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ギドラの巣「新」映像作品掲示板

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ただいまゴジラ祭り開催中!
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むむ、一体これはどうしたことか 殿様ギドラ (男性)

2017/06/16 (Fri) 18:25:44

 めざとい方はすでにお気づきのことと思いますが、
アニメゴジラのビジュアルが発表されてますね。

 まだシルエット的なもののみですが、えーと、
なんというか、私にはギャジラ(ギャレスゴジラ)にしか見えないんですけどぉぉ。

 どゆこと?

 なんだかいろいろ理屈を付けているみたいですが、一体なにをやりたいの?
(キャッチコピーにも疑問符だらけ)

Re: むむ、一体これはどうしたことか - ブロークン (男性)

2017/06/16 (Fri) 20:10:58

もしギャレスゴジラそっくりならば、デザインは海外受けを目指しているのではないですかね。
なんだかんだ言って世界一売れたゴジラですし知名度は抜群でしょう。
ギャレスゴジラが良いデザインかどうかは人によるのでここでは言及は避けます。

海外で売れやすいアニメという媒体なうえにメインキャラクターに日本人、白人、黒人と多様な人種を盛り込んでいるのも海外受けを目指しているように思えますね。

ですが今はシルエットだけなので、着色や細部がでるまでは何とも言えないのでは。
特に色や顔付きによってはイメージなんて簡単に変わりますので。

Re: むむ、一体これはどうしたことか - ルー等級つつ大臣 (男性)

2017/06/17 (Sat) 16:06:34

私も遅ればせながら見ましたけれども確かにこのシルエット、ギャジラ以外の何者でもないですね…
まぁ、あくまでもシルエットですから実際の印象は違って見えるのかもしれませんが何だか不安感が募ってくるデザインではありますね。
(蓋を開けてみたらやっぱりギャジラだったりして…ってのはあまりにも安易ですね)

熱くなってしまい申し訳ありませんでした   「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」 - ブロークン (男性)

2017/06/16 (Fri) 19:42:13

今になって頭が冷えてきたため、ようやく過ちに気が付きました。
過ちを繰り返さないためにも、これからは話題は1つに絞ってブレずに議論してゆきたいと思います。
申し訳ありませんでした。
出来れば付き合っていただけると幸いです。

ですが、どうしてもあの罵詈雑言は受け入れられないところはあるとは述べておきます。


その為今回は山根博士の「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」についてだけに絞りたい。
なぜこれに絞ったかというと、やはり初代ゴジラというものは一番普遍的な話題で入ってゆきやすいものであるからです。

これの真意が水爆実験でゴジラが出てきてほしいという解釈。
これ、クレイジーな解釈なのか? と私は疑問に思いました。こう考えたのは本当に私だけなのだろうかと。
そこで、「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」をそのままGoogleにぶち込んで検索してみました。

そうしたら、出るわ出るわ。
動画を除けば、出てきた順で上2つは私と同じ解釈をしているのです。少なくともこういう可能性もあるよと書いている。
その下にも私の解釈と似たものがそこそこ出てきます。この辺りはご自分で検索されたらわかると思います。


やはり、クレイジーやエキセントリックなどと感情論で否定するのは早計ではないのか。結構な人数がクレイジーでエキセントリックになってしまう。
断ずるならば、この解釈が間違っているという根拠を示すべきではないのか。
私の根拠は前に書いた通りです。

できる限り冷静に書いたつもりですが、気に障れば申し訳ありません。

おフランス人の怪獣観 - 海軍大臣 (?)

2017/06/16 (Fri) 12:23:50

 こんな話をふと思い出しました。
私が中学生の頃だったと思いますから、かれこれ40年前のこと、学校の図書館に置いてあった「一億人の昭和史シリーズ」の別冊の映画特集号(だったと思いますが、記憶がイマイチです)で映画評論家(こちらも氏名忘失)が以下のようなコラムを書いておられました。

 その方は昭和三十年代初頭にパリで暮らしていたそうなのですが、フランスでも「ゴジラ」だったか「ゴジラの逆襲」だったかが公開され、大ヒットしていたと言います。
で、ご自身も劇場に足を運ばれて御覧になったところ、上映終了後、たまたま臨席になったパリジャンから、「お前、日本人か?」と尋ねられ、そうだと答えたところ、「今観た映画のことで話をしよう」と誘われて、カフェか何かでゴジラ談義になったのだそうです。すると、そのフランス人男性がゴジラを評して、
「ハリウッド製のこの手の映画に出てくるモンスターは、クモだとかアリだとかがデカくなっただけのモンスターだが、日本のは(たとえ恐竜の姿はしていても)何だか想念が具象化したもののように感じられる」
 みたいなことを言ったとかで、その方は、「なるほど。フランス人ってヤツは子供だましみたいな映画でも、そんな風に見ているのか」と大変新鮮に感じられたと聞きます。
 
 このコラムを目にしたときは未だ中学生だったこともあって、「カンネンのグショウカ」とは何とも小難しい話だな、としか思いませんでした。
 しかし、このところこちらのサイトでの議論を拝見するにつけ、今更ながら60年も昔にそのパリジャンが云った言葉と改めて向き合わされる気分がしてなりません。
 

Re: おフランス人の怪獣観 殿様ギドラ (男性)

2017/06/16 (Fri) 18:21:30

 おお、これは興味深い逸話ですね。

 ハリウッドの怪物にもそれぞれになんらかの想念は込められているのだと思いますが、
そのフランス人がなぜ日本のゴジラに格別に想念を感じたのか・・・。

 いろいろと憶測することは出来ますが、ゴジラ(ひょっとしてアンギラスも?)は特別なのだ、と言えるのでしょう。

 ただ私が懸念するのは、この「想念」というものが近年のゴジラ論・怪獣論の中で必要以上に重要視されているんじゃないかというあたり。
劇中でのゴジラそのものにいかにもな「想念」(観念)をストレートに反映させることでテーマ性を持たせたつもりになっているものがありはしないか?
(いや、『シン・ゴジラ』はまさにそんな映画だった)

 架空の生き物だからこそ、劇中ではしっかりと生き物として描くべきではないのか。
観念・想念はストーリーと演出で感じさせるべきではないのか、と思ったりします。

 このあたりは映画のリアリズムをどう考えるかの問題でもあるように思います。
黒澤明はもちろんですが、円谷英二も基本に置いたのはリアリズム。

 最近の映画監督たちは自らの想念をそれこそ具象化すればそれでいいと思っている人が多いみたいで・・。
だから登場人物やストーリーがリアルさより監督の恣意を優先した形になっている・・・。

 おっとっと、あらぬ方向へ話がそれちゃいましたか。

きっと悪気はないんだ!(大長編) 殿様ギドラ (男性)

2017/06/09 (Fri) 16:21:13

私はインターネットとは公共の場だと思っておりますので、BBSでどなたかとやりとりする場合もどこかにいる読んでいるだけの人も意識して書いています。
本稿は、6月3日付けのブロークンさんによる投稿への返信として書きましたが、後半はとりわけブロークンさん以外の読者の方へのメッセージになっています。
もちろんブロークンさんがお読みになっても問題はないです。
それで、一言ブロークンさんへ申し添えれば、あまり慌ててレスを書かない方がいいですよ。
相手が何を言っているか、自分が何を考えているか、じっくり整理して推敲して投稿しましょう。
余計なお世話だ、とか考えちゃダメダメ。

*********************************

まずブロークンさんへ
お答えありがとうございます。

VSシリーズで洗礼を受けたとすれば、二代目ゴジラにはあまり魅力を感じないというのは理解できます。
(そのようにゴジラ観が分裂することを避けよ、と私は主張しているのだが・・・)
ブロークンさんの世代(と言っていいのかな?個人差はありそうだけど)は強い、怖い、神のような・・・というイメージをゴジラに持っている、ということですね。

ちょっと疑問なのは、大学生だとおっしゃっていること。
『vsデストロイア』からでも20年以上経っているわけで、VS世代というのは30代の人が中心だと思っていましたよ。
年齢で何かを判断するつもりはありませんが、世代論となると年齢を考慮せざるを得ません。
いや、いいんですよ、30代で大学生でも。だとすると、まわりの学生とは感覚が違うはずで、大学生はこう感じている、というのはこれまた違うでしょ。

しかし、いまの日本人がすべてVSシリーズ世代というわけではないでしょう?
初代や二代目そのまんまでは埋没して消えてしまう、ことの論証としては弱いです。
また、作り手が二代目ゴジラとは違うイメージを推しているから、というのは根拠になりません。
その彼らこそ二代目ゴジラとは違うものを作ろうとしている改変派なのですから、自分が作りたいものをアピールしているに過ぎないのです。
どうもブロークンさんは権威に弱いですね。

それでも、私自身が感じる昨今の風潮として、とにかく派手なものが好まれているんじゃないのか、という疑いはあります。
とはいえ、それが全世代に共通の感覚なのかどうかは疑問です。
時代劇でもデジタルエフェクトを多用してアニメ的な非現実感を出しているものもあるようですから、少なくとも作り手側は派手さを求めているようには見えます。
なぜそうなるのか、と常々疑問に思っていましたが、なんのことはない作り手の世代交代によってTVで映像の洗礼を受けた者たちが映画界に入ってきているだけのことではないか、とも思っています。
(結果、リアリズムから離れていっているのだが)
そして、若者たちはそれが映画だと思って受け入れているだけ、と。
もちろんそれが現状であれば、それに合わせた映画作りをするのが正解なのかもしれません。
けれども本当の映画映像というものは別の方向にもあるということを知っている人が皆無ではありません。
いまは、古い映画でも比較的容易に見ることが出来る時代です。若い人でも映画に意識的な人は派手好みとは限らないというのも事実です。
(先日某TV番組で若い女優さんが成瀬巳喜男監督の『女が階段を上る時』が良かった、と話しているのを見てうれしくなりました)

あまり自分の身の周りだけを見て判断しないほうがよろしいかと思いますよ。

(おっしゃるとおり、二代目ゴジラはそんなに強そうに見せてはいません。というのは対怪獣の場合。人間に敗れることはない。熱線の威力が足りないというご意見は、特撮映像のリアリティをどう考えるか、という問題になっていきます。
円谷監督は物理現象のリアリティにこだわって演出しますから、ゴジラの熱線はあくまでも熱であり、対象物を燃やすか溶かすか、なのです。当たったものが爆発性のもので無ければ爆発などしません。
さらに高温であるから青いのです。赤い炎より青い炎の方がより高温です。さて二代目ゴジラがほかの怪獣に対してさほど強くないという問題。この作劇は、ゴジラが弱いということではなくて、その他の怪獣たちもゴジラと並び立つものだという表現なのです。
ゴジラの熱線で人工物は破壊されるが、怪獣は平気。これが重要。というのも、VSシリーズとは別の哲学で作られているからです。VSシリーズはゴジラを破壊神などと呼び、ゴジラを引き立てるために対戦相手を配置しています。
スター性を守ろうとしたのはモスラのみと言って良い。これは『南海の大決闘』以降の対戦相手たちの扱いに近い。それなのに負け率はVSゴジラの方が高いのはどういうわけか。ストーリー上はVSゴジラのほうが弱い。
ええーと、このあたりのあれこれはスター・ゴジラをどう見せていくべきかの話になっていくので、いまは省略します)

VSゴジラには二代目ほどの普遍性はないと分析しています。
簡単に言うと、核兵器や放射性廃棄物の放射線で変異した結果ゴジラになったという設定であり、放射性物質をエネルギー源とするのですから、
人間の罪と不可分であり、人間の科学に従属する存在であるという縛りがあるためです。
この設定は無意識的にでもストーリーに影響を与えます。つまりゴジラ=倒すべき者となってしまい、サーガの終着点にはゴジラの死しかなくなってしまうのです。
(人間は自らの罪・過ちを克服しなければならない)
二代目ゴジラほどの自由度がなく、『怪獣総進撃』のような終着点もなくなります。

二代目ゴジラにはご不満のようですが、彼はストーリーに応じてさまざまな顔を見せてくれますから、設定を変えずとも厳めしさを出すことだって出来ますよ。
(いちおう訂正させて下さい。『オール怪獣総進撃』ではなく、『オール怪獣大進撃』ですよ)

と、VSゴジラと二代目ゴジラの比較をしてみましたが、ブロークンさんはVSゴジラをもう一回だせ、と言っているわけではないのですよね。
VS的な圧倒的に強くて他を寄せ付けないゴジラであれば良い、と。
姿形が変わっても生物としての設定が変わっても構わない、ということですね。

>恐らく、現代人のほとんどがゴジラに「見たことのないとんでもない強さ」を求めているのだと思います。

これもブロークンさんの推察ということで認めますが、ちんごじらに関する世評から類推しているのだとするとひとつ、強引な点があります。
ちんごじらのビームがすごかった、という感想は事実でも、その人たちがあれをゴジラだと思っているかどうか。
ちんごじらはこれまでの改変ゴジラとはレベルの違う改変が行われていて、ゴジラというよりむしろヘドラに近い存在です。
テレビで芸能人が『シン・ゴジラ』を話題にするとき、登場する怪獣をシンゴジラと呼んでいるのはなぜでしょう。
無意識的にでもあれをゴジラではないと思っているのではありませんか。
いままで見たことのないものだから、ゴジラではなく、シンゴジラと呼んでいる。どうですか?

そこでゴジラのアイデンティティの問題になっていくのです。

以前の幼なじみの例え話。
最初は意味が分からなかったご様子ですが、その後の説明で意味は分かったんですよね。
つまり名前だけが同じでも実態が違えばゴジラではない、と。
とくに反駁もなかったので、そこは共通理解事項になったと解釈していましたがどうも違うようですね。
こういう大事な問題は合意できたか否かをその都度表明して欲しいものです。

そこで私は
丁寧な説明も添えて、
>名前だけ共通で中身が違うことの意義はなんでしょう?

