どうも『シン・ゴジラ』を取り巻く状況を見ていると、
日本の未来に不安が募ります。

まさしく、私も、ゴジラ云々を外したとしてもあの映画はシナリオも演出も粗雑な作りの歴史的駄作だと思っています。

(官邸の様子だの会議の様子だのは細かく取材して本物そっくりにしたらしいし、そこには手間をかけたのでしょうが)

それなのに映画賞を取ったりする。
毎日映画コンクール大賞とな。
部門賞にも多数ノミネート。

どう考えてもおかしい。

金の力か、なんらかの圧力か??

きな臭いです。

この映画にノーと言えなければ、日本の未来は暗い。
さらに、ゴジラの未来も壊される。

もともとゴジラにはさほど興味が無くて、なにかのはずみで『シン・ゴジラ』を見てみたら、テレビでよくやるドキュメンタリードラマみたいで、怪獣映画というのは怪獣が大暴れするだけの「くだらない」映画だと思っていたのに、なんだ、まじめに行政の話をやってるじゃん、大人の鑑賞に堪えるじゃん、と騙された人ならともかく、
ぼくちゃんゴジラファンですと表明していてなおかつ、『シン・ゴジラ』サイコーなどと言ってる奴は信用できません。
ヒットしたから傑作なのか? 東宝さんと仲良しだからけなせないのか?

あんなもの、ゴジラでも何でもないです。
無名の怪獣としても、ヘドラの劣化焼き直しでしょう。

と、まあ、私も周りに流されるのは大嫌いなので、嫌なものは嫌、ダメなものはダメ、とはっきり言い続けて来ました。
その結果、いわゆる特撮ファンダムからはじき出されたようなものなんですけどね・・・。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/02/02 (Thu) 20:02:22

元々『シン・ゴジラ』もとい使徒モドキ映画は日本発世界的大ヒット映画になることを期待して東宝が製作したものの、結局アメリカではミレニアムの1/5以下、ギャレス版の1/100以下の興収しか得られていないなど肝心の海外で大コケだったというお話を以前にしたことがありますが、以下にURLを貼っておきます。

使徒モドキ/約190万ドル
参考:http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=shingodzilla.htm

ミレニアム/約1000万ドル
参考:http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=godzilla2000.htm

ギャレス版/約2億ドル
参考:http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=godzilla2012.htm

勿論興収だけでいい映画と判断することは出来ませんが、折角ギャレス版で世界的にゴジラ映画に対する関心が高まったはずなのにゴジラの本家であるはずの日本が世界の期待に応えられる作品を製作出来ていないことはこの数字が物語っています。実は使徒モドキ映画って当初は全米の映画館で上映される予定だったそうですが結局一部の地域の映画館で二週間程度の上映しか出来ませんでした。何があったか知りませんが全米上映計画が頓挫したのは確実です。

Twitterやっていると使徒モドキ映画の日本国内限定の大ヒットや多数の映画賞受賞やノミネートに狂喜乱舞するツイートが目立ちます。しかしどれだけ日本国内で映画賞を受賞しようが海外では大コケで百カ国上映計画が頓挫した現実は微動だにしません。「世界のGODZILLA」を自ら潰してしまったんですよ、東宝は。かつてアメリカ軍によるゴジラ退治物語を製作したハリウッドが今では国家権力主体のゴジラ退治物語を全面否定した作品を製作上映するようになったにも関わらず、性懲りも無く国家権力主体のゴジラ退治物語にしがみつき醜悪で脆弱な使徒モドキをゴジラだと言い張っているようでは・・・。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160913/Cyzo_201609_80_7.html
こちらの記事を読めばおわかりでしょうが制作費20億円程度のはずの使徒モドキ映画を東宝は興収80億円超えないと黒字にならないと認識しています。差額の60億円は一体何でしょうか?国策映画などを調べている辻田真佐憲氏が東宝から使徒モドキ映画を一切批判するなと厳しく言われたのは前にもお話ししましたが、60億円の使途不明金は批判の声を抑圧し世間を絶賛の声で埋め尽くすための裏工作(=不正、イカサマ)に使われているのではないかと疑いたくなりますよ。ヒット作=傑作であるかのような風潮が主流になってしまっている日本の現状を踏まえると反則技使ってでも製作側がヒット作に仕立てる事例があってもおかしくありません。日本アカデミー賞をはじめとする日本国内の映画賞もヒット作を追認し、箔付けするためだけに存在しているものが大半なのは殿様ギドラ氏もご存知かと。そういうことしているから日本映画がどんどん空洞化するんですけどね。ヒットさえすれば駄作でも傑作扱いされ、結果的に日本映画の水準を下げてしまいそれをまた日本国内の映画賞が追認するという駄サイクルが出来上がってしまってるんですよ。その結果、音響もCGも物語展開も役者の使い方もまるでなっていない使徒モドキ映画が日本国内で絶賛という異常事態になっているのは間違いないでしょう。

ギャレス版ゴジラが上映されていた時期に総選挙と称して日本のゴジラ映画でどれが一番いいかを決めるファン投票が実施されていたのをご存知でしょうか?私は単なるファン投票を投票しようがしまいが有権者全員に影響を与える選挙と混同しているセンスに呆れて投票しませんでしたが結局『VSビオランテ』が一位になりました。ご存知の通り結局ゴジラが日本政府主導の作戦で日本海に追い返されて終了という典型的なゴジラ退治物語です。上映当時は平成VSシリーズでもさほど興収が振るわなかった作品がファン投票で一位になるあたりゴジラファンの主流派はゴジラ退治物語が大好きといえるでしょう。『シン・ゴジラ』に好意的なゴジラファンが『VSビオランテ』を絶賛しているのを何度も見ました。本来のゴジラ映画の趣旨から完全に逸脱している作品、しかもそれは自衛隊広報映画であり「外敵」を迎え撃つ為政者の主張や行動に無批判であることが正しいと観る者に信じ込ませる国策映画同然になっている作品がここまで絶賛される現状には危機感しか感じません。勿論ですが駄作とも呼べない映画のどこが駄目かもわからず絶賛している人達が多いようでは悪政が行われていてもそれを認識出来ない人が多いということになりますのでゴジラファンだけの問題ではなく、日本の将来に関わる大問題なのは明白ですが。

ゴジラ観・・その行動 殿様ギドラ (男性)

2017/01/16 (Mon) 18:41:30

芹沢亀吉さんへのレス記事ですが、前スレッドが長くなってきたので別スレッドを立てました。

『ゴジラ』(1954)では詳細に説明はされていないのですが、山根博士の発言から察するに、
ゴジラはおそらく水爆実験において水爆の熱線にさらされていると考えられます。
(ゴジラが持つ放射性因子は水爆によるものだろう、という推察は死の灰を浴びていることを指すのではなく、中性子線によって体が放射化しているという意味だと受け止めています)

芹沢亀吉さんがおっしゃるとおり、私もゴジラが光を当てられて怒るのは、水爆実験を思い出すからだろうと考えています。
もちろんゴジラは水爆とはなにかとか、それが人間の仕業だなどとは知る由もありません。
それでも、強烈な光が住処を破壊し、それと同時にゴジラ自身に熱線や放射線が襲ってきたのですから、光を嫌うようになるのは当然です。
たとえ死ななかったとしても水爆の熱線・放射線はゴジラに苦しみを与えたはずです。

ただここで私が、待てよ、と思うのは、ゴジラの知力がどれぐらいなのか、ということ。
初代は殺されてしまいましたから、二代目ゴジラの描かれ方から推測するに、犬猫よりは頭が良いんじゃないか、ひょっとしたら文字を持たないから文化を持っていないだけで、
イルカや鯨並みでもおかしくないなと思っています。
となると、光で怒るのも初めのうちだけで、学習するうちに水爆の光とそれ以外の区別がつくようになってもおかしくないな、と思うのです。

第一作目にこだわるあまり、光さえ当てればいつでも激怒するゴジラ、という描き方が出てくるとしたらそれも違うんじゃないか、
ゴジラとはもっと高等な生物ではないか、と考えています。
(『ゴジラ2000ミレニアム』でカメラのフラッシュに反応するのは問題ないです。そりゃ、突然まぶしくなれば誰だってびっくりします)

『2000ミレニアム』に絡めてちょっとした思い出話・・・。
あれは1998年。
ハリウッドオオトカゲというか、トライスター版ゴジラというか、エメリッヒによる偽ゴジラ映画が公開されたころ。
私は公開前からアメリカの公式サイトで情報を仕入れつつ日本公開を待っていました。
当時はまだ映画館での座席指定は一般的ではなかったので、混雑が予想される休日を避け、わざわざ平日に休みを取ってエメリッヒゴジラを見に行ったのでした。

結果、怒髪天をつく大激怒。
事前情報では、映画ライターなんかが「けっこうおもしろい」とかなんとか言っていたので余計に頭に来ました。
で、ハリウッドゴジラの情報・評判はないのかとwebサーチしたら、なんと、知らなかった、東宝がハリウッド版ゴジラのBBSを運営しているのを見つけたのです。
(いまでは考えられませんね。映画のオフィシャルサイトに検閲なしのBBSがあったのですから)
そこでゴジラファンのみなさんと意見交換し、話が進むうちゴジラ映画を作るとしたらどうすればいいかという話にまで発展していきました。

そのBBSで出された意見がある程度『ゴジラ2000ミレニアム』には反映されていたと考えられます。
たとえば、ゴジラが放射能を持っているなら、ゴジラに近づいた電子機器はガンマ線の影響で異常を起こすんじゃないか、とか。

そんな話し合いの中、ゴジラの行動にどんな動機付けが必要だろう、という話も出ました。
都市を襲うなら、なぜ襲うのかに動機が必要ではないのか、と。
そして出てきたのが、人間の文明を憎んでいる、というのはどうだ、というアイディア。
この発想が実際の作品では、人間が作り出すエネルギーを憎んでいるという設定に繋がったのではないかと思われます。

ただこれはあまり良くない設定だなぁ、と思いました。
まず、人間が作り出すエネルギーとはなんぞや、です。
焼き芋を作ろうとして焚き火をやるのもそれに当たるでしょうか。
そして、ゴジラがどうやって人間が作り出すエネルギーを感知するのでしょう。
そこに目をつぶっても、こんな設定があると、ゴジラは常に人間に敵対することになってしまい、どうも平成ギャオスと似たものになってしまいます。
これでは生物ゴジラの自由度が下がってしまう。

私は大反省しました。
ゴジラが人間の文明を憎んでいるというのはどうだ、と書いたのは私です。

私は文明すべてという意味ではなくて、都市文明と書いたように記憶しておりまして、それはゴジラが上陸してきたときに自然の景色とは違うビル群など人工物を見れば嫌な気分になるんじゃないか、
という発想でした。
それから、劇中ではっきりとその設定を表明するのではなく、裏設定として製作側が認識していればいいんじゃないかと思っていたのですが、そのようにはっきりと書いたかどうかは定かじゃないです。
そんなアイディアが浮かんだのは、
『モスラ対ゴジラ』で、干拓地から出現したゴジラが工業地帯を歩いていたとき、とくに攻撃されたわけでもないのに大きめの建物に熱線を吐くシーンがあったからでした。
ゴジラはどうして苛ついたのだろう、と考えた結果だったのです。

今現在では、ゴジラの感情はその瞬間ごとに動機付けが必要ではあるけれど、ゴジラには格別な目的意識などは設定しなくていいんじゃないかと考えています。
動物として自然に見えればそれでいいじゃないか、と。

野良猫が縄張りを見回るとき、おそらくその都度なんらかの目的はあるのでしょうが、それは人間の価値観とは違う目的でしょうし、我々の目からはっきりと理由が見えなくても仕方のないことで、
ゴジラの行動も人間に予測できるものである必要はないと考えています。

私の好きなゴジラの行動のひとつに、『キングコング対ゴジラ』での富士山登山があります。
なぜゴジラは富士山に登ったのでしょう。わからなくていい。
そんなゴジラが好きです。

ただただ、芹沢亀吉さんと同様に、ゴジラがなんの理由もなく狙ったように都市部に現れてぶっ壊し始めるのは絶対に違う、と思っています。
そのとき、ゴジラの感情はどうなっているのですか?
暴れる理由は??
そこには筋を通さないと。

そして、『シン・ゴジラ』。
変態(劇中で「進化」などと言いますが、個体が変容するのは進化ではなく変態です。おたまじゃくしがカエルに進化するんですか?)した挙げ句、体温が高いんだかなんだか、
海に入り直すのは噴飯ものですが、まあ、目的不明のまま上陸するのはよしとしましょう。
(いや、それでも繰り返し東京を目指すのは不自然きわまりない。本物のゴジラにはそんな行動はない。初代ゴジラが東京に二回上陸しているのは、芹沢亀吉さんの分析が正しいでしょう。
二度とも先に人間がゴジラに対してアクションを起こしている)
私が大きく問題視するのは、多摩川で自衛隊にバンバン撃たれながらも反撃しないこと。
痛くも痒くもないのならそのまま前進すれば良いものを進行方向は変える。
まったく不自然。
その後、米軍の爆弾でケガをするのですから、あの自衛隊の攻撃だってまるっきり平気なはずはない。
それなのに、怒りもしないし反撃もしない。
なんだあれは?
あれもマキゴロウ博士がなにかを仕組んだという裏設定でもあるのか?
怪獣にも心があるはずだという怪獣演出の基本中の基本がおろそかになっている。

Re: ゴジラ観・・その行動 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/16 (Mon) 22:45:09

こんばんは。私への返信のためにわざわざ新しいスレッド立てて頂いて痛み入ります。

エメリッヒ版の公式サイトにBBSがあって公式サイトのBBSがあったんですか。その当時私はまだ小学生でロクにパソコンの使い方もわからなかったんで知りませんでした。ミレニアムのゴジラが体を近づけることで篠田の車に積んである機器が火花散らす場面はゴジラの放射能の影響を可視化していて私も高く評価しているのですが、BBSで出された意見が元ネタの可能性もあるわけですか。お陰で私のお気に入りのゴジラ映画が出来たのですからありがたい話です。ちんごじら、使徒モドキ映画を批判する人達への執拗な嫌がらせに批判声明も出さずに放置するTwitterのゴジラ公式アカウントとは大違いですよ

ちなみに私がミレニアムを高く評価する理由の一つは主人公の篠田(民間人)がゴジラを武力や権力で打倒しようとする片桐(権力者)のやり方に真っ向から反対し、初代ゴジラの山根博士同様にゴジラの生命の謎を追う人物として描いていることです。地震計や放射能探知計等を駆使してゴジラの行動をいち早く把握し被害を最小限に抑えるというゴジラ予知ネットの活動は、力によるゴジラ打倒のみを目的とするVSシリーズの特殊戦略作戦室やGフォースとは違い人類にはゴジラと敵対し戦う以外の道があることを明示しています。

しかしメガギラス以降の日本のゴジラ映画がミレニアムで示した武力による打倒以外のゴジラへの対応策を捨ててGグラスパー、防衛軍、特生自衛隊、地球防衛軍、巨災対(笑)とゴジラ打倒を絶対視する国家権力側の組織を軸にした作品ばかりになってしまったのは周知の事実です。メガギラス以降の日本のゴジラ映画にはゴジラを力で打倒することに反対しゴジラの生命の謎を追うことを主張する主要人物がいません。ミレニアムを最後に東宝は山根博士の要素をゴジラ映画から排除してゴジラを人類と敵対し力で倒すべき存在として扱うようになったわけです。『ゴジラ FINAL WARS』の終盤でミニラと一緒に帰るゴジラを見ながら主人公の尾崎が「始まったんだ、新たな戦いが」と言っているのはゴジラを戦って倒すべき存在とみなしているからですよ。GMKに至ってはゴジラを倒すことに反対する人達を面白半分でゴジラに同情し結局全員ゴジラに殺される愚かな若者達として描く始末です。劇中の伊佐山教授も武器ではゴジラは倒せないから護国三聖獣を目覚めさせてゴジラを倒せと言っているわけですし。もっとも日本のゴジラ映画が捨てた山根博士の要素をハリウッドが拾うとは思いませんでしたが。ギャレス版ゴジラに登場する芹沢博士はゴジラへの武力行使に断固反対し、ゴジラの生命の謎を追うという初代ゴジラの山根博士を継承する登場人物になっています。

私はゴジラの行動原理を推察することに力を入れる方なんですが、『キングコング対ゴジラ』での富士山登山みたいな一見何でもない行動も興味を持っていたりはします。人間の尺度や価値観では測れないゴジラの生き物らしさを表現している場面ですので。ちなみに『モスラ対ゴジラ』でゴジラが工業地帯で攻撃されたわけでもないのに太い熱線吐く場面は丁度四日市ぜんそくなど工場の煙による大気汚染が社会問題になっていた時期だけにゴジラも汚れた空気で不快感を感じたと解釈しています。干拓地から出てきて初めて吸った空気が汚染されていて不快なものだったら怒っても無理はありません。

でもってあの使徒モドキですが、自衛隊の武装ヘリや戦車からいっせいに攻撃されて突っ立ってたと思いきや進行方向変えたので全く効いていないわけではないですし随分と自衛隊にはお優しいのだなと呆れました。初代ゴジラは戦車や戦闘機に攻撃されたら反撃していましたし、ミレニアム版ゴジラも自衛隊の先制攻撃に怒って放射熱線吐く寸前だったのでもしあの時点で岩塊の乱入が無ければ放射熱線で自衛隊を壊滅させていたのは確実ですし、人類に無関心っぽいギャレス版ゴジラでも金門橋から戦車で砲撃された時は金門橋ぶっ壊して子ども達が乗るバスを何台か巻き添えにして戦車隊壊滅させているんですけどね。

その後使徒モドキは米軍の爆撃で大量出血する脆さを露呈し、上に向いてビームを吐くこともせず背中からビーム乱射とロボットアニメの猿真似みたいな攻撃して自分でエネルギー切れの原因作ってるんですから間抜けと言わざるを得ません。終盤のヤシオリ作戦でもちょっと線路から離れるだけでいいのにそうした知性も無いのには呆れましたよ。「電車ぶつけられるだけでやられる雑魚とか言うけどヤシオリ作戦で使われた火薬は凄いんだぞ!」と力説している方もいますが、それが本当なら凄まじい爆発で線路が壊れて後続の電車が突っ込めなくなります。つまり線路にはほとんど影響の無い程度のショボイ爆発で使徒モドキは重傷を負いよろけていたんですよ。対ゴジラ用に開発された貫通弾頭フルメタルミサイルも頑丈な表皮で砕くことで貫通させずその時の傷もオルガナイザーG1の治癒力で数時間で完治させる高い生命力を誇り、ケーブルで縛られても特にもがきもせずに熱線を吐く時の熱を利用して焼き切って操り主であるUFOへの攻撃に繋げ、ゴジラになろうとするオルガの貪欲さを利用してわざと飲み込まれ爆殺する作戦を立てて実行する知性を持ったミレニアム版ゴジラに思い入れのある私が脆くて愚かな使徒モドキに心底呆れたのはここに書くまでもないでしょう。

Re: ゴジラ観・・その行動 殿様ギドラ (男性)

2017/01/18 (Wed) 18:45:51

芹沢亀吉さま

ちょっと一点。
ギャレスゴジラのゴールデンゲートブリッジでの行動について・・。
たしかに橋をぶっ壊して前進していますから、そこにいた戦車は破壊されたと見て間違いないかと思います。
しかし、スクールバスが巻き込まれたという明確な映像はなくて、少なくとも主人公の子供が乗ったバスとあと何台かは無傷で橋を渡っていますし、
ギャレスゴジラも戦車隊に攻撃することはなく、
ただ通り過ぎた結果、橋が壊れたという表現になっています。
私が感じるこのシーンの問題点は、ギャレスゴジラ浮上に驚いた海軍が狙いも定めず射撃開始(これは人間の間抜けさを伝えていて良い)、
そのミサイルが橋の索を破壊、さらにスクールバスにまで当たりそうになったところギャレスゴジラの背びれが遮ってくれて子供たちは助かる、という流れです。
もちろん、ゴジラがあからさまに子供を死なせるようなストーリーにしてはいけません。
けれども、劇中の主要人物(主人公の子供)を助けたような流れを作るのは感心しない。
さらに、あれほど軍艦から砲弾やミサイルを浴びせられながら、艦船に対する反撃もない。
このシーンこそ、劇中で最初に熱線を吐くべきシーンではなかったか、と思うのです。
『ゴジラ』(1954)での高圧電流鉄塔のシーンに準ずる場面になり得たはずなのに。

ギャレスゴジラはなぜか人間に直接危害を加えることを避けているように見えるのです。
(橋を突き抜けて歩いて行ったとき、そこに止まっていた車両を破壊しているのはわかりますが、その行動は大ロングで見せるだけで破壊の詳細を描写していない)
たとえ怪獣であっても主役は人間に悪さはしないもの、という思い込みが自然な怪獣描写を妨げていたのでは??
余談になっちゃいましたが、『GODZILLAゴジラ』への私の不満の一端でした。

とはいえ、今回確認のために橋のシーンだけ見直しましたが、怪獣の動きや映像構成、音響などなど『シン・ゴジラ』よりは格段によく出来ているんだなぁ。

で、本筋。
1998年当時の東宝公式ゴジラBBS、管理人さんが出てきて対話の交通整理をするようなことはなくて、参加者の自主性に任されていました。
そういう意味では、現在のゴジラTwitterと同じようなものかもしれません。
しかしあの頃はインターネット黎明期で、おそらくパソコン通信から流れてきた人も多かったんじゃないかと推察しています。
ですから、現在のツイッター的な軽薄短小な物言いや炎上だったりという行為はなかったように思います。
そりゃもちろん、諍いが起こることもありましたがBBSが荒れ果てることもなかったですねぇ。
というのは最初のうちだけで、だんだん荒い物言いや暴言が増えていって、東宝サイドはBBSをリニューアルしたり雰囲気を変えようと努力していましたが収拾がつかなくなって閉鎖しました。
ネット倫理は未だ確立せずですから、20年近く昔ではしょうがないというべきでしょうか。
あのころは、ゴジラファンの意見を吸い上げる方法としてネットの活用を真剣に考えていたようです。
『ゴジラ2000ミレニアム』公開後に、プロデューサーがネットチャットでゴジラファンと語り合うという企画まであったのです。
批判意見も積極的に受け入れようという姿勢がありました。

ところが今はどうでしょう・・・。
(まあ、ファンたちの多くがもはや批判をしなくなったのも問題。ゴジラと名付けられていればなんでも褒めるのが正しいとでも思っているのか?)

さてさて、私も長年主張してきたのですが、
ゴジラ映画のストーリーはゴジラ退治ではいけない、ということ。
こう書くと、ゴジラに理解の浅い人は「人間に害をなす怪獣が登場するのに、なぜ退治してはいけないのだ?」と反発するでしょう。
当然、劇中世界ではゴジラ退治に努力する人々がいることになります。けれども、それをストーリーの主軸にしてはいけないのです。
ゴジラがストーリー上担う役割はなんでしょう。
極論として原水爆の象徴ということにしてみましょうか。
だとすれば、ストーリーの主軸はゴジラによる被害を丁寧に描写して、核兵器の恐ろしさを伝えることに置くべきで、ゴジラがいかに倒されるかはメインにはならない。
そこを間違えて、ゴジラ退治の方法を事細かに追求するお話にするならば、核兵器そのものではないゴジラの弱点をあれこれ考察するストーリーとなり、反核メッセージなど消し飛んでしまう。
(『シン・ゴジラ』の後半部はそんな感じとも言えるが、あの映画にはそもそも核兵器批判の意思が希薄である)
核兵器そのものを登場させて、いかにすれば廃絶できるかと考察するなら反核メッセージになりますが、ゴジラは核兵器ではない。
『ゴジラ』(1954)のオキシジェンデストロイヤーはメインではないのか、という反論が予想されますが、オキシジェンデストロイヤーは作品全体の大テーマを背負うものではあるけれど、
ゴジラ退治のために開発された物ではありません。
オキシジェンデストロイヤー開発物語なんか描かれていないのです。
『ゴジラ』(1954)はゴジラ退治の物語ではないのです。

結末はゴジラが殺されて一巻の終わり、ですが、ゴジラが殺されることでストーリーが終結していますか?
水爆実験の影響で現れたゴジラ。人類が持つどんな武器でも殺せない怪獣。
そんなゴジラさえ殺すことが出来るオキシジェンデストロイヤー(ゴジラ対策チームが開発したものではなく、孤高・世捨て人の天才科学者が「偶然」発見したものです)を将来的に地球人類は見いだすかもしれない、
そのとき、何が起こりますか?という問題提起が主軸のストーリーです。
科学技術の倫理を問うのが『ゴジラ』(1954)のメインテーマです。
エンディングでは「核実験が続けて行われるならば、またゴジラの同類が現れるかもしれない」と締めますが、私には、まずは核実験を止めよ、というメッセージに聞こえます。
核実験のみを問題にしているのではないと感じるからです。
ゴジラが殺されても物語は終わっていないのです。

そしてゴジラは原水爆の象徴というだけではありませんから、人類には未だ解明し切れていない大自然の謎としてのゴジラであるならなおさらゴジラ退治の物語にしてはいけないことがわかるでしょう。

ところがところが、芹沢亀吉さんのご指摘の通り、1984年以後、ゴジラ退治映画が頻出します。
それでもVSシリーズには『vsメカゴジラ』や『vsデストロイア』などまだストーリーの主軸がゴジラ退治ではないものが散見されました。
(『vsスペースゴジラ』をどう見るか?ストーリーはゴジラ退治を目指してはいなかったけれど、ゴジラ退治に血道を上げる人物がメインでは・・・)
これが、『×メガギラス』以降はこれでもかというほどゴジラ退治ストーリーばかり。
『東京SOS』など、初代ゴジラの意識がゴジラをやっつけるという発狂ぶり。

なぜこんなことが起こったのか。
ひとつは1980年代の間違ったゴジラ論が原因でしょう。
曰く「ゴジラは悪役だからかっこいい」「『モスラ対ゴジラ』が最高傑作」・・・・。
どうでしょう?
年配のゴジラファンなら、自分もそんな風に考えていたという方が多いのでは?