>それを教えて下さい。
と投げかけたわけです。

ところがそれにはお返事がない。
どうも合点がいかない。

では、次。

なぜゴジラでなければならないのか、という問いに

>殆どの人が今まで見たことのないとんでもなさやハチャメチャを求めているんです。そしてそれが一番目立つのは当然、ゴジラのキャラクター性や設定や強さである。

というお答え。
一番目立つ、という表現がよくわからない。
ゴジラは有名だから、なにか事を起こす(映画を作る)ときにはゴジラの名前を出せば目立つ、ということですか?
しかし、続けて「キャラクター性や設定や強さ」とおっしゃっているので、
とんでもなくハチャメチャなヤツ代表としてゴジラを使う、というようにも読み取れます。
それなら私も賛成です。

つまりゴジラのキャラクター性や設定や強さが映画の企画内容に合致するからゴジラ映画を作る、ということになりますから。

新作ゴジラ映画とはそうあるべきなのです。
ゴジラという怪獣(姿形気質生態出自全部含めての実体として)を使って新たな物語を紡ぐ。
シリーズものの利点を利用するには、複数作作る場合それぞれの作品を断絶させない。

なのに、なんでそのあとちんごじらが受け入れられた話に繋がっていくのか摩訶不思議。
もう一度整理しますよ。
ゴジラというのは昔からいる怪獣。
キャラクター性だの設定だのは既存のものなんですよ。
ところがちんごじらは初お目見えの新怪獣。

ゴジラを使った映画ではない。

結局、ブロークンさんも最後に

>これを切り捨てるというのは商売として不可能としか思えない。

とおっしゃってしまう。
まとめると、ゴジラのネームバリューだけあればいい、というお話ですね。
それは、もう、20年も前からさんざんいろいろな人から聞かされてきました。

どういうわけか、ある種のマニアはいつの間にかプロデューサー気分になってしまうようです。
一鑑賞者の立場として、商売になるかどうかがどうして問題になるのですか?

無名の新怪獣が登場する映画でも、自分がおもしろいと思うなら応援、宣伝してヒットさせる、というぐらいの気概があってもいい。
逆にゴジラに無理解な大衆が騒いでいても、あれはゴジラではないと批判するのが正しいゴジラファンである。

実際、ブロークンさんはちんごじらが気に入らないのでしょう?
(それでもゴジラだとは思うんでしたっけ?醜悪でいやだとはおっしゃっているけれどゴジラではないとは言ってないのか)
改変ゴジラにはノーだと言うべき立場ではないのでしょうか。

改変されていても自分の好みに合っていれば受け入れるという自己中心的な考えだったりします?

そういえば、
>「これはゴジラだ」と言えるのは「グロテスクでないこと」と「強いこと」くらいしかないのかもしれません。

という基準を提示なさっていましたね。
これに対し私は

>ウルトラ怪獣のほとんどがゴジラと区別できないことになりますよ。

と申し上げましたが、これにも同意いただけたのかどうかわからぬままスルーされてしまいました。

もっと直近では、再度の問いかけには答えていただけたものの、6月3日の私の投稿内容に関して納得いただけたのかどうかもさっぱりです。

なんとも書きがいがない・・・・。

スーパーマンがダークなイメージで再映画化されている話(『マン・オブ・スティール』は私も見ましたが)からアメリカの大衆の間でもスーパーマンのイメージは変わってきているのだ、と結論づけていますが、
それは本末転倒です。
製作者側がいままでとは違うイメージのスーパーマンを打ち出してきただけで、それが定着するのかどうかは今後を見ないと分かりません。
シリーズが連作されれば定着する可能性はありますが、短命に終わればスーパーマンのイメージは変わらないでしょう。
少数の人しか読んでいないコミックスの影響で大衆のスーパーマン観が変わったわけではないはずです。

(いちおうダメ押しのように書いておきますが、たとえ多数決の論理で有名キャラのイメージが変わってしまっても、それは原典とは違うものだし、別物だと認識すべきです。これは大衆性を守る話とは別のことになりますが、
創作とは何かという問題に関わってきます)

前回の「それとこれとは違う」のお話の時には触れていない内容として、勧善懲悪のヒーローと怪獣ゴジラではキャラクター性がぜんぜん違うのでこれも同列に語ることは出来ないと指摘します。
勧善懲悪ヒーローの場合、物語のパターンは限られ、そのバリエーションもたかが知れています。
ですからすぐ行き詰まる。そして主人公を苦悩させたり悪に走らせたりするのです。
「ウルトラマン」が良い例です。初代ウルトラマンの段階ですでに行き詰まっている。「何が起こってもウルトラマンが助けてくれるから問題なし」という展開に落ち着いてしまったわけです。
それで「小さな英雄」というストーリーが考案されたりするわけです。(あくまでもウルトラマンは一例ですよ。スーパーマンもバットマンも同じだとは言わないですよ)

だから新シリーズに移行したり設定やストーリーをリセットする羽目になる。
では、ゴジラはどうなのか?

ということを6月2日に
「怪獣ゴジラは行き詰まっているのか?という問題を議題にすべきなのだが、元祖ゴジラのキャラクター性が持つ可能性を十分に議論せぬまま、やれ現代的にだの時代に合わせろだのと変化ばかり求めるのは間違いであろう」
と書きましたが、これもいまいち伝わっていないような・・。


*********************************************************

さーて、ここから先はブロークンさんへの直接のレスではなく、読者の皆様に向けて書きます。

ブロークンさんは私が6月1日に
「設定も物語もリセットしちゃって構わないのだ~そんなシリーズがどこにありますか」と書いたことにひどくこだわっているご様子。

はぁ、と、ちょっとため息。
私はちゃんと「映画におけるシリーズもの」と規定して話し始めているんですけどねぇ。
それで、キングコングの話もしつつ、繋がってこそシリーズであると導き、
ミレニアムシリーズと呼ばれる作品群はまるで繋がっていないから、シリーズとは呼べない、そんなシリーズがどこにある、と繋がる文章なんです。

そこでアメコミヒーロー映画で反論が為されれば、リセットが行われていてもそれはシリーズ間のこと(サム・ライミのスパイダーマンとアメイジング・スパイダーマンは別シリーズ)で、
同一シリーズ内でリセットが行われているとすれば、それはやはり異常事態でしょう、という話が出来ると思ったのに、
あらびっくり。
アメコミそのものでおいでなすった。(若大将シリーズなんかの話だといろいろおもしろくなったんですけどね)

それでも、それとこれとは違う、という話ではあるのでアメコミを取り巻く状況とゴジラ映画では違うでしょ、と説明してあげました。

ところが、今度はガンダムをひっさげて同じ話を蒸し返す。

同じ事なのに。
TVアニメのシリーズ構造と映画シリーズの構造が違う、ということをどうもわかっていないご様子。
さらにガンダムがゴジラレベルの大衆性を勝ち得ていないのは日本人なら生活感覚でわかることなのに、どうしたことかおもちゃの売り上げを提示して国民的人気があるのだ、と結論づけている。

TVアニメが国民にどれだけ浸透しているかという話なのに、なぜおもちゃの売り上げだ?
私の常識では、子供番組の多くはおもちゃメーカーの出資で製作されているため、おもちゃの売り上げによって製作の可否が決まると認識しています。
「快傑ズバット」というヒーロー番組は視聴率はよかったものの、おもちゃの売り上げが悪かったために打ち切りになった、と資料本に書いてありました。
それはガンダムも同じ事で、最初の「機動戦士ガンダム」は視聴率も思わしくなかったのは事実ですが後半は尻上がりに視聴率が上がっていったと記憶しています。しかし、とにかくおもちゃの売り上げが悪かった。
そのため、打ち切りになったそうです。
おもちゃの売り上げから作品の質や浸透度を測ることは出来ないんじゃないでしょうか?

(私が日本のアニメに批判的だからと言って、アニメには何の見識もないと見くびっちゃいやーよ。「機動戦士ガンダム」の価値を認めた第一世代である。最初の劇場版三部作にはすべて足を運んだ)

TV番組の人気を調べるために第一に見るべきは視聴率でしょう。

というわけでガンダムものの視聴率を調べて見ました。

https://matome.naver.jp/odai/2147451655517774201

こんなページがヒット。
さすがに驚きました。
ガンダムはもうちょっとポピュラーかと思っていました。

というのも、最初の「機動戦士ガンダム」はマイナーだったものの、ファンの努力(ここ重要!)で人気が浸透、劇場版三部作が大盛り上がりだったからです。
主題歌がヒットチャートの上位に入ったり、あちこちにガンダム関連のなにがしかがあったように覚えています。
映画館で大入り袋をもらったのも、ガンダム劇場版でのことで私の映画人生でも空前絶後。

そんな人気の中で再放送された「機動戦士ガンダム」(地方によってさまざまな放送のされ方をしたでしょうから再放送のタイミングはひとつではない)の視聴率がどれぐらいか、と
先のサイトを見てみると、1982年の再放送が平均19.4%でこれがすべてのガンダムの中でトップとのこと。

げ。20%もいかなかったのか。

そして、第一作「機動戦士ガンダム」本放送は歴代第6位5.32%だって!
トホホですね。
低視聴率で打ちきりにもなるわと思ったけれど、それでも6位であり上位なんですよ。

本放送かつまともなTVシリーズとしては「Zガンダム」が6.6%で第2位。

第1位はOVAのテレビ放送だった「SDガンダム大行進」の8.06%だそうです。
(もう笑うしかないよね。やっぱり子供受けが大事大事)

第一作以下の作品はつまりは5.32%未満というわけで、最近のシリーズなんて2%とか1%の世界。

初期ウルトラシリーズが何十%も取っていたのと比べると、時代が違うとはいえお寒い限り。
こんなものが国民的アニメなわけがないでしょう。
(かつてガンダムファンだった身としては寂しい思い)

見る人が少ないけれど、関連グッズ(もちろんガンプラが主力でしょう)は売れている。
売れているおもちゃの内訳を詳しく見ていかないと何が受けてガンダムアイテムが売れているのかわからないけれど、とにかく作品そのものを見ている人は非常に少ない。
おもちゃの売り上げを使ってガンダムというブランドに固執するファンに対して新作を作ってあげている、という構図か。
あるいは、おもちゃのプロモーションのためにアニメを作っているのか。

これをオタク商売という!

ゴジラがこんなことになってはいけない。
ゴジラ映画は黒澤映画と並ぶ日本の文化である。(と私は思う)
設定リセットなどやって、情報コレクターのオタクしかついて行けないようなシリーズになってはいけない。
おもちゃメーカーと組んで物販で稼ぐことを目指してはいけない。
劇映画という芸術形式で人々を楽しませるべきなのだ!!

ミレニアムシリーズと『シン・ゴジラ』でぐちゃぐちゃになったゴジラはもはやかつての大衆性を失っている。
今度のアニメ版でさらにその混乱は加速するだろう。(『シン・ゴジラ』をおもしろいと思った客がアニメ版に期待するか??)
オタクしか見ない映画になっていくのではないか?(アニメはもう子供向けではなくなって久しいというのが私の認識)

さてと、ブロークンさんが自説を証明するためになぜこんなことをしたのかとひどく疑問に思いました。
視聴率を提示せず、おもちゃの売り上げを拾い出してくるなんてどういう感覚なのだろうと。

ああああああああ!!

「私が知らなかったらそのまま押し通すつもりだったのでしょうか。
だとしたら、悪質どころの話では済みませんよ。
相手が知らないのをいいことに、詭弁で押し通そうとしていたなど論外です」

これは私がブロークンさんから言われたこと。
そんな発想が全くなかったので、言われたときには仰天しましたが、まさか、彼、今回、自分でそれをやっちゃった?

いやいやいや、人を疑ってはいけません。
そうでないとすると、ううーーん、その他の受け答えから察するに、都合の良いものしか見えないとか?

いずれにせよ、かなり引いてしまったことは確かです。
ガンダムの件以外でも本稿前半で指摘した、重要案件でもスルーするやり方はどうもこちらとまともに取り合っているように思えない。

というわけで、私も彼に対する付き合い方を変更します。(『ゴジラ』の山根博士に対するファンタスティックかつクレイジーな解釈にも引きましたけど。いやご本人も遠慮がちに言ってはいらっしゃいますが、そんな発想が出てくることがアメイジング!)
ただ、彼には感謝しています。
私にとってはいつかどこかで書いたことの繰り返しばかりだったけれど、別の流れでゴジラ映画の話を書くきっかけをいただきましたから。

それから、ひょっとするとゴジラに関する情報(歴史でも設定でもデザインでも何でも)のバリエーションが欲しくてゴジラファンになっている人がいるんじゃないかと気づけたことも有益でした。<ブロークンさんのことじゃないですよ。
知るべき事が多いほど、覚えて楽しいし、誰かに講釈を垂れる楽しみも出来ますからねぇ。
そういう楽しみ方をされてしまうと、私のようにあくまでもストーリーと映像で楽しみたい人間とは衝突しますわなぁ。

というわけで私の態度に変化があっても不審に思わんでください。

Re: きっと悪気はないんだ!(大長編) - ブロークン (男性)

2017/06/09 (Fri) 23:24:55

返信ありがとうございます。

まず1つ申し上げておくと、いろいろ論がとっ散らかってしまって全て話すことなどとても困難である、ということになってしまっているのが実情です。
というのも話題を際限なく広げていってしまった感じで、どこから手を付けたらいいのかも分からない。
可能な限り(特に直近の質問には)返答しているつもりなのですが、見落としや私自身の解釈のミスもあるようです。
これ以上広がったらどんどん大本から遠ざかりそうである。

そういうわけで混乱していることが多く、まずはどこか1つに絞って片を付けたい。
そのほうが話も進んでいくでしょうし、余計な脱線もないはずです。
そして、その片をつけたい個所は、失礼ながら殿様ギドラ様に選んでもらいたいのです。
というのも、一番重要な箇所がどれなのか、どれを答えたらいいのかもはや自分でも訳が分からないというのが本音です。
もし私が勝手に選んだら、「他の議論では勝ち目がないと思ったからこれを選んだのか!」と言われてもしょうがない。
そういうわけで、できればお願いします。



というわけで、今回は身の回りのことだけを書いておきます。
また、自分の立場をはっきりしておきたい。

私は大学生ですが、1990年代前半生まれであると書いておきます。
2浪して大学に入ったけど今は大学3年生ではあるため、世代的には大学生でしょう(医学部なら現役でも大学である)。バリバリのVS世代というのは間違いだったかもしれません。
ただウルトラマンティガ・ダイナ・ガイアの世代ではありました。この辺りは幼少期リアルタイムでテレビ鑑賞していました。
その繋がりでゴジラ映画をツタヤで借りて鑑賞し、その時は直近のVSシリーズを良く借りていた(特にゴジラvsモスラは10回くらい借りた覚えがあります。そしてそのノリでモスラ対ゴジラを見てがっくりした)ため、VS世代だとは思っています。
ハマった当時はミレニアムなどはなかったので……
というわけで、権威に弱いというより幼少期嵌ったものを中心的に面白いと思ってしまうのはしょうがないことです。
この辺りは権威というより刷り込みですね。幼いころからずっと日本料理を食べているからその味付けに慣れてしまい、アメリカに行った際はそっちの料理が舌に合わずまずく感じられるのに近い。我慢して長いこと食べていたらおいしいと思うかもしれませんが。
ジャンクフードで味が濃いものに慣れている現代人が、あっさりしたものをおいしいと思わない感覚の方が近いかもしれない。
刷り込みを打破するのはほかの世代のファンでも厳しいでしょう。同時に一般人にはもっと厳しい。嫌々見させ続けるなど絶望的でしょう。



改めて私はこう考えていますよ、ということは箇条書きで書いておきます。
・世代間が分断してしまっていることは悔やんでもしょうがない。受け入れるしかない。(実際私は2代目よりVSやバーニングのほうが好きだという思いは変わらないけど、ミレニアムや2代目も認めてはいる)
・ならばどの世代にも幅広く受け入れられるゴジラを作るべきであり、2代目一本にするのは間違いである。同時にVS一本にするのも間違いである。良い要素をそれぞれ取り入れるほうが良いのではないか。
・仮に2代目の続編にするなら、熱線の描写が現代兵器以下だったりするのは情けなさすぎる上に(描写を見る限りでは対人工物の描写を見てもデイジーカッターとか地中貫通爆弾のほうが威力が高い、下手したら普通のトマホークのほうが高い)、直近のゴジラと比べて迫力不足だという部分は変えてもらいたい。それが時代に合わせるということではないのか。
・少なくとも初代や2代目の世代、VS世代やミレニアム世代、その後の世代なども一様に面白いといえるゴジラ映画が理想であり、当然これを目指すべきである。

・最も2代目が好きとかVSが好きとかシンゴジラが好きとかいうのは、アンケートでも取ってみないとわからないので(しかも普遍的な形で)、どの世代が一番多いかなんて言うのは全然わからないけど、その一番多い世代は確実に楽しめるようにすべきである。
仮にシン・ゴジラからはまりましたという人が一番多ければ(頭が痛いけど)、楽しめるようにすべきだろう。



>名前だけ共通で中身が違うことの意義はなんでしょう?
>それを教えて下さい。
これは「中身が違う」というのがどれくらいかによるとしか言いようがありません。
例えば私は前にも書いた通り、ゴジラという生物が別個体ならば、人間という1つの種の個体差程度の差異なら許すべきだと思っています。
差異というのは顔や身長や体重や性格や立ち振る舞いですね。
善人もいるけどサイコパスもいるし、熱線に関しても個体差の強弱くらいはあってもいいのではないか、ということです。
後は徐々のパワーアップか。現実でもそうだし、努力や戦闘経験の蓄積による成長も許されるでしょう。
ゴジラとは初代や2代目がいる通り、ゴジラという1つの種にいろいろな個体がいるわけで、当然ほかのゴジラという種の個体はいろいろ違うであろう。

だから、初代や2代目という種とVSゴジラという種は(田中友幸氏が関わっているということを含めたら)許すべきで、ここからはこれを崩してはいけない。
ただ別の個体のゴジラを出すなら、出自などの最低限が合っていたらある程度の差異は全然ありだろう。

だから例えば、初代や2代目ゴジラとは同じ出自だけど別の個体を主役にするなら、世界観を変えようと熱線の威力が上がっていようと性格が悪だろうと、面白いかどうかは別として1つの種の差異に収まる範囲内ならアリだ。そのためミレゴジやファイナルウォーズゴジラなどは、ゴジラの範囲には収まる。多少トゲトゲだろうと痩せていようと熱線が凄かろうと、種内の差異で説明できる範囲である。
エメリッヒゴジラやシン・ゴジラやGMKは出自とか設定がいろいろ違うので、種の範囲を超えているからゴジラとしてナシだ。


簡単に言うと、別個体でも1つの種における差異程度なら「中身は同じ」と定義してもよい。そこのレベルなら改変は自由である。
そういうわけです。


「中身が違うことの意義」でしょうか?
私の定義だと別個体にすれば種として許される範囲内でのある程度のデザインや性格、能力の変更は許されるため、例えばちょっと顔が怖いほうがいいな、もっと超然としていろ、あるいはドジっ子にしろというファンにもたいてい対応できちゃうから実質ないのでは、としか答えられません。首が三つになれとかは無理ですが。
そしていろんなゴジラを見たいって声にも対応はできます。サンダとガイラみたく新しいのをもう1体出せば問題がない。
ゴジラ対ゴジラって形でも十分ストーリーは書けるでしょう。

1つの種の範囲内という制限をつけたら、少なくともウルトラ怪獣とゴジラが同じなんてことにはならないのではないでしょうか。




「映画におけるシリーズもの」における差異ですか。
これは難しい。どこまでありなのかによります。
「初代ゴジラシリーズ」「VSゴジラシリーズ」「モンスターバース」「シン・ゴジラシリーズ(ただし怪獣名はゴジラではなくシン・ゴジラか巨大不明生物あたりにする)」みたいにするのはありなのか。なしなのか。
それによります。
2代目の続編やVSシリーズの続編などをいろいろやって、または上の定義に反しない形で新しいゴジラでも作って、それをシリーズものにするっていうのはいいと思います。


裏設定を話したいというファンはいるでしょうね。簡単に言えば、知識を出して友人に教えることなんかはそれはそれで楽しいですから。
モロにオタク商売ですが。
シン・ゴジラのMOPⅡなんかはまさにそれでしょう。
ちなみに私は、裏設定は本編だけ見て分かるレベルなら問題ないと思います。
例えば無人在来線爆弾がなぜか上空に舞い上がっているのは、実は車両の下部に上空に舞い上げるための爆弾を仕掛けていたからだ!とか(確かに車両が吹き飛んでいないのに、車両の下が爆発して自ら舞い上がっている)
これなら単純にあー見落としてた、で済む話です。専門知識がなくてもわかる。
MOPⅡは、専門知識がないと無理けど本編見たら分かる人は分かるからギリギリOK。
スクラムによる凍結とか半減期20日もここに当たります。なぜ凍結するのかは崩壊熱を防ぐためだと私は本編中で分かりましたが、私が大学で習っていて、そこそこ原発に詳しいから分かったに過ぎない。たぶん長すぎるから削ったのでしょう。
でも本編だけ見て絶対分からないのは駄目ですね。それは単に欠陥です。





ここからは謝罪となります。
まずは、殿様ギドラ様にお詫びをしなければならない。
確かに、納得したところは納得したとはっきり書いておくべきでした。
シリーズものの優位性、ガンダムのことについては納得できました。視聴率については知りませんでした。まさかここまでひどいとは思わなかった。おもちゃの売り上げが昨年と大して変わっていないため、気にしていませんでした。
視聴率は最近は録画やインターネット無料放送でいくらでも視聴できるご時世なので(そしてそれは無論視聴率には換算されない)、安易に受け取るべきではない気もしますがそれでも凄い。

ただ元はオタク向けでも超絶大ヒットしたような作品もあり、(去年の「君の名は。」は本当に凄かった。日本で249億売上げた他にも中国で95億円と日本映画の新記録を達成、韓国でも最もヒットした日本映画になるなど世界規模で売り上げた文句なしの化け物)
それは大衆性といえるのかというのは問題ですね。
http://news.livedoor.com/article/detail/12634961/
https://www.cinematoday.jp/news/N0089117?__ct_ref=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%2590%259B%25E3%2581%25AE%25E5%2590%258D%25E3%2581%25AF%25E3%2580%2582
ただ「君の名は。」は監督がもとはアダルトゲームのアニメなどに携わった人ですが、今回はキャラデザなどのオタク臭を注意して消し去った感じがしていて、一般受けを目指しているようにも見えました。
少なくともオタク商売をやっているようには見えない。
そこがいいのかもしれませんね。

「君の名は。」のように世界規模で大ヒットした作品は大衆性があるといってよいのか、そもそも大衆性とは何なのかは私にはよくわかりません。



以上です。できる限り答えたつもりですが、もしかしたら抜けがあるかもしれません。
その時は申し訳ありません。
とりあえず一つ一つ解決してゆきたい所存であるため、できれば解決したい話題を提示していただけたら幸いです。


最後に余談ですが、山根博士に関しては前にゴジラ関係の人に話した時もおもいっきり引かれたんですね。
それっきり黙ってたんですが、やはり言わないほうがよかったか……とあらためて思ってしまいました。
人間隠したほうがいいこともあるといったことでしょうか。

私はやさしい 殿様ギドラ (男性)

2017/06/12 (Mon) 18:59:37

>相手が何を言っているか、自分が何を考えているか、じっくり整理して推敲して投稿しましょう。

と指導したのに。

誤読・曲解・スルーが多すぎて、君、正気か?と疑う。

とりあえずはいままでのやりとりをすべて熟読せよ。

返事は要らない。GMK掲示板ログ、GMG掲示板ログ、GMMG掲示板ログ、ファイナルウォーズ掲示板ログも読むべきだ。

「やさしい」? ふざけているのか - ブロークン (男性)

2017/06/12 (Mon) 21:44:02

正直、怒りたいのはこちらの方です。
ふざけるんじゃない。
裏切られた気分で一杯です。
 
色々言いまくってもとっちらかるだけだから話題を1つに限定したらいいんじゃないですか? そしたらぶれないよと言ってもやらないし、じゃあ私が決めてもいいのかと考えても今のままでは無理でしょう。

今回の私の文章の主題は、最初と最後を見る限りで、「話題を1つにしたらどうですか? 私が決めたら色々あるでしょうから貴方が決めてください」ということがすぐに分かるのにそれに対する返事もない。
一方的に言うばかり。こっちはできる限り返答しているつもりです。
それくらいなら返事の1つもくれてやっていいでしょうに。
話題を1つに決めようということに関しては可笑しいことをいっているとはとても思えません。
「これこれについて答えてくれ」と言ったら、私は答えます。少なくとも答えているつもりではある。


また一番腹が立ったのは山根博士の件です。まがりなりにも議論相手にとっていい態度ではない。
エキセントリックでクレイジーのどこに論理や根拠があるのか。
頭ごなしに否定するただの感情論でしかない。そこまで批判するなら少なくとも理由を書くべきだ。
少なくともあの文章からは馬鹿にしてるのかという思いしかわきません。説得する気も反論する気もない。バーカバーカとただ悪口を言っているだけ。
普通ならこの時点で見切りをつけますよ。我慢してそんなそぶりは見せないようにしましたが、もう限界です。



私は少なくとも一方的に言っているつもりはありません。
「怪獣総進撃」の関係やシリーズものの長所に関しては認めたではないですか。言い過ぎた面はありましたが、それは謝罪しています。
それなのになぜそんなことを言うのか。理解に苦しむ。

私にも落ち度があったことは否定しません。しかしあなたにも落ち度は確実にあります。しかももっと酷い。
はっきり言いますが、山根博士の件であんな悪口しか言ってない時点で「やさしい」などというのは噴飯ものの戯れ言です。
皆に見せるつもりで書いてるんですよね? 間違ったことを書いていても、それを根拠もなくバカにするのは、相当にイカれている。
というより、馬鹿にしている時点で論者として終わっている。
冷静に批判すべきです。



それどころかアメージングだのクレイジー、正気か?と人格批判までしている。
それを理由を述べずに言っている。たとえ筋が通っていても言っていい言葉ではないはずの言葉を言っている。
それどころかアメージングやクレイジーは断定している。間違っていても意見の1つとして訂正すればいいのに。
私が言ったからいい? 子供の論理ですね。私は謝罪しましたしクレイジーやアメージングなど、人を心底馬鹿にしたような発言はしませんでしたよ。それに断定していません。
「もしそうなら」とちゃんと書いていますし貴方ほど酷くもない。嘲ってもいません。


たとえあなたがこのあと根拠を述べても、私はあなたを「やさしい」とは思いません。
根拠もなく悪口で人格批判して頭ごなしに否定するのが「やさしい」?
議論する相手をバカにするような煽り文言を書いて「やさしい」?
その独創的な悪口を考えた時点で「やさしい」の対極でしょう。
そもそもやさしい人間はやさしいなんて自分から言わないんですよ。

私は自分を「やさしい」とか口が裂けても言いません。あんなこと言われてハイそうですかと従うほど人間はできていません。
でもやさしくはありたい。
せめてあの悪口は謝罪してほしい。そして話題を1つに決めることに関する返事はどうなのか。
返事を明日までに書かなかったら、もう二度とこの掲示板には来ません。
今回のこれで議論する気も失せましたが。

もう既に私のような人が出ないようにすべてスクショを取っています。謝罪をしなかったり、まともな返答が来なければ被害者が出ないようにTwitterか匿名掲示板辺りに流し、悪質サイトとしてyahooに通報します。
この悪口を黙ってみているほど私は人間できてませんので。

えっ、怒らせちゃった? 殿様ギドラ (男性)

2017/06/03 (Sat) 19:17:32

仕切り直して、スレッドを変えますね。

ブロークンさん、なんだかお怒りのようですが、私の文章のつながりを正しく読んでいただければ、

>私が知らなかったらそのまま押し通すつもりだったのでしょうか。
だとしたら、悪質どころの話では済みませんよ。
相手が知らないのをいいことに、詭弁で押し通そうとしていたなど論外です。

そうではないことがおわかりいただけると思うのですが?