これは間違った考え方です。
ゴジラシリーズの原典たる本多・円谷コンビ作で、ゴジラが倒されて終わるものは何本ありますか?
明確にゴジラが負けて終わるのは『ゴジラ』と『モスラ対ゴジラ』だけでしょう?
(『ゴジラの逆襲』は本多猪四郎作品ではありません)
ここに小田基義・福田純作品を加えたとしても、ゴジラの負け率はさらに下がるだけです。
ゴジラ人気はやられ役だったからではない!

悪役主役ってなんとなくクールじゃん、程度の発想なのか。
あるいは『モスラ対ゴジラ』のおもしろさを、ゴジラが負けるからだと勘違いした結果なのか?

そして『シン・ゴジラ』も怪獣をやられ役に仕立て上げている・・・。

『モスラ対ゴジラ』の工業地帯でのゴジラ、空気の悪さにイラっとした、というのは思いつかなかった!
うーむ、それもあり得ますねぇ。煙突から煙も出てましたからねぇ。素晴らしい解釈です。

Re: ゴジラ観・・その行動 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/19 (Thu) 19:01:19

殿様ギドラ様、こんばんは。

ギャレス版のゴジラがゴールデンゲートブリッジを壊す場面では橋の裂け目に飲み込まれる直前のイエローバスが映っています。わかりにくいので赤い丸で該当箇所を囲みました。落ちる場面はありませんが、直後の場面で橋の壊れた部分がやや下向きに曲がっていることを踏まえると海に落ちたと考えるのが妥当です。このゴジラにイエローバスの子ども達を助ける意志があったならその直後に橋を壊す巻き添えにしたりしません。つまりゴジラが体起こしてミサイルから子ども達を庇ったように見える場面は、たまたま体を起こしたゴジラにイエローバスに当たるはずだったミサイルが当たっただけなんですよ。数十回の核爆発の直撃に耐えたこのゴジラからすればアメリカ軍のミサイルや砲撃など反撃する価値もなかったのでしょうが、確かにここで反撃してもよかったですね。主人公の息子が助かったのはゴジラのお陰ではなく、バスの運転手のおっちゃんが奮闘したお陰なんですよ。一歩遅ければゴジラに橋もろとも潰されていました。

ギャレス版への言及はこれくらいにして本題に入りますが、確かにゴジラは原水爆の象徴だけではなくいまだに人類が完全には解き明かせていない大自然の謎そのものでもありますね。初代ゴジラの山根博士やミレニアムの篠田の主張もまさにそれです。もうお気づきでしょうが、私もゴジラ映画の要旨は単なるゴジラ退治物語であってはならないと考えていますよ。だから単なるゴジラ退治物語に堕している作品への評価は低いです。1984年版ゴジラは初代ゴジラへの原点回帰が主題らしいですが、その割には向こうから一方的に東京に攻めてきたゴジラを日本政府主導で退治する物語になっていて、日本政府の先制攻撃がゴジラを怒らせ東京炎上を招き、日本政府の武力ではどうにもならなかったゴジラを無名の天才科学者、芹沢博士が偶然作ってしまった薬品で倒す初代ゴジラとは全く別の物語になっています。ゴジラには渡り鳥同様の帰巣本能があり超音波で三原山に誘導すれば倒せるという展開は殿様ギドラ氏が仰るゴジラ退治の方法を事細かに追求する物語そのものでしょう。『VSビオランテ』や『VSキングギドラ』もどうすればゴジラを退治できるかだけを追及したゴジラ退治物語です。前者は平成ガメラみたいに自衛隊の仮想戦記になっていて、後者はターミネーターやバックトゥザフューチャーなどハリウッドの人気映画の設定をつまみ食いして設定破綻起こしているのも私にとっては低評価の要因ですよ。

その点『VSメカゴジラ』はゴジラの第二の脳発見からGクラッシャー作戦に至る部分は単なるゴジラ退治物語ですが、最終的には23世紀の技術を継承した国連製のメカゴジラさえ打倒するゴジラの破壊力を見せる展開になっていますし、ベビーゴジラを巡る種族愛も物語の軸になっていますので結構評価していたりはします。『VSデストロイア』は初めて映画館で観た時はゴジラがメルトダウン起こして死ぬ場面で泣いた記憶ありますが、そういう思い出話は別にしてもゴジラ退治に執念燃やす人物を主要人物にしてゴジラ退治物語からスペースゴジラ退治物語になっている『VSスペースゴジラ』とは違い単なるゴジラ退治物語から脱却したのは評価するべきでしょう。

まあ『VSスペースゴジラ』もゴジラを人類が制御できる存在ではないことを強調した点は評価していますよ。ゴジラが残留思念、つまり人の意思で操れる存在であることを肯定したGMKよりはずっといいです。機龍二部作に至っては初代ゴジラの骨を日本政府が制御してゴジラを叩きのめす話ですからね。一応初代ゴジラの意識が蘇って暴走する場面もありますが、『×メカゴジラ』では塩基の入れ替え以降は暴走もせずゴジラに深手を負わせて退却に追い込むという有様で完全に初代ゴジラの骨がゴジラ退治の道具として「有効活用」されていますし、『東京SOS』ではゴジラに深手を負わせて戦意喪失させるまで初代ゴジラの意識が蘇ることはなく、蘇ってからも初代ゴジラの復讐心で東京を破壊するわけでもなくゴジラを連れて日本海溝に飛び込むといった具合で結局ゴジラを日本国内から排除することに初代ゴジラが貢献する始末ですよ。『モスラ対ゴジラ』はインファント島を核実験場にされたことで文明人を憎む原住民や小美人を必死で説得する酒井らの誠実さがモスラを動かし、ゴジラとの戦いの最中に命尽きた成虫の意志を継いだ双子の幼虫が圧倒的に不利なゴジラに戦いを挑んで見事に勝利する過程を描いたのが面白いはずなんですが、『東京SOS』で双子のモスラ幼虫の糸でぐるぐる巻きにされるゴジラという『モスラ対ゴジラ』の二番煎じをやりつつゴジラをやられ役にしていることを踏まえると手塚昌明監督はゴジラはやられ役、悪役でいいと考えているのは確実でしょう。勿論GMKも去年の使徒モドキ映画もゴジラはやられ役、悪役でいいと考えている人間が製作したことは本編観ればわかります。

本来ゴジラは自分で勝手に怒ったり一方的に日本に攻めてくる存在ではないはずなんですが、「ゴジラは悪役だからかっこいい」という間違った解釈が1980年代あたりからされるようになって以来意味も無く日本を攻めてくる存在とみなす人が増えてしまいました。ファンが勝手にそう解釈しているだけならまだいいんですが、東宝がゴジラ退治物語の製作上映に力を入れることでその解釈にお墨付きを与えてしまったんですよ。ゴジラの弱点や倒す方法の追究ばかりに力を入れたゴジラ退治物語になっている映画にはゴジラが原水爆の象徴であることや人類の理解を超えている大自然の謎を体現していることへの言及がおろそかで、ゴジラの怒りを買う人類、特に為政者の愚かさやゴジラを倒しうる力を為政者が持つことがどれだけ危険なことかという部分への言及もありません。ただただゴジラを叩きのめすことを製作側や観客が楽しみ、ゴジラを倒す力を日本が持つことへの自惚れがあるだけです。

Re: ゴジラ観・・その行動 殿様ギドラ (男性)

2017/01/20 (Fri) 18:02:27

しまったー、お手数かけてしまいました。
まったく汗顔の至りです。
ギャレスゴジラが橋を歩き抜けていくところにスクールバスもちゃんといたんですね。
子供たちが巻き込まれていることをことさら強調するべきではないので、映画の視点をそこに持っていかなかったのは正解と思います。
劇中の事象として、ギャレス監督はゴジラの二面性に気を配っていたことはわかるのです。
ムートーと戦うことで人間の役には立った、けれどもゴジラが行動することは破壊ももたらす、と。
私が問題視するのは、演出としてゴジラによる破壊をきちんと見せる場面が少なすぎるということ。
スクールバスに当たりそうになったミサイルを防いだのが偶然だというのはわかりますが、ならば同時に橋とその上にいた車両・戦車をぶっ壊していく様にも視点を寄せていけばいいのにと思うのです。
橋を壊し始めたところでカメラはどんと引いてしまう・・。
それが惜しい。
(『GODZILLAゴジラ』についてあれこれ書いたとき、その怪獣観は高く評価していました。ただ、設定もデザインも気質も違うのでゴジラではないよね、と)

申し訳ないです、別作品の話でひっかかっちゃって。

芹沢亀吉さんのようにゴジラ退治物語にノーと言って下さる若い世代(と言われると失礼でしょうか)がもっと増えてくれればいいのに、と切望します。

もう84ゴジラからでも30年以上の時が過ぎ、私が虜になった本多・円谷ゴジラ作品の方が少数派となってしまいました。
さらにはこの30年来のゴジラ映画はゴジラ退治ストーリーが主流。
となると多くの人にとって、ゴジラ映画とはいかにしてゴジラを倒すかを描く映画なのでしょう。

けれどもそれは原典の精神とは違う。

ゴジラを殺すことばかり考えるから、バリエーションを増やすために違うゴジラを登場させるのかもしれない。
ゴジラが同じなら殺し方も同じになってしまうから。

不思議でしょうがないのは、ゴジラファンと言いながら、ゴジラをいじめる映画を見て楽しんでいる人たちがいること。

『怪獣大戦争』でX星にゴジラとラドンを置き去りにする富士とグレンの感想は間違っているとでもいうのか。

(vsシリーズでは『vsメカゴジラ』が一番好き!)

Re: ゴジラ観・・その行動 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/21 (Sat) 00:46:15

いえいえ、お気になさらないで下さい。先程の画像は以前ギャレス版ゴジラと平成ガメラシリーズのガメラが似ているみたいなこと言ってた人にそれは違うというツッコミのために使ったものに赤丸で印をつけたんですよ。photoshop使えばすぐ出来ますので。あのガメラは自分を傷つけてでも子ども庇ってたけどこのゴジラは平気で子ども達が乗るバスもろともゴールデンゲートブリッジぶっ壊す奴だぞ、第一古代人の作った人工物である平成ガメラシリーズのガメラと人類どころか恐竜が地上に出現する前から生きているこのゴジラは成り立ちが全然違うみたいなことを言いました。まあ自衛隊や日本政府による抑圧や加害を一切描かない平成ガメラシリーズと、日本政府や秘密組織モナーク、そしてアメリカ軍が不当逮捕や拉致監禁、そして武力行使の巻き添えという形でフォード親子やバスで避難する子ども達を抑圧し生命の危機に晒しつつ肝心のゴジラやムートーには手も足も出ない有様を描いたギャレス版ゴジラを一緒にされてはたまらないという思いもあったわけですが。

前にもお話しましたが私は小学生時代に映画館でミレニアム観ました。つまり84ゴジラが公開された後に生まれたのが私です。小学生の頃から歴史に関心があって戦争とかも結構調べていた関係で国家や軍隊は平気で民間人を見捨てるし巻き添えにすると知っていたせいか、ミレニアムを観た時に自衛隊の戦闘機の爆風がイオに襲いかかる場面や片桐が篠田を巻き添えにする爆破作戦を強行し現場の自衛官も篠田を見捨てて撤収する展開に強い現実味を感じました。そして巻き添えという形でイオを生命の危機に晒した自衛隊の攻撃を何度受けても倒れもせず徐々に怒りを露わにするゴジラに畏敬の念のようなものを感じたんですよ。自衛隊が先制攻撃仕掛けてゴジラの怒りを買い放射熱線で壊滅させられる寸前だったのは明白なのに、岩塊さえ来なければゴジラを倒せていたと勘違いしている高田第1師団長には呆れました。勿論篠田を命の危機に晒した片桐主導の爆破作戦が全く通用しなかったUFOを一瞬で爆発炎上させるゴジラの破壊力にも驚かされましたが。

初代ゴジラを初めてビデオで観たのはその後ですが、ゴジラに先制攻撃仕掛けて怒りを買う日本政府や防衛隊の愚かさや、爆雷を受けようが機関銃で銃撃されようが高圧電流流されようが戦車や戦闘機に攻撃されようが出血さえせず途方も無い力で反撃するゴジラの生命力と破壊力が印象的で、絶対にオキシジェンデストロイヤーを為政者の手に渡してはいけないという芹沢博士の信念にも共感しましたよ。今の時点でも民間人に被害を与える強権や武力を行使できる立場にある為政者にこんなもの渡したらどれだけ危険かよくわかるからです。ところが超音波発生装置でゴジラを三原山の火口に誘導する作戦を日本政府に提案した林田のように1984年以降のゴジラ映画に登場する学者はゴジラ退治を絶対視する日本政府の方針を追認し補佐する人物として描かれる事例が目立つんですよ。山根博士や芹沢博士のようにゴジラ退治に凝り固まる日本政府に同調しない学者よりも日本政府主体のゴジラ退治に協力する事実上の御用学者の方がゴジラ退治物語を作る上では都合がいいからです。その点ゴジラ打倒に執念を燃やす日本政府高官である片桐のやり方を真っ向から批判し、純粋にゴジラの生命の謎を追うミレニアムの主人公篠田はゴジラ退治物語に登場する御用学者とは完全に一線を画しています。

何度でも言いますが、民間人を巻き添えにする為政者、国家権力の強権や武力は怪獣同然です。だから私は国家権力が主体となりゴジラ退治に全力を注ぐことを礼賛する作品には違和感や反発しか感じません。お前らも怪獣同然の存在の癖にゴジラ退治でヒーローぶるなといったところでしょうか。国家から理不尽な攻撃を受けても一切屈しないゴジラに強く共感するからこそゴジラをいじめることを主軸にした映画やそれを見て楽しんでいる連中には怒りさえ感じます。そういう連中はゴジラが好きなんじゃなくてゴジラという自分達とは異質な存在が叩きのめされることに快感を覚えているだけですよ。エメリッヒ大イグアナ映画や使徒モドキ映画観ていて頭に来たのも多分それがあると思います。どちらもゴジラと呼ぶに値する存在は一切登場しませんがそれは映画観た後だから言えることであって当初はゴジラ映画として観ましたので。私もVSシリーズでは『VSメカゴジラ』を高く評価していますがそれは23世紀のオーバーテクノロジーを用いた国連製のメカゴジラに追い詰められるものの見事に逆転勝利するゴジラに強く共感しているのが大きいでしょう。

もうお気づきでしょうが、私のゴジラ観では国家権力という怪獣同然の存在からの攻撃に一切屈さない存在という観点が重きを占めています。勿論それは放射線耐性を持ち現行兵器が一切通用しない存在、人類の理解を超えている大自然の力を体現した存在という観点にも直結しています。そんなゴジラを国家権力が退治することを手放しで礼賛する物語は真っ平御免ですよ。『モスラ対ゴジラ』では結局ゴジラは敗れますがあれは国家権力がゴジラを退治したのではなく力関係では圧倒的に不利な二匹のモスラ幼虫の勇気と知恵の勝利です。ゴジラシリーズの原典である本多・円谷コンビの作品には自衛隊や防衛隊等の国家権力側の組織によるゴジラ退治を肯定的に捉えた描写も、ゴジラが国家権力に敗北する展開も一切ありません。『怪獣大戦争』に登場するX星人の描き方は社会の構成員の生活を細かいところまで管理、造反者は即座に処刑と独裁体制を確立させた国家権力そのものですが、一度はゴジラの制御に成功はしたものの長くは続かず最後は破滅しています。

Re: ゴジラ観・・その行動 殿様ギドラ (男性)

2017/01/23 (Mon) 18:16:15

芹沢亀吉さん、なんと申し上げたらよいのでしょう。
大変うれしいです。

日本社会全般もさることながら、特撮作品のストーリー傾向も権力者や為政者への批判的視点が薄れていて、
何が正義か、という真実を見極めようとする姿勢が失われつつある現在、
ゴジラファンたる芹沢亀吉さんは社会の実相を見極めようとなさっていて、ゴジラ観も世間的な固定観念から脱却して作品そのものから読み解こうとなさっている。

そうです。
私も同じ思いです。
ゴジラの魅力は、単純化すれば「負けない」こと。

これが表面的な理解だと、他の怪獣には負けない=怪獣王、という解釈になってしまっているようです。
そうではない。

一番重要なのは、人間には負けない、ということです。

かつて、ゴジラが軋轢を引き起こすのは、対個人ではなく、対社会であるという話を書いたことがあります。
(たぶん、東宝公式ゴジラBBS)
都市のない自然の野山に人間とゴジラが共存していたとしても、ゴジラが人間を食料として狙わない限り戦う必要は無いのではないか。
人間にとってゴジラが邪魔になるのは、物質文明の発達によって人間が、ゴジラにとって邪魔な物をたくさん作り出してしまったからではないのか。
(という表現はいま初めて書きました)

ゴジラが社会と対立するということは、為政者にとって邪魔になるということです。
為政者(悪い言い方をすれば社会を動かすのが好きな人々)とは社会が無ければ存在し得ない者。

さて、我々人間は社会的動物などと言われます。
社会を作って一人一人の生活を安全に安定させる技を見いだした動物です。

でも、犯罪の抑制や富の分配などは個人の自由を制限するものでもあり、社会というものは必要だけれど息苦しいものでもあります。

そこに為政者(政治家)という人種が生まれ、社会を動かすことに生き甲斐を見いだす人々が出てきて、
社会のためだ国のためだと人々を右に左に操ろうとしているのがこの世の中。
(こういう書き方をすると無政府主義者みたいに思われそうですね。私はそこまで過激では無くて、政治とはグレーなものだと思っています。
世のため人のため、と、為政者のわがままが混在しているのが現実でしょう)

権力者でもない限り、人間誰しも心のどこかに社会不信や破壊願望を持っているのではないでしょうか?

それを映画の中で発散してくれるのがゴジラではないでしょうか?

国家だの軍隊だのには絶対負けない存在というのがゴジラの魅力だったはず!

子供たちが怪獣に強くひかれたのは、まさにそこです。
巨大であることや異形であることも重点でしょう。
けれども、子供こそ人間として未発達であるがゆえに、教育という抑圧を受けている存在です。
(教育をすることが悪いのではなく、必要だとしても子供にとってはストレスである、ということ)
そんな子供たちにとって、自分たちを制限している大人(社会)が怪獣によって大混乱している様は気持ちいいに違いない。
(いや、私がそうだった)

だから大映のガメラは子供の味方という気質を積極的に取り入れたのです。
大人にとっては脅威でも子供にとっては友達。
怪獣が持っていた一面を拡大させたのがガメラです。(そうでなければガメラではない)

話を戻して、
ゴジラ映画において「大人たち」がゴジラ対策をあれこれやるのはいい。
けれどもそのストーリーは、ゴジラが勝つものでなければなりません。

そして、ゴジラ無敵説を詳述すれば、対怪獣では必ずしも無敵ではないのがゴジラ。
実際の作品を観察すれば、東宝キングコング、ラドンとは互角。
キングギドラよりはちょっと弱い。
モスラ成虫が完調なら多分勝てない。
モスラ幼虫が二匹がかりだと負けちゃうこともあるよ、という程度でしょう。

それが平成シリーズからはゴジラのみを絶対的に強い存在としてしまって、(例外はモスラか)ほかの怪獣のスター性を薄め、
さらにはそんな強者ゴジラに人間が挑むストーリーにシフトしてしまった。
そしてゴジラはどんどん負け始める。
(『vsビオランテ』ではゴジラは二回負けている。超能力少女のテレパシーで意志を曲げられたのもゴジラの負け。抗核エネルギーバクテリアかなにかで倒れてしまったのも負けだ)

『シン・ゴジラ』に至っては怪獣はさほど強くもないし、科学的に極めていい加減なボンクラ作戦で固められてしまう。
そんな映画の何がおもしろい?

ゴジラ観 殿様ギドラ (男性)

2017/01/10 (Tue) 18:43:11

新年一発目には怪獣観の話を書こうと思いましたが、
怪獣一般となるとTV怪獣まで含むことになり、それはそれで考えるべき課題ではありますが、
話題が拡散してしまう危険があるのでここはやはりゴジラ限定とします。

というのも『シン・ゴジラ』に登場した架空の生物もただ怪獣という枠組みにおいては不正行為というほどのものではないからです。
(ヤツの数々の問題点のうち、科学考証のいい加減さを除けばゴジラと名乗ったことが致命的な不正である)

個々人のゴジラ観にブレがあるのは仕方の無いことです。
どの作品で最初にゴジラを刷り込まれたか、あるいはもともとその人が持っていた志向に影響されることもあるでしょう。

それでも、これまで存在しなかったゴジラを勝手に思い描くのはゴジラ観ではなく、すでにあるゴジラに対する不満の表明であり、
こうだったらいいな、という願望でしょう。

さて、私は同じ名前で違うものを繰り出してくるのには反対です。
言語における「名称」を機能不全にするからです。
と、難しい言い方をするまでもなく、同じ名前の別人がいたら困るでしょ、ということ。
(以前も書きましたね)

となると、ゴジラ観を考えるとき、考慮すべきは初代ゴジラと二代目ゴジラだけで十分となります。
この二匹は同じ世界に存在し、それぞれ劇中で別個体として認識されているのです。
(ならばゴジラというのは固有名詞ではなく、種族名だろうということになりますが、種族名だとしても1984年以降のゴジラたちが
初代・二代目と同一種族とは思えない。生物としての設定が違う。ま、判然としないものもいますが)

ゴジラは、水爆実験で住処を荒らされ、さまようことになった生き物。
体に放射能を帯びても生きながらえることが出来る放射線耐性を持ち、弾丸や大砲・ミサイルにも傷つくことがない不死身の体。
身長は50メートルが基本。それより大きくなる可能性を否定はしない。
体重は劇中で明らかにされないので不明。
姿形は、作品によって変化があるのでこれが正解、とは言い難いけれど、二代目ゴジラが『キングコング対ゴジラ』で大きく変貌したものの、
次の『モスラ対ゴジラ』でより初代に近いデザインに戻ったので、やはり初代か『モスラ対ゴジラ』あたりの形が基本であろう。
それから重要な気質としては、感情のある生き物であるということ。
直情型ではあろうけれど、決して好戦的ではない。(『ゴジラの逆襲』でのアンギラスとの対比、また『キングコング対ゴジラ』でも立ち去るキングコングに追い打ちはかけていない、など)

ざっくり書けばこんなところが私のゴジラ観。

みなさまのゴジラ観もお聞きしたいところです。

Re: ゴジラ観 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/11 (Wed) 20:11:11

ちょっと遅いですが、あけましておめでとうございます。

私のゴジラ観は端的に言えば龍の一種です。普段は水中に潜み一度暴れだすと人類の手には負えない存在になるという点がよく似ていますし、龍もゴジラの複数の生物の要素を併せ持つ存在だというのも見逃せません。そして龍は怒らせはしない限り凶暴な存在じゃないんですよ。逆鱗に触れるという言葉は普段は穏やかな龍でも触ってはいけない鱗がありそれに触れると龍は激怒し触れたものを殺すまで暴れるという意味ですので。殿様ギドラ氏には以前お話したように初代ゴジラも本州から遠く離れた大戸島にいたところを防衛隊が先制攻撃仕掛けたから怒って東京湾まで追いかけてきたわけですので自発的に暴れているわけではないというのも龍の気質と同じです。

そうなると大戸島を滅茶苦茶にしたのは何だったのかということになりますが、海底に眠っていたところを水爆実験で無理矢理覚醒させられたという展開を踏まえると自分が眠る前とあまりにも環境が変わり過ぎていたのでどこに何があるかもわからず彷徨うのは至って自然です。私達が野山を歩いて無意識のうちに虫を踏み潰したり蜘蛛の巣を破ったりするのと同じ感覚でゴジラも大戸島を破壊したと解釈するのが妥当でしょう。決して破壊を楽しんでいるわけではないんですよ。

そういえば大戸島の人達がゴジラの怒りを鎮めるための神楽舞を舞う場面が初代ゴジラでありましたよね。となると製作側もゴジラを海神、水神として扱う意図があったのは確実でしょう。そして龍も水神です。

放射能耐性、現行兵器が一切通用しない頑丈な体は勿論ですが、龍が逆鱗に触れない限りは怒らないのと同じように人類が光やエネルギーを濫用したり攻撃を加えたりしない限りは決して怒らないのがゴジラの気質と断定してよろしいかと。勿論逆鱗に触れた者を龍が決して許さないようにゴジラも一度怒らせればどこまでも追いかけてくる執念深さを持つ存在であることは間違いないですが。

Re: ゴジラ観 殿様ギドラ (男性)