まず、あなたの

>ゴジラ映画とは一部のマニアのためにあるものではなく、それを観る万人のためにあるべきです。

この発言から始まります。
これは、私が、ゴジラを描くなら基本設定を守り、中身を変えるな、と主張したことに対する反論の一環としての発言だったのですよね?
その内容に関しては、6月2日20時15分の投稿で詳述なさっているわけですね。

要約すれば、設定変更などを気にするのはマニアだけなのだからその他一般のお客さんを対象とするなら作品ごとに主人公をどんなに改変してもかまわないのだ、という主張ということでいいですね。

それに対し、設定や物語をリセットするのは異常だとして、「そんなシリーズがどこにありますか。」という発言になるわけです。
続けて、有名キャラクター(ゴジラ)だとマニアでなくてもはっきりしたイメージを持っているのだという例証として、ゴジラの身長の話をしました。

設定や物語をリセットするシリーズがどこにあるか、と書いたとき、シリーズと呼ばれながらも仕切り直しのリセットをしているものはないわけではないし、
とくにアメコミヒーローものだと設定の違う同じ名前の主役キャラもいたっけな(詳しくはないのです。ウルヴァリンには別設定の映画があったなとかスパイダーマンもちょこちょこやってるなと知っていた程度)
ということは頭をよぎりました。

しかし、主眼は大衆性を守るとはどういうことか、だと考えておりましたし、ここでアメコミを例に反論されるならそれでもいいじゃないか、と考えたのが、
「ひっかけるようなこと」ということです。

わかりますか?
反論していただくことを前提に書いたのですよ。(アメコミだってやっているんだからゴジラもどんどん改変すればいいじゃんと考えている人は多そうだからこの機会にそれとこれとは違うという話が出来ればいい、と。
しかしそりゃ確信はなかったですよ。ガンダムだのライダーだのを持ち出される可能性もありましたから。でも最初によぎったのはアメコミ映画だったことは確かです)

それでね、

なんだかもう結論が出たみたいにおっしゃいますが、
確かにおっしゃる通り、マニアではない人はゴジラの基本設定なんか知ったこっちゃないんです。
事実、1980年当時(まだゴジラ論なる動きは始まっていなかった)、怪獣ブームをくぐり抜けた私と同世代の若者たちはゴジラが水爆実験をきっかけに出現した、なんてことを知りませんでした。
1970年代のヒーローゴジラの印象が強かったんですね。(1960年代のあくまでも野生動物として扱われたゴジラより70年代のヒーローゴジラの方が印象として強く残っている問題も掘り下げるべき案件ですが、いまはそれを指摘するだけに止めます)
ま、それは余談として。

だから、ゴジラの基本設定を書き換えてしまったVSシリーズもちゃんとヒットした。

それは私も認めているんです。
ただし、同時に、VSシリーズは元祖シリーズとは断絶しつつも、シリーズ物としての体裁を保っていた、とも書いていますよ。

ブロークンさんが例として出してきたアメコミ有名キャラクターの傍流シリーズは、それぞれ独立したシリーズなのですよね?
たとえば、「悪のスーパーマン」シリーズとして連作されているのでしょう?
ゴジラがミレニアムシリーズでやったこととはかなり違うんじゃないですか?

それから、そんな設定改変を行っても人気は落ちないのだ、という言説。
アメコミの出版形態とか発行部数とか客層などなど、ゴジラ映画の公開ペースや目標収益、客層と並べて考えられるのですか?
映画の観客数に比べれば出版物の方がはるかに少ない発行部数で成り立つというのは日本もアメリカも変わりないと思いますが、違うんでしょうか。
アメリカンコミックスは毎回100万部単位で売れているんでしょうか。(いや、アメリカだからもっと部数が伸びないとダメか)
ちょっと調べて見ましたら、2012年の記事で2008年のデータがヒットしました。日本のマンガ市場に比べるとアメコミ市場は10分の1だそうです。
もともとマニアックなジャンルなのでは?
広く一般大衆に向けて作っているものとは思えませんね。

作品の変遷をこと細かに追いかけてついて行く客向けなら、マンネリを防ぐためにさまざまな改変を行っても人気は落ちないでしょうね。
それをオタク商売と言うのです。

しかしだ、アメコミファンの中で人気が落ちないという話と一般大衆における人気をごっちゃにしてはいけません。
スーパーマンが複数のイメージのまま人気者なのですか?アメリカの大衆は元祖スーパーマンが好きなのではありませんか?
映画で公開されるものよりコミックスのほうが浸透度が低いでしょう?コミックスで改変スーパーマンが発表されているからといって、それでスーパーマンのイメージが変わったのでしょうか?

ゴジラの場合、映画で公開されるのが基本のキャラクターです。
(「流星人間ゾーン」に出たり、「すすめ!ゴジランド」「冒険ゴジランド」というOVAやテレビ番組にも出ていたようですが、一般には認知されていないでしょう)

その、たまにしか出てこないゴジラが、毎回別物になったら何が起こるか。
やはりゴジラに対するイメージは分裂するでしょうね。

実際、私のような旧世代は二代目こそゴジラだと思っていますが、VSゴジラこそゴジラだと思っている人も多い。
ここですでにゴジラ人気は分散しているんです。
私のような異常な人間は、VSゴジラも全作劇場へ見に行きましたが、自分が思うゴジラとは違う、ということで見に行かなかった人もいるのではありませんか。
なんて書くと、推論を言うな、という話になりますから、私自身の話をします。
『ゴジラ対メガロ』は劇場へ足を運びました。
しかし、あの映画に出てきたゴジラは、大きくデザイン変更され演技も中島ゴジラとは大きく違っていました。
ストーリーのつまらなさも問題でしたが、そのとき私は(小学生ですよ。ゴジラファンだったけれどマニアではない時代)もうゴジラも終わったな、と、
つづく『ゴジラ対メカゴジラ』『メカゴジラの逆襲』を見に行くことはありませんでした。

少なくとも私の中でのゴジラ人気は下がったのです。

一般大衆は有名キャラクターに対してマニアでなくともしっかりしたイメージを持っている。
マニアではない大衆にまで浸透しているのが有名キャラクターだし、なぜそんなことが可能かと言えば、一定のイメージを守り続けるから浸透するのです。
それは、大衆を惹きつける魅力を持った優れたキャラクターにしか出来ないこと。

そしていかに優れたキャラクターでもシリーズ化され、連作されなければ浸透することは少ない。
(キングコングは本当にすごいですね。シリーズと呼べるほど連作されていないのに、いまだ忘れ去られない。アメリカでのみ、かもしれませんが)
座頭市は誰でも知っていますが、『酔いどれ天使』の眞田医師と聞いてピンと来るのは映画マニアだけでしょう。すごく良いキャラなのに。こりゃ余談か。

毎回毎回別物のゴジラが出てきても人気は保てる、というお説には相当無理があります。
毎回別物なのだから浸透などしない。

確かに、大衆は細かい設定までは意識していないでしょうし、有名キャラクターが改変されても騒ぎはしません。
架空の存在が書き換えられても実害があるわけではありませんから。

そこを律するのは本来作者の使命。架空の存在でも劇中で矛盾が生じれば、そこに気がついた人にとっては作品の欠陥になります。
だから整合性を守るために設定を作り、それを守る。
それが創作の基本ではありませんか。

アメコミヒーローたちもバリエーションを作るためにいろいろ設定を作って本流と整合させているんですよね?
(ゴジラでもそんな形で整合させればいいのだ、という考えには反対ですが、いまはその理由まで書けない)

作者不在(権利者はいる)となったゴジラの場合、誰が整合性を守るのか。
マニアの存在を無視していいという話にはなりません。

それから、私はなにもかもリセットすることを問題視しているし、一作毎に別物にする(シリーズの体を為さない)ことも問題視しているのですよ。
それがオタク向けのやり方だ、と。
変更内容とか監督の癖なんかをこまごまと調べてデータで頭をパンパンにして見る人々なら、漠然としたゴジライメージを持って見るのとは違いますからはぐらかされた気分にはならないでしょう。
けれども、マニアではなく、過去に何作か見たことがあるなぁ、ゴジラって好きなんだよね(これぐらいの人は多いですよ)という人は過去作と何も共通項のないものを見せられたらどんな気分になるんでしょうか。

ミレニアムシリーズとよばれる作品群は物語も繋がらず、主役も毎回別獣。
二代目ゴジラはまるで時代が違うので比べられませんが、VSシリーズと比べても明らかに客入りが悪い。
(どこかにまとめサイトがありますから確認してみて下さい)

不入りの原因を毎回のリセットだけに負わせるつもりはありませんが、リセットしても人気は落ちないという話にはならないでしょう?

『シン・ゴジラ』をゴジラをまるで知らない人と見に行った話を書かれても、そりゃそうでしょうとしか言えません。
空白の12年は長かった、ということですね。

それから、どうも話が錯綜してしまっているので、整理しますよ。

まず、シリーズものの利点を捨てるな、というのが私の主張。

それとは別に、ゴジラという名前で別物を出すのは間違いだという指摘。
同じ名前で違う物というのは変でしょう、という単純な話です。

それでも架空の存在であるゴジラはこの社会において、別物が出てきてもなにも実害はないのだからまかり通ってしまうんです。
しかし、同じ名前で別の物を送り出すことに正当な理由があるなら是非教えて欲しい。
それは、こんな設定を作れば劇中世界で矛盾しませんよ、という話ではなくて、創作者としての理念を知りたいということです。
架空のキャラクターを創作するとき、その姿形、性質などまず中身を考えてから名前を付けて、他の物との区別をつけるのが基本です。
名前先行ということもあるでしょうが、それでもすでにある何者かとは違う名前を付けて区別するのではないでしょうか?
名前だけ共通で中身が違うことの意義はなんでしょう?

それを教えて下さい。

それから、これは以前問いかけたのですがお答えが得られていないので、もう一度お聞きします。

「ブロークンさんがおっしゃる、
>何もかも初代や2代目そのまんまでは、むしろ埋没して消えていく羽目になることは想像に難くありません。

このご意見は論証が必要かと思いますが?」
どうか論証をお願いします。

私は二代目ゴジラに大変優れた映画装置としての設定を感じているのです。
そのわけは簡略化して前回書きましたから繰り返しません。

もう一つ、前回の
「なぜゴジラでなければならないの?
いままで見たことがないものを見たいなら、ゴジラではないものを見れば(作れば)いいのですよ。 」
これもお答えをいただけていません。

よろしく!

Re: えっ、怒らせちゃった? - ブロークン (男性)

2017/06/03 (Sat) 23:01:15

返信ありがとうございます。
なるほど、意味は分かりました。
強い口調で言ってしまったこと、そして誤解してしまったこと誠に申し訳なく思います。


「ブロークンさんがおっしゃる、
>何もかも初代や2代目そのまんまでは、むしろ埋没して消えていく羽目になることは想像に難くありません。

このご意見は論証が必要かと思いますが?」


これについて先に回答しておきます。
2代目ゴジラを「オール怪獣総進撃」までとするとしましょう。
ですが2代目ゴジラは最近のゴジラとは凄く隔絶しているんです。
というのも、世代が離れすぎている。

私はVSシリーズバリバリの世代だったので、ゴジラはどちらかというと、絶対的な強さや恐怖の対象としてみていたんですよ。
いわば「力の塊」が理想像だと思っています。
ひょうきんなどという印象は全くない。正確にいうとあってもいいと思うけど好きではない。
これを言うと怒られるかもしれませんが、ひょうきんだと強さのイメージを損なうのが好きじゃないんです。少なくともひょうきんや生物臭い動きからカッコよさや絶望的、また神のごとき強さを見つけ出すのは難しい。
(ただゴジラの子供はひょうきんだという印象はある。子供は強くないし可愛いっていうのもあるでしょう)

だから、私は一番好きなゴジラなんですかって聞かれたら迷わずバーニングゴジラ(それも最後の)と答えます。スーパーメカゴジラ戦でラドンと融合したゴジラも好きです。ファイナルウォーズゴジラもデザインが細いのを除けば悪くはない。

あの赤く光った熱線の描写は凄まじかった。赤いというのが特別な威力を強調していて、威力に有無を言わせぬ説得力がありました。周囲や大気にすら誘爆するというのも素晴らしい。
あくまで私の意見ですが、放射熱線は強くなければいけないんです。ゴジラのアイデンティティーが弱ければ話にならない。それはアイデンティティーではない。凡百の怪獣のよくある光線なんかと同じにしてほしくはない。



ですが2代目ゴジラの放射熱線はそこまで強そうに見えない。ラドンに当たったときもちょっとひるむ程度で(しかも霧みたいで強く見えない)、キングギドラに至っては全く効いていない。
初期でまともに効いたのは首を噛まれて死にかけのアンギラスと寿命で死ぬ寸前のモスラくらい。キングコングも効いていましたが、パワーアップ後までコングが押されっぱなしなのでコングが弱いだけにしか見えない。(というか力でも負けてるし)
描写も全然大したことがない。まだ現実のミサイルの方が威力が高そう。

がっくりきたのを覚えています。怪獣王たる強さがない。威厳もない。
個人的には名古屋城でつんのめって転倒しちゃったりするのも好きではありませんでした。まああれは事故だったそうですが。

そういうわけで「メカゴジラの逆襲」が好きだというのも、熱線の威力がそこそこ強いというのが理由の1つです。
後はメカゴジラ2の回転フィンガーミサイルのド派手破壊でしょうか。地盤ごと吹っ飛ばした描写は斬新で燃えました。スペースビームの次々とビルを吹き飛ばす描写も、すごく興奮したのを覚えています。
今でも、あれをゴジラがやってくれたら!と残念がる気持ちがあります(設定的に不可能なんですが)


というわけで前にも書いた通り、シン・ゴジラの後半が面白くないなあというのは逆に言えば前半は結構好きなんですよ。
熱線を出し終わるまでは強かったですから。
あの熱線の描写がなければ、シン・ゴジラの世間の評価はかなり低かったのではないでしょうか。
評価する意見を見ても熱線で絶望感があったとか熱線が半端ではないというものがほとんどです。



恐らく、現代人のほとんどがゴジラに「見たことのないとんでもない強さ」を求めているのだと思います。
そのイメージはVSシリーズやミレニアムシリーズが作りだし、シン・ゴジラでより加熱しています。

その証拠に今度のアニメのゴジラのPVを見ると(もう公開終了していますが)最後に「史上最強のゴジラになると思います」と言っている。

シン・ゴジラの監督の樋口氏もシン・ゴジラの宣伝で「来年、最高で最悪の悪夢を皆様にお届けします。」と言っている。
ひょうきんや生物感という言葉は完全に消滅したようにしか見えない。
(ただし、怒りという感情はあった方が良い。怒りは強さの構成する要素ですから)
揃いも揃って強さや絶望感を推している。
神秘性は出せる(というより必然である)と思いますが、ユーモラスな動きなどは神のごとき強さや絶望感、また超然とした感じを表現するには邪魔でしかない。
そういう意味で「没して消えていく羽目になる」と書きました。

殿様ギドラ様はド派手な熱線はお嫌いなのだろうとなんとなく思っていますが、大学生の今の世代だとこれぐらい感覚が違ってしまっているのだということが分かると思います。
私でもまだマシな方でしょう。次に「シン・ゴジラ」世代やアニメゴジラ世代が来るんですから。
(アニメゴジラは三部作な上に、アニメであるためある程度子供に向けられることは想像に難くない。よっぽどの駄作でない限り、世代が出来上がることは間違いない)


「なぜゴジラでなければならないの?
いままで見たことがないものを見たいなら、ゴジラではないものを見れば(作れば)いいのですよ。 」
これも上と大分かぶります。
殆どの人が今まで見たことのないとんでもなさやハチャメチャを求めているんです。そしてそれが一番目立つのは当然、ゴジラのキャラクター性や設定や強さである。
シン・ゴジラで変態とか進化とか熱線が大体の人に受け入れられたのもそれでしょう。
そしてそういう派閥が相当に幅を利かせている。さらに言うとキャッチ―な要素は昨今の世では瞬く間にテレビやツイッターで拡散し、興行収入にも直結します。
結果、世間では肯定される。
これを切り捨てるというのは商売として不可能としか思えない。

これはゴジラだけに限りません。
ガンダムシリーズの最新作、「鉄血のオルフェンズ」は「『機動武闘伝Gガンダム』くらい踏み込んだ作品」を企業のサンライズから求められたそうです。
結果、進化して鈍器でぶん殴り、ビームライフルやビームサーベルを使わないガンダムが主人公になった。
企業すらハチャメチャさを求めてしまっている。
どのジャンルでもこういうことが起きている。
かくいう私も、ゴジラをもっと強くしろ、もっと力を見せろ、ド派手な熱線を見せろというところがどこかにあることは否定できません。



余談ですが、ゴジラに絶望感とかとんでもない強さを持たせろという風潮が加速したのがエメリッヒゴジラだと思います。
あのあまりに弱すぎるゴジラを作った反動が起きてるのでしょう。
そしてそれがどんどん加速している。


また上のシリーズに関することですが、
>アメリカの大衆は元祖スーパーマンが好きなのではありませんか?
これは微妙でしょうね。というのもスーパーマンの映画を見る限り、初期の4部作(これが原点に大分近い)と最近の2作品を見る限りイメージが全然違います。
物凄く暗くなっている。後期の昭和ガメラとガメラ3くらい雰囲気が違います。
しかもその暗い作風でシリーズ物(ジャスティスリーグですね)をやろうとしている。
悩むヒーローとか苦悩するヒーローが重視され、昔の明朗快活なヒーローの姿はない。
やっぱり大分イメージが変わっているんですよ。



http://www.bandainamco.co.jp/ir/library/pdf/presentation/20170510_2Complement.pdf
これは最近のバンダイナムコの売上高です。1位はガンダムですので、これは国民的人気を持っているとしてよいでしょう。
このガンダムだって初期とはかけ離れている。
しかも2年ごとに別の世界観の違うシリーズをやっている。当然新規まき直しです。
当然世代が断絶しまくってますがそれでも人気が出ている。

何がともあれ続けることがまず一番大事です。むろんシリーズであることはアリですが、それなら「シン・ゴジラシリーズ」をしてもいいことになる。売れていますし。
ちなみに私は後付設定をすれば(あれはまだ赤ちゃんで進化の途中にすぎず更に進化して遺伝子を書き換え全てを克服し云々など)どうにかなると考えています。
VSシリーズだってカドミウム弾や磁性体がいつの間にか登場しなくなっているし、どうにでもなるでしょう。



最後ですが、もし殿様ギドラ様がシン・ゴジラの続編を書いてもいいよと言われたら、書きますか?
もし書くとしたら、どんな話にしますか?
お嫌いな話だからこそ、逆にどうするのか聞いてみたくなりました。
失礼なことを書いてしまったら申し訳ありません。

Re: えっ、怒らせちゃった? 殿様ギドラ (男性)

2017/06/06 (Tue) 18:16:40

取り急ぎ、最後の質問に対するレスだけ。

まず最初に『シン・ゴジラ』という映画は、これで物語は終わったわけじゃないよ、というエンディングを作品の結びとして構成した作品です。
オープンエンディングというものです。

ですからその続編を作るということは、『シン・ゴジラ』という作品を壊すことになります。
これは『ゴジラ』(1954)の続編を作ることとは意味が違います。
『ゴジラ』には「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」というセリフがありますが、それは続編製作を示唆するものではなく、
核実験を止めよという観念を補強するものでオープンエンディングに近いのですが、『ゴジラ』では怪獣ゴジラは殺されており、物語は終結しています。
それだからこそ、同じ設定、同じ世界の続編が作れるわけです。

ちょっと難しい理屈なので、もう少し補足します。
閉じていない物語は、もう開くことが出来ません。
しかし一旦閉じたものはまた開くことが出来る、ということで、・・・もっとわかりにくいか・・・。

まあ、それはともかく、私が『シン・ゴジラ』は続編を作ってはいけない映画であると認識していることだけ伝われば良いです。
(続編を作ってくれと言い出したらしい東宝のお偉いさんは、ストーリーテリングというものをわかっていない)

その上で、あえて、無理矢理続編を作るなら、まずちんごじらの詳細な設定書が必要です。

(資料本なんかを読み漁れば設定はわかるのかもしれませんが、資料本は持っていませんし、このレスのためだけにそこまではしなくてもいいよね。
付け加えれば、鑑賞者としては資料本など補助でしかなく映画そのものを見れば良し、だが、作る側に回るなら話は違う)

というのも、あの怪獣は映画を見る限り設定でがんじがらめに縛られていて、『シン・ゴジラ』を見ただけではあのあとどうなるのかはまったく予測できません。
映画で描いていない裏設定てんこ盛りに見えます。

怪獣の動向がわからないと物語は作れません。

それでも、私は、ちんごじらの設定を書き換える気は一切ありません。
それは、創作物とは原典を作った人間の命だと考えるからです。

それを引き継ぐなら、たとえ自分の作家性と衝突するものであっても原著作者の意思を守ります。
それが創作者の仁義であり礼儀です。

次に、
続編となると正編を楽しんだお客さんが同様な楽しみを求めて見に来てくれるものです。
ですから『シン・ゴジラ』の持ち味である、ドキュメンタリードラマのパロディ、という雰囲気は維持します。
通常の続編映画ではそこまで正編の空気感を大事にはしないのでしょうけれど、
あの映画はストーリーにおもしろみはなく、大方の人は社会派実録映画のように受け止めたらしいので、それを裏切るようなことはしません。

いくら自分が怪獣対決映画が好きで、怪獣に野性味を求め、本多猪四郎監督作品のような流れるような筋運びと人物配置の妙を理想としていても、
『シン・ゴジラ』はそういう映画ではないので原典に従います。
とはいえ、人物にはもっと実在感を与えますし、お話にも紆余曲折を作りますけど。

その上で、ストーリーは別種のものにさせていただきます。

筋立てを書くことは勘弁していただきますが、
物語に込めるべき観念として、怪獣災害に遭った人々の困窮、悲しみ、それに対して国家という大集団を束ねることを念頭に置く為政者たちが個々人の都合より集団のコントロールを優先しがちであることを対比させます。
さらには、社会悪が起こる構造として、保身と無関心の連鎖があることも織り込めるでしょう。
しかし、もし、あの人型の化け物が大量発生するというのが次なる変態ならば、また違うことを考えなければならないでしょう。

そして、一点だけ、『シン・ゴジラ』の作り手に反抗します。
劇中で、『シン・ゴジラ』ではゴジラと呼ばせた怪獣を改名します。
ゴジラというのは、『シン・ゴジラ』の作り手たちが考案した怪獣ではありませんので、その名前を外すことを私がやっても構わないと考えます。

大戸島の住民から自分たちの神様の名前を害獣の名前にするなとかなんとかクレームがついたということで。

そんなところですねー。

その他のもろもろについてのレスは、細かく丁寧に書かねばならないのでまだ時間がかかります。

Re: えっ、怒らせちゃった? - ブロークン (男性)

2017/06/06 (Tue) 20:20:39

返信ありがとうございます。
自分だけ要求するというのも酷なので、「もし私が2代目の続編を書いたら」ということを書いておきます。


私は「生物臭い動きからカッコよさや絶望的、また神のごとき強さを見つけ出すのは難しい。」と書いてますが、これについて詳しく書くと、私は生物感がある動きでも、好きだと思った描写がいくつかあります。
以下に挙げておきます。

・「ゴジラVSメカゴジラ」の初戦のラスト、メカゴジラを押し倒したゴジラのシーン
メカゴジラを押し倒した後の見下ろし方がいかにも「どうだ!」という感じの目付きなのがいいです。貫禄を失わせずに実にうまく感情を表現している。
その後、倒れたメカゴジラの横を悠然と歩いていくゴジラも実に格好いいと思っています。
歴代ゴジラで屈指の好きなシーンです。

・「ゴジラ FINAL WARS」の隕石迎撃
映画自体は欠陥の多いものですが、このシーンだけは私の中では歴代最高の熱線発射描写です。
両足で地面を踏みしめ、尻尾で思いっきり地面に叩きつける。「これから凄いことが起こるぞ!」というのが分かる非常に説得力ある描写でした。足場をしっかりさせる行動も実に理にかなっています。しかもそれが地面をぶち割るという怪獣王ならではの豪快な形なのが大好きです。
その後に放たれた熱線も期待を裏切らない、実に派手なものでした。溜めとその結果が両方とも完璧なので、私の中ではトップの熱線です。
足の踏みしめ方がなんとなく生物感があって好きなのですね。これは私だけかもしれませんが……

・馬乗りでモンスターXをタコ殴りにするゴジラ
生物感ある動きですが、ユーモラスにはならず、強さをうまく表現しています。圧倒しているかんじがしていいですね。強いっ!ということを表現できています。上から伸し掛かるという感じも怪獣王たる貫禄が出ているのがいいです。


すべて強さに関係してるのがわかると思います。
要は生物感ある動きでも格好良さや貫禄あるものなら、おそらく今でも好まれるのではないかと思いますね。「力の塊」が理想というのもそういうところです。
ただユーモラスとかひょうきんはどうしても……強さや格好良さを失ってしまうのが私からすればつらい所があります。勘弁してくれという思いが先に立ちます。
さらに生物感がある動きやユーモラスな動作をやりすぎると俗なものに落ちてしまい、神秘性が失われる。(これはファイナルウォーズゴジラの際にも思ったことで、熱線の描写などは好みだったが、生物的動きをやりすぎていると感じた。嫌いではないと書いたのはそういう面もあります)

初代ゴジラが名作なのは生物的な動きをしていても、それを強調しないからではないのか、と私は思います。
無論生物的な動きはいくつもあります。しかしそれはあまり強調されないうえにのちの2代目ゴジラほどやってはおらず(さらにオーバーにもしていない)、そこに神秘性や貫禄、恐怖感があった。
また、実に絶妙なところで止めている。例えば電車に当たって一瞬よろける時でも、直後で電車を噛み砕く(さらにそこに悲鳴があることで恐怖感が増す、落とした瞬間に悲鳴が消えることも良い)というゴジラ自身が引き起こした怖いシーンでそれを中和しているのですね。そこが良い。
時計塔のシーンもそうです。うるせえ!という仕草をした後に時計塔を壊すのですが、その直後にその瓦礫に潰される人々を映していることでバランスをとっている。
2代目ゴジラにはこれがない。もしくは薄い。


だからどうしても2代目はユーモラスを前面に押し出しすぎているのが、気に食わないって感じなのです。怖さによって中和できず、ユーモラスだけが残ってしまった。
結果、私の中では2代目ゴジラから貫禄や神秘性が失われた。

だからもし、私が2代目の続編の脚本を書けと言われたらこうなるでしょう。
・子供にも楽しめるよう原点の雰囲気を重視して明るめの話にし、アクションも豊富に入れる。
・生物感ある動きはしっかり残しつつ、それをできる限り格好いい動きにする。
・ユーモラスな動きをするときは、直後に必ずそれを打ち消すものを取り入れる。
・放射熱線は威力に誰の目に見てもわかりやすい説得力をつける。
上げすぎるのも原作から乖離しているので、メカゴジラの逆襲位ならどうにかなるか。
・敵怪獣はとにかくド派手、そして強力にする。光線やら弾幕やらを貼る今どきの派手な遠隔重視にさせる。こんなのに勝てるのか? というくらいのスペックにしておくのが良い。
・ゴジラが敵怪獣に迫力で負けないようにするためにフェイントなどのテクニックや底知れぬスタミナ、接近戦のラッシュなどで強さをとにかく見せる。



続編作っても売れませんでしたでは作らない方がマシだったことになるので、(そして娯楽としても失格である)どうにか原点の雰囲気を残しつつ派手な要素を取り入れるのに相当に苦心しています。
そこで2代目ゴジラの長所である、「接近戦」「技巧」を兎に角推してそこで派手さや今までにない強さを見せたい。
そう考えています。それでも「新しい驚きがない」「シン・ゴジラやアニメゴジラに比べて迫力で見劣りする」等という批判が起きそうな気はしますが……
体格や熱線がいかんともしがたいのが辛いところですね。実際私も熱線は派手な方が好きなので……

また上の論説にしろ、恐らく私がVSゴジラの影響を滅茶苦茶受けているからではないのかという気分がひしひしとします。
違う世代なら違うゴジラがいいと言うに決まっています。
「シン・ゴジラは何考えているかわからないところがいい」なんて言っている意見もありましたし。



「シン・ゴジラ」はオープンエンディングというよりはリドル・ストーリーですね。結末をあえてぼかして視聴者に解釈をゆだねる形です。
しかし庵野氏が自ら編集した資料集で「尻尾から生えたあれは第5形態ですよ」と書いてる時点でリドル・ストーリーではないのではないかという気がします。
本物のリドル・ストーリーならそんなことも書かないでしょう。

また(続編を作ってくれと言い出したらしい東宝のお偉いさんは、ストーリーテリングというものをわかっていない)というのは最近は崩れかけているのではないかと思います。
巷にあふれかえるモンスターパニックもので、まだ終わってないよという終わり方をした奴でも続編が当たり前のように製作されている。
前例が山のようにあるので、最早法則が崩壊していると感じます。
尤も例えが私にはよくわからないというのもあるのですが……




>「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」というセリフがありますが、それは続編製作を示唆するものではなく、
核実験を止めよという観念を補強するものでオープンエンディングに近いのですが

最後に本筋から外れますが、これ、凄く凄く疑問に思っているので書いておきます。
このセリフは本当に反核メッセージなのでしょうか。
発言者の山根博士は作中常にゴジラを殺さず調査せよと発言しています。殺せと言ったら激高までしている。小説版なんかはもっと酷く、電流で感電死させようとした際に無理やり電流を止めようとしてくるほどです。そしてそれでなお生きているゴジラを観て喜んでいる。
マッドサイエンティスト以外の何物でもない。
そして小説版にもこのセリフがある。
そんな博士が言った言葉を安易に「核実験反対」と解釈してよいのか。

無論作品のテーマに反核があることは間違いない。しかしこのセリフ、私には「もう1匹ゴジラが現れてほしい。今度こそ研究したい」という山根博士の願望に聞こえるのです。

Re: えっ、怒らせちゃった? - 海軍大臣 (?)