2017/01/12 (Thu) 19:12:18

芹沢亀吉様、本年もよろしくお願いいたします。

大戸島でのゴジラは、食料を捜していたのだと考えています。
嵐の夜で視界も悪く、ただ歩いただけで家屋を壊してしまった、と。
家畜が行方不明になったと村長さんが国会で陳情していますので、その家畜はゴジラが食べたということでしょう。
そして、大戸島でのゴジラは熱線を吐いていません。
火災が起こっていないことから明らかであり、また、その後八幡山から顔を出したときも、人間たちをのぞき込むだけで敵意を見せることはありません。
一部の人々が主張するような、ゴジラは人間を憎んでいただの破壊の権化だのという意見には根拠がないと考えています。

私も芹沢亀吉さんと同様に、ゴジラは攻撃されない限り暴れたりしないものだと考えています。
(ただし、攻撃されればちゃんと怒って暴れてほしい。それが、ちんごじらには無かった。ビーム乱射なんて、脊髄反射みたいなものだった)

Re: ゴジラ観 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/14 (Sat) 22:25:38

ご返信ありがとうございます。

なるほど、大戸島で食糧を探していたという見解にも肯けますね。ちなみに初代ゴジラではゴジラが東京に来る場面で山根博士が「ゴジラに光を当ててはいけません。ますます怒るばかりです。」と言っていますのでゴジラには光を嫌う性質があるのでしょう。よく考えたら強烈な光を放つ水爆で自分の故郷を荒らされたのであれば光自体を憎悪するようになるのは当然かと。防衛隊のフリゲート艦隊による爆雷攻撃でゴジラの怒りを買って東京まで呼び寄せてしまった直後の場面での台詞であることを踏まえると、爆雷攻撃で光を当てたことを踏まえて言っている可能性もありますが、いずれにせよ光を当てることがゴジラを怒らせることになるのは確実です。

ちなみに私が高く評価しているミレニアムでも最初ゴジラは根室に上陸しますが人間を狙うことも無くただ歩いているだけです。車でトンネルを抜けた篠田一行がゴジラに鉢合わせした時も一ノ瀬記者がカメラのフラッシュで照らすまでは咆哮もしていません。フラッシュで照らされて怒るゴジラというのは先程言及した山根博士の台詞を意識したものなのは確実です。劇中では陸自の第1師団長、高田が「これまでの経験からG(=ゴジラ)は攻撃されると必ずその相手に向かって来る」と言っていますので、初代や二代目同様攻撃されると怒るゴジラであることがわかります。外見は違えど性格面はこうしたゴジラを強く意識しているといえるでしょう。実際に東海村で自衛隊を指揮してゴジラに先制攻撃を加えた片桐CCI局長は劇中終盤で東京まで追いかけてきたゴジラに叩き潰され初代と同様に東京は火の海になっています。

ところが次のゴジラ×メガギラスでは劇中冒頭で初代ゴジラの防衛隊が先制攻撃しかけた展開が無かったことにされ、一方的にゴジラが東京を襲撃したことにされてしまいました。このゴジラはミレニアムと同様に人間の作ったエネルギーを憎むとされ原発やプラズマ発電所を襲撃してはいますが、1954年当時の東京にゴジラが狙うような発電所は皆無ですので冒頭の東京襲撃だけがつじつまの合わないことになっているんですよ。そしてその次が原点回帰詐欺でおなじみのGMKです。メガギラスの冒頭場面と同じようにゴジラの方からいきなり焼津港を襲撃し、逃げる人達に向かって自分から放射熱線を吐くなどただの破壊の権化にされてしまいました。ミレニアムの冒頭の根室上陸では発電所が狙いで人間の作ったエネルギーを憎んでいることがはっきり明かされていますが、GMKでは正体不明の老人伊佐山教授による太平洋戦争の犠牲者の魂の集合体という何ともオカルト的な理由が明かされてはいるものの、結局対ゴジラ兵器でもないD03削岩弾で致命傷を負っているのではっきり言って眉唾物です。ゴジラを意味も無く暴れる破壊の権化とみなす人が増えたのはGMKの影響が大きいでしょう。しかしそれは初代ゴジラを改変し一方的にゴジラが東京を襲ったことにしたゴジラ×メガギラス、あるいは米軍が先制攻撃したわけでもないのに一方的にアメリカを襲撃したあのエメリッヒ大イグアナの流れにあるもので、ゴジラが怒る理由をちゃんと描いている初代や二代目とは別物であることはもうおわかりでしょう。

そしてちんごじら、使徒モドキですがあれも理由も無く珍妙な姿で東京に上陸して暴れているんですよね。しかも急に変異して体から出る湯気が増えたら慌てて海に帰り、今度もまた向こうから由比ガ浜に上陸ととことん意味不明です。ミレニアムのように人間の作ったエネルギーを憎むなどの理由もありません。ゴジラを意味も無く暴れる破壊の権化だとみなす一種の偏見が暴走したと言わざるを得ませんね。日本側が先に攻撃を仕掛けたことで怒り、東京まで追いかけてくるという初代ゴジラとは似ても似つかない行動原理です。

あけましておめでとうございます 殿様ギドラ (男性)

2017/01/03 (Tue) 18:45:19

みなさま、明けましておめでとうございます。

ゴジラ祭りはまだ続けます。
私の新年始動はもうちょっと先ということでひとつ・・。

(アニメのゴジラはやだな)

Re: あけましておめでとうございます - エクセルシオール (男性)

2017/01/04 (Wed) 20:49:53

 あけましておめでとうございます。昨年は『シン・ゴジラ』で良くも悪くも盛り上がった年になりましたが、今年はどうなりますかね。

 アニメ版ゴジラについては今のところほぼ背景画面だけの公式サイトしかないので何とも言えません。しかし、その絵から推定するとこれまた「ゴジラ」と名がついているだけの妙な作品にならないか、今から心配になってきます。

 ただ、ゴジラはともかく今年は12年ぶりにキングコングが復活します。この映画については今のところ相応の期待をしてもよいと思います(ゴジラほど道を踏み外すことはないでしょう)。


Re: あけましておめでとうございます 殿様ギドラ (男性)

2017/01/06 (Fri) 19:27:59

どうもです。
そうそう、コングの新作がありましたね。
こうなると、ハリウッドのほうがよほど怪獣らしい怪獣を作ってくれんじゃないかと期待してしまいますね。

本多ゴジラの原点のこと - 海軍大臣 (?)

2016/12/24 (Sat) 15:36:48

大変、ご無沙汰です。
相変わらず、シンゴジラで出版界なんかは騒がしいようですね。
芹沢亀吉様のご意見、非常に興味深く拝見させていただきました。
ここまで日本特撮界の怪獣観が絶望的に劣悪なのは、作り手側のベースになっている民俗学的なセンスに根差しているのではないかと思ってしまいます。
実は以前に仄聞したことなのですが、本多猪四郎監督が生まれ育った山形県のご実家、注連寺の天井には、本多監督の御爺様の筆による、巨大な四神獣の絵が描かれているとのことなのです。
御子息の言葉では、これが猪四郎少年にとって人生で最初に目にした怪獣に当たるのだろうとのことでしたから、もし監督ご本人がご存命ならば、幼少時にその絵から受けた印象が後の特撮作品に関わるに際して、どのような影響をご自身に与えたのか、是非お聞きしてみたかったなと思っております。
ゲゼルシャフトだとかゲマインシャフトだとか、そんな難しい言葉を社会学で教わりましたが、人間の心の根っこにくるようなものが無くなって久しい現在の民俗的な基盤で育ってしまうと、怪獣観もああまで変わってしまう(作り手のみならず、受け手の側も)ものなのかと、ため息しきりの昨今なのです。

Re: 本多ゴジラの原点のこと 殿様ギドラ (男性)

2016/12/25 (Sun) 18:45:37

お久しぶりです。
よく来て下さいました。本当にありがたいです。

怪獣観の問題は深刻ですね。
欧米の怪物とは違う精神性を持つのが日本の怪獣だったはずなのに、近年は欧米のモンスターとさほど変わらない日本産の怪獣が増えています。
それは外見だけでなく内実も含めてのことで、その嚆矢は平成ギャオスでしょうか。(あ、ビオランテのほうが早いですね)

怪獣観に関しては、ギャレス版ゴジラとムートーのほうがよほど日本的だったと思いました。
(大きな特徴として、広い意味での人間起源ではないことと人間に殺されることがないこと)

私は、大自然への畏怖と尊重が集約したものが怪獣であるべきだと思っています。(もちろん例外はあるのですが、ゴジラ限定で考えれば、必須条件である)

その感覚は、怪獣映画から学んだことなので、どの時代に生まれたとしても怪獣映画を素直に正面から受け止めていれば、大きく間違えることはないはずだと考えるのは楽観的すぎるのでしょうか・・・。
(事実、怪獣ファンだと公言する監督たちが文明・人間の従属物のような怪獣を仕立て上げてしまう現状がある・・・)

怪獣観の問題も掘り下げなければなりませんね。

追伸、今年の夏、注連寺へお参りに行ってきました。
残念ながら天井画は取り替えられてしまったらしく、四神獣ではなかったようです。

Re: 本多ゴジラの原点のこと - 海軍大臣 (?)

2016/12/26 (Mon) 12:55:41

えっ、天井絵は取り換えられてしまったのですか?
実は三年前にこのエピソードを聞き(その時は未だ絵は残っているようにお聞きしていました)、本当ならば見に行っていた筈だったのですが、親が体調を崩したため、それっきりにしてしまっていたのです。
もっと早くに行っていればと後悔しきりです。

Re: 本多ゴジラの原点のこと 殿様ギドラ (男性)

2016/12/26 (Mon) 18:13:56

注連寺の天井画は昭和初期に描かれた天女(見る角度によって輝く)、
平成元年に描かれた二頭の馬(見る位置によって親子に見えたり夫婦に見えたりする)、もっとあとに描かれたポップアートのものがありました。

記憶をたぐると、ポップアート(天井を細かく格子状に区切ってひとつひとつの中にさまざまなタッチの肖像画などが描かれている)はかなり最近描かれたものだという解説を聞いた覚えがあるので、ひょっとするともともとはここに四神獣があったのかもしれません・・・。
撮影禁止だったので、資料は注連寺のチラシしか残っていないのです。私も四神獣を見たかったなぁ。見逃したってことはないと思うんですが。

Re: 本多ゴジラの原点のこと 殿様ギドラ (男性)

2016/12/26 (Mon) 18:20:30

あ、龍はいたかもしれません。

Re: 本多ゴジラの原点のこと - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/12/26 (Mon) 20:04:35

海軍大臣さん、殿様ギドラさんこんばんは。山形の注連寺というのはこちら(http://www2.plala.or.jp/sansuirijuku/)でしょうか?鉄門海上人の即身仏で有名な寺で小学生時代から仏像や寺院に関心あった私もいつか行きたい寺の一つなんですが関西在住なので東北は遠いです(>_<)。ちなみに私龍はお気に入りでTwitterのプロフィール画像にもしています。ゴジラとも仏教とも関連性があるのが大きいでしょう。

それで怪獣の「モンスター」化なんですが、ビオランテや平成ギャオスあたりが端緒というのは私も同意します。どちらも人工物という設定なんですよね。そういえば使徒モドキ映画を絶賛している人の間でゴジラVSビオランテや平成ガメラ三部作がかなり人気のようですがやはり同じ系列ということなのでしょう。使徒モドキ映画の樋口真嗣監督は平成ガメラ三部作の特撮監督でもありますし。正直私はゴジラVSビオランテも平成ガメラ三部作も評価していませんが。

ギャレス版ゴジラやムートーは人類が生まれるもっと前から存在していた生物という設定ですし前者は数十回の核攻撃に耐えた規格外の耐久を持ち後者は半径320km圏内を停電させる電磁パルスで最新兵器が全く通用せず、核兵器の行使も住民の安全の確保どころか成長と繁殖のお膳立てというオチだったので確かに人間に殺される存在ではありませんね。

そういえばあのゴジラとも呼べない使徒モドキ、殿様ギドラさんの表現を借りればちんごじらはマキ博士が作ったかのようなほのめかしがあったようですが本当にまき博士が作ったのであれば人工物ということになりますね。まあそのあたりは庵野秀明作品でおなじみの無駄な深読みを煽る意味の無い描写に過ぎないのであまり追及したくはありませんが。いずれにせよ核兵器使わずともバンカーバスターという現行兵器で大量出血し、電車爆弾というちょっと対象が線路から離れるだけで頓挫する欠陥作戦でやられる使徒モドキに大自然への畏怖も尊重も全くないのは確実です。ゴジラ(とも呼べない使徒モドキ)も日本には勝てないという製作側の思い上がりがあるだけです。あれ?1998年にゴジラ(とも呼べない大イグアナ)もアメリカには勝てないという製作側の思い上がりが全面に出たハリウッド映画が上映されたような気が・・・。

Re: 本多ゴジラの原点のこと 殿様ギドラ (男性)

2016/12/27 (Tue) 18:25:19

芹沢亀吉さん、どうもです。

そうそう、その注連寺です。
周辺に町もない、自然に囲まれたお寺です。
本多猪四郎監督が生まれた七五三掛(しめかけ)集落は近年の地滑りで消滅してしまったというのが残念至極・・。

『シン・ゴジラ』への追い込み、まだやらなきゃいけないところなんですが、年末のごたごたで、今年の書き込みもこれが最後になるかもしれません。
年明けにはまたがんばります。

使徒モドキ映画の駄目なところをしつこく言い続けます - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/12/21 (Wed) 21:53:39

こんばんは。ゴジラに感化された者として許すまじきことがあった年がもうすぐ終わりを迎えようとしています。

Twitter上でもゴジラとも呼べない使徒モドキを礼賛する声が大きく、先日の博多の道路沈没事故も使徒モドキ映画のネタと絡めて茶化している輩が出てそんなツイートが大注目されました(参考:https://togetter.com/li/1046227)。またナンパした女性に酒を飲ませて泥酔させ、わいせつ行為をすることをヤシオリ作戦に例える輩まで出る始末です(参考:http://archive.is/3tftO)。使徒モドキ映画を妄信している輩は下手すれば人が死んでいた事故をネタとして消費したり婦女暴行の正当化のためヤシオリ作戦と言い張るなどどこまでも腐っていますよ。こうしたおぞましい風潮をTwitterの公式アカウント(https://twitter.com/godzilla_jp)が野放しにしているどころか煽っているツイートまでしているのが最低です。

そうしたおぞましい風潮に抗うためTwitter上で使徒モドキ映画の酷評を続けているとこんなところもおかしいと指摘してくれる声が寄せられるので紹介したいと思います。

一つ目は関東地方だけ助かったら他の地方は壊れてもいいみたいなことを登場人物が言っているのに他の登場人物が誰も批判しないのに違和感を感じたという声です。今までのゴジラ映画でそういう地方切り捨てを肯定する台詞はなかったですよね。いくら日本が東京一極集中の国だといっても地方を切り捨てることを映画で肯定してはいけません。というより使徒モドキ映画を過剰に礼賛している方には東京在住の人以外も大勢いるようですがその人達は自分の故郷を切り捨てる発言に何も感じないのでしょうか。感じないのであればそれはカルトに洗脳された信者と大差ありません。

二つ目は劇中で新幹線に爆弾積んで使徒モドキにぶつける場面で激怒したという声です。ご存知かもしれませんが新幹線開発には戦時中兵器開発に関わった人達が大勢関与していて、兵器開発に関わりたくないから鉄道部門へ来たと証言している人もいます。新幹線を爆弾積んで兵器にするという発想はそうした人達の思いを冒涜するので許せないのはごもっともと言う他ありません。

Twitter上でそういう声を聞いているとやはりこの使徒モドキ映画は許してはいけないという思いがますます強まりました。ちなみに「ギャレス版ゴジラは最後の核爆発の場面が甘い。」と言っていた友人にアメリカ西海岸一体に死の灰が降る恐れがあることを告げるニュースという未公開場面を収録したBlu-ray版の特典映像で見せたら「ハリウッドのゴジラ映画が死の灰が降るニュース映像の場面も撮影しているのにゴジラの本家のはずの日本は半減期二十日かよ!」と唖然とした表情で言っていました。ちなみにギャレス版ゴジラのBlu-rayに収録された未公開場面はドキュメンタリー形式になっていてフィリピン炭鉱の被爆した作業員の姿も確認できます。ギャレス監督自身2005年に広島原爆資料館を訪問し被爆者の方にも取材して『HIROSHIMA』というドキュメンタリーを製作された方なのでこういう形にしたのでしょう。最後は初代ゴジラの山根博士の台詞を髣髴とさせる解説で締めています。

Re: 使徒モドキ映画の駄目なところをしつこく言い続けます 殿様ギドラ (男性)

2016/12/23 (Fri) 18:40:25

ふぅ。
『シン・ゴジラ』に絡めてそんな愚劣なさえずりをする人間もいるんですね。
まあ、ネットの民とはそんなものですが・・。
(発言の場をネットにしか持たない私もネットの民か)

地方切り捨ての場面、細かいことは忘れてしまいましたが、なんか、官邸に集まっている報道関係者が「国を守るのは大変なんだなー」とか言うシーンに連動していたように覚えています。
結局、あの映画、ちんごじは東京周辺にしか姿を見せず、日本を守る話ではなく、東京を守る話なんですよね。
『ゴジラ』(54)も主に東京で話が展開しますが、最初にゴジラが姿を現すのは大戸島。
その後のシリーズ作でもゴジラは動き回る存在として描かれていきます。
これもゴジラを描くときには大事な要素で、怪獣の影響力の大きさを感覚的に表現しているのに・・・。
(おそらく『シン・ゴジラ』の作り手はそこに気がついていない)

ギャジラ(ギャレスゴジラの私の呼び方)との比較は、まあ、そのひとまず置いといて・・(あの作品の私の評価は2014年当時のログをご参照のこと。貶してます)
誰かが言ってた『シン・ゴジラ』が原発事故のアナロジーである説は、まったくもって噴飯ものです。
ちんごじが出す放射性物質の半減期が20日という甘々設定が醸し出すのは、原発事故もなんとかなるさという根拠のない楽観であり、原発推進派への協力姿勢としか見えません。

こんなものが第一作目の精神を引き継いでいるわけがない!

Re: 使徒モドキ映画の駄目なところをしつこく言い続けます - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/12/23 (Fri) 21:38:34

ご返信ありがとうございます。ギャレス版ゴジラへの評価が大きく異なる殿様ギドラ氏と私で『シン・ゴジラ』に関してはこんなのゴジラじゃないという見解で一致していることを言いたかったんですが、どうも私の書き方が曖昧だったようですね。失礼しました。

それで初代ゴジラなんですが、本州から遠く離れた大戸島近辺の海域にいたゴジラに防衛隊が爆雷攻撃を仕掛けた直後の場面で東京湾に姿を現し、今度は東京湾にいるゴジラに機銃攻撃したらその直後に東京上陸と日本側の武力行使がゴジラの怒りを買い東京壊滅のお膳立てをする展開になっています。だから山根博士はゴジラに光を当てればますます怒らせると猛反対したわけです。一方『シン・ゴジラ』こと使徒モドキ映画では日本側の武力行使が全くないのに向こうから東京に上陸しています。そういえば原点回帰詐欺で知られるゴジラモスラキングギドラ大怪獣総攻撃(通称GMK)も一方的にゴジラの方から日本を攻めてくる展開でした。あくまで日本は何もしていないのに勝手に蹂躙される被害者という描き方です。ゴジラを呼び寄せる武力行使の愚かさを描いた第一作目の精神はどこにもありません。

そしてもう一つ、ゴジラを倒す鍵を握る人物の描写にも大きな隔たりがあります。初代ゴジラの芹沢博士はオキシジェンデストロイヤーの秘密を守るため設計図を全て処分した上でゴジラとの心中を決行し自らの口を封じました。そこまでしたのは為政者がオキシジェンデストロイヤーを手に入れて兵器利用することを阻止するためです。設計図を焼きながら「これだけは絶対に悪魔に渡してはいけない設計図だ。」と言った芹沢博士ですが、この「悪魔」が為政者を指すことは私が言うまでも無いでしょう。一方使徒モドキ映画の方はマキゴロウ氏が芹沢博士の立ち位置のようですが、使徒モドキを倒す手がかりを残した上で入水自殺し矢口達巨災対のメンバーの大きな助けになるという展開でまるで自らの命を捨てて巨災対のメンバー(=為政者)の助けになるという人柱や特攻を美化したような描き方です。そこには為政者、国家権力に強大な力を与えるのは多くの人々を犠牲にする怪獣を生み出すのと同じくらい危険なことだという第一作目の精神は皆無です。

長くなりましたが使徒モドキ映画は第一作目の精神を引き継ぐどころか為政者側に都合のいいように改変しているのは確実です。これじゃ戦時中の国策映画と本質的な部分は何も変わりませんよ。最低です。

Re: 使徒モドキ映画の駄目なところをしつこく言い続けます 殿様ギドラ (男性)

2016/12/25 (Sun) 18:19:39

すいません、こちらこそ曖昧な書き方をしてしまったようです。
ROMの人のことも意識してしまい、単に芹沢亀吉さんのご意見に賛意を表明してしまうと、
口さがないネットの民に「なんだよ、殿様ギドラはギャレス版が気に入らなかったんじゃないのかよ」と揚げ足を取られそうな気がして予防線を張ったのでした。
相手を限定して書かなかったのが失敗失敗・・。

初代ゴジラの行動に関する分析には、私もまったく同意します。
初代ゴジラについて、訳知り顔の人々はやれ破壊者だの殺戮者だのと言いますが、作品をちゃんと見れば、ゴジラは決して好戦的ではなく、初めに攻撃しているのは人間側なんです。

そのあたりを誤解したまま、原点回帰だなどと勘違いしてゴジラを襲ってくるだけの破壊マシーンのように描く偽ゴジラ映画、そしてそんなものを喜ぶエセゴジラファンにはまったくうんざりします。

それから芹沢博士とオキシジェンデストロイヤーについても『シン・ゴジラ』との比較で言いたいことは私にもあります。
これは整理しておかなければならないことで、芹沢亀吉さんのご意見から書くべきことを思い出しました。
多分長くなるので、それはまた別の機会に。

『シン・ゴジラ』についての批評本が相次いで出版されています。 - エクセルシオール (男性)

2016/12/13 (Tue) 21:53:35

 『シン・ゴジラ』についてのまとまった批評を掲載した本が出版されていたので、紹介いたします。一つは河出書房新社の『「シン・ゴジラ」をどう観るか』、もう一つは青土社の芸術雑誌ユリイカの増刊号『「シン・ゴジラ」とはなにか』です。どちらも多数の論者が様々な観点から『シン・ゴジラ」を分析しています。
 河出書房新社も青土社も基本的に真面目な本を出版している会社であり、『シン・ゴジラ』への向き合い方はそこいらの適当なムック本とは雲泥の差だと思います。ただ、映画自体を作品として評価するものであるかはわかりません(視野が広い分、映画の評価としては的外れになっているものもあろう)。
 実は恥ずかしながら本屋で一部を立ち読みしただけなのですが、全般的にはやはり好意的評価が多いようです。ただ、中には厳しい批判説もありました(例えば、『「シン・ゴジラ」をどう観るか』の川村湊さんの評価は明確に否定的だった)。買うか図書館に行くかはともかく、一読する価値はあると思います。

 一方、前回紹介したように初めて批判説を掲載した『キネマ旬報』ですが、12月下旬号はまた元に戻ってしまいました。『シン・ゴジラ』のアメリカでの評価を掲載したコラムがあったのですが、曰く「上映館はあまり増えなかったが、評価は高かった」というものです。そこはまあおいておくとして、「おいおい」と思ったのは、『シン・ゴジラ』に対して「ゴジラ映画らしくない」という感想を述べた人を非難したマニア(無論、『シン・ゴジラ』支持者)の声をもって、世界中のゴジラファンの感想を代弁するものとして挙げていること。どうやらこの映画に否定的な私は「ゴジラファンではない」ことになるらしい・・・。ファンだって色々。勝手に一つにまとめられては困りますね。

Re: 『シン・ゴジラ』についての批評本が相次いで出版されています。 殿様ギドラ (男性)

2016/12/14 (Wed) 19:07:37

「『シン・ゴジラ』をどう観るか」のほうは私も少しだけ立ち読みしました。
おっしゃるとおり、さまざまな観点から内容を分析しているようでしたが、ざっとめくった限りでは、それぞれの専門分野に絡めて作品の裏を探るようなものに見えました。
記憶が曖昧なので執筆者名は伏せますが、某学者さんの章だけは全文読んでみましたが、わりと否定的な内容であるにも関わらず、映画作品としての出来についてはまるで浅い鑑賞しか出来ておらず、なんとも白けました。

昔の私なら、こんな本でも買って読んだのでしょうけれど、『シン・ゴジラ』に関しては、
“ヒットしたから名作”、言い換えれば“金になったから名作”とでも言いたそうな空気が見えていて、もう劇場鑑賞のためにお金を払ったのだから、『シン・ゴジラ』のためにこれ以上金を使うわけにいかない、という姿勢で臨みました。
(読むなら図書館で借りるのかな・・)

なんというか、やたらと「シンゴジ」本が出ているのは◯◯◯ンゲリオンと同じですね。
映画作品としての構造がむちゃくちゃなんだから、それを論じようとしたら論者の妄想で埋めていかなくてはなりません。
妄想喚起商売ですかね・・・。

それにしても、「シンゴジ」に否定的な人はゴジラファンではない、という妄想もあるんですか。
こりゃびっくりです。

ゴジラファンというのはゴジラが好きな人ですよね?
ではそのゴジラファンは何を観てゴジラ好きになったのか。
すでにある“ゴジラ”を好きなのではないでしょうか。
ちんごじらほど改変されまくったら、ゴジラと認めるのは難しいというほうがまともでしょう。

テレビのちょっとしたトークにも『シン・ゴジラ』の話が出てくることがありますが、そこに出てくる怪獣のことを大方は、シンゴジラと呼んでいます。
格別なマニアではなくても、無意識的にあれはゴジラではなくシンゴジラという新怪獣であると認識しているのではありますまいか。

特撮系ジャーナリズムによる世論操作もおかしなことになっています。
「特撮秘宝Vol.5」の読者による感想大会(ネットで募集したらしい)には肯定意見しか載っていない。
これはひどい。
どういう基準で選択したのか知らないが、肯定的な意見が大多数だったから全部肯定意見にしたのか?
(唯一、肯定なのか否定なのか判然としない短文感想があったけれど)
とすれば、多数決の暴力ですよ。
少数意見も採り上げなければ感想集にはなりません。
多数派が正しいとは限らないのですよ?