2017/06/07 (Wed) 14:47:26

かなりファナチックな性格の原作版とは違い、割合と常識的なキャラクターを付与されている映画作品中の山根博士は、第一回の品川上陸の時点で、自分が殺処分に反対していたゴジラの猛威を目の当たりにして、茫然自失の体といった感じを受けます。「どうすれば殺せるのか?」との質問に対しても何ら自信ある受け答えをしていませんし、あえて尾形との意見対立を見る場面を東京初上陸の直前に挟んだのも、映画製作者たちの巧みな計算によるものでしょう。
 そして何より、芹沢の犠牲を踏み台にしてまで自身の研究欲を満たそうとするような奇矯な人物だとは、作品中の一連の人物描写を見る限りでは考えられません。あの最後のセリフは、そうした夥しい犠牲を見た山根博士の心情がまさに肺腑を衝いて出たのではないかと思われます。
 以上、至って平凡な意見ですが、如何なものでしょうか?

 ところで又々余談になりますけど、「シン・ゴジラ」のラストカットの薄気味悪い人型の物体が尻尾に張り付いている場面ですが、何だかビジュアル的には、樋口監督が信奉している故・生頼範義先生の描かれた「我々の所産」だとか「サンサーラ」といった作品からの引用のように思われます。
この手の意見は私の周囲以外では余り聞こえてきませんが、ちょっと気になっています。

Re: Re: えっ、怒らせちゃった? - ブロークン (男性)

2017/06/07 (Wed) 17:01:48

>海軍大臣様
この件に関しては正直言ったら袋叩きにされそうな気がしてずっと言っていなかったのですが、最初に原作を見たときに「あれっ?」って思ったんですね。
原作の山根博士はそのような大惨事を見てもなおゴジラを殺すなと延々と言い続けている。電流の際にも前述したように狂気の沙汰としか言い様のない行動をとっている。
最後の最後まで山根博士はゴジラは無敵だ、その無敵のゴジラを研究したいと思ってたとしか考えられない。


これは映画の最後を見ても思ったことです。ラストシーンで亡くなった芹沢博士に敬礼する皆の中で、たった1人だけそれをせずに背を向けている人物がいる。
それが山根博士です。

山根博士だけ違うことを考えているのではないか。わざわざ背を向けるのには理由があるのではないか。
そうでない限り、こんなシーンをラストに持ってくるわけがない。
作中で登場人物たちは皆一様に芹沢博士を弔っている(さらに反核だと明言している)のに、なぜあんな罰当たりもいいことをするのか。

原作ではゴジラに対して終始狂信的としか言えないような態度を取り続けてきた山根博士ですが、ここでも「尾形くん、頼むよ」という台詞を発しています。
なぜ付き添いの尾形にだけ言ったのか。当事者の芹沢博士に「芹沢君、頼むよ」なんて言葉は言わない。
尾形にこれを言った理由ははっきりしています。芹沢博士を殺したくなかったからに他ならない。恐らく薄々、芹沢は死ぬつもりではないのかと思っていたのでしょう。
そして、「ゴジラを倒してくれ」なんてことは一言も言わない。
驚くべきことに山根博士は、ゴジラを倒せるか否かよりも芹沢博士の安否を気にしているんです。
今までどれだけの被害が出ても意に介さなかった山根博士が、人の安否を気にしている。

私は、山根博士は未知のものを研究したいという信念があるのだと考えました。
ゴジラもオキシジェン・デストロイヤーも未知のものです。
その未知のものに、山根博士は気を引かれていた。自分で、もしくは共同で研究したいと思っていたのでしょう。
しかし、それの両方を失ってしまった。無敵だったゴジラは死に、それを倒したオキシジェン・デストロイヤーも失われた。
結果、神秘なるものはすべて失った。
その結果の未練で、ああいうことを言ってしまったのではないか。自分の知りたかった未知なるものを全て失わせた芹沢博士を、素直に弔う気にはなれなかったのではないか。
これはこれで、人間のあくなき好奇心とその恐ろしさを示していて良いのではないか。

そう思った次第です。
だからどっちかというと、「ゴジラ」は反核云々より、よりもっと大きな「人間のあくなき好奇心や欲望とその恐ろしさ」を示した映画ではないかと考えています。
核もこれに含まれますし、そちらの方がより普遍的なテーマだと思います。


なんかすみません。
この説を強要する気にはなれません。山根博士という人柄が大きく変わってしまうからです。少なくとも私の考えた山根博士は、人格者からは程遠い。
あくまで聞き流していただければ幸いです。

ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) 殿様ギドラ (男性)

2017/05/26 (Fri) 18:23:41

どうも長らくお待たせいたしまして申し訳ありません。
このところやけに忙しくて・・・。(なんてこの場の言い訳になりませんね)
前スレの続きですが、すっかり長くなったので別立てです。

最近はBBSなんてすっかり廃れてしまって詳細に分け入る議論を避ける傾向があるなか、こんな面倒くさいところに果敢に書き込んだブロークンさんは立派だと感心しています。
『シン・ゴジラ』については多くの問題を感じましたので、自分のBBSだけでなく、どこかきちんと議論している場所はないものかと捜したこともあるのですが、
ほとんどの方はブログで意見開陳だったりツイッターでさえずっていたりで、どうもノリが違うなぁと諦めていました。

以下、反論といいましょうか、私は別の考え方をしていますというお話・・・。

怪獣に関する説明は、私も、全くない方が良いとは考えていません。
どこから来たか? なぜ出てきたか? 場合によっては、何を食べるか?
というような外界からの観察によってわかる範囲のことは説明があってもよいと考えています。
ただしそれもドラマとの兼ね合いで何を説明すべきかは変わってくるので、簡単な話ではないです。

それでも、怪獣という生き物が未だ解けない大自然の謎を象徴するものなら、(怪獣にもさまざまなタイプがいるので常に例外はあるけれど、少なくともゴジラにはこの基準を当てはめてよいはず)
劇中で細胞レベル、遺伝子レベルの解析をすべきではないという考えです。解剖学的な解説もダメです。
いや、途中まで解析出来たとしても、解けない謎にぶち当たるという展開に持って行くべきと考えています。(大自然の象徴なのだから)

そうそう、怪獣解剖図。
私も子供の頃は興味津々で眺めていましたよ。怪獣の内臓ってこんなことになってるのか、なんて感心しながら・・。
でもあれは大伴昌司さんの暴走で、彼の創作といってよいものです。
ヘドラの解剖図は大伴さんの手による物ではなく東宝オフィシャルだったと思いますが、そんな宣伝が行われたのも、
大伴昌司さんによる解剖図が受けていたからでしょう。
怪獣図鑑の解剖図なんて製作者サイドが考えたものではなく、大伴さんの想像なんですよね。
聞くところによると、円谷英二監督は怪獣の解剖図を苦々しく思っていたようですよ。
残酷描写を嫌っていただけでなく、怪獣の臓物を見せるなんてことも下品だと思っていたんじゃないかなぁ。
付け加えると、怪獣の着ぐるみから俳優さんが顔を出している写真も公表することを嫌っていたそうです。
怪獣を作り物として見られることを嫌がったんだろうな、と想像しています。

現在の私の感覚では、やっぱり解剖図なんかなくていいだろうと考えています。

『シン・ゴジラ』の血液凝固剤使用が『vsスペースゴジラ』からの引用なのかどうかは、はてな?かな。
スペゴジでもゴジラの冷却システムを止める目的だったんでしたっけ?
ま、それはどうでもいいですが、どうなんでしょうね、ゴジラの血液の成分まで分かってしまうとなると、そりゃ細胞レベルの解析だし、その生物のかなり深いところまで分析できていることになるので、
科学では歯が立たないというイメージを壊します。
(繰り返しますけれど、それはゴジラについての話であって、ちんごじらは別物なので血液凝固剤が効こうが効くまいがどっちでもいいんです。問題はヤツがゴジラを名乗っていること)

せめて、血液凝固作戦が失敗するというストーリーならいいんですけどねぇ。
(この血液凝固作戦もなんとも穴だらけのおかしな作戦なんだけど。え?筋が通る裏設定があるとか??)

確かに、『シン・ゴジラ』においてちんごじらは完全に殺されてはいません。
けれども、状況証拠から、あの化け物は日本人を試すためにマキゴロウなる人物が製作したものであることが示されています。
ちんごじらのエネルギー製造システム(細胞膜で低原子量の物質を合成して未知の放射性物質作るというのだが)を阻害する方法までマキ氏は示してくれるわけで、人間に作られその抑制法まで示されてしまった怪物に
人智の及ばぬ神秘性など感じようもありません。

そしてしっぽに浮かび上がった人間に似た化け物たち。
あれが第五形態じゃないのか、という指摘は当BBSにも書かれていたように思います。
私は、第五というより次の世代(ちんごじらの子供か)と解釈しました。まあ、大差ないですが。
そして、そこに人間ぽい形態を持ち込んだところに、作り手のゴジラ解釈の浅さを感じたのです。それはすでに書きましたので割愛です。

>テロップでMOPⅡとはっきり出てくるので劇中だけでも架空兵器だと一応分かるのですが、

いやいや、あの映画、人であれ兵器であれ何でもかんでも字幕で名称を表示していましたから、むしろ字幕でMOPⅡと表示されることで実在の物だと思わせる効果がありましたよ。
それとも字幕の出し方が実在の物とは違っていたのかな? さすがにそこまで覚えていない。

そして、『怪獣総進撃』の話・・・。
どうも曖昧な書き方をしてしまったようで、少々誤解があったみたいです。

>ゴジラシリーズを作るなら、『怪獣総進撃』の内容を踏まえるべきではないのです。

この書き方では、「総進撃」に含まれる観念までも「踏まえるな」と言っちゃっていることになりますね。
内容と書いたのは、「総進撃」に登場した事物や怪獣と人間の関係設定など「総進撃」で描かれた事象をなぞってはいけないと言いたかったからでした。
たとえば、続編だとしてSY-3や怪獣ランドを再登場させたり、怪獣が人間に操られる様子を見せたり、というものを作ってはいけないという意味でした。
もっと詳しく書くべきでした。

そして、人間と怪獣の共闘は「総進撃」のような終着点でなくても描いていいと思いますよ。
私は『南海の大決闘』での「ゴジラは中立だ」というセリフに象徴される考え方に賛成です。
好みの問題ではなく、元祖ゴジラの正史をたどれば、人間がゴジラを倒そうとするのは仕方ないとしても、ゴジラ側から考えれば人間はひどく鬱陶しい存在ではあるもののゴジラにとってさほどの脅威ではないので、
ことさら人間を駆除しようとも思わないだろうな、と考えられます。
『モスラ対ゴジラ』での帯電ネットと人工雷には相当恨みを持ってもよさそうだけど、次の「三大怪獣」ではそんなに人間を恨んでいる風でもない。なんて書くと、モスラによる説得のシーンで人間に対する恨み節を語っているじゃないか、
と反駁する人もいそうだなぁ。あれはゴジラが人間をどう思っているかを表明しているのであって、人類への恨みに凝り固まっているなら、横浜の街を火の海にしたはずでしょう? それほどの恨みでもないのでしょう。
だから、ゴジラにとって人間は敵というほどのものではなく、利害が一致すれば共闘するもありでしょう。
70年代の作品は『怪獣総進撃』の内容を引き継いだから人間との共闘を描いているということでもないでしょう。


それはそれとして、
「対ヘドラ」の電極板が放射火炎で破壊されなかったのは、SY-3が壊れなかったこととはまったく別の話ですよ。
『ゴジラ対ヘドラ』でのゴジラは、なんとも不思議な扱われようで、それは監督の坂野義光さん(先頃お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします)のゴジラ観が出ているのだと思いますが、
それこそ神のごとき存在でどこからともなく現れてヘドラと戦ってくれる。
あの電極板に熱線を吐きかけたのは、電極板を破壊する意図ではなく、そうすればヘドラにダメージを与えられることを知っていたからでしょう。
人類の科学が怪獣と拮抗しているのだ、という表現ではないのです。

子供の呼びかけに応じて出現したような見せ方をしているのも、ゴジラが管理されているからではなくて、あのころのゴジラは彼をテレビの特撮ヒーローと並ぶ存在にしたいという製作サイドの思惑に沿っていただけでしょう。
当時は映画界は不景気で大予算をかけた大作なんかなかなか作れない時代でした。ゴジラ映画をきっちり作ろうとすればお金がかかります。
しかし怪獣映画はドル箱。低予算でなんとかしたい。(この傾向はすでに『怪獣大戦争』あたりから始まっていると見ています。大っぴらに過去作からフィルムを流用しはじめています。それ以前もバンクフィルムを使うことはありましたが、見せ場を流用とは・・)
そこで思いっきり低年齢層に向けた作劇に持って行ったのだと見ています。
フィルムを使い回そうが、セットが安っぽかろうが、未就学児童なら気がつきません。
そしてわかりやすい正義の味方としてのゴジラ。
大映のガメラシリーズが会社倒産で途絶えたことも関係あるのかも知れません。
低年齢層を引きつけるためのヒーローゴジラなんです。『怪獣総進撃』とは関係ないですよ。

ゴジラ助けて!と言えば駆けつけてくれる。そんなゴジラに仕立てようとしたのでしょう。
その流れに「流星人間ゾーン」もあります。

はじめてゴジラに助けを求めるシーンで、ゾーンファミリーの末っ子が「いつもお父さんが言ってるじゃないか。ゴジラは正義の怪獣だから困ったときにはゴジラを呼びなさいって」てなセリフをのたまいます。
それでゾーンファミリーが使う通信カプセル(ゾボットでしたか)みたいなものを発射するといきなりゴジラ登場と相成るわけです。
これ、ゴジラが管理されていると見えますか? ゴジラはゾーンファミリーの求めに応じて、自分の意思で助けに来ているんです。
裏を読めば、ゴジラとゾーンファミリーには交流があり、絆があるということでしょう。
一回だけ出てくるゴジラの住処らしき場所のハッチ(? シャッターというより迷彩塗装の分割ドアですね)は誰が作ったんだ、となるとそりゃゾーンファミリーでしょう。

でも、究極のアウトロー、自由獣だったはずのゴジラを地球の守り神みたいな窮屈な存在にしてしまったのは間違いです。
それこそ田中Pの暴投じゃないでしょうか?
ゾーンのゴジラは子供時代に初めて見たとき(『ゴジラ対メガロ』でのこと)から気に入りませんでしたが、それでも、ゴジラの設定やデザイン(当時はものすごく変えられたと思ったけれどいまとなっては十分ゴジラだ)を別物に改変されているわけではないので、
不当とまでは言いません。

ゴジラのシェーは、私も嫌いじゃないですよ。
しかし、それはぎりぎりの抑制をかけて「シェー」をやらせているから。
私は『怪獣大戦争』を封切りでは見ていなくて、数年後のリバイバルで初めて見ました。
そのときはゴジラが「シェー」をしているなんてまったく気がつきませんでした。
あのアクションはキングギドラを撃退して喜んでいる様子だろうと受け止めていたのです。
「おそ松くん」から何年も経っていましたから、「シェー」のことなんか忘れていました。
もし、あからさまに完璧にシェーのポーズを決め、効果音か字幕スーパーで「シェー!」なんて入れられていたら激怒したでしょう。

その次の『南海の大決闘』での「ぼかぁ幸せだなぁ」のハナこすりも、うーーーん、セーフなのかなぁ。
しかし、スペシウム光線の真似なんてのは、アウト!というのが私の感覚。
でもこれは極めて感覚的な判断で、円谷監督がやらせようが田中Pがやらせようが、人それぞれに好き嫌いがある演出ということになります。
ふざけるゴジラを見て、「あんなのゴジラじゃない」という人もいますが、それは私が言う「あんなのゴジラじゃない」とは意味が違います。
基本設定や基本デザインを書き換えてしまったものを私はゴジラじゃない、と言います。
明らかに気質の違うものも受け入れがたい面はありますが、不正不当とまでは言いません。

中野昭慶監督によると、ゴジラにシェーをやらせることを思いついたのは当時の撮影所長だったそうで、円谷英二監督に頼んだ結果実現したということらしいです。
そして、中島春雄さんの本、「怪獣人生」では中島さんがシェーを知らなくて円谷監督に教えてもらったことになっていますが、
どこかのトークショーだったかブルーレイの特典映像で中野監督がおっしゃるには、撮影所長の依頼を快諾したものの、円谷監督はシェーとは何かを知らなくて、周りのスタッフにもよく知っている者がおらず(このあたり中島さんの証言と一致する)
誰かが「こんな感じですよ」とやって見せたはいいけれど、円谷監督が手足の左右はどっちが正しいのかねと正確さにこだわったとのこと。
しかし誰も正確なシェーのポーズを知らなかったために、飛び跳ねながら左右を入れ替える動きにした、ともおっしゃっているのです。
「怪獣人生」の記述とはちょっと印象が違いますよね?

当事者の証言というのは貴重な物ですが、正確な記録が残っていないことに関しては一つの証言のみを絶対視しないほうがいいでしょう。
円谷監督が残した文章や証言を並べていくと別の話がごっちゃになっているようなエピソードトークもありますし、「記憶」には常に曖昧さがつきまとうと考えたほうがいいでしょう。
(ですから、前回書いた文章では「本多きみさんによると~・・・フシがあるのです」と事実として断定することは避けています)

付け加えると、本多猪四郎監督はゴジラにコミカルな動きをさせることには反対だったという証言もどこかにありました。
さらには海軍大臣さんによると本多監督はキングギドラがお気に召さなかったとのこと・・・。
本多監督と円谷監督には諍いは全くなく、常に一致協力していたというのが定説ですが、喧嘩なんかしなかったのは間違いないとしても演出者としてまったく同じ感性を持っていたわけではないのでしょう。
そんな二人が本編(人間の芝居)特撮(ミニチュアの芝居)と分担してぶつかり合ったところに本多・円谷コンビ作の絶妙なおもしろさが生まれたのだと考えています。

元祖ゴジラシリーズには二人の監督がいた、ということです。

そして、円谷英二監督はゴジラを作品ごとに改変するなんて考えていなかったようです。
『キングコング対ゴジラ』でひどくトカゲっぽい顔にされてしまったゴジラですが、どうもそれが気に入らなかったらしいです。
出典を忘れてしまって読み直しが出来ないのですが、スタッフインタビューの何かにそんな証言がありました。
なぜキンゴジくんがあのデザインになったのかまでは書かれていなかったと思いますが、監督の気に入らないものでも採用されてしまうのがプロデューサーシステムの落とし穴。
『モスラ対ゴジラ』ではちゃんとゴジラの顔は元に戻っています。『ゴジラの逆襲』時と全く同じというわけではないけれど、キンゴジくんよりはよっぽど初代に近いといっていい。
(『キングコング対ゴジラ』は海外セールスを意識してアメリカ人のゴジラ観をなぞるような顔にしたんじゃないか、というのが私の推論)
そして、ゴジラの顔がころころ変わるのはよくないからひとつのデザインで決めよう(同じ原型を使っていく)ということになったとか。
まだあります。飯塚定雄さんによると熱線のデザインを変えるのも嫌がったそうです。
初代と同じガス状のものを噴射するのがいいのだ、と。

これは私にはよくわかる感覚です。
ゴジラが実在の動物なら、姿形はもちろんその能力だってころころ変わるはずがありません。
別個体とか別種の生き物なら違う能力もあるでしょうが、少なくとも二代目ゴジラは同一個体が現れたり去ったりしていたわけですから改変など考えられなかったことでしょう。

ゴジラという同じ名前で別の怪獣を創作するのは不当です。

そこでTVドキュメンタリー「イノさんのトランク」に触れることになります。
放送当時(2012年12月 2014年に再放送したかな)、なにか言って来る人がいるかな、と思ったのですが、そのときは何事もなし。
今回よくぞ取り上げて下さった。

1992年に本多猪四郎監督が構想したゴジラの設定ということですね。
たしかにびっくりです。
残されたメモを見ると、いかにして強力な怪獣に仕立てるかと思案した様子が分かります。
これまで自身が作ってきた作品からの引用(ガス化液化分化)を込めて、いままでにない怪獣像を造り出そうとしていることがわかります。
(無生物化というのは怪獣の能力ではなく、対応策として書かれていますよ。ガス化や液化の段階で汲集し無生物化する、と)

『シン・ゴジラ』の元ネタとは思いませんけれど。
(本多監督のアイディアに劇中で本体が変形していくような記述はありませんし、『シン・ゴジラ』劇中でちんごじらは分化していませんから)
もしタイトルの類似(ただ本多監督のアイディアにある神ゴジラをどう読むのかはもはやわからない。かみごじらかもしれない)が偶然ではなく
本多メモからのいただきで、ちんごじらが本多監督のアイディアを元にしているのなら、それはそれで大問題です。
原案本多猪四郎というクレジットがありましたか?

まあ、それは置いておきましょう。

本多監督がここまで従来のゴジラとは違うものを構想していたのなら、ゴジラをどのように改変しても良いじゃないか、と思いたくなるのはごもっとも。
しかしその考えには二つの大きな落とし穴があります。
まず、本多監督は従来のゴジラに代わる存在として神ゴジラを考えたのかどうか。
神ゴジラに先行すること一年、1991年のTVインタビュー(NHK BSゴジラ映画大全集)において本多猪四郎監督は新たなゴジラの構想を聞かれ、
「今度作るなら環境問題を取り入れたい。ゴジラの姿も変えて」と言いかけつつ、「いや、姿といっても暴れるときはあの形になっていい。その出自や行動原理を環境破壊の原因を背負ったものに・・」
とおっしゃっています。
水爆とは別の原因で出現するとなると私が思うゴジラとは違うものになってしまうのですが、このときの本多監督はゴジラの見た目を変えることは考えていなかったと言って良いでしょう。
となると、神ゴジラもガス化液化分化とはいうものの、基本形(ゴジラの姿)はあって、なんらかの条件下でガス化液化するというアイディアだったはずです。
実際、メモには「如何なる法方(方法)、条件で気体化するか」とも書かれています。
ちんごじらの発想とは違いますよ。
ゴジラのデザインをどのように変えてもいい、なんてことは書かれていません。

もちろん、このゴジラが二代目ゴジラを無いことにした代わりのゴジラなのかどうかもわからないのです。
なぜ神ゴジラと書いてあるか。
この新怪獣の名前が神ゴジラであると考えるのが妥当でしょう。
ストーリーに関しては何も書かれていないのですから、映画のタイトルが『神ゴジラ』というわけではないでしょう。

もうひとつ大問題があります。
果たして、このアイディアを円谷英二監督がどう思うか。
ゴジラの対戦相手ならともかく、ゴジラそのものを改変するのだという考えを受け入れるでしょうか?

本多猪四郎監督がゴジラ誕生に深く関わったのは確かです。
しかし、映画『ゴジラ』の企画発案者ではないし、その後のシリーズに関わる上でも自分のアイディアだけで作っていったわけではありません。

ゴジラは複数の才能が共同作業した結果、奇跡的に生まれた空前絶後の名怪獣だと思っています。
架空のキャラクターの改変は原作者が自ら行うか、承認したものなら受け入れざるを得ないだろう、とは以前も書きましたが、これをゴジラに当てはめるとどういうことになるか。
誰が承認すればいいのでしょう?

田中友幸さんですか?
本多猪四郎監督ですか?
円谷英二監督ですか?
香山滋さんですか?
村田武雄さんですか?
伊福部昭先生ですか?
渡辺明さんですか?

私はゴジラの生みの親は一人だとは思っていません。
この中の誰か一人が承認すれば許されるとは思わないのです。

ですから正しいゴジラをどこで捜すか、と考えた結果、それは本多・円谷両監督(それぞれ本編・特撮の最高責任者である。映画全体は本多監督のものですが)がともに関わった作品の中にしかないと結論しました。
福田純作品でも監修円谷英二のものは本多・円谷コンビ作と齟齬を来していないので参考にします。

ゴジラは映画の中にいます。
ゴジラ像を模索するなら映画を見ましょう。資料本など補助でしかない。
そして、完璧に出来上がっているものを改変すれば、レベルが下がるに決まっている。

私はゴジラを変える必要など感じません。
もともとのゴジラで十分だし、あれがゴジラです。

ゴジラに触発されてゴジラとは違う形質を持つ怪獣を作り出すのは大いに結構。
しかし、それはゴジラではない。
ここを間違えてはいけません。

中島春雄さんが昔のものを真似しているようじゃダメだ、とおっしゃる気持ちも分かります。
それは中島さんがゴジラを演じていたから。彼は俳優です。
初期には手塚勝巳さんとの共同(この分担も『モスラ対ゴジラ』あたりまではメインが手塚さんだったというスタッフ証言もあるらしい)だったとはいえ、
中島さんにとっては二代目ゴジラは自分自身のはず。
別人が演じるなら、別の芝居をしてみろよ、という感覚では?(ご当人に訊いてみないとわかりませんが・・。物まねされてうれしい人はあまりいないのでは?)

といって、ではゴジラ芝居で一番よかったのは誰の演技ですか?
私は中島春雄さんの演技をなぞっても構わないと考えています。

ゴジラはその作品世界に実在する動物なんです。
作り手が変わったからといって、そのたたずまいが変わったらおかしなことです。

>「これはゴジラだ」と言えるのは「グロテスクでないこと」と「強いこと」くらいしかないのかもしれません。

明確な基準を否定すれば、そんな考えも出てきてしまいますよね。
でも、そんな基準では、他の怪獣とどうやって区別するのでしょうか。

円谷英二監督はもちろん成田亨さんもグロテスクさは避けていましたから、ウルトラ怪獣のほとんどがゴジラと区別できないことになりますよ。

形も性格も出自も全部大事。
これはブロークンさんだけでなく、ゴジラが変わってしまってもいいのだとお考えの方みなさんに考えていただきたい。

幼なじみに再会したら、姿形が変わってしまい共通の思い出も何もない別人で、ただ名前だけが同じだとしたら、そいつは幼なじみではないでしょう?
でも相手は幼なじみだと言い張る。知らない仲じゃないんだから金を貸せと言い出す。
そんなヤツの言うことを訊きますか?

Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) - 海軍大臣 (?)

2017/05/29 (Mon) 15:36:07

 案外ゴジラのイメージに囚われているのは、ファンの方なのかなと思っています。
以前、池田憲章さんに伺った話ですが、ゴジラを何本か撮った後、円谷監督はただ重々しいだけのゴジラの動きが満足できなくなり、「蛇が獲物に襲い掛かるような敏捷さを何とか再現出来ぬものだろうか?」などとスタッフに相談していたと聞きます。もしかしたら、その試みのテストとしてバラゴンの動きが創出されたんじゃないか?、などといった妄想もつい膨らんでしまいます。
 たしかにグロいだけの怪獣や爬虫類丸出しのゴジラは頂けませんが、作品だとか時代といった「受け皿」に合わせてゴジラも「水」みたいに形を変えていくのも仕方の無いことなのかもしれませんね。

Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) - ブロークン (男性)

2017/05/30 (Tue) 03:56:41

お返事ありがとうございます。数々の事、勉強になります。


ですが……(ここからは私の意見です)
私はたとえ初代や2代目ゴジラと同種の個体という設定で出したとしても、似た顔や似たしぐさや似た行動にする必要は全くないと思います。
というのも、われわれ人間からして千差万別で、それこそがアイデンティティであるという概念があるからです。
白人もいれば黒人もいる。
背の高いものもいれば背の低いものもいる。
感情豊かなものもいれば無口なものもいる。
頭のいいものもいればちょっと抜けているものもいる。
筋肉質なものもいれば痩せているものもいる。
歩き方だって千差万別。同じ家族ですら違いがたくさん。
だからこそいい。
というより、全部、もしくはほとんどが同じだと逆に気色悪い。


むろん二足歩行等の最低限のゴジラである条件は必要ですが、それ以外ならむしろ制作側が「今までのゴジラよりこっちの姿形がいいんじゃない?」と思うのならどうぞやってくださいといった感じです。
ただそれを無条件で認めたりはしません。他人に好き嫌いが起きるのと同じく、私にもこれはダメだろという部分はあります。
ですが、私は寛容派です。
だから実はシン・ゴジラの歩き方自体は私は好きです。あれはあれで私にとっては格好いい。
無論中島春雄氏のような歩き方をしてもそれはそれで問題はないと感じますが、真似をせず独自の動きをしてもまた問題はないでしょう。
(しかし、もし2代目や初代と全く同一の個体であるという設定の場合はすべてが覆ります。同一個体の場合、姿形や性格はほとんど同じでなくてはならない。)
そういう意味で、殿様ギドラ様の「幼馴染に再会したら…」という例えには疑問に思いました。同じ例えで言うなら、正確には人間だということしか分からないのです。
余談ですがミニラに関して批判が多かったのは、単に不細工だったからではないでしょうか。もしベビーゴジラのような姿をしていれば批判もかなり減ったと思います。