こんな出版物があることで、同調圧力に弱い日本人は多数派に流れる。
日本の理性は消えてなくなる・・・。

Re: 『シン・ゴジラ』についての批評本が相次いで出版されています。 - エクセルシオール (男性)

2016/12/18 (Sun) 12:06:02

 『特撮秘宝Vol5』の読者感想大会には私も目を通しました。仰る通り賛否不明の一つを除けば肯定的意見ばかりでした。全く否定的意見がなかったとは考えにくく、これは編集部の方で排除したものと考えざるを得ません(おかげでアンケートの信用性を疑われる結果になっている)。普通はいくら肯定説が圧倒的多数でも、「公平らしさ」を保つため少し(1割くらい)は反対説に紙面を割くものだと思っていたのですが。

 従来から、この種のサブカル専門誌は作品や業界に対する批判的視点が乏しいのが通例でした(アニメ雑誌が好例である)。また、批判すれば資料の使用を拒否され雑誌を作れなくなるという恐怖がメディアを不当に縛っている現状があります。とはいえ、読者投稿からすら異論を排斥するというのは流石に珍しい。ここまでくると単に腰が抜けているを通り越して、もはや自分たちが「縛られている」という自覚すらなく、積極的に礼賛一辺倒の状況を作り出しているのではと思えてきます。

 今や『シン・ゴジラ』に関する世の風潮は単なる「『シン・ゴジラ』は傑作である」から「『シン・ゴジラ』こそ現代のゴジラの正しい姿であり、それを受け入れられない者は時代遅れの愚か者である」になりつつあるのではないでしょうか。これまでの正統的なゴジラとかけ離れたものが「新たな正統」ということになるとすれば、これは恐ろしいことです。
 この不安はけして杞憂とは言えません。正道から大きく外れた作風が固定化してしまったらもう戻れなくなり、その逸脱した状態が新たに「正統なもの」として定着してしまうことがあるからです。日本の特撮ヒーローの代表作の一つ、仮面ライダーシリーズが良い例です。いわゆる平成シリーズに入ってからクリエイターが暴走して好き勝手に訳の分からない話を連発(「勧善懲悪」も「子どもが観るもの」という原則も半ば放棄した)。しかも特撮雑誌は無批判で一部のマニアが熱狂したため、現在では「もう「仮面ライダー」でなくてもいいのでは?」という状況になってしまいました(内容に関しては一時期よりかなりましなった感もあるが、ライダーの造形はひどくなる一方)。

 ゆえに『シン・ゴジラ』の歪みを是正する時間はそう多くありません。残念ながら現状は歪みの固定化に向けて動いているというほかなく、焦燥感がこみ上げてきます。
 それでも、「あれはゴジラではない」と言い続けることが肝要でしょう。それをやめると正統的なゴジラが復活する可能性すらなくなってしまうからです。
  
 

Re: 『シン・ゴジラ』についての批評本が相次いで出版されています。 殿様ギドラ (男性)

2016/12/19 (Mon) 18:35:25

『シン・ゴジラ』のことを考えると、童話「はだかの王様」を思い出します。

みなそれぞれ、賢くみられたいのか、王様を怒らせたくないのか、本質とは違う何かに慮って、王様は素晴らしい衣服を身につけている、と褒め称える。

私には明白に駄作に見える『シン・ゴジラ』(これは単にゴジラを別物に変えられたという怒りのみに発するものではなく、劇映画としてのクオリティが低いからである)。
それがなぜか傑作と言われる。

私の感覚が古いのではない。

論理的に駄作であることを指摘できるのだから新しいとか古いとかの問題ではない。
(まあ、筋の通らない映画でも頭脳の解像度を低くして楽しむのが現代流というのなら、確かに私は古いのかもしれないが)

逆に『シン・ゴジラ』を傑作だとする主張には感覚的なものしかなく、曰く「リアル」だの「一作目の精神を引き継いでいる」だのというお題目を述べるだけで、その根拠は薄弱である。

とくに、「一作目の精神」とはなんだ?
まず、それを説明していただきたいものだ。
『シン・ゴジラ』のどこに同じものがある?

と、エクセルシオールさんへのレスで息巻いても仕方ないのかもしれません。

焦燥感。

私も同じです。

映画全体の出来云々を外しても、とにかく、あれはゴジラではない、ということをどうやって伝えればいいのか。

1+1=2を理解できない、しようとしない人々に何を言えばいいのか・・・。
(まだ諦めはしません。なにか考えます)

あれはゴジラじゃない、使途モドキだ! - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/11/14 (Mon) 20:49:50

ご無沙汰です。どうも『シン・ゴジラ』の劇中に出てくるアレをゴジラと呼ぶことに違和感を感じ続けていた私ですが、あの映画を持ち上げている人達が「エヴァンゲリオン」と絡めていることを踏まえ、使徒モドキと呼ぶことにしました。エメリッヒ版同様に題名がゴジラなのにゴジラと呼ぶに値する存在が全く登場しない作品をゴジラを生み出した東宝が直々に作ったんだから凄いですよ(棒読み)。

報告が遅れてしまいましたが私が使徒モドキ映画を観たのは上映初日、つまり7月29日です。正直核兵器を使わずとも現行兵器で大量出血する場面や、線路からちょっと離れればいいものの線路から動かずに爆弾積んだ電車をぶつけられてブザマによろける場面ではスクリーンに靴を投げつけたい衝動を抑えるのが大変でしたよ。上映終了時に私の隣にいた小さな男の子が「このゴジラ気持ち悪いしやられ方が物凄くかっこ悪い。こんな映画のどこがいいの?」と言っていたのでその通りだと肯きました。そうしたら母親らしき若い女性が鬼のような顔して「庵野さんの映画にそんなこと言っちゃ駄目!」と男の子を怒鳴りつけて泣かせていました。あまりにも酷かったので私がその女性を咎めると、「庵野さんの映画を悪く言ったんだからこれくらい当然」と言い出したので真夏だったのに背筋が寒くなりました。正直庵野秀明を持ち上げている人達の不気味さは前から知っていたのですが、直接目の前にそういう人がいるというのは怖かったです。Twitter上でも私がこの使徒モドキを酷評していたら「お前なんかゴジラファン辞めろ!」「庵野さんを悪く言う奴は○ね!」等色々罵詈雑言浴びせられました。映画自体も酷いですがそれを持ち上げる人達も最低ですね。ちなみに私同様に使徒モドキを酷評して嫌がらせをされていたアカウントの話によるとニコニコ動画で常連のアニメゲーム業界ゴロが本編にエキストラ出演していたとのことです。またプロパガンダに利用された演劇や映画などについて調べている辻田真佐憲氏は東宝から「シン・ゴジラを一切批判するな」と釘を刺されたと言っています。このことを踏まえると使徒モドキ映画を批判した人への嫌がらせは東宝が仕掛けている可能性も十分にありますよ。まあ東宝が仕掛けたかどうかはともかく使徒モドキを酷評した人が嫌がらせに晒されているのは事実で、Twitterのアカウントを削除するまで追い込まれた人もいます。批判の声を嫌がらせで押しつぶしてまで絶賛する価値ある映画でしょうか?少なくとも二年前にギャレス版が公開されたときはこんな事ありませんでした。

そういうことで私はますます使徒モドキを褒めようという気が失せたのは言うまでもありません。色々な意味で私が観た今までの映画で最低最悪です。こんな映画を作ってゴジラを愚弄した庵野秀明を私は一生許しませんよ。

Re: あれはゴジラじゃない、使途モドキだ! 殿様ギドラ (男性)

2016/11/15 (Tue) 19:12:05

こんばんは!
またのご来場に感謝します。

いやはや、そんなことがあったんですか・・。
ほんとにぞっとしますね。

なんでしょうね、自分が入れ込んだ作品を作った人を尊敬するのはわかりますが、貶す人を感情的に攻撃するメンタリティはヤバいですよ。
それこそ、ファシズムに通じます。(指導者が絶対正しい!!)

私は円谷英二監督や本多猪四郎監督を映画作家として尊敬していますが、貶す人がいるならば、何がダメなのかまず聞いてみます。
その上で議論しますよ。

『シン・ゴジラ』が優れた映画だと言うならば、ちんごじら(使徒モドキ)なんかをゴジラでございとうそぶくことにどれだけの理があるのか聞いてみたいもんです。

東宝が評論家やライターに批判記事を書くな、と圧力をかけるのはありそうなことです。
これは、東宝に限らず、日本の映画業界は公開中の映画を貶すのはまかりならんと考えているようで、TVの映画レビューでもまず酷評なんて見たことがありません。
だから日本映画は空洞化していくんです。(中身の薄い空洞映画が多いぞーー。とくに大予算系)

とはいえ、ネットでステルスマーケティングぐらいはやっているでしょうけれど、批判者に対する嫌がらせまで仕掛けているとは考えたくないですね。

あ、ここにはそんな嫌がらせ野郎は来ていませんから、それほど組織的なものじゃなさそうです。

とはいえ、となると、一般のネット雀が自発的に嫌がらせをしているわけで、実に気持ち悪い、人間の浅はかさを見る思いです。

いやしかし、どう考えてもあのちんごじ映画のどこがいいのか、さっぱりわからんのです。

Re: あれはゴジラじゃない、使途モドキだ! - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/11/17 (Thu) 00:13:32

こんばんは、返信ありがとうございます。こちらには嫌がらせ野郎は来ていませんでしたか、よかったです。使徒モドキの映画自体民主主義的な手続きをまどろっこしいものとして否定的に描き、終盤は与党議員で政府高官でもある矢口が電車や工事用作業車を徴用し、民間にわけのわからない液体作らせたりと国家総動員法が施行された戦前の日本そのものです。しかもその矢口の独走による弊害は全く描かれずに見事に使徒モドキに勝利するという展開なのでどう見てもファシズムを肯定的に描いた気持ち悪い映画ですよ。批判者に対して激しい攻撃を加えて黙らせることに必死になる庵野秀明信者にはこういう映画がいいのかもしれませんが、危機管理情報局(CCI)、特に局長の片桐の独走で世界規模の危機を招くUFOが引き揚げられ、フルメタルミサイルでゴジラの怒りを買い、篠田が巻き添えで死にかけた爆破作戦が結局無駄だったりと権力の暴走による被害を物語の主軸に持ってきた上で結局それは事態を悪化させるだけという扱いだったゴジラ2000ミレニアムを高く評価する身としては唾棄すべき映画ですよ。

ゴジラ映画で現実を強く意識した内容を売り文句にするのなら、権力や武力も民間人を圧迫し生命の危機に晒す点で怪獣同然という現実もちゃんと描けというのが私の持論です。それはオキシジェンデストロイヤーを得た国家権力がゴジラのように大勢の人の命を奪うことを知っていた芹沢博士が研究資料を焼き捨てた上で自らの口封じのためにゴジラとの心中を決行した初代ゴジラの設定を尊重することでもありますので。そういう意味でもニッポン(現実)対ゴジラ(虚構)と銘打ちながら国家権力の強権行使による加害を全く描いていないばかりかまるで国家が怪獣同様に振舞って何が悪いと開き直らんばかりの使徒モドキ映画は駄目だと言っておきます。

ちなみに使徒モドキ映画海外ではいまひとつで台湾では客が入らず10日で上映打ち切り、全米上映では興行収入がミレニアムの5分の1、ギャレス版ゴジラの100分の1にも満たないという有様です。日本映画の空洞化がこういう部分でも見て取れます。ハリウッドを越えた初代を超えたと舞い上がっている人もいるようですが井の中の蛙ですよ完全に。東宝はギャレス版が60カ国で上映され五億ドル以上の興行収益を得たので100カ国で上映しその上を行こうとしたようですが、見事にコケたわけです。世界的知名度のあるゴジラの名前を使っても出てくるのがゴジラとも呼べない使徒モドキだからまあ当然ですね。世界に誇るゴジラを自ら崩したのが『シン・ゴジラ』といえるでしょう。

Re: あれはゴジラじゃない、使途モドキだ! 殿様ギドラ (男性)

2016/11/17 (Thu) 19:44:35

ああ、おっしゃること、よくわかります。

権力や武力というものが、人の心を惑わせる麻薬であることを物語作家は知るべきです。
というか、それを知っていた作家こそ歴史の風雪に耐えて長く残る作品を作り得たはず。
(権力の尻馬に乗ったような作品が後世に残っていますか?)

ここまで個人名を出して批判することは控えてきましたが、
庵野秀明氏、もっとも好きな映画作家は岡本喜八であるとおっしゃる。
岡本喜八は私も好きです。
それは、彼の反権力、反骨精神に共感するから。
そんな岡本喜八を好きだと言いながら、権力者の強権発動に何の批判も加えないストーリーの映画をよくも作りやがったな、という怒りも抜きがたいです。

ゴジラを間抜けで気持ちの悪いでくの坊にした罪と同じぐらいの憤りを感じているのです!
(海外でコケましたか。当然ですね)

ようやくやっと - エクセルシオール (男性)

2016/11/07 (Mon) 22:53:04

 「社会現象を起こした」などとも評されていた映画『シン・ゴジラ』ですが、ほとんどの映画館で上映が終了し、ようやく世間も落ち着いてきたようです。これでやっと冷静な論評が行える状況になったとも言えますが、実際のところ、上映終了と同時に話題に上らなくなった感もあり、結果としてそれまであふれかえっていた礼賛意見のみが残留するという事態になってしまうおそれもあります。

 何ともお寒い状況ですが、そんな中、この作品について私が知る限り初めて批判的なコメントが映画雑誌に載っていたので紹介します。それはキネマ旬報2016年10月下旬号(1730号)の154~155頁に掲載されていた日本映画時評332(執筆者、山根貞男)。このコラムは『シン・ゴジラ』のみを取り上げたものではなく、いくつかの作品を挙げながら最近の映画は「粗雑で不明晰な表現で観客の恣意を誘い込む装置になっている」と論じたものです。そして、『シン・ゴジラ』に関しては、この作品は「ウルトラ級の粗雑な映画」であり、そのために強大極まりない誘因力を持ってしまっていると評しています。若干婉曲的な文調ではありますが、ゴジラの災厄性と東日本大震災・津波・原発事故を同列に並べると粗雑に自然災害と人災を同一次元に置くことになるとの文言もあることから、『シン・ゴジラ』に批判的な立場を採っていると考えてよいと思います。

 これは礼賛一辺倒だったこの映画に対する言説がようやく変わり始めたことを意味するのでしょうか。だったらよいのですが、同じ雑誌には他の執筆者による礼賛論も載っており、今のところあくまで例外的なものと言わねばならないでしょう。でも、公刊された雑誌それも最も有名な映画雑誌に批判的言説が載ったことは軽視できません。後に続く批判説の登場もそれなりに期待できると思います(半分願望なのですが)。

Re: ようやくやっと 殿様ギドラ (男性)

2016/11/08 (Tue) 18:26:30

おお、『シン・ゴジラ』に関しては、まだまだ追及の手を緩めてはいけないと思いつつ、作品そのものに対しての書くべきことはおおむね書ききったとの思いもあり(ほんとうに細かいことはまだいくばくかあるのだけれど)、さて、どうしたものかと行き詰まっていたところに、良い材料をいただけました。

山根貞男さんがそんな議論をなさっていましたか。

>粗雑で不明晰な表現で観客の恣意を誘い込む装置になっている

この表現には膝を打ちました。

全文は読んでいないので、誤解があるやもしれませんが、これは私が近年感じていることを短く明快に説明した文章と読みました。

おそらくその嚆矢はTVアニメ「エヴァンゲリオン」なのでしょう。
同じ手法を用いたゴジラ映画は『ゴジラモスラキングギドラ大怪獣総攻撃』。

劇中で何が起こっているのかという説明を曖昧にして、刹那の描写だけで注意を引き、描いていないことを観客が勝手に創作して楽しみとする作風。

それは表現なのか?
作品なのか?

作品を読むということは、作中に描かれたことを細かいところまで受け取って解釈することであり、
作中にまるで描かれもせず、説明もないことを観客が補足して欠陥作品を補完することは二次創作である。

『シン・ゴジラ』の欠陥を補足するためには膨大な二次創作をしなければならない。

少なくとも私が映画を見るときには、作品が何を訴えているかを受け止めようとします。
作品に中身がないときに、無理矢理補完してやる必要などない!

のですが、さて昨今のお客さんは自分本位ですから、作品が何を言わんとしているかより、見たものを材料に自分が何を編み出したかを自慢することに注力しているようでもあり・・・。

というわけで、山根貞男さんのような大ベテランの評論家ならいざ知らず、映画にまつわるトリビアの数を自慢するしか能の無いようなチンピラ評論家だと、『シン・ゴジラ』を批判するほどの映画力を持ち合わせていないでしょうから、今後の批評がどうなっていくのか、なんとも心許ないところですね。

映画が商品である以上、ヒットが正義で、映画ライター諸氏にもヒット作をこき下ろす度胸のある奴がどれほどいることか・・・。

いかんいかん、悲観的になりすぎですね。

さあ、迷っている人々、映画の偉い人が『シン・ゴジラ』を貶しているんだから、安心して貶していいんだよ!

和製エメリッヒガッズィーラ - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/09/25 (Sun) 10:37:46

こんにちは。シン・ゴジラについて言いたいことがあるので再び投稿させていただきます。

シン・ゴジラは東日本大震災を象徴しているとのたまう輩がいますが、ギャレスゴジラみたいに原発倒壊や津波にしか見えない大波が人や街を飲み込む場面も無い映画に対して何寝ぼけた事言ってるのよと呆れるばかりです。そもそもシン・ゴジラって原発について言及は少しだけあるものの肝心の原発は全然出てこなかったですし。

原発といえば、シン・ゴジラの劇中では福島原発事故の汚染水漏れ(参考:https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%81%AE%E6%B1%9A%E6%9F%93%E6%B0%B4%E6%BC%8F%E3%82%8C-189567)には一切触れず、アメリカが海中投棄した放射性物質を摂取しているという設定です。そして劇中のアメリカは自国の失態を隠すためにゴジラの存在を隠蔽しますが、これどこかで見たことありませんか?そうです、アメリカの核実験には一切降れずゴジラ誕生をフランスの核実験のせいにし、フランスはそのことを隠蔽するというエメリッヒ版ゴジラの二番煎じなんですよ。そういう意味ではカヨコはエメリッヒ版のフランス諜報員フィリップに相当するといえるでしょう。正直フランスを事件の元凶にするという筋書のためだけに出演させられたジャン・レノ氏が気の毒でなりません。

エメリッヒ版ゴジラには核爆発の直撃に耐えたイグアナがミサイル数発で死亡するという致命的な設定ミスがあります。そしてエメリッヒ版を否定しているくせにキングギドラの引力光線を吸収して強化された放射熱線を吐いた時はなんとも無かったゴジラの傷口に対ゴジラ用兵器でもないD03削岩弾であっさりと穴が開くという同じような設定ミスを繰り返したのがCMKです。そもそもエメリッヒ版にこのような設定ミスが生じたのは、製作側が最後はアメリカ軍の武力でゴジラを倒してアメリカ万歳という展開にしたからです。GMKも自国の武力でゴジラを倒すというエメリッヒ版の展開を猿真似したせいで設定ミスまで真似てしまうという間抜けな事態に陥りました。そしてシン・ゴジラもゴジラをやられ役にしてわが国万歳というエメリッヒ版と同じ種類の映画なのは疑いようの無いことです。そこには初代ゴジラにはあった人間批判の精神は全くありません。

ちなみにシン・ゴジラの劇中ではゴジラを倒す作戦はヤシオリ作戦と呼ばれますが、このヤシオリとは八岐大蛇を酔わせるためにスサノオが飲ませた酒を指すそうです。八岐大蛇退治自体中央政権による地方豪族討伐や自然開発(と称した自然破壊)を美化したものだという見方があります。私から言わせれば八岐大蛇討伐に例えること自体、核の権化であり自然の脅威の象徴でもあるゴジラも日本政府なら制圧できるという驕りそのものですよ。こういう部分もゴジラといえどもアメリカ軍には勝てないというエメリッヒ版と同じ思い上がりを感じます。どこまでも和製エメリッヒガッズィーラなんですね。

エメリッヒ版をあれだけ叩いていた日本においてそのエメリッヒ版の駄目なところを猿真似したシン・ゴジラが大ヒットしエメリッヒ版との類似性を批判的に指摘する声がまるで上がらないというのは、以前指摘したように外国のゴジラというだけでどこが駄目なのかも全く理解せず叩いているだけの日本人が多いということです。島国根性という日本人の病理を今私は痛感しています。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ 殿様ギドラ (男性)

2016/09/26 (Mon) 18:52:03

またのご投稿、ありがとうございます。
言いたいことはどんどん書いて下さい。

ご主張の中でちょっと気になったので、手持ちのビデオで確認しましたら、エメリッヒトカゲは、核爆発の直撃を受けているわけではなくて、核実験場の近くに生息していた海イグアナが死の灰の放射線で奇形化したものだという設定でした。
冒頭の核実験は1968年のもので、その後繰り返された核実験の影響でいつの間にかあの大イグアナが生まれたということですね。
その設定から考えれば、ミサイルで死ぬのも仕方ないところなのですが、それこそ、ゴジラとは全く別ものである証拠でもあります。

GMKの白目に関しては、私の見方では、劇中で「ゴジラは武器では殺せない。なぜなら霊だから」と言っておきながら、結局は物理的な攻撃で傷を負わせ、さらには穴から熱線漏れ、そして自爆、というどこが霊体なんだよっ、と思わせる自己矛盾がイタいです。

『シン・ゴジラ』での原発は、ちんごじらのことなんですよ。
体内に原子炉があって、その冷却がどうのこうのと生体原子力を思考実験で作ったのではなく、現実の原子炉をそのままなぞったような設定を持ち込んで、放射性物質を垂れ流すことまではなぞりながら、その放射性物質は現実の原子炉から飛散した(または冷却に使った汚染水が漏れている)放射性物質よりずーっと御しやすいものに設定して、まるで原発事故もコントロールできますと言っているような、現実無視の脳天気ストーリー。

このあたりも、どうにも権力者に媚びを売っているようにしか見えない作りです。

そんなものを作ってしまうアレな表現者が出てくることも悲しいけれど、批判の嵐が巻き起こらないのがもっと悲しい。
日本人よ、正気を失ってないか

そうそう、ヤシオリというのが八岐大蛇に飲ませた酒の名前から来ているらしいという話はその後ネットで読みました。
おっしゃるとおり、ちんごじら退治の作戦名としてそんなものを使う感覚にも、なにか危ういものを感じますね。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/09/27 (Tue) 20:25:50

返信ありがとうございます。

すみません、ちょっと誤解があったようですね。殿様ギドラ氏の過去ログを拝読してちんごじらが原発を指しているという見解は存じ上げておりましたし私も同意します。ただ私が言いたかったのは福島原発など日本の原発が全く出てこなかったという事なんですよ。水や空気だけで生存・活動ができる生物かもしれないなんて意味不明な設定を台詞で追加するより、ゴジラが福島第一原発襲撃して核エネルギーを食べる場面入れた方が単純に映像として見応えあります。第一文言で「ニッポン(現実)対ゴジラ(虚構)」と言っておきながら原発事故という重い現実に触れないのは私から言わせれば文言詐欺ですよ。ちなみに私はこの文言大嫌いです。虚構や欺瞞だらけの日本の実態に背を向けてますし本来ゴジラが象徴している重い現実を余りにも軽んじていますので。だからといって文言でニッポン(現実)とまで言っておいて原発事故に全く触れなかったり半減期20日というオチでお茶を濁す本編を褒める気には全くなれませんが。

それはそうとエメリッヒトカゲって冒頭の場面でキノコ雲が上がった方向をじっと見ていたイグアナじゃなかったんですね。正直言って大嫌いな映画でここ十年くらい全然観てなかったんで勘違いしてたみたいです。どちらにせよGMKがエメリッヒトカゲ否定してるくせに自国の武力が敵を倒すという展開を模倣して強化された放射熱線吐いた時は何ともなかった傷口に対ゴジラ兵器でもない削岩弾であっさり穴が開くという致命的な設定ミスをしたことや、ちんごじらが自国の罪を棚に上げてゴジラ出現の元凶を他国のせいにした上にゴジラをやられ役にしてわが国万歳というエメリッヒ版の駄目な部分を猿真似したことに代わりはありませんが。
※あの大イグアナもちんごじらもゴジラとは呼べない存在ですが今回は便宜上ゴジラと表記しました。

ちなみに私ちんごじら観る前はあの焼けただれたように見える姿は核爆発の直撃に耐えた証と思っていました。ところがいざ本編を観るとあの珍妙な姿のお陰でただ変異してああなっただけで核爆発とは無関係だという事が判明したので見掛け倒しかと呆れました。その上ちんごじらが現行兵器であっさりと大量出血する場面を観た時はあの大イグアナがやられる場面観た時に感じたのと同じ種類の怒りを感じましたよ。自衛隊の総火力攻撃で微動だにしなかったのに、爆弾積んだ電車をぶつけるという幼稚な作戦でよろめくちんごじらの姿は威厳のかけらも無くて出来の悪いヤラセ番組にしか見えませんでしたし。正直映画自体は駄目でもゴジラが魅力的な存在なら帰りにフィギュア買おうと思いましたがその気も完全に失せました。私がミレニアムを評価する理由の一つにゴジラの放射熱線を食らったオルガが原爆の犠牲者みたいに焼けただれた姿になる場面を入れたことがあります。それだけにちんごじらの焼けただれたように見える姿がただの突然変異で核とは無関係と判明した時は大いに落胆したんです。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ 殿様ギドラ (男性)

2016/09/28 (Wed) 18:26:25

あ、そういう意味だったんですね。原発が出てこない、ということ。

それは、私も大いに同感です。
ニッポン(現実)などと言っているから、当然、劇中で3.11に触れるものだと思っていたら、あの大災害、大人災にはまるで触れず。
あの日本はどこの日本なんでしょうか?てな案配でした。

そうそう、そして、現実の原発事故という日本の大きな罪に触れることなく、きわめて曖昧にマキゴロウの妻がむにゃむにゃとお茶を濁し、
挙げ句の果てにそのマキ氏がちんごじらを作ったかのようなほのめかし。

ゴジラは核実験の影響で姿を現したものであり、ゴジラと核エネルギーの関係に言及するなら核兵器を批判する構図でなければならない。

しかし、『シン・ゴジラ』が現政権にすり寄る映画なら、核兵器を否定するわけにはいかないのでしょう。
(劇中のこまごましたところに、いまの政府の方針を支持するようなくだりがある)
アメリカの核兵器を自国のために使ってほしい、と思っているんじゃ、核兵器廃絶なんて言えませんからね。
『シン・ゴジラ』後半で主人公が核攻撃を回避しようと努力して見せても、それは東京に核爆弾が落とされるのは嫌だと言っているだけで、核兵器そのものを否定する視点はない。
おそらく、敵国に撃ち込むなら大賛成なのでしょう。

おっと、いけない、また腹が立ってきました。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ - エクセルシオール (男性)

2016/09/29 (Thu) 22:53:38

 ヤシオリ作戦については劇中で主人公の矢口蘭堂がその名称を言った時、何の説明もなかったので面食らいました。誰か一人くらい「ヤシオリってなんすか?」と聞いてくれると思っていたら、みんな疑問も抱かず物語が進行したのでもやもやしたまま映画を観ることになりました。「ヤマタノオロチに飲ませた酒」の名前なんか知る人の方が少ないでしょうに。この辺は、スタッフのオタク的発想がさく裂した感じです。

 さて、おそらく本作品のゴジラが東日本大震災とその後の原発災害を象徴しているという見方は、多分もたらした被害とゴジラが凍結されただけで危機は存続しているから、福島第一原発と同じであると解釈しているのでしょう。しかし、青空の下でゴジラが固まっている構図は危機と言っても完全にコントロール下にあるという風にしか見えません(現実はまるで違うのに)。あれでも、曇天の下、廃墟の中で主人公たちが沈痛な顔をして立ち尽くしているところで終わっていたり、最後にゴジラの活動再開を示す描写があったりしたらまだしも、そうではないのですから、本作品のゴジラが東日本大震災(と原発災害)の象徴と言うのは無理があります。

 笑えるのは矢口にしてもカヨコ・アン・パタースンにしても、沈痛さの欠片もないこと。やれ「首相になる」「総選挙だ」「大統領になる」云々、お前ら自分の出世しか頭にないのか?と思いたくなります。カヨコの将来がどうなるかは知りませんが、少なくとも矢口達の未来は明るい。「ゴジラを倒して日本を救った英雄」として彼と彼の所属する政権与党は総選挙で圧勝するでしょう。なお、その与党をわざわざ「保守第一党」としている点がきな臭いですね(野党、特に革新政党はまるで出てこないのに)。

 それから日本政府が核兵器の使用を認めてしまったことには驚きました。徹底的に反対したのに核攻撃が強行されたというシナリオならばまだしも、自ら容認してしまうという展開はやってはいけないことでしょう。これをリアリティなどという言葉で正当化されてはたまりません。
 思えば、1984年の『ゴジラ』ではゴジラに対して核攻撃を行おうとした米ソ両大国に対して、小林桂樹演じる三田村首相は非核三原則を盾にその要求をはねつけ、両国首脳を説得しました(「安全な核兵器などありえない。一度使われるとおしまいである」「あなたたちの首都ワシントンやモスクワでためらわずに核を使えるのか」と)。孤立も恐れず信念と理想を貫いた三田村と比べて、本作品の政治家たちは何と情けないことでしょうか。なお、本作品では東京核攻撃に関して、わざわざ「ニューヨークでも同じ」という台詞が入れられています(アメリカは自国ではないから平気で核兵器が使えるのでは?」という疑問を打ち消している。そこまでする必要があったのか)。

 もしも、矢口達の奮闘で事態が収拾されかけたにもかかわらず、アメリカが自国の思惑で核攻撃を決行し、東京は消滅、そのうえでゴジラがさらに強化され「我々の良く知っているゴジラ」になるという結末だったならば、この作品はそれなりに高評価できたかもしれません。でも、実際にできたのは今までのゴジラシリーズの真面目な部分をとうとう根こそぎにしてしまった作品だったと思います(これまでも特にミレニアムシリーズでじわじわと壊されてはいたのですが)。

 余談ですが、『新世紀エヴァンゲリオン』の「決戦、第三新東京市」というエピソードで登場した第5使徒ラミエルは、一定の距離に近づいた物体を強力なビーム砲で自動的に排除するという存在でした(本作品のゴジラに類似)。そしてラミエルを倒した作戦が「ヤシマ作戦」でした(日本中の電力を徴発して陽電子砲を発射する作戦)。『シン・ゴジラ』については「エヴァンゲリオン風ゴジラ」という意見がありますが、当たらずとも遠からずですね。なお、「エヴァ風」については肯定的に見る人が結構多いですが、私は「ゴジラはゴジラだ。エヴァンゲリオンじゃない。なんてことをするのだ」と思いました。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ 殿様ギドラ (男性)

2016/10/03 (Mon) 18:32:39

エクセルシオールさん、遅レスすいません。

『シン・ゴジラ』が原発事故のアナロジーだなんて評は噴飯ものですね。
たしかに、表面的にはちんごじらは動く原子炉であり、放射性物質をまき散らすのですから、あの原発事故からヒントを得ているとは言えるでしょう。
けれども、現実に起こった原発事故よりはるかに軽微な放射能汚染しかもたらしていない。
原発事故にさほど関心の無い層が見れば、原発事故も為政者が解決してくれるだろう、という観念を植え付けられる可能性が高いです。
『シン・ゴジラ』の悪質さはそこにある。

戦時中の国策映画に似ているのです。
(たしか『五人の斥候兵』1938日活だったと思うのですが、日本の高邁な理想を理解できない中国人が抵抗しているのだ、という理屈で侵略を正当化している)

さまざまにポンコツな映画ではありますが、東京への核攻撃が強行されその結果怪獣災害以上の惨禍が巻き起こるというエンディングだったら、私もここまで怒りはしなかったでしょう。
あるいは、ヤシオリ作戦は人間の浅知恵でしかなく、怪獣にはなんの効力もなくて、ちんごじらの怒りを買ってさらに被害拡大なら・・・。(実は、エンドロールが流れ始めるまで、それをやるんじゃないか、と一縷の希望にすがっていた)
ダメですね。あの怪獣は人間が作ったもの、という発想ですから、そりゃ、人間の(エセ)英知で倒されますわな。

「エヴァンゲリオン」との共通点で喜んでいる輩は、一個一個の作品とは何か、という創作物への向き合い方が狂ってますよ。
同じ作者なら似たところが出てくるのも仕方ないでしょうが、設定にせよ演出にせよ、その作品に適合しているかどうかが問題であって、他作品との共通自体は何の意味も無い。

『シン・ゴジラ』礼賛ファシズム? - エクセルシオール (男性)

2016/09/18 (Sun) 16:40:18

 十数年前に何回か投稿したことがある者です。今回、久しぶりに投稿させていただきます。

 話題の映画『シン・ゴジラ』ですが、私もひどい映画だと思いました。その理由の多くは管理人さん達がすでにおっしゃられているので簡潔にまとめますが、①こんな気色の悪い肉塊は「ゴジラ」などとは言えない、②現実に存在する兵器で進撃が止まったり、重傷を負ったりするなど許せない、③日米連合軍でゴジラを倒すなどきな臭すぎる点が多い、④人間のキャラクターにシンパシーが抱けずまるで機械みたいに無味乾燥、⑤解釈次第だが「原子力ムラ」が喜びそうなラスト、⑥初代ゴジラまで「無かったこと」にするなどけしからん(しかも今回のゴジラは「アメリカの核兵器実験で生まれたという設定ではない」)等々といったところです。

 ただ、私が気持ち悪いと思っているのは、この映画に関して、現在のところほとんど礼賛一辺倒になっていることです。ギャレス版『ゴジラ』の場合も上映当時好評価が大勢でしたが、厳しい批判を浴びせる人も少なからずいました(例えば映画監督の想田和弘氏等)。しかし、本作品に関しては物議を醸しそうな要素が大量にある映画であるにもかかわらず、批判らしい批判をほとんど目にしません(一例として代表的な映画雑誌『キネマ旬報』のここ最近のいくつかの号における本作品の評価)。右も左も上も下も礼賛ばかりでまるでファシズムみたいな感じです(そういえば『シン・ゴジラ』に「58点」をつけていた人がネットで袋叩きにされていたこともあった)。

 思うに、この映画を積極的に評価する論者は、作品を深読みし過ぎているのではないか?本来、素直に作品を観て受け止めるべき部分に無用の考察を行い、結果として好意的に解釈してしまう、その結果批判すべきところが分からなくなっているような気がします(特に批判的立場に立ってもよいような進歩派の論者が本作品を支持することの説明がつく)。そういえば総監督である庵野氏の代表作『新世紀エヴァンゲリオン』だって似たような経過をたどっていました。誰も彼も作品を深読みして、その実態は「中途半端で終わってまともな落ちをつけられなかったにすぎない」アニメを、深慮遠謀に基づいた大傑作のようにしてしまいました。これは困った傾向です。

 このような「礼賛ファシズム」のような現状で、きちんと体系だった批判をしてくださった管理人さんと他の利用者の方々には感謝の一言です。「おかしい」と思っている人が自分だけではないと知ったのみでもほっとします。

 私はVSシリーズくらいまでは好きでミレニアムシリーズくらいから「ゴジラは許容限度を超えておかしくなった」と思っている者なのですが(特に『GMK』)、とうとう行き着くところまでいってしまったみたいです。『シン・ゴジラ』みたいな映画が「ゴジラ映画史上最高傑作」などと言われるのは、おそるべきことです。この映画はせいぜい「シン・ゴジラ」というゴジラとは別種の怪獣が登場する作品と解するべきでしょう。なお、余談ですが「ゴジラ」の名を持つゴジラ以外の怪獣と言うのは実在します。特撮ヒーロードラマ『ミラーマン』にハリゴジラ、モスゴジラという名の怪獣が登場しています。

 最後に、次のゴジラ映画は何とアニメ映画だそうです。ゴジラのアニメは過去にも存在しましたが(確か『すすめゴジランド』という可愛いアニメがあった)、本格的な映画版となると初めてです。アニメマニアに受けている虚淵玄氏がつくるそうで、また変な話ができる虞があります。虚淵氏と言えば『魔法少女まどかマギカ』や『フェイトゼロ』といった陰鬱極まる作品で有名ですから(もっとも、『翠星のガルガンティア』のようなわりとまともなストーリーも作っているので、全くダメというわけではないが)。最低限、人間なんぞにやられない強いゴジラを作ってほしいです(もはや自衛隊と手を切らないと難しいだろうが)。

 

Re: 『シン・ゴジラ』礼賛ファシズム? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/19 (Mon) 19:16:20

おおお、エクセルシオールさん、お久しぶりです。
何年経ってもこうして再び訪問していただけるとは、感謝感激です。

そして、なんと良いタイミングでしょう。
私も、『シン・ゴジラ』そのものより、それを取り巻く批評・論評に大いなる違和感を感じ、ここでもそろそろそのあたりの話が出来るといいな、と思っていました。

私はそれほど批評記事を漁ってはいないのですが、それでもテレビ・新聞などから聞こえてくる『シン・ゴジラ』評が妙に好意的だなと感じていました。

私がどう思っているのかはさんざん書きましたから、なぜ高評価になるのか理解できないのはみなさまにも十分わかっていただけると思いますが、
では、褒める人はなぜ褒めるのか?

そのヒントはすでに12年前、エクセルシオールさんがお書きになっていました。
「東京SOS」掲示板、2004年2月6日のご投稿
266 Re:キネマ旬報 エクセルシオール 2004/02/06 13:03
男性
 批評の内容については人それぞれだとは思いますが、キネマ旬報に載ったような批評を読むと、「何かずれてるな」という気持ちにとらわれま す。そこでその原因を私なりに考えてみました。

 まず、怪獣映画の独自性に対する理解が、映画評論の世界では乏しいのではないでしょうか。大抵の映画においては人間が主役であり、人間ドラマ(本編部 分)を追っていくことが中心となります。ゆえに批評もその部分が中心となり、特殊効果というものが使用されていたとしても、それは評価の中心にはなりませ ん。しかし、怪獣映画においては怪獣が主役で人間は脇役です。このことは無論、本編部分を軽視することではありません。良い本編が必要なことは当然です。 しかし、良い怪獣映画となるには怪獣が脇役であってはならないはずです。しかしながら、近年の怪獣映画はこの作品も含めて「人間が主役」になっています。 だが、そうなったとしても普通の映画と同じように人間ドラマを中心にした批評では、そのことに気づかないのではないでしょうか。もっとも、私個人はこの作 品の本編部分も評価できませんが。

 第二に、今の映画批評(この点に関しては特撮批評も同じ)の現状に批評・批判をやりにくい傾向があるのではないか、という問題があると思います。つま り、特撮業界(制作者等)が「悪口を書かれる」ことを忌み嫌うため、関連メディアが有形無形の「仕返し」をおそれて、まともな批判ができない傾向にあるの ではないかということです(アニメ業界の現状がいい例です)。もし協力関係を失えば紙面が構成できなくなる。それを恐れて欠点を感じてもその作品に対して 正面から批判できない。そんな空気を感じます。しかし、これでは「ご用記事」ばかりとなり、結局は対象となるものを駄目にします。これは個々のライターで は対処するのは困難です。

 最後に、私は自由な批評の存在は良い映画のために不可欠だと思います(たとえ耳に痛いことであっても)。しかし、今の特撮業界にはそれが乏しく、その結 果、駄作も「傑作化」させられているのではないでしょうか。
************************
全文引用しました。
『シン・ゴジラ』、怪獣を無視して人間部分だけ見ると、まるで社会派ドラマのような雰囲気です。
(それも内容が薄っぺらであることは指摘しておりますが)
怪獣映画に理解のない人は政治家や官僚が右往左往する様子だけで人間ドラマがある、と思い込むのでは?

そこに加えて、ライターたちの苦境から貶す記事が書けないとすれば、マスコミには礼賛記事があふれることになります。

映画批評に意識的でもない一般観客となると、テレビ・雑誌・新聞が褒めているなら傑作なんだろう、と思うのは当然。

さらに日本社会の特質である強い同調圧力がかかって、批判意見は圧殺される。

昨今の日本の政治状況も合わせて考えると、空恐ろしいです。
しかも『シン・ゴジラ』という映画は政府に多大な権力を与えるべし、とでも言いたげなストーリーでしたし・・・。

さて、どう対処すべきか。
いまはこんなマイナー掲示板で吠えることしか出来ないのだけれど。
(BBSというものもすっかり廃れて、いまはみなさん、ツイッターでさえずるんでしょうけれど、長文が書けないシステムでは深い議論など出来ません)

・・・あ、そうか、「ミラーマン」に◯◯ゴジラたちがいたっけ。そう、『シン・ゴジラ』に登場する奴も、名前がシンゴジラだったらまだマシだったのに。(そして、ゴジラシリーズ扱いにはしないこと!)

Re: 『シン・ゴジラ』礼賛ファシズム? - エクセルシオール (男性)

2016/09/20 (Tue) 20:39:16

 自分でも半ば忘れかけていた投稿を思い出させてくれてありがとうございました。『シン・ゴジラ』がほとんど批判を受けない理由には確かに①怪獣映画の独自性に対する等閑視、②メディアが業界の報復を恐れて批判しないというものもありますね。これらの要素も12年前よりも弱まっていることはないでしょう。

 さて、私の見立てではおそらく半年くらいは礼賛一辺倒が続くと思います。でも、上映が終了し、皆の頭が冷えてくれば、きっと「この映画はそんなに立派なのか」と考える人もある程度は増えてくるのではないか。ただ、あくまで「ある程度」なのでどこまで揺り戻しが来るかは心もとないですね。

 とはいえ、冷静になってこの映画を考えて疑問を抱いた人がいる場合、その道しるべとなるべき体系だった批判説があるのとないのとでは大違いです。その場合、管理人さんをはじめとした本サイトの批判説はきっと役に立つことと私は思います。

 それにしても「ゴジラ気色悪い」という素朴な疑問すらあまり目にしないのは驚異的です。魅力ある怪獣はどれもかっこよさが必要なはずですが、本作品の「シン・ゴジラ」にはそれがありません。おまけに「分裂する」だの「小型化する」だの「翼が生えて空を飛ぶようになる」だの、いくら何でも無茶苦茶すぎると思いました。ここについてすら「もうゴジラじゃねえ」という非難の声が聞こえてこないのですから、確かに深刻です。

 なお、余談ですが『太陽の蓋』という映画がほぼ同時期に公開されていました。東日本大震災による原子力災害をテーマにした作品でしたが、この作品の方が政府の描写も含めはるかに迫力がありました。終わり方も『シン・ゴジラ』のような能天気なものではなく、危機は全く終わっていないということがひしひしと伝わってくるラストとなっています。この映画と比べると『シン・ゴジラ』程度で「社会派」などと言うのは片腹痛いですね。

Re: 『シン・ゴジラ』礼賛ファシズム? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/22 (Thu) 17:38:21

またのご投稿に感謝いたします。

この掲示板がなんらかの役割を果たせるなら本望です。

それにしても、確かに、難しいことを抜きにしても、
「あんなもの、ゴジラじゃない!」という単純な反応すらほとんどないというのは、どうにも解せません。
有名キャラクターの変容について「時代に合わせて変わることで生き延びてきた云々」などと論評する向きもありますが、
ゴジラに限らず、改変の中身を分析、批評した論説を目にした覚えがありません。
創作に於いて新しいことに挑戦するのは必須ではあります。
しかし、新しい・変容=正当とは限らないということを忘れているのではないでしょうか。

以前も書いたことですが、キャラもので主役を変容させるのは、新奇さを打ち出す方法としては安易なやり方。
変わらぬ主人公で新たな物語を生み出すのが正当というものです。

それから、『シン・ゴジラ』に関すれば、主役の改変のみならず、映画作品としての出来も相当にポンコツ。
それなのに絶賛の嵐とは、映画読み取り能力(映画リテラシーと言ってもいいか)の低下が懸念されます。
中身を勝手に二次創作して、意味を読み解いたように勘違いするなどもってのほか。
まずは描かれたことを正面から受け止めよ、と言いたい。
(エクセルシオールさんがおっしゃったことと同じですね)

『太陽の蓋』、そんな映画があったことすら知りませんでした。
テレビ・新聞だけではちゃんとした情報が入ってこないのを痛感です。
とくに原発関連だとどうもいろいろあるみたいで・・・。
それでも劇場公開されたということは、セルソフトも出るでしょうし、放送もされるはず。
かつてノーチェックだった『東京原発』をWOWOWの放送で見たときにはぶっとんだものです。
『太陽の蓋』、機会を見つけて必ず見ます。

ちんごじら(笑) - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/09/11 (Sun) 12:46:02

はじめまして。私は以前GMKの欠陥について色々考察したまとめ(http://matome.naver.jp/odai/2146685175745147701)を作成し、ちんごじら(笑)にも多大なる不満を持っています。

最初出現した時のゴジラの姿がCG雑過ぎて出来の悪い着ぐるみにしか見えませんでしたし、早口で一本調子な話し方のせいで登場人物の大半が個性死んでますし、踏み切りにいた老人の安否の気遣いもしなかった主人公の矢口が民間人への被害を理由にゴジラへの核兵器行使を決定したアメリカ政府や国連安保理に反発したと思いきや自分は民間人が運転するコンクリートポンプ車をゴジラの間近に生かせて何台か犠牲にしてどう見ても民間人を死なせているようにしか見えないなど脚本が粗悪なせいで深刻なダブスタが発生しているんですよ。

総理に全権委任する特別立法を出すことや、矢口が国家総動員法よろしく民間の通勤電車やコンクリートポンプ車までゴジラを倒すのに使う展開は国家権力による上位下達こそ正しいという国家主義丸出して見ていて不気味でした。太平洋戦争で300万人の日本人が犠牲になったことには触れても(2000万人以上のアジア人が日本の始めた戦争で犠牲になったことには一切触れず)、その戦争を推し進めた上位下達の仕組みを全面的に肯定しているようでは駄目ですよ。

ちんごじら(笑)を福島原発事故後の日本を正確に描写していると言ってる人いましたが、二年前のハリウッド版とは違って津波も原発倒壊の場面も無く、日本政府の隠蔽工作や原発事故に無関心な大多数の日本人という実態には全く触れていないのによくもまあそんなデタラメが言えたものです。劇中ではちんごじら(笑)は日本の技術とやらで凍結させられますが、福島第一原発の凍土壁に300億円の税金使っても失敗するという日本の技術の実態とは大きくかけ離れています。「ニッポン(現実)対ゴジラ(虚構)」なんて言いながらみっともない話です。

そういえばちんごじら(笑)の中国やロシアを名指しで地政学的に敵みたいなことを言っちゃう場面がありますが、もし中国が日本を名指しで地政学的に敵と言い張る映画を製作すればちんごじら(笑)を絶賛している人の大半は「映画使って日本への敵意煽るな!」と激怒するのは目に見えています。他の国にされたら怒ることを平然とやってるのにその不味さにも気がついていないんですよ。前述のまとめにも書きましたが、GMKはエメリッヒ版を否定しているくせに自国の武力でゴジラを倒す展開を真似て同じような設定ミスを繰り返しています。そのGMKを原点回帰の傑作だと崇めている日本のゴジラオタクには客観性が欠落していることを改めて見せつけられた次第です。

そういうわけで私もちんごじら(笑)はGMKに勝るとも劣らない駄目な映画だと断言します。

Re: ちんごじら(笑) 殿様ギドラ (男性)

2016/09/12 (Mon) 19:34:23

初めまして!
そして、ようこそいらっしゃいました。ご投稿に感謝いたします。

GMKと「2000ミレニアム」比較、大変興味深く読ませていただきました。
歴史観、戦争観という観点からあの2作を比べる試みは初めて読みました。

為政者は過ちを犯すもの、といういわば常識がこの頃忘れられているように感じています。
その感覚は、ゴジラシリーズで言えば、GMKからあと、どんどんひどくなっているような気がします。
(機龍二部作にしても、日本がメカゴジラというとんでもない武力を持つことに対する批判の視点はないし、「東京SOS」に至っては機龍を使うことに反対していたはずの小美人がなぜかクライマックスでは機龍修理に力を貸す)

その極めつけが『シン・ゴジラ』ということになりますね。
権力者がうまくやるから、国民は黙ってみていろ、とでも言いたげなストーリーでした。
(行政に段取りが多いことを民主主義の根幹だ、などと見当外れなセリフもありましたなー。為政者は大衆にコントロールされなければならないのだ!)

この映画のヒットこそ、いまの日本がなにかおかしくなっていることの証左かもしれません。
お上が言うことに疑問を持たない人が増えているのでは??

ゴジラファン、というくくりだと、おっしゃる通り、外国で作ったものは全否定で、東宝さまが作ったものは全肯定という人も少なからずいるようです。
これも非常に気持ち悪い。
私はエメリッヒ版もギャレス版もさほど評価しませんが、エメリッヒ版はGMKとどっこいどっこいだし、ギャレス版のほうが『シン・ゴジラ』よりずーっとましだと思ってます。

あ、それから、『シン・ゴジラ』の映画演出があまりにポンコツなため、ちょっと断言は出来ないんですが、あのコンクリートポンプ車は無人操縦だったかもしれません。
無人車両の準備、操縦訓練は完了しています、というセリフがありました。ただ、それはあの列車爆弾のことだったかもしれず、そんなこんなもコンクリート車にせよ列車にせよ、無人で動いているのだと示す映像がまったくないのでわからないのです。

中露に関しては、ちんごじらが自国に近い場所(日本)にいるからアメリカの核攻撃に賛成した、という程度でした。
まあ、しかし、ふわっと中露は日本の都合を考えてくれないという主張をしているわけではあります。

日本は表現の自由が認められている国だし、どんな主張をしてもいいのでしょう。
けれど、映画製作に携わる者が、権力者にすり寄るような主張をするとは、実に気持ち悪い。

かつて言論の自由がなかった時代には、円谷英二や山本嘉次郎は国策映画を作らされました。
それでも彼らの戦争映画を見れば、権力者にごまをすってはいないことがわかります。
(そこまでくみ取れずに山本・円谷コンビを戦後になって転向した、みたいなことを言う者もいますが)

何を言っても良い時代に権力者礼賛みたいな映画を作ってしまう感性を疑います。(いったい何を企んでいる?とまで疑ってしまう)

Re: ちんごじら(笑) - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/09/12 (Mon) 21:38:23

お返事ありがとうございます。ギャレス版をそれほど評価していない方から「ギャレス版のほうが『シン・ゴジラ』よりずーっとましだと思ってます。」というお言葉をいただけただけでもありがたい限りです。ミレニアムは私の中で一怪獣に過ぎなかったゴジラの印象をガラリと変えた作品なんですよ。そしてまとめにも書いたとおり当時中学生だった私はまんまとGMKを凄い映画だと信じ込んでしまったのですが、ギャレス版を観たあたりから違和感を感じるようになり現在に至りました。もしGMKの欠陥に気づくことが出来なかったらシン・ゴジラの欠陥にも気づかなかったかもしれません。そういう意味でミレニアムとギャレス版に救われた、とでも言うべきでしょうか(苦笑)。

正直言って国家権力を礼賛していると解釈できる映画が製作され、それが観客動員数420万人超えの大ヒットしたことでゴジラ映画に限らず映画そのものの表現の幅が狭まっていくのではないかと心配です。ミレニアムでは自衛隊の戦闘機が起こした突風で篠田イオが転倒されそうになり、篠田自身はCCIの片桐が強行したUFO爆破作戦の巻き添えで危うく死にかける場面がありますが(しかも肝心のUFOは無傷で作戦は大失敗)、殿様ギドラ氏のご指摘通り日本のゴジラ映画はだんだんと為政者の過ちに触れるどころかシン・ゴジラに至っては民間人は為政者に黙って従えという内容にまで成り果てましたし。

Re: ちんごじら(笑) 殿様ギドラ (男性)

2016/09/13 (Tue) 20:06:13

「2000ミレニアム」は公開当時ゴジラマニアからはずいぶん叩かれた作品でした。
(いやその、私も例外ではない・・)

しかし、平成VSシリーズ終了後のゴジラ再開作として私が高く評価した点がありました。
それはゴジラの性格描写。
VSシリーズでは常に厳めしい空気をまとっていたゴジラですが、それは私の好きなゴジラではなかった。
「2000ミレニアム」とつづく「×メガギラス」でのゴジラはどこかひょうきんで、(というと言い過ぎかな)二代目ゴジラに最も近い気質だったと思います。
これは特技担当の鈴木健二監督のセンスだったんじゃないかと思うのですが、あのゴジラはよかった。
(デザインや熱線の色を変えてしまったのは、むむむ、なんですが)

そんなミレニアムゴジラでゴジラの印象が変わったとおっしゃっていただけるのは、うれしいことです。
(残念なことにその後のゴジラたちは、再び重苦しい奴らになっていく・・)

現代にはじめて巨大生物が現れるのがリアルなのか? - K4 (男性)

2016/09/08 (Thu) 01:49:29

殿様ギドラ様
様々な考察、お疲れ様でした。
シン・ゴジラを楽しめた、けれども音楽を始めひっかかることがある、と歯切れの悪い私ですが、色々と考えさせられました。
いわゆる84ゴジラ以降の平成ゴジラの中で一番の観客を動員したようで、前回書いたようにシン・ゴジラが今の時代の新しいゴジラの姿だと評価される事が果たして本当にこれでいいのかと改めて思うようになりました。
まったくの新しいゴジラ像を創るのであれば、伊福部音楽の多用はいかがなものか、という考えをさらにつきつめ、もしこのシン・ゴジラがゴジラを名乗ってなかったらここまでヒットしたのだろうか、という疑問があります。
もちろん、東宝はゴジラという作品を創るという事で東宝単独で制作費を捻出し、今回の作品をつくるに至ったわけですからゴジラを冠する事なしにこの作品は世に出てくる事はなかった。
でも、世間で評価されてる声をみてみると、現代日本にはじめて怪獣が現れた時の政府の対応、3.11に重ねた描写・・・
ここだけみるとゴジラである必要はまったくないのです。
これがゴジラではない全く新規の未確認巨大生物であったら、ここまでヒットしたでしょうか?
つまりは、偉大なる先人達がはじめに作り出した土台があってこそ、ゴジラという魅力的な「怪獣」というフォーマットを作り出したからこそ成立していることが観客側が忘れてないかと思うのです。
庵野秀明氏や樋口真嗣氏は今の日本の制作者の中では、特撮や怪獣への思いは強い方達ではあります。
近年の映画にはVFXも多用され、ハリウッドには劣るけれどもそれなりの映像になってきたと思いますが、それらと比べれば庵野・樋口氏がつくりあげた映像にはCGの中にも特撮への思いが垣間見えた気がしています。
ただマニアやオタクとしての部分を抑え、ビジネスとして今の観客にうけるものへの答えがシン・ゴジラの形だったのかもしれません。少し好意的すぎますかね。
私が特撮映画に惹かれたのは、描かれるその映像、破壊されることへのカタルシス、虚構の世界に強く惹かれたのだと思います。
やや不謹慎ではありますが、その虚構の映像に現実の世界をはめこむことを想像する楽しさ。
ついつい甘く見てしまうのはその辺があるのかもしれません。

話がうまくまとまりませんが、無理矢理まとめます。
「シン・ゴジラ」は未確認巨大生物の映画であって、怪獣映画ではなかった。それなのに「怪獣」を前提にした制作者と観客で成り立ってるやや奇形な作品だったのではないかと思います。
小さい時から「怪獣」が当たり前に存在する私たちが『「怪獣」が存在せずに現代にはじめて巨大生物が現れたら・・・と頭の中で考えた世界の話』なんでしょうね。
本当にリアルに、と思うなら怪獣もウルトラマンも意識の中にある世界でないとリアルでもなんでもないんです。

長文、駄文になり申し訳ありませんでした。




Re: 現代にはじめて巨大生物が現れるのがリアルなのか? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/08 (Thu) 19:33:47

K4さんの考えに近いものであるように思うのですが、
私が『シン・ゴジラ』に感じた問題点のひとつは、この作品がまず、怪獣映画ありきで発想されているように思えることです。

というのは、怪獣映画という概念がない状態では、このような映画は生まれ得なかったのではないか、ということ。

怪獣ないし怪獣映画というものが周知のものだから、そのバリエーションとしてこんなのはいかが?
と作っているように見えます。

いままでの怪獣映画がやらなかったことをやりました、と。

怪獣に感情を与えず、従来は背景にとどめていた政府の対応を事細かに見せる・・・。
(政府の対応に関してはリアルシミュレーションではなく、3.11対応を参考にしてなぞっただけ、のようでもありますが・・。だって、国民の反応、野党の反応などをまるで無視だもんなぁ)

そこには新味があったのは確かなのでしょう。

けれども怪獣映画が無かった、あるいは周知のものではなかった(大人には相手にされていなかった)時代の怪獣映画では、もっと怪獣を登場させることの意味を考えていました。

なぜ巨大で奔放(人間社会にとっては破壊者)な動物を映画に出すのか?と。
(この問題は細かく考えていくと長くなるので、いまは割愛。しかし、ヒントとしては大映ガメラが子供にターゲットを絞る道を選んだ理由もそこにあるんじゃないか、と)

『シン・ゴジラ』では従来の怪獣映画がやらなかったこと、にこだわったのか足を取られたのか、怪獣が脇役になり、怪獣である必要すらなくなっている。

これは、オタクと言われる人が二次創作ではまる罠そのものであるように思います。
ジャンル内でものを考えすぎて、ひねくりすぎた結果、本来の価値を失ってしまう・・。

というわけで、私から見ると『シン・ゴジラ』は実に全うなオタク映画なのです。
(昔、84ゴジラ公開後、とあるオタクさんが続編として、破壊された東京の復興に絡んでロイズ保険会社が乗り込んでくる、なんてアイディアを得々として語っていたのを思い出します)

しかし、それは本多猪四郎監督の信条、「大衆とともに楽しむ」からはかけ離れているのではないでしょうか。

ヒットしたから善、というのも映画の商業的側面からは正しいことですが、
芸術的側面からは必ずしも正しくはないでしょう。
(多数決で間違った結論を出すこともある)

ああ、そして、ゴジラと名乗らなかったら、そうですね、私も見に行かなかったと思います。
衛星放送待ちしたでしょうね。(もういまはウルトラマンの映画も劇場には行ってません)

しかし、このやり方はまずいですよ。
ゴジラの名前でひっかけて、「別の」ゴジラを出してくるなんて。
ゴジラのイメージが拡散してしまって、ゴジラのブランド力は落ちていくでしょう。
やるなら、ゴジラを中核に据えた怪獣世界を広げるべきなのです。
それは過去の東宝特撮がすでにやったこと。

『シン・ゴジラ』での政府対応を中心にする、というアウトラインを生かしたままで、新怪獣ちんごじらとゴジラが戦う物語は作れたはずです。
なんのことはない、マキゴロウだのオタク怪獣対策チームだのを省けば良いことです。
そうすれば、ゴジラ映画にはなったはず。

ゴジラにバージョン違いを作る暇があったら新怪獣をどうやって当てるかを考えてほしいものです。

無題 - K4 (男性)

2016/09/10 (Sat) 00:42:45

ゴジラでの検索が多いからでしょうか、こんなものを発見しました。
今日放送の東京ローカルの番組ですが

>おすぎ、シンゴジラを「私は評価しない」理由とは

https://www.youtube.com/watch?v=2cfzhA_neWI#t=12m30s

です。ちょっと拾うと

おすぎ
・最初のゴジラは名作である。
・円谷が作ったあの名作がどんどん大きくなって、何かわからなくなっていき、アメリカに行って余計つまらなくなったことを嘆いている。
・今度シン・ゴジラ出たって言ったところでゴジラ自体が前のものと全然違う。
・そういうことをするのは 【昔の名作をコケにされてる気がする。】
・シン・ゴジラを見た人はつまんなかったって言う人が自分のまわりには多い。
ふかわ
・大ヒットを支えてるのは最初の(ゴジラを)を知らない人たち(では?)
ミッツ
・【マーケティングがすごいされていて大衆性みたいなのが薄れている】のでは?


すべてが同じではないものの、感じている事と遠くないかなと思いました。
ギドラさんが仰っていたことと同じですが、ミッツ・マングローブの言ってる「大衆性が薄れている」というのは、私が言葉で言い表せなかったことを一言で表していると思いました。
リアルだなんだ言ってますが、これはまさにオタク映画なんですよね。
自分は深追いはしてなくともヤマト、999、ガンダム、マクロスとアニメで育ち84ゴジラにつながるオタク世代。
シン・ゴジラを楽しんだのはこの琴線にひっかかるものがあったせいでしょう。
ミレニアムの時期にネット上でゴジラファンの皆さんと話す事がなければ、怪獣映画のその本質にふれることがなく、今回、絶賛してた側だったのではないか、と思います。

ギドラさんのおかげで、映画館では楽しめたはずなのに何かが引っかかる、というモノが詰まった感覚がとれたような気がします。




Re: 現代にはじめて巨大生物が現れるのがリアルなのか? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/12 (Mon) 18:38:37

恐縮です。

この掲示板がなにかしらお役に立てたのなら光栄です。

うーむ、しかし、MXTV、やるなぁ。
いろいろなメディアがまるで『シン・ゴジラ』が傑作であるかのような煽りを繰り返す中、出演者にちゃんと本音で語らせていたんですね。

映画館では楽しめたはずのK4さんでも、マスコミが騒ぐほどの傑作とは思わなかったんじゃないかと推察します。
やっぱりなんかヘンな感じ。

シン・ゴジラ 特撮は? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/02 (Fri) 18:21:11

さあ、総まとめ最後のパートです。

『シン・ゴジラ』その特撮。

技術的にはコンピューターグラフィクスとデジタル合成がほとんどで、その精度は現在の基準を十分クリアしていました。
合成カットの奥行き感も間違っていなかったと思いますし、当然、輪郭が浮く、なんてことはないですよね。

ただ、弾着の爆炎はいかにも素材を貼り付けましたという感じで、平面的に見えました。
実際なら、複数の爆発が同時に起これば、それぞれの爆風が影響しあうはずで、もっと炎や煙の形が変わるでしょう。

すっ飛んだ橋が落ちてくるところや爆弾列車はちとCG臭かった。

ちんごじら自体はすべてCGで描く、という噂を聞きましたが、実際はなんらかの作り物(人形?)も使っていたのでは?
デザインはともかく、巨大感などまず問題のない出来映えだったと思います。

ミニチュアワークは、住宅街(瓦屋根がアップになる)や崩れる土手あたりは、破綻はしていないまでもミニチュアだな、と映像からわかりました。

そして、今回、最大の収穫だったのは、ビルの倒壊描写です。
「巨神兵東京に現わる」でもいくつかビル破壊の実験を行っていました。
しかし、あれはビル解体の爆破を再現したようなもので、劇中のリアルではない、と当時指摘しました。

『シン・ゴジラ』でのビル倒壊は素晴らしいです。
どのような仕掛けだったのかはわかりません。映像から、CGではなくミニチュアだったのだろうと推測していますが、昔の石膏ビルのようにただ外壁がガラガラ崩れるのではなく、
内部に鉄骨や鉄筋が入っていると思わせるゆがみ方をしながら倒れていく。

やっと日本の特撮は鉄筋コンクリートビル破壊にリアルさを作り出せた。
(成田亨さんの述懐によると『ゴジラの逆襲』時にすでに試していたことだそうですが、予算と時間の問題でその後極めることが出来なかったらしい)

付言すると、『ラブ&ピース』(園子温)にもミニチュアビルを実景と合成するカットはありましたが、確信犯なのか、ミニチュアの精度が悪すぎて合成はバレていないのに、完全にミニチュアバレしている。

あとは、カメラワークとカット割りです。これは技術ではなく、演出の話。
演出の話の時、ひとつの破壊を複数のカットで見せることを書きました。
ひょっとすると、『シン・ゴジラ』でもやってるじゃないかと思った人がいるかもしれません。

第二形態が倒すマンションでも室内にカメラを切り替えていますし、凍結作戦でのビル爆破倒壊でも室内の様子や窓を割って落ちる家具(椅子や机か)折れる柱と、ビル全体が倒れるカットだけでなく、
部分の様子も見せるカットを入れていますから。

しかし、あれは、モンタージュ技法なのです。
爆破があり、ビルが倒れ始め、そこへ傾く室内や折れる柱の映像が挟まれば、見た人は「ああ、いま倒れているビルの一部なんだな」と判断します。
それぞれのカットに共通する事物が映っているわけではなく、動きが連動しているわけでもありません。
バラバラのカットを組み合わせて一続きの意味を作っているわけです。
それはたしかに映画編集の一テクニックですが、私が主張する体感的な映像にはなりにくい。

ビル外観だけでも複数のカットに分けるのです。
全体を見せたら、その動きにつながるように壁面のアップ、さらにはちんごじらに接触する瞬間のクローズアップ、砕けるビルとちんごじらのフルショットなど・・・。
一続きのアクションをカット割りし、サイズを変えて細部と全体像両方を見せることの効果は円谷特撮にたくさんお手本があります。
円谷英二はサイズを変えるだけでなく、時間の反復という特殊なこともやりますよ。

とにかく、ビル破壊の特撮はお見事でした。
あとは映画映像演出にもっと気を遣って!!

シン・ゴジラ 演出の話補足 殿様ギドラ (男性)

2016/09/02 (Fri) 18:14:02

書き漏らしがありました。

その趣旨はすでにほかのシーンについて書いたことと同じですが、ドラマ上重要なのでちゃんと書いておきます。

謎の図面が折り紙になっていることに気づいた後のこと。
折った紙は画面に映りますが、折った瞬間がない。
何を書いているのかわからなかったものが、紙を折ることで意味がわかったのですよね?
ならば、観客にも謎が解ける瞬間を見せるべきだ。

意味不明の線や記号の羅列に見えていたものが、折りたたんで離れていたパーツがつながることで文章が読めるようになったのか、
フローチャートが見えるようになったのか、化学式が書かれていたのか??

あの紙に何が書かれていたのかも見せてくれないし、まったく映画的ではないのです。

これもあとで言葉で説明すればいいだろうというやり方を押し通している・・。

結局シンゴジラって - ルー等級つつ大臣 (男性)

2016/08/31 (Wed) 00:59:19

ギドラ氏お疲れ様でした。結局のところこのちんごじらって屁理屈やゴタクをならべてそれをシナリオにした作品だと思うのです。
でここに思い出されるのがミーがこのサイトに来て初めて意見らしきものを言ったGMKあれ以来の不快感なのです。
というか屁理屈の度合いが。
この作品、大筋でいうとホント大したことありません。現代日本に怪獣が出たらどうなるか?ですから。でもそれを不快にしているのが細かい屁理屈の数々です。
会議のシーンやら米国のエージェントやらマキ教授の事やら細かい方程式のことやら血液凝固剤のことやら言い出せばキリがありません。
反面、怪獣のシーンでは本当におろそかにしているというかせっかくのデジタル技術が活きてないというか動きが単調でこれで大丈夫なのか!?と思ったざます。というかゴジラってああいう進化なんてしませんからね。
何あの第二形態第三形態って。
ちょっと人を馬鹿にしていると思いましたね。
まぁ動きはなかなかの出来とは思いますが。
でもやっぱりここまでされるとさすがにふざけるな!って気になってくる。
でその後の第四形態でのちんごじらですが意外にもこれが一番の問題で映像を見た限りだとほとんど動かないではないか!
移動も単調だし。おまけに自衛隊との戦いでもリアクションゼロ…で動いたら動いたでビーム出したら電池切れ…何だかなぁ…

で後半の作戦名…ヤリワリじゃなかったヤシオリ作戦なんだけど単純にゴジラ凍結作戦でいいんでないの?何でその作戦名にしたの?説明がないってのはちょっと酷いんでないの?

でラストのちんごじらの尻尾の人形なんだけどこれが第五形態という奴なんだろうか?ここまでしてしまったらやっぱりちんごじらはゴジラじゃない…

結果的にはこの作品、庵野氏の人気でエヴァンゲリオン世代の人も入ったのもあるし人気俳優が出てるからというのも話題性があるからヒットしたというのが真相ざます。

ただこの作品がリアルかと言われたらギドラ氏同様否定的ざます。
前半屁理屈の後半馬鹿話のどこがリアルなんだろう?(馬鹿話の伏線の張本人がマキ教授じゃなかろうか?何しろ勝手にしろ!だから)
まるで水と油のような展開のどこが!?
ただその間ちんごじら寝てるんですよね…
口からゲロ出した瞬間次に火炎となって最後にビームになって飛行機撃破したのはいいけどそのあとでビームは背鰭からも出したりしてビル炎上させたりしてたよね。あそこはいいけどその後の電池切れ。怪獣らしからぬ行為だわ…
せっかくビーム出せたんだから徹底的にビームで街を破壊すべきだったのにそれをしないのだから残念…
それ以前に電池切れって怪獣はちょっと酷いわ…



Re: 結局シンゴジラって - ルー等級つつ大臣 (男性)

2016/08/31 (Wed) 10:19:42

というかビーム出した時点でこれはもうゴジラじゃないなって思いましたね。スタッフの皆様何を考えてるんだか…
脚本はどうなってるんでしょうか見てみたいものです。
あ、街を徹底的に破壊と書きましたがそれは無しで結構ですがせめて電池切れなしで進撃シーンだけは欲しかったところです。

Re: 結局シンゴジラって 殿様ギドラ (男性)

2016/08/31 (Wed) 18:44:45

長ったらしい詳細突っ込みをお読みいただきましてありがとうございます。
(まだ、長いの書きますけどーー)

考えてみれば、あのGMKからもう15年ですもんねぇ。
東宝内部のゴジラ戦略会議にも、子供の頃GMKにしびれたとか、エヴァで人生変わったとかいう人がいたりするんでしょうかね。

そうなると私なんか、大悪人だ。
エヴァはともかく、GMK否定の筆頭だったですからねぇ。

私のことは嫌いでも、私の意見まで否定しないで!

たしかに、屁理屈のひどさという点では『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃』(フルでタイトル書いたことなんてあったっけ。で、これで正しいですよね)と『シン・ゴジラ』は同じぐらいですね。

で、ドラマの組み立てはGMKのほうがひどくて、でも怪獣の派手さではGMKのほうが勝っているというところでしょうか。
GMKは自らが提示した設定に矛盾する展開が多かったからなぁ。

いずれにせよ、屁理屈をこねる映画はつまらない、ということですよ。

にしても、この『シン・ゴジラ』が妙に高評価なのは気になる。
なにか情報操作が行われていないか?
大丈夫?東宝の工作員がステルスマーケティングやってない?
みんな、自分の正直な感覚を信じて!

Re: Re: 結局シンゴジラって - ルー等級つつ大臣 (男性)

2016/08/31 (Wed) 23:11:14

となるとミーも同じ大悪人になってしまうざますよ。何せGMKに関しては否定的意見でここに書き込みに来たんですから。
意見的にはギドラ氏とほぼ同様なんざます。
で結局ミーが言いたかったのは屁理屈の多い映画はやはり良くないということなんざます。で今気付いたんざますけれどちんごじらって怪獣らしい演出が施されておらずまるで前衛芸術のオブジェみたいだったということでした。あれじゃ心の中の怪獣が疼くわけがないし第一ほとんど動かなかった理由も分かりました。(ちなみにミーの心の中にも怪獣はいます)

Re: 結局シンゴジラって 殿様ギドラ (男性)

2016/09/02 (Fri) 18:12:07

お互い、大悪人を貫きましょう。
そして心の怪獣を大事に育てましょう。

時代の変化だかなんだか知らないけれど、ゴジラという名前だけ使って形も中身も別物にしてしまえ、という不正行為に対しては飽くなき戦いを挑みますぞ。

だいたい、オリジナルのゴジラが時代に合わないなどとどこの誰が言ったのか?
もし時代に合わないというなら、論理的に説明せよ。
それが正しいなら、もうゴジラ映画なんか作っちゃいけないのだ。
時代に合わせた新怪獣を考えて下さい。

私は元祖ゴジラのままで十分今日的だと思いますけどねーー。

シン・ゴジラ 演出について 殿様ギドラ (男性)

2016/08/31 (Wed) 18:48:53

シナリオ(ストーリー)のことは一通り書きましたので、今度はそれをどのように見せていたかという演出面のことを。

いきなり最初の東宝マーク。
現行のものにつづけて、昔の東宝マークが表示されます。昭和40年代に使われたものかと思います。
これを見たとき、昔の東宝特撮映画を再現するような映画である、という宣言かと思ったのですが、まるでそんなことはなかったのですから、ちょっと意味がわかりません。
そして、映倫マークだけで一枚テロップ。苦笑。(とにかく変わったことをやりたいんだねー)

ちゃんと作品タイトルをまともに出してくれたのはよかったです。(ひょっとしたらタイトルなしでスタートさせてエンドロールの最後にタイトルを出す、みたいなヘンなこともあり得る)

中身が始まると、いくつか変なカメラポジションがこれ見よがしに出てきます。
電話機からの見た目とか、なんだっけな、箱ナメの構図だったり。
しかし、そんなのは初めのうちだけで飽きたのか、思いつかなくなったのか、影を潜めてくれたので助かりました。
全編通じてひねくれたカメラポジションを使われたら疲れちゃいますよ。

しかし、会議シーンなど人物の動きに変化のないシーンがほとんどで、カット割りに苦心している様子はうかがえて、これもはじめのうちはアップやロング(室内だが)の組み合わせをいろいろやっていました。
が、工夫の種が尽きたのか、ただしゃべっている人物のクローズアップばかり連発するシーンもあって、ちょっと見るに堪えない映像でした。

とにかくドラマが進行するのが室内シーンばかりで映像面での変化が乏しい中、たまに外のシーン(ジャーナリストと取引する場面や矢口・カヨコ対話、矢口・赤坂対話など)があっても、
映画映像としての張りを作る工夫はありません。
どこかの屋上とかモノレール基地とかとにかく殺風景な場所を使っています。
なぜそこなのか?
とくにモノレール基地に関しては、芝居の内容から考えてもあの場所で話すことではないし、なぜわざわざ無機質な場所を選んだのか理解に苦しみました。

それから、多くの人がひっかかった字幕スーパーの嵐。
名前、役職だの機種名だの所属だのとにかく字幕が出る。
はじめのうちはただの美術的字幕で中身はさほど気にすることはないのだろうと思いました。
なにしろ長くて読み切れないし、セリフと同時に表示したりするのですから字幕の内容なんか頭に入りません。

ところが、映画が進むにつれて、登場人物の名前や立場を伝える芝居がほとんどないことに気がつきました。
私が映画を見ただけでわかったのは、主人公が矢口という名前であること。(しかし、役職はわからなかった)
赤坂という人もいた。(役職はわからない)
泉もいた。(立場不明。余談だけど、ミスキャストでしたね。彼は政界で上り詰めるような優秀かつ企みに長けている人間を演じられる俳優ではない)
アメリカ代表のおねーちゃん、誰が総理か、誰が防衛大臣か(これはちんごじら攻撃の時あれこれ言っていたのでわかりやすかった。けれど名前はわからない)
その他の居並ぶ役人・閣僚はどれが誰やらなにやらさっぱりわかりません。

ちんごじら対策会の面々も、結成以前から顔を出していたおねーちゃんはなんとなく生物の人だなとはわかりましたが、名前は印象なし。
それ以外のメンバーとなると、雁首そろえているだけでそれぞれの専門も名前もわからない。

となると、作り手は最初に表示した長ったらしい字幕で説明責任を果たしたと考えていたということになります。

ストーリーテリングを知らなさすぎるでしょう。
たとえページを後戻り出来る小説であっても、人物設定やその他重要な設定は何度か繰り返して読者に提示するものです。
物語の流れの中でお客さんに理解してもらう努力をするものですよ。

登場人物の動き(誰とどこで会い、何の話をするかとか)を工夫して最低でも主人公の役職がなんであるのかはっきりと「芝居で」示すべきでした。
全員でなくても主要人物の力関係がわかるぐらいには教えてくれないと、劇中世界に入っていけません。
ん、これもシナリオの問題になるのか。
演出面ということで言えば、誰かがセリフをしゃべっているとき、別の人物の表情を見せることで力関係や上下関係を感じさせることが出来る。そんな工夫がどれだけあったか。

そんな説明不足は場所の提示にもある。
この映画には、映像で場所を特定させるカットがほとんどない。
繰り返される会議はどうやら首相官邸で行われていたようだが、確信はない。
ロビーらしきところにたむろする報道記者の点描で、「5階からのなんとかかんとかがどうのこうの」というシーンがなんとなくテレビで見た総理官邸の一階に似ていたな、と思ったぐらい。
あとはセリフで「官邸も危ないです」と言うので、ああ、総理官邸だったんだ、と思ったのです。

自衛隊の基地にしてもいきなり室内だし、首都機能を移転させた立川にしてもその施設の外観はわからないし、立川が東京都心からどれぐらい離れているのかがわかる映像もない。
立川から都心方向を眺めるカットでもあれば、まだ煙を上げているはずの東京との距離感は出せたのではないか?(私が忘れているだけなら、そのカットあったよ、と誰か教えて)

すべてが記号的で、文字やセリフで説明すれば済むと思っている。
ちんごじら第三形態が海に去ったのも、セリフで説明するだけ。
去った後の海面が泡立っているような映像はありましたが、ちんごじらがまさに海に没する瞬間の映像がない。

それは前半の総理が死ぬシーンにも当てはまる。
ちんごじら都心侵攻で、ヘリコプターに乗って立川へ逃げようとするシーンのこと。
ヘリに乗ります、ということはセリフで言っている。
総理が屋上らしきところからちんごじらを見ているシーンもある。
が、ヘリに乗り込み飛び立つシーンもなければ、機内の様子もない。

それが、ちんごじらビーム乱射のとき、急に一機のヘリコプターが映り、無線の声で「総理以下誰々を乗せて立川へ云々」と聞こえたところにちんごじビームが当たって爆発。
一回目に見たときは、無線の声が映像とは連動しない(しゃべっているパイロットが映ってはいない)オフセリフだったのであまりちゃんと聞いていなくて、
ただ上空にいたヘリコプターも巻き込まれて爆発しただけだと思いました。

その後のシーンで総理が死んだことがセリフに出てきたために、ああ、さっきのヘリコプターには総理が乗っていたのか、と理解した次第。

映画的ではない。
セリフなしでも総理大臣が死んだことが映像で理解されるべきだ。

しかし、この全体に映画的ではない映像構成、確信犯とまでは言えないまでも、なぜそうなってしまったのかのヒントはありました。

字幕の洪水とも関連しますが、はじめのほうに出てきた役に立たない御用学者三人のシーン。
ここにもそれぞれに名前だの役職だのの字幕スーパーが入りますが、なぜか名前は(仮)となっています。
なぜ仮名にする必要がある?
これは劇映画であり、観客ははじめからフィクションだと知った上で見ているのだ。
この仮名を使う手法は、実話を再現ドラマにした場合によく使われます。

『シン・ゴジラ』、実話を再現したドラマの体を装った偽再現ドラマを目指したのか?
そうすると体感的でない映像にも説明がつく。
とくに怪獣絡みのシーンは、カットのつながりがほとんどなくて、報道映像をかき集めたような印象を与える。
(まあ、東日本大震災時の報道映像にもろに影響を受けたようなカットが多いのだが)

土手が崩れるカットなどは割と印象が強い(CMでも使ってましたね)けれど、その前後のカットとぜんぜんつながらないので、ちんごじらがどうしたら土手が崩れたのかわからない。
体感的でない。

ちんごじらの移動を見せるのは大ロングがほとんど。
怪獣の大きさや移動感を伝えるには悪くない、というより積極的に使うべき手法なのですが、それ以外の場面でもカメラは観察者の位置を守っている。
避難民の主観カットはあるものの、被災者の主観カットはない。
当然のごとく怪獣の主観カットなどあろうはずもない。

これは報道カメラの視点です。

とはいえ、すべてがその映像で統一されていれば、フェイクドキュメンタリーとして成立したかもしれないのに、ところどころに劇映画的映像が挟まる。

ちんごじ第二形態が浴びせ倒しで壊すマンションの被災者などは、避難準備をしている様子を一旦見せてから、間を置いてマンションが崩れるときに同じ室内を見せるという流れを作っている。
ここは特撮も含めてなかなかよく出来たシーンではありましたが、どうにもほかのシーンから浮いている。

また自衛隊絡みにはやたらと主観カットが出てくる。
ヘリからの見た目、戦車からの見た目・・・・・。
となると、別にフェイクドキュメンタリーを目指したわけでもなさそうである。

どうも、本物らしく見せる、ということがテレビのニュース映像みたいに見せることだと思っているんじゃないかと疑います。
たしかに、われわれはテレビや新聞から世界を見ています。
報道されることが現実だと思って生きざるを得ません。(必ずしもそうではないのだが)
ですからテレビニュースで見たような映像を作れば、事実っぽくなるわけです。

しかし、劇映画とは、報道が入っていけない現場、現実、真実に迫るためにあるのではないのか?
そのために先人たちが映画映像を体感的にするためのテクニックをさまざまに編み出したのだ。
(映像の構図、カットのつながり、音響でもなんでも)
なんでわざわざ真実に迫りきれないテレビ報道の映像のまねをするのだろうか。

ビルの倒壊一つとっても、昔の特撮では(いや、円谷英二は、か)ひとつの破壊を複数のカメラで撮影し、いくつかのカットに分けて(その分け方はいろいろ)再構成する。
その効果はさまざまであろうけれど、ビルの倒壊という現象に(抽象的な言い回しをご勘弁下さい)入り込もうとしているのです。
そして観客は破壊を体感し、何らかの感情を喚起されるのです。

そんなカットは『シン・ゴジラ』にはひとつもない。

ただ、特撮演出で褒めておかなければならないところはあります。
『シン・ゴジラ』のスタッフ布陣を聞いたとき真っ先に思ったのは、「巨神兵東京に現わる」みたいな映像になったらヤダな、でした。
わざとミニチュアがばれるようなことをしたり、ビームが当たればなんでも大爆発、というリアリティのなさには辟易しましたので。
しかし、『シン・ゴジラ』ではそのような変な特撮演出はありませんでした。
ちんごじらの熱線はあくまでも熱を伝えているものという表現だったと思います。
ビルが赤熱して穴が空いたり、斜めに切られたり・・、そこはよかったです。
(が、そんな破壊を体感的に見せる映像構成はなかったのだぁぁぁぁ)

怪獣演出には不満だらけですが、そもそもこの映画での怪獣は原発事故の化身なので、野生や躍動とは無縁。何を言っても無駄か。
(上記の体感的映像が出来ていないので、ちんごじらは怖くもなかったですよ)

音響面では、ひょっとしてこの映画、ただのステレオ音響だったのでは?
背後に音が回り込んだ印象がない。
モノラルだったとは思わないのだが。え?駿さんがモノラルにしたから、ちょっとだけ真似した??
このご時世、スペクタクル映画には7.1chサラウンドでないと、世界に通用しないんじゃないかなー。

効果音の件はすでにルー等級つつ大臣さんとの対話で書きましたので割愛しまして、音楽のこと。
ちんごじらにはなんらかの思想性を感じてほしかったんでしょうね。妙に宗教的な音楽が当てられている。
その他のシーンは映画全体を貫くような音楽設計ではなくて、シーンごとにありがちな効果音楽にしている。
夕景の東京俯瞰にはムーディーなジャズ風とか・・。

で、問題の伊福部音楽。
既存の曲を作り手のイメージに合わせて当てはめたんでしょうけれど、まずLansさんに同意するのは、凍結作戦で宇宙大戦争からの曲を使ったこと。
空中戦用の曲は合いませんよ。

そして、音質。
伊福部音楽になると突然音質が悪くなる。(エンドロールの「vsメカゴジラ」以外)
これはオリジナルのサウンドトラックを使ったせいですね。
録音が古いので音が悪いのでしょう。
デジタルレストアしてもダメだったんでしょうか? それとも、わざと音が悪いままにした??モノラルのままだったし。
あるいは同じ曲の新録版(使われた曲はほとんど再演されている)を使うわけに行かなかったのか。このあたりはいろいろな事情が絡むでしょうから簡単には言えませんが。
けれど、伊福部音楽だけモノラルになり音質が悪くなるのはどうも居心地が悪かったです。

あとは、『ゴジラ』(1954)から、どーんどーんというゴジラの足音風に聞こえる音を、ちんごじらの足音として使っていましたね。
どうなんでしょう。初代ゴジラは姿を見せているときにあの音はつけられていません。
あれはゴジラの予兆を示す音楽である、という説もあります。つまり効果音ではない、と。
実際、『ゴジラ』(1954)のメインテーマ曲楽譜には、どーんどーんが五線譜上に書かれています。やっぱり、音楽でしょう。

あともうひとつ。
これは効果音のことになりますが、その意味はわかりませんが、ちんごじ第三形態は初代ゴジラの鳴き声、第四形態は二代目ゴジラの声になってました。
だからどうした、ですね。私もわかりません。

以上だぜぇ。

シン・ゴジラ 細部その4 あなたの中に怪獣はいますか? 殿様ギドラ (男性)

2016/08/29 (Mon) 19:27:05

えー、かなり疲れて参りました。
全部読んでいる人なんかいるんでしょうか。
しかし、完遂しますよ。

多少話の内容は前後することになりますが、マキ氏はいったい何をしたんだろう、としきりに考えるくだりが分散して出てきます。

好きにした、の、好きにしろのと。

このあたり、観客に対してさまざまな情報を隠している映画ですが、登場人物はアメリカからの情報とマキ氏のボートから回収した書類を握っているのですよね?
謎の図面にしてもちんごじらについてのものだ、ということはわかっている様子です。

そして、マキ氏(劇中ではやたらとマキ元教授という言い方をさせているが、一回目に見ているときは途中から牧本という人かと思いましたよ。牧本教授、と)の研究が
放射性物質の無害化であり、それが出来るなら放射性物質を作り出すことも出来る、というのが劇中世界での常識なんですね。
そして、ちんごじらの細胞は放射性物質を作り出すことが出来るという・・・。

さらにマキ氏はちんごじらの存在を予言していたというではありませんか。
もう、マキゴロウがちんごじらを作った、ということでいいじゃありませんか。
そして、そのちんごじらの処分をどうするのかを人類に突きつけた、と。

まあ、ほとんどそのようなことを矢口は言っているわけですが、しかし、そうなるとちんごじらを倒す方法をパズルのような図面に隠した意図がよくわからない。
劇中でもマキゴロウについて、何を考えているのかよくわからない、と評してはいますが、そこ、わからなくていいんでしょうか。

観客の判断にゆだねる、といえば聞こえは良いけれど、作り手の逃げではありませんか?
原子力の扱いについて何も主張しないのですか?

暴れ始めた原子炉(ちんごじら)に対して核攻撃か、緊急停止かという二者択一も比喩としてずれているし・・・。

で、まあ、なんだかよくわからないけれど「好きにする」というのをキィワードにして、総理ははんこを押す。
これ、不明瞭だけど、矢口の作戦にゴーサインを出したっていうこと?

このあともなんだかシナリオとして不愉快なんだなぁ。
突然矢口は作戦名を「ヤシオリ」と言い出す。
なんのことやらさっぱりわかりません。
君たち、この意味わかるかね?とほくそ笑んでいるようで気持ち悪い。
劇中の誰もその意味を訊ねようとしない。常識なんだな。
あー、そんなことも知らないおいらは無知蒙昧なんだーーーー。

ここでは、作戦準備はすべて整っているということでこれまでくどくどと見せてきた手続き的なものはカット。
それでいいんじゃないでしょうか。
なにもかも出来上がった結果だけ見せるのではさすがに劇的盛り上がりに欠けますが、この最後の作戦はだいたいどんな効果を狙って何をするのかはすでに伝わっていますから、
このぐらいの省略があってもいいでしょう。

同じような省略技法をほかのシーンにも使えば、上映時間を増やさずにもっと多くのことが描けたはずなのだが・・・。
(あるいはこの最後の作戦を準備段階から丁寧に見せれば、クライマックスはもっと盛り上がったでしょう。それがないために後半がやけにあっさりして見える)

使用する薬剤の生産が間に合わないとかで核ミサイル発射を遅らせられないかということになり、フランスに動いてもらう話になりますが・・・。

ここの理屈の浅はかさにひっくり返りました。
フランスは原発推進国だからちんごじらの機能に興味があるはずなのでちんごじらを研究したいんじゃないかな、と。
えー、そんなことなら、はじめからフランスは核攻撃に反対するでしょう。
フランスは国連安保理常任理事国であり拒否権を持っていますから国連軍による核攻撃はあり得ないことになります。

それから原発推進国でなくとも、放射線に耐える体だったり放射性物質を作り出す細胞膜だったりには各国興味津々でしょう?
そんな情報はアメリカが秘密にしていたのだっつったって、ちんごじ騒動でかなりリークしてしまっただろうし、各国の諜報機関が事前になにかつかんでいてもおかしくないでしょう。
国連において、アメリカ以外の国々は核攻撃に反対、とするほうがリアリティがあります。
日本に近いロシアや中国がちんごじらを恐れて核ミサイル攻撃に積極的に賛成している、というのもどうかなぁ。
ちんごじらそのものの脅威をそれほどまでに恐れますかね。
劇中では根拠もなく無数に増えるだの空を飛ぶだの言ってますが、ロシアや中国もそう考えたんでしょうか。
現実にはアメリカの方針を批判する目的で核攻撃には反対しそうだが。

ですから国連軍が結成されてアメリカ主導で核攻撃、というシナリオには無理があるのです。
アメリカが自国の都合だけで無理矢理東京に核を撃ち込もうとするほうが自然な流れです。

陳腐なシナリオはまだつづく。
フランスに横やりを入れられたアメリカ側の対話として、カヨコと高官(あれは誰だったんだ?)のシーンが出てきますが、
フランスに「ちんごじらを研究したくなぁい?」と日本が持ちかけたことを「狡猾な外交」とは!?
それぐらいの根回しはどこの何の交渉ごとでも当たり前にやること!
狡猾でも何でもない。相手の興味や利益を満足させる条件を出して取引するのは日常レベルで行われている。

なにが、「危機は国家も成長させる」だ。現実の日本の外交がそれほど間抜けなのか?

そして、カヨコが何をやったのか不明瞭なまま、話し相手の米国人は「主流派に反対したことでキミのキャリアに傷がついたな」とかなんとか。
カヨコ、何をしでかしたのーーーーー????何にもわかりません。
はじめは「私の経歴に傷をつけないで」などと言っていた勝ち気女が日本のがんばりにほだされて自己犠牲精神で日本を救った(原爆で不幸になったばあちゃんの国にまた核ミサイルを落としたくない、とも言っていましたが、ばあちゃんに何があったんだ!?)、
みたいな展開に見せたかったのでしょうけれど、
中身がわからないんじゃーーーー。セリフの説明でドラマを感じろとは、放置プレイもいい加減にしろ、このシナリオ。

こんなところが、後半どんどん雑になっていく、と書いた所以です。

それでねぇ・・・。
ため息。
この日米共同作戦に米軍から志願者がたくさんいる、という話のついでに「この国は愛されてるね」とは。
ここまでさんざんアメリカを困ったちゃん扱いしてきたことの償いなんでしょうか。
そりゃ、米軍の中から志願者が出てくるのはいいし、それを以てカヨコが「日本は愛されてるわね」と言ったっていいですよ。
けれども、このようになんらかの人間集団を十把一絡げに語るのは、どうにも気持ちが悪い。
私なら、1分でいい。米兵同士の対話シーンを入れますよ。
親日派と嫌日派それぞれの代表的な意見を言わせます。そうでもしないと、米軍基地の近くで米兵による犯罪に巻き込まれたりしている人々の感覚に合いません。
私なら、米国人・米兵にもいろいろな人間がいる、という見せ方をしますね。

前線に出て指揮するという矢口。
作戦前の大演説、あれ、要りますか? たいした中身のない訓示。自衛隊を称揚する必要があったんですかね。

あとは列車爆弾だの無人機による攻撃だのでちんごじらのエネルギーを消費させ、血液凝固剤を飲ませて固める、と。
ビルを倒して埋めたりと大がかり。
最初にとりついた凝固剤注入車が破壊されたぐらいが番狂わせ的に扱われるけれど、あとは人間の思うまま。
おもしろくないなぁ。

怪獣はずーっとよろよろしたままだもんなぁ。

怪獣好きの人がこんな映画で満足するのかなぁ。疑問だなぁ。

うまいこと血液凝固剤が注入できて、ちんごじらくん少し抵抗して固まる。
怪獣考察の回でも書きましたが、なぜかマイナス200度近くにも冷える。これ、もっとみんな突っ込んでいいんじゃないかね。

そして、ギャレス版ゴジラでの核爆発にも匹敵する大甘設定が飛び出す。
ちんごじらが作り出す放射性物質の半減期が20日だという。
たしか線量も大したことはないという設定じゃありませんでしたか?(急性放射線障害に苦しむ人の描写もなかったしね)
なんだそれ。
原子炉の直喩みたいに扱っておきながら、こと放射性物質の害に関しては現実の原子炉よりまるで御しやすい。
これが東日本大震災による原発事故を経験した日本人が作った映画なのか。

ちんごじらとは、放射能とはあまり関係のないただのデカ物だったのか。
(まあ、ほんとうに無数に増えたらちょっと困るか?でも第一形態のときに爆破すれば死ぬでしょ)
2時間かけて大騒ぎしたのはなんだったんだろう。

なんてことを書くと、いまの日本で放射線障害のことやあからさまな原発批判なんか出来るわけないだろう、などとプロデューサー視線で弁護する人が出てきそうですね。
何を言うか、日本には言論の自由があるのだ。
スポンサーなどに気を遣って自由な言論をしない表現者に対して我々大衆がNOを突きつけなければならない。
先回りして作り手の事情を斟酌してどうする。
本物の表現こそを大衆が支持すれば、出資者もいらぬ制限はかけなくなるだろう。

ここで表明しておきますが、映画などというものは製作にたくさんの費用がかかるために関わる人間も多く、矢面に立っている監督やシナリオライターだけが決定権を持っているとは限らない。
『シン・ゴジラ』の表現内容が腰抜けであるのは、必ずしも監督のせいだとは限らないということです。
ひょっとしたら監督たちは、もっと救いのないエンディングを考えていたかもしれない。
だとしたらそれを変えさせた者がいるはず。(そうではないかもしれない)
ならば、この腰抜け!と言ってやることで監督たちにエールを送ることになる。(そうではないかもしれない)
とかなんとか考えたって告発者が内部事情をリークしてくれない限り何もかも藪の中。
というわけで、観客は作り手の事情など考えるべきではない。
(映像技術面やセットだのなんだの、技術限界や予算限界に関わるものはその限りではないけれど)

と、ちょっと話が横にそれました。

ちんごじらが沈黙して、(はい、ここダジャレね)赤坂が後始末の話なんかしますが、「フランスを説得し続けた総理の努力」とかなんとか言いますが、え?そんなことあったの?てなもんです。
フランスと交渉すればいいとかなんとか言ってたのは泉くんで、総理にはここまでフランスがらみの動きなんかなにもなかったはずだ。フランス大使(?)らしき人物に総理が頭を下げているカットがありますが、
それはすべてが終わってからのこと。
これも、描きもしていなかった事実をセリフだけで説明するダメなやり方。(くどいようだが、前半の行政段取りに省略技法を使えばいくらでも描く時間が取れただろう)
そして、怪獣対策法を作る話もしていますね。
昔の怪獣映画は、その先を描いていたのですが・・・。(『キングコング対ゴジラ』での急行津軽緊急停車のくだりを見よ。怪獣出現時の対応マニュアルがちゃんとあるのがわかる)

で、ヒーローとヒロインの小粋な会話か。
このあたりはもはやどうでもいい。

そこで、ちんごじらが動き出せば核ミサイル発射のカウントダウンも始まる、という設定が提示されて続編も作れるよ、と色気を見せる。

そして問題のラストカット。
ちんごじらのしっぽの先には地獄の餓鬼みたいな異形の者が多数絡みついている。
体型はほぼ人間ですから、ちんごじらのもとになった海棲生物とは思えない。
ここで観客を煙に巻いて、またもさまざまな解釈を巻き起こさせて論争商売をやろうという魂胆か。
真意はどうあれ、ちんごじらを人間に近いものと解釈させようと考えているのは間違いないのでしょう。
(マキさん、妻の遺伝子をちんごじらに仕込んじゃった?白神博士のまねした?)

これも、古いゴジラ論。
ゴジラを核兵器によって「生み出された」怪獣と考えると、こんなゴジラ=人間論になってしまう。

違いますよ。

第一作『ゴジラ』を細心の注意を払って見直してほしい。
確かに、核実験によって呼び出されたゴジラには人間の科学によって引き起こされる災厄という側面はある。
が、ゴジラそのものが科学の産物ではないからこそ、近代兵器(含む核兵器)にも負けない大自然の生命という設定が生きる。

さて、エンディングまで来ました。

『シン・ゴジラ』全体を見渡すと、怪獣映画を馬鹿にしていた人たちになんとか認めてもらおうと優等生的回答を一生懸命書き上げた凡才の努力、という感ありです。
怪獣映画がかつて人気を博したのはなぜか、という考察がない。
また映画装置として怪獣が果たすべき役割についても浅く一面的である。(なにかの比喩としてしか使っていない)

私の中の怪獣はこの映画に反応しませんでした。
ちんごじらも怪獣の一種として認めてもいい、とは以前書きましたが、同時におもしろくない怪獣だ、とも書きました。
怪獣が人間ごときに倒される映画を怪獣が喜ぶはずがありません。
怪獣ファンの心の中にはそれぞれに怪獣がいるはずだ、とは、昔、とある怪獣ファンの方がおっしゃったこと。
そう。私の中にも怪獣がいます。
怪獣を倒して喜ぶのは、怪獣ではない者たち。
怪獣ファンがそれを喜んではいけない。

違和感 - K4 (男性)

2016/08/27 (Sat) 10:08:09

音楽以外のもうひとつの私の違和感を。
ネット上のニュースとかだけでなく、テレビ、週刊誌とシン・ゴジラが盛り上がってるのは、悪いことじゃないとは思うのですがずっと違和感がありました。
映画評、ニュースをみて、現代に初めてのゴジラが現れたら、とか震災、原発問題云々の次に出てくる言葉はほとんどがエヴァンゲリオン、ではないでしょうか?
私は多くを語れるほどエヴァンゲリオンのことはよく知りません。
でも、シン・ゴジラ支持している人の多くは「ゴジラ」として語るのではなく、「エヴァンゲリオン」とは切り離せないような印象を受けます。
「庵野秀明がつくったゴジラ作品」として、なら構わないんです。
庵野氏の作風が反映されるのは当たり前です。
でも、シン・ゴジラ支持の人の多くがエヴァンゲリオンというフィルターを通して観ているような気がするのです。
そういえばGMKも平成ガメラを通してのゴジラだったかもしれませんね。

エヴァンゲリオンという熱狂的なファンを巻き込んだことが興行的に成功していることも確かだとは思いますが、あくまで亜流の位置づけであるべきです。
シン・ゴジラがゴジラの本流だと言われ、今後、作られるゴジラ映画をこんなのゴジラじゃない、と言い出すのではないかと危惧してます。
虚淵氏のアニメもあるように、様々なバリエーションを展開していく(層の拡大)ことが東宝の狙いでしょうが、エヴァンゲリオンファンの熱狂が変な方向に向わないことを祈るばかりです。


Re: 違和感 殿様ギドラ (男性)

2016/08/29 (Mon) 19:18:46

「エヴァンゲリオン」ファンが食いつくのは仕方ないんでしょうね。
とはいえ、『シン・ゴジラ』を評するのに、エヴァのあそこに似ているだの、エヴァファンならわかるだの、という切り口を使っているなら、映画評ではなくてトリビア知ってる自慢の域を出ませんなー。

私が危惧するのは、エヴァンゲリオンとの連動より、リアルな映画である、という評がまかり通るんじゃないかということです。
例証は少ない(二件)んですが、特撮だのアニメだのとは無縁に思える報道の人が褒めていました。

曰くリアルシミュレーションである、と。

すでにこまごまと書いてきたとおり、私は『シン・ゴジラ』を全くリアルだとは思っていません。

が、なぜ報道の人たちがそんな風に言うのか。
それは彼らが日常的に気にしている、興味のある、官僚閣僚の様子をメインにしたからではないか。
自分がよく知っている業界の様子をリアルに(官邸の内部とか会議のあり方などはリアルらしい)見せてくれたので、いわばご当地映画のように仲間意識が生まれたのではないか?

報道の人は、政治経済を主に扱うので空想的なことにはあまり関心がなく、SF作品も社会風刺という枠で考えがち。(かつて『2001年宇宙の旅』より『猿の惑星』のほうが大きく取り上げられたのもそのせいでは?)
ゴジラだと一作目だけを傑作扱いにしますね。
政治絡みのシーンで埋め尽くし、怪獣が一匹しか出てこない『シン・ゴジラ』。
報道関係の方々は、これを褒めておかないと、怪獣映画は再び怪獣同士が戦う「くだらない」ものになってしまうのではないかと考え、保護に走ったんじゃないかという印象を持ちました。

マスコミの中ではなんとなく報道が偉いという意識がありますね。
バラエティよりニュース・ドキュメンタリーのほうが高尚である、というような。
そんな報道の人も褒めているなら、傑作に違いないと思い込む人が出てきているんじゃないかと不安です。

ネット上を眺めるだけでも空気に流される人のなんと多いことか。

『シン・ゴジラ』の評価がゆがんでいるとしたら大問題ですが、それ以上に
ゴジラとしてちんごじらが定着することだけはなんとしても阻止しなければなりません。
なぜなら、あれはゴジラではないから。
『シン・ゴジラ』をおもしろいと思ってもかまわない。けれども、登場した怪獣はゴジラではない。これは論理的に明らかである。(84以降の設定変更とは次元が違う)

東宝は、今度のアニメゴジラも、「誰も見たことのないゴジラ」と言っている。
東映が仮面ライダーや戦隊のバリエーションで稼ぎ、ウルトラマンもつぎつぎと別バージョンを出している中、ゴジラも同じ商売を始めたのでしょう。

だが。
ゴジコンの人たち、道を誤っていますよ。
いまあなた方がやっているのは、かつての東宝特撮映画世界にスライドさせれば、最初のゴジラ人気を引き継ごうと、獣人ゴジラ、空の大怪獣ゴジラ、東洋の神秘ゴジラ、巨我ゴジラ、巨龍ゴジラ、宇宙大怪獣ゴジラ、フランケンシュタインの怪獣ゴジラ・・・・・、
と何もかもゴジラ名にしてしまうことです。

1984年以降、怪獣のスター性をゴジラのみに集約(例外はモスラ)してしまったのが元凶なのだけれど、そのあたりの話は別項に譲ったほうがいいですね。

シン・ゴジラ 細部その3 もうむちゃくちゃでごじゃりまするがな(アチャコ) 殿様ギドラ (男性)

2016/08/24 (Wed) 19:33:06

前回の投稿で書き漏らしたことがありました。

自衛隊による攻撃が本格化するところで、会議の席上、「相手は生物なのだから、攻撃するとさらに暴れるということもあるのでは」という内容の発言がありました。
良い視点を持ち込んでいるんだけどなぁ。
ところがなぜかその意見は黙殺され、自衛隊の総攻撃になってしまう。
結果論として、ちんごじらは自衛隊程度の火砲では取り乱すこともなく、黙々と歩いてくれたので被害拡大ということもなく終わるのですが。

というわけで、都心で行き倒れたちんごじらからつづけます。

報道の音声などで概況を伝えるようなシーンがありましたが、音声を錯綜させているため何を言っているのか判然としません。
これは演出の問題ではありますが、シナリオ上大事にしていたのは立川に政府が移ったということなのでしょう。
それは、はっきりわかりましたから。

やること山積みの中、政府首脳がごっそり不在になったことを指摘した部下(なのか?)に激昂する矢口なんて、珍しく感情的な場面があったりして、
(話の流れ上、いない人間を当てにした発言ではないと思ったけれど、まあ、矢口くんが取り乱していることを表現するには、理不尽な怒りも必要だったか)
臨時総理大臣が仕事を始めたことを伝えるシーンで、なにやら外国が不審な動きをしているらしい報告(対馬沖でなんとやら?)もあったりして、お、ここから本格的に国際政治の話になるか、
と思わせたけれど、そうでもない。
(国際政治の話になっただろ、と思ったあなた。もうちょっと待ってね。『シン・ゴジラ』、うわべを飾るのだけはいろいろやってるので)

そしてまた登場人物がべちゃくちゃとしゃべるシーンとなり、総理が死んでもすぐ次が出てくるのがこの国のいいところとかなんとか。
これも気取った日本評のつもりかもしれないけれど、どの国だって総理大臣(や大統領)が亡くなれば代わりを仕立てるでしょう?
ルーズベルトが亡くなればトルーマン、ケネディが暗殺されればジョンソンと。
日本特有の処置みたいに言わないでくれるかな。

その会話、矢口と友人の政治家の間で交わされているのでありますが、そのままの勢いで自分たちの政治家としての将来のことや、赤坂の人物評などをべらべらとしゃべる。
それは、ほかに職員がたくさんいる事務室のようなところでしゃべっているのです。
演出の問題なのかシナリオの問題なのか。
第三者に聞かせていい話ではないでしょ?
政治家として成長株の二人がそんなことしますか?
私は世渡り下手のおっちょこちょいなので、ひょっとすると衆人環視の中でも上司の悪口とか同僚の人物評価とかしゃべっちゃうかもしれないですが、エリートさんはそんなことしませんて。

そうこうするうちに、ちんごじら対策作戦は「凍結」という言葉が一人歩き。
冷却システムを止めれば、原子炉が緊急停止して活動を凍結できる、という話だったはずなのだが、なんか知らないうちに凍結作戦と呼ばれている。

ちんごじらの体液かなにか、サンプルの分析の打ち合わせでさまざまな機関に分析依頼する話になったとき、「国の重要機密だからまずいんじゃないか」という意見を矢口は押し切りますが、
えーと、アメリカとの約束はどうなった?
たしか、ちんごじ情報をよそには漏らさないという協定があったはずでは?
カヨコ、どうした?

と思ったらアメリカが持っているちんごじ情報を分けてくれる話となる。
これ、アメリカが何を知っていたのかを観客にもしっかり伝えるべきだったと思いますよ。
アメリカからもちんごじ対策室に人間が来ますが、彼らがどんな役割を果たしたのかまったく不明。

ちんごじら偵察の話からちんごじはレーダー(ご丁寧にフェイズドアレイ、とメカニズム解説まである。そとからの観察のみでフェイズドアレイなのかどうかわかるのか。怪獣なのだから人間の科学技術を援用している必要はない。余計な説明である)
を持っていることや、上空から近づくものはなんでも撃ち落とすという条件が付加される。

さらにどんどん設定は付加される。
ちんごじらが無数に増えるだろう、翼を持って飛ぶようになるだろう・・・。
飛ぶようになるだろうとの予測はちょいと無理矢理ですな。
進化論的に考えれば、とかなんとか言ってましたが、進化すると飛ぶようになるというのは定説ですか?
どうも、ちんごじらが世界に蔓延するだろうという未来図を作るための無理矢理な説明と見ました。
(いやもう、いまさら言うのもなんだけど、完全にゴジラから離れてますな)

というわけで、アメリカがちんごじらに核攻撃をかけようとするくだりになるわけです。
しかし、弾道ミサイルを使うと言っているのはどういうことか。
ちんごじらのレーダー能力がどの程度なのか、それを確認した上でのミサイル攻撃なのか。
上空から来るものはなんでもビームで撃ち落とすのではありませんか?
核爆弾というのは火薬ではありませんから、弾頭のメカニズムが破壊されれば爆発しないはずだし、ちんごじらからの攻撃で目標からそれたらどうするの?
有効な爆発高度、などと言っているが、都市を破壊するのが目的ではなく、ちんごじらという極小の目標を破壊するのに空中爆発の必要があるのか?
核爆弾を使うにしても、地上から接近してちんごじらに近接して爆発させるのが正しいのではないかと思いました。

それから、総理が核攻撃を承諾したようなほのめかしがあったけれど、大問題でしょう。(ただ、ほのめかしに留まっていて、アメリカが日本に何を言ってきたのか不明確なのだが)
日本の非核三原則は、日本国内で核爆発を起こすことを想定していない、ということでしょうか。
たしかに現在の日本国政府は核兵器を否定する姿勢を弱めています。(アメリカの核による先制攻撃に期待したり・・・)
が、ゴジラ映画として作られた『シン・ゴジラ』、もっと核兵器に対する批判を込めるべきだし、日本がアメリカの圧力に簡単に屈するのであれば、それを批判する視点を明確にするべきではないのか?

それから、この核攻撃に関しては、アメリカの意図はちんごじらの秘密を他国に知られたくない、というところにあるらしいので、すべてを消し去る核爆弾使用というところに落ち着いたのでしょうけれど、
地中貫通弾程度でケガをする生き物なのですから、核爆発以外の攻撃による外傷で殺すことは不可能ではないと思われます。
その可能性をまったく考慮していないのはシナリオとして偏向している。

東京で核爆発か、主人公が主導する作戦か、という二者択一に流れを追い込みたかったんでしょうね。
事態の推移を自然な形で流れさせず、作者の意図に合わせてゆがめています。

そしてあっという間に国連安保理の決議で対ちんごじらの多国籍軍結成となる。
性急な展開。
ここにさまざまな国家間の駆け引きがあったはずなのに、アメリカの意向でなんでも動いているような描き方である。
(いや、描いてなどいない。セリフで説明しているだけだ)

イラク戦争は国連決議なしにアメリカ(とイギリス)が勝手に始めてしまった。
ちんごじら騒動において、各国がどんな考え方をするのか、日本への核攻撃を容認するのか、などなど、さほど考慮されていないように見受けられる。
のちに出てくるフランスの動き方と併せて、なんとも薄っぺらい国際政治事情設定でした。(国際政治など描いていません)

これも、前半でもたついたために劇展開が雑になってしまった結果だ。

で、そんなこんなを総理に全権委任する特別立法の話となる。ここで東京に核攻撃を許可する話も出る。
こんなとてつもない法律が国会でもめないわけがないのだが、国会の様子なんか出てきません。
この映画、政府がやると言えばなんでも出来るような描き方になっている。
一個人ではないにせよ、内閣による独裁を認めてしまったようなシナリオである。(うへっ、キモイ世界観だ)

赤坂と矢口の賢しらな会話がはさまりますが、うーん、わからない。
核攻撃を受けてみせることでしか各国の同情が得られないとでも?赤坂くん、強引な理屈だよ。

ちんごじ対策会の人間がよくわからない理屈(ちんごじらが進化を超越してるだとか死を克服しているとか??)で、核か凍結しかないなどと状況を規定しますが、これ、科学者の意見ではなくてシナリオライターの意図表明だね。

そして、アメリカからの通告という形でちんごじらが動き出すまでの時限が切られる。
これも理屈がぜんぜんわからないんだなぁ。
ビーム乱射で放出したエネルギー量というのは、まあ外界に出したものだから推定可能としてもいいでしょう。
しかし、同じだけのエネルギーをちんごじらが再び蓄積するまでの時間というのは、どうやって調べたのですか。
ちんごじらの代謝系がどうなっているのかアメリカは知っているのですね?
ならば、ちんごじら対策会にもその情報をおくれ。

タイムリミットが設定され、住民の避難が間に合うのかとかなんとか、まだ行政の細かいことでごたごたやります。

まるでドラマに生きないジャーナリストのくだりなどがありーので、ちんごじ対策会の密室芸がはじまる。

マキ教授のバックグラウンドの解説が入りますが、 前述のように登場人物だけがわかっていて観客にはマキさんの背負うものがなんにも見えません。
(独りごちてんじゃねーよ)
そしてまたまた仰天。
教授の研究内容が放射性物質を無害化することだと知ったとたん、それならば放射性物質を作ることも出来る、と当たり前のように言わないでほしいな。
可逆反応なのか?
ここはある程度の技術解説が必須だ。
中性子線によって物質は放射能を持つようになること(放射性物質を作り出している)が知られているが、それがわかっても放射性物質から放射能をなくす方法なんて見つかっていません。
劇中の科学者に説明させればそれが事実になるとでも思っているんでしょうか。
安っぽいSFにはよくある手法だし、考証が行き届かなかったということもあるでしょうけれど、ならば設定から見直すべきです。
観客を丸め込まないで!

この先もよくわからないんだなぁ。
マキさんが残した謎の図面をああでもない、こうでもないと考えるうちに、紙を折れば意味がわかることに気づくのはいいのだけれど、その内容を解析が終わる前から勝手に推測しはじめる。
そこで細胞膜で放射性物質を作っているんじゃなかろうかという話になるけれど、この段階では確証はないはずだ。
いやしかし、アメリカはちんごじらのエネルギー蓄積速度を知っている。
アメリカは最初から知っているのではないのか?
いやいや、あの折り紙はアメリカにはなかったデータで、でも、結局折り紙からわかったのは別の話だったので・・・・。

ぜんぜんわかりません。
あまりにむちゃくちゃで、ひょっとしておいらの勘違いか、とも思うけれど、すごく気をつけて見直したので間違ってはいないと思うのだが。

ドイツの研究機関がデータ解析に協力するくだりがあるけれど、なんで協力するとそこの機密が漏れるんですかね?
それもわかりません。

というわけで、折り紙に書かれていたのはちんごじらの細胞膜機能を抑制する微生物の「分子構造」だったことがわかる。
うーん、どなたか生物に詳しい方にお聞きしたい。
微生物の分子構造なんて紙に書けるものなんでしょうか。
ゲノムと言った方がよかったのでは?
それと、生物そのもののサンプルがない状態でどうやって培養したのかも不明だ。

あるいは、その極限環境微生物が作り出す物質(これがちんごじらの細胞膜を機能低下させる)の分子構造だというのなら、化学合成も出来そうだ。

でもなぁ、核融合をやっちゃう細胞膜の超絶不可解機能が化学物質で抑えられるとは感覚的に受け入れられないなぁ。

もうこのあたりになってくると、いくらポリティカルフィクションを気取り、SFではないと装われてもバカバカしくて見ていられなくなってくる。
演出面の話になりますが、これまでさんざん突っ込んだ空想科学分野のことはひたすら早口のセリフで説明するだけで図示するなど丁寧に伝えようとする姿勢はありません。
おそらく方便としての設定であって、理解してほしくはないのではないかと感じました。
それなら、そんな中途半端な説明なんかしなきゃいいのに。

結局、『シン・ゴジラ』というのは非常に古い怪物映画の域を出ていないのです。
怪物は科学的に説明がつくものであって、その知識を利用して人間が怪物を倒す、という図式。
『原子怪獣現る』『放射能X』あたりが代表格か。
古い古い古い!!!
そんな発想から脱却して新たなジャンルを開拓したのが東宝怪獣映画だったのではないのか?
『ゴジラ』(1954)だって、よーくストーリーを吟味すれば、「人類」の科学力でゴジラが倒されたわけではないですからね。

つづく

シン・ゴジラ 細部その2 ゲロゲ~ロ 殿様ギドラ (男性)

2016/08/22 (Mon) 18:36:28

えー、ゴジラ映画の次回作がアニメになると聞いてすっかりしらけてしまいましたが、とにかく『シン・ゴジラ』に決着をつけなければなりません。

では、つづきです。

アメリカのエージェントとして日系米国人が乗り込んできます。
この人物造形がなんとも紋切り型。
若い女性で名門一家の出。自己主張が強いというのはまあ、設定としてありでしょう。
が、その描写が、とにかく偉そうでずけずけとものを言う、という日本とかアメリカとか関係なく強気な女を戯画化したような抑制のないもの。
人間像のリアリティを追求すれば、年齢はともかく、それなりにキャリアを重ねてきた人間ならば円滑な人間関係にもっと気を配るはず、と考えるべきです。
丁寧な物腰の中に、ちらっと日本や日本人を軽く見ている、という気配が感じられるという見せ方の方がリアルでは?
ただし、日系人であるという設定なので、日本を軽んじるというのは使えませんね。

『シン・ゴジラ』の大久保さん、じゃない、カヨコはわざとらしすぎるのです。
(年少者にはわかりやすいシナリオか)

そのカヨコ評に関連して、赤坂(竹野内豊)が「矢口(長谷川博己)と同じだ」とかなんとか言いますが、
うーん、わからない。矢口のそんな気質を表したシーンがありましたっけ?
これまたセリフで言わせればそれでよし、というやり方のひとつです。もっと言えば、そんな矢口の人物像がドラマに影響してはいないのですから、このシーンは全カットでよし。

時系列が前後しますが、別のシーンで今度は矢口が赤坂の人物評をするシーンがありますが、これもドラマ上の背景を持たないただの説明セリフ。
シナリオの準備段階で作られたそれぞれの性格設定をとにかく劇中のセリフに放り込んだのでは?

そしてカヨコからの要請でマキ・ゴロウの行方を捜しますが、彼はアメリカ在住でちょっと前に日本に来ていたということなのですよね。
捜査命令が出されるシーンはありますが、捜査官が動くシーンはなし。
そして、冒頭のボートがマキ・ゴロウのものであることが初めて示されますが、同時に矢口が持ってきた書類の出所がわからない。
日本にも家があっておかしくはないし、そこに置いてあったものかもしれないけれど、不明人の捜査で家宅捜索までやれるのか?
やったならその場面は映画的に必要であろう・・。
が、パンフレットを読んでみると、あの書類はボートにあったものだという。
では、冒頭のボート漂流のシーンで海保の職員が乗り込んだとき、はっきりと書類を回収したことを見せるべきではないのか。
あ、これはシナリオの問題というより、映画演出の問題か?
いや、こういう大事な映像演出はシナリオに書かれていなければならない。
シナリオは映画の設計図である。

ちんごじらにゴジラと名付けてしまうシーンの後、挿入的に政府関係者がフリージャーナリストにマキゴロウの身辺調査を依頼するシーンが入ります。
このシーン、そのあとまったく生きてこない。
このフリージャーナリスト、後半にも出てきますが、どちらのシーンもほかのシーンのどこにもつながっていない。
おそらくシナリオをカットした結果、浮いてしまったシーンだと思われますが、それならこのジャーナリストのシーンも全カットでよかったでしょう。

ちんごじらの出自に関する説明が入り、マキゴロウ(岡本喜八)が残した謎の図面が提示されます。
シナリオとしてどうもひっかかるのは、ここでカヨコが日本語の敬語が苦手だと言いだし、(それはいい)「これからはタメ口でいきましょう」とは?
タメ口、という単語は最近出てきた口語であり、外国人が使うことに違和感を覚えました。
それも、日本社会に入り込んで市井の人々と生活を共にしている外国人ならいざ知らず、米国エリートが使う言葉とは思えなかった。
(まあ、カヨコは日本語の発音は完璧なのでスラングも含めて日本通なのかもしれませんが。だとすると無理矢理感漂う強気キャラにさらに違和感が生じる)

シナリオの臭みはさらにダメ押しします。
アメリカはちんごじらをどうするつもりだ、という問いかけに「それは大統領が決める」と答えたカヨコ。つづけて「日本では誰が決めるの?」とまるで決めセリフのように言い放ちますが、
なになになに、誰も責任を取らない日本という社会批判を込めたのでしょうか?? いやいやいや、日本にせよアメリカにせよ、独裁国ではないので、ちんごじらの処分を一個人が決めるはずはないでしょう。
それこそ、アメリカにだって怪獣の処分に関する法律はないのですから、大統領が決めること、と断言することは出来ないんじゃないでしょうか?
なんかずれてます。

法整備の話がちょっとあり、ちんごじらが未知の放射性物質を作り出しているんじゃないかとの提示。

ここでちんごじらの歩いたあとから放射性物質を回収したと言ってますから、先のちんごじら原子力説が出てくるシーンでは最初からちんごじが放射性物質を垂れ流していることに気がついていてもいいのでは?

そして、すでに怪獣考察(ゴジラじゃないとしても8月8日投稿)で指摘した根拠のない推論に埋め尽くされたちんごじら原子力説をもとにした撃退計画が提示される。

次のシーンがまたわからない。
国会前にデモ隊が集まっている様子が大ロングで示されますが、デモ隊が何を訴えているのかさっぱりわからない。
「ゴジラを@*;:%$」と叫んでいるが、聞き取れない。
内容はともかく、なにか国民も騒いでいる、という場面なのか?雰囲気か?

で、とにかくみんながんばっているから日本は大丈夫だ(この国はまだまだやれる、とかなんとか)、とお客さんを安心させます。
(現実の日本は大丈夫なのか? 日本人は安心して良いのか???)

ちんごじら再び上陸。
第四形態ということで、でかくなってます。
ここである程度は怪獣の行動を見せるシーンになっていますが、やはり主眼は避難誘導と避難民。
シナリオにどのように書いてあるのか知りませんので、シナリオの問題なのか映画演出の問題なのか判断しかねますが、特撮の多いこのシーンでもさほど怪獣の見せ場にはなっていません。
(演出の項で書きましょう)

またまた会議シーン。うんざりする。
もう、映画全体の構成として次なるステージに上がるべきタイミングだ。
ここまでの登場人物の人間関係を利用するか、指令によって動いている現場の人間視点(Lansさんご指摘の現場描写につながる)を使うかして、為政者ではない視点の物語に転換するべきである。

ここで付言しておくと、全体構成として行政のリアクションを丁寧に見せるというのは、最初の30分で十分すぎるほどなのだ。
それを皮切りにしてもいいけれど、この映画の主眼はなんだ?
怪獣ではないのか? 怪獣の何を描くのだ?
それを考えれば、役所にこもって会議ばかりしている人々を追いかけても無益であることがわかるはずだ。

さて、それなりに法整備が出来たらしい自衛隊が多摩川でちんごじらを迎え撃つシーンになっていきます。河原にぎっしりと軍用車両が並んでいるのは、あれ、どうなの?
自衛隊のやりとりなどは細かく調べてリアリティを追求したんでしょうね。くどいぐらいに通信セリフを入れます。
私はそのあたりは詳しくないので、とくにまずいともなんとも思いませんでしたが、この自衛隊に粘着する描き方には、ま、ちょっとしたゆがみを感じました。

しかし、解せないのは、様々な攻撃を食らいつつも、ちんごじらが何も反撃しないのはなぜか?
ビーム発射とか出来るのに・・。
怪獣のリアクションが薄いのがとにかく、不自然であり芝居としておもしろくない。
ちんごじら、鳴きもしませんよね?
シナリオにはどの程度ト書きがあったのでしょう。

ちんごじ、どんどん侵攻。
米軍に協力要請。

米軍の爆撃範囲が日本の事情を鑑みていないことが示されたりして、ここでもアメリカをちくちくディスっているのはわかりますが・・。

そして、官邸も危ないてなことになり、首都機能を立川に移すとか何とか。
そこで、総理は国民を置いて逃げるわけにいかん、なーんて麗しいお言葉を発するのですが・・・。
この映画、現実対虚構、というキャッチコピーでしたよね?
虚構の総理なら、こんな国民思いの総理大臣もあるやもしれないけれど、現実の、今の日本にそんな総理っていましたっけ?
特に、この場合、理性的に考えれば立川へ行くほうが正しいのですから、なにも浪花節か任侠映画みたいなセリフを言わせなくてもいいんじゃないかと思いました。

総理はヘリで、主人公は車で立川へ向かいますが、車は渋滞でうまく進めません。
すると同乗者が「グリッドロックですね」などという。
あの人、交通工学とか防災とかに詳しい人なんでしょうか。あるいは、官公庁に勤めている人なら常識的に知っている用語なのか?
この映画、全体にこんなペダンティックなところがある。
(しかし、指摘したように科学考証はめちゃくちゃであり、作り手の学識が豊かなわけではない)

さて、米軍のB2爆撃機がやってきて、地中貫通弾なるものでちんごじらの背中に穴を開けます。←これ、重要ポイント。
日本の政治家が「さすが米軍」と言いますが、このセリフの真意はちょっとつかみづらい。
お客さんにも「さすが米軍」と思ってもらいたいのか、そんな言葉を漏らす政治家を非難したいのか。
私自身の感覚では、自衛隊では歯が立たなかった怪獣に傷を負わせることの出来る米軍の装備に恐怖を感じます。(米軍であれなんであれ、人間の現有兵器でケガする奴は怪獣としてヘナチョコだけど)

そこから先がまたよくわからない。
ちんごじらはゲロを吐いたように見えるのだけれど、そのまま口が発光して熱線に変わるとゲロに引火。
ビル街の道路沿いに広がったゲロが誘爆して東京は火の海に・・・。
何を吐いたの?
シナリオには何と書いてあったのでしょう??

口からの熱線は収束してビームになり、乱射状態。周囲のビルを破壊。
さらに背中からも光線が出てB2など航空機を爆破。総理が乗るヘリもどっかん。(ここ、演出に問題あり)

ちんごじらは電池切れになって動きを止めるのであった・・・・。

つづく。


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