「金を貸せと言い出す」というのも……
むしろ選ぶのはこちら側だと思います。向こうは全く強制していない。見る必要性など、どこにもない。
どうしても批評をしたければ数か月待ってレンタルで借りたほうがよほど安上がりです。
シン・ゴジラの予告編を見たらこれまでのゴジラとは全然姿形が違うこと、さらに「日本対ゴジラ」というキャッチコピーを見て、殿様ギドラ様の望むゴジラのストーリーとは違うのは明らかです。この時点で、ある程度は諦めるべきであったのではないかと思います。


海軍大臣様の言う通り、その時代時代に合った演出や姿形をしてゆくべきだと私は考えます。
ゴジラ映画とは一部のマニアのためにあるものではなく、それを観る万人のためにあるべきです。
一例ですがそういう意味で(一部分ですが)やらかしたと個人的に思っているのが、2014年のギャレスゴジラでした。ムートーに対し初めて放射熱線を吐いた時、私は「え…そんなもの……」という感想を抱いてしまいました。
せっかく溜めた放射熱線の演出なのに、あれでは全然迫力がない。凄い威力だとも感じない。
私だけかと思ってネットや友人に聞いてみたらたいてい同じ意見だという。
初代のオマージュもいいとは思いますが、それ以上に今に合ったもっと派手で豪快な放射熱線にすべきだったと思います。
何もかも初代や2代目そのまんまでは、むしろ埋没して消えていく羽目になることは想像に難くありません。



「怪獣総進撃」についての意味、これに関しては確かにその通りだとも感じます。
でもこれに関しては、これまでのミレニアムシリーズの殆どや「シン・ゴジラ」にも言えてしまうのではないでしょうか?
ミレニアムにしろGMKにしろファイナルウォーズにしろシン・ゴジラにしろ、それ以降に設定を引き継ぐことなどありません。
(庵野氏は1作のみという条件で「シン・ゴジラ」を引き受け、続編は私は作らないと発言している。但し東宝が他の監督に続編を作らせる可能性はある)
唯一続編がある機龍2部作も合わせて2作のみ。
怪獣総進撃と同じような扱いになっているのではないかと感じます。
また私の感覚からすれば、ゴジラの出自よりも、ゴジラが人間たちによって管理されている方がよほどヤバい設定に感じます。


あまり言い続けても申し訳ないので、私の一番好きなゴジラ映画の話でもします。
結論から言うと、私は「メカゴジラの逆襲」が一番です。
私が理系の道に進んでいるのもありますが、科学やロボットに関してはやたらとマイナス面ばかり強調する映画ばかりなのが癪に触っている部分があります。「ゴジラ対ガイガン」「ゴジラvsメカゴジラ」辺りがそれでしょうか。科学のマイナス面ばかりを強調し、プラスの部分を描写しないのは恣意的で一面的な見方にすぎません。
しかし逆に、プラス面ばかり強調するのもダメです。
というより科学に限らず、どんなものでも片方の面ばかり描写するのはよろしくない。
「メカゴジラの逆襲」はその塩加減がよくできていた映画だと思います。科学の罪をしっかりと描き、またそれの解決の手助けをするのもまた科学。そういう中立性、また公平に書いているからこそ私は「メカゴジラの逆襲」が好きです。


余談ですが、この点が実に上手く描かれた「planetarian 星の人」というSF映画が昨年上映されました。今はDVD化してTSUTAYA等で借りられます。アニメ映画ですがエロや露骨な萌え描写などはなく、誰でも安心して観れる映画です。ほとんど完璧な脚本といっていいです。
「アンドロメダ……」がお好きな殿様ギドラ様なら、きっと気に入られることと思います。
最近の日本のアニメについて嘆いておられましたが、日本のアニメもまだ捨てたものではないと思いますよ。
尤も酷い作品も幾らでもあるのですが。


長くなったので、今回は血液凝固剤云々については後に回します。

Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) - 海軍大臣 (?)

2017/05/30 (Tue) 13:39:59

 ちょっと論点からズレてしまう話でスイマセン。
お好きだと言われた「メカゴジラの逆襲」(私も好きな作品です)ですが、仄聞したところによるとあのストーリーの根底はギリシャ悲劇なのだそうです。
 東映の名匠・山下耕作監督も学生時代にギリシャ悲劇を専攻していたので、入社と同時に有無も言わさず太秦撮影所にやられて、任侠映画で大成されたと聞いています。
こうした「作劇」の基礎をキチンと学んだ人間が作っていた頃の映画というのは、やはり最近の凡百の映像作品とは違って見えてしまいます。随分前にこちらに書かせてもらいましたが、「次郎長三国志」第六部の愁嘆場なんかは、演出する人間も演じる人間も、古典の戯曲にある程度慣れ親しんでいたからこそ、あれだけの仕上がりになっているのじゃないかと感じています。
古い革袋に新しい酒を盛ることの出来る才能こそ、これからの我が国特撮映画界に求められてならない気がします。


Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) - ブロークン (男性)

2017/05/31 (Wed) 23:45:09

>海軍大臣様
お褒め頂いて嬉しいです。
私も今回は脱線します。
確かに、昔の映画の方が今のものより出来がいいんじゃないかなあと思う時があったりします。私は洋画派ですが「フェイル・セイフ」や「ブラック・サンデー」が大好きですし、日本映画でも「太陽を盗んだ男」とかは好きな映画です。作劇の基礎ができているものが多いというのもあるとは思います。

でも、だからと言って今の映像作品がそれらに劣ると考えてしまうのはいささか早計なんじゃないか…? と考えてしまうのです。


というのも、昔の映画という意味で使われる作品は基本的に、「昔から今まで生き残ってきた名作」というものであるからです。
試しに1954年の映画作品を調べてみたら100本以上出てきます。年が古すぎるので、恐らくここに載らずに消えていった作品もかなりあるように思える。
でも、今まで残っている名作はその中の数本程度。10本あればいいほうで、残りはよほどのそのジャンルのマニアしか見ないでしょう。もしくは誰の記憶からも消え去る。

対して最近の作品は、そのような名作になるであろう作品だけでなく良作凡作駄作が入り混じったすべての作品で評価される。

これでは昔の映画の方が面白いとされるに決まっています。勝てるわけがない。
ある程度時が経って、それぞれの年度の代表的作品で比べないとどうしようもないと思います(後に残る代表的作品は、決して興行収入等で測れるものではない)。

後はアニメやゲームに人材が割かれたというのも大きいと思います(その影響でアニメーターの給料が低すぎるといった問題が出てきたりするけど)。
一昔前では実写映画で監督をやったであろう人物がアニメやゲームの監督になったりする。
これは単純に、趣味や娯楽の幅が広がったことによる影響ですね。要するに才能が分散してしまった。

今の映像作品でも上で挙げた「planetarian 星の人」みたいに素晴らしい作品はありますので、そこまで悲観する必要はまだないように感じます。

Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(また長いよっ) 殿様ギドラ (男性)

2017/06/01 (Thu) 18:28:47

 どうもみなさま熱い投稿に感謝いたします。
では、ひとつひとつ・・。

 前回の私の文章を注意深く読んでいただければわかると思いますが、ゴジラの芝居について中島春雄さんの演技をなぞっていいのだ、
と書いてあるのは二代目ゴジラを演じるなら、という意味ですよ。

 そして、私が言うゴジラとは二代目のことです。それはこれまでの数々の投稿で伝わっているものと思っていたのが安易だったのかもしれませんけれど。

 前回の投稿で、ゴジラであっても二代目とは違う個体なのであれば、「違う能力もあるでしょうが」と書いたのは別の文脈ではありましたが、もちろん立ち居振る舞いが変わってくることも否定しません。

 ブロークンさんは過去ログもさかのぼって読んで下さっているようなので、繰り返しになってしまうのかもしれませんけれど、
私は二代目ゴジラが好きなのですよ。
 だからゴジラ映画を作るなら、二代目ゴジラが再登場するものを望んでいるのです。

 映画におけるシリーズものを定義するなら、ひとつづきの物語であるか、同じ登場人物(怪獣)が引き続いて出てくるか、の二種に大別されるでしょう。
(例外はあり得ます。物語も続かず、同じ人物も出てこずとも全作に共通するテーマ、観念があることでもシリーズと呼ばれるかも知れません。ただし、ゴジラ映画をそのパターンに当てはめることは出来ない。
なぜなら、ゴジラ映画は大変に懐が深く、同じ観念に統一するような狭め方はされていないからです)

 ゴジラシリーズは共通してゴジラという怪獣が出てくるからシリーズものになっている、という定義になるのでしょうけれど、
ではキングコングシリーズと呼ばれる連作映画があるでしょうか?

 キングコングが登場する映画は数本あります。
けれども、中身が続いているものは『キング・コング』と『コングの復讐』、『キングコング』と『キングコング2』だけでありその他はそれぞれ無関係な作品たち。
(東宝コングも『キングコング対ゴジラ』と『キングコングの逆襲』は無関係)
同一のコングが出てくるわけでもなく、話が続いているわけでもない。

 だからシリーズとは呼ばれない。

 しかし、ゴジラシリーズは二代目ゴジラが連続して登場し、ストーリーにも連携がある。
(本多監督は続き物を作っている意識は無かったとおっしゃっていますが、それは一続きの物語を作ったわけではない、という意味であって、怪獣たちの来歴は作品をまたいで繋がっている)
 『ゴジラ』(54)と『ゴジラの逆襲』はストーリー面でも完全に繋がっています。某資料本にゴジラシリーズで唯一続編があるのは『ゴジラ×メカゴジラ』だなどと世迷い言が書かれていましたが。
初代ゴジラと二代目ゴジラは同じ世界に存在し、シリーズものとしてのつながりを持っているのです。

 だからゴジラシリーズと呼ばれるようになった。そして人気が出た。
ここでシリーズ物の利点まで説明する必要がありますか? それを始めるとさらに長くなってしまうので割愛します。(説明しなくてもわかりますよね?)

 それをぶち壊したのは1984年の『ゴジラ』。
ゴジラ復活を望んだファンたちが期待したのは、二代目ゴジラの再登場だったはず。ゴジラと言えば二代目のことだったのですよ。(初代は死んでいるから再登場は出来ない)
それなのに、二代目ゴジラの物語をなかったことにして、別物の二代目を登場させてしまった。ここでシリーズは分断されました。

 それでも84ゴジラは、元祖ゴジラシリーズとは断絶しつつも、『vsデストロイア』までシリーズものの体裁を保ちました。

 ですから私も、84ゴジラおよびvsゴジラがもし、元祖ゴジラの基本設定を守りつつ、劇中で二代目とは別個体の三代目なのだ、と表明する(二代目を無かったことにはしない)という筋の通し方をしてくれれば84もvsもゴジラとして認めたでしょう。
好き嫌いの問題としてvsゴジラの厳めしさより二代目ゴジラのやんちゃ気質のほうが好きだ、という感想にはなりますが。

 ところが、84がやらかした、設定も物語もリセット(元祖ゴジラシリーズとは別物にしてしまう)するやり方をとことん推し進めたのが『ゴジラ2000ミレニアム』以降の作品です。
便宜的にミレニアムシリーズと呼ばれることもあるようですが、あれはシリーズではない。

 まさに機龍二部作だけがシリーズであり、その他の作品はすべてバラバラ。
これは『怪獣総進撃』の中身が引き継がれないこととは別のことです。
 『ゴジラ対ヘドラ』から『メカゴジラの逆襲』までの作品も二代目ゴジラの映画だと言って良いと思いますが(『対メガロ』以降ゴジラの姿形が激しく変わるので一部ではあれはミニラが成長した姿だとする説もあるようですが、そうなると「総進撃」と矛盾する)、
ミレニアムシリーズにおいては物語も繋がらず、出てくるゴジラと名付けられた怪獣もそれぞれ別物。

 設定も物語もリセットしちゃって構わないのだ、という言説が支配的になるのはこのころです。

 しかし、それは異常事態だと認識すべきです。

 そんなシリーズがどこにありますか。ミレニアム以降のゴジラ映画が異常なのですよ。
それを異常と思っていないのはゴジラオタだけです。

 もう一つ言えば、ミレニアムシリーズに人気は出なかった。(ゴジラオタ以外の一般大衆を惹きつけることが出来なかった)

 非常に象徴的なエピソードをお話ししましょう。私自身の実体験です。
『ゴジラ2000ミレニアム』が公開されたころのこと。
 私がゴジラや特撮が好きであるということはご近所さんにもある程度伝わっていたようで、あるとき近所の奥さんから電話がありました。
奥さん「ちょっと知りたいことがありまして・・・」
私「(とまどいつつ)なんでしょう?」
奥さん「ゴジラの身長って、何メートルなんですか」
私「は?」
奥さん「私、ゴジラは50メートルだと思うんですが」
私「ああ、確かに50メートルのゴジラもいますよ。ですが、ほかにも80メートルのやつとか100メートルのやつとかいろいろ・・」
奥さん「(絶句)・・・・ゴジラにいろいろあるんですか??」

 これが一般の感覚です。

 当然でしょう。
 ゴジラとは世界的に有名な日本の怪獣。唯一のものだと思うのが当たり前だし、そんな有名怪獣をころころ変更するのが正しいわけがない。
イメージが定まらないものに人気が出るとも思えません。

 それを私はずーっと訴えてきました。

 同時に、同じ名前で違う存在を発表することをどうやって正当化するのか、と。
未だ有効な回答は得られていません。
 せいぜい「東宝がゴジラだと言えばそれがゴジラなのだ」という脳みそがお休みしているような答えだけ。


 以上が海軍大臣さんのご意見への返信にもなるかと思いますが、
池田憲章さんのお話の件もあるので、もうちょっと詳しく・・・。

 たぶん、同じ内容が書籍にも載っていた(ひょっとすると以前海軍大臣さんがここでお書きになったか?)と思うのですが、
円谷監督がゴジラに敏捷な動きをさせようとしていた、というお話のこと。
 ゴジラが敏捷な動きをすることは、実際に作られた二代目ゴジラの映画を見るだけでも十分納得できますよ。
対コング戦でも対モスラ戦でも相当速い動きをしています。
 それでも思い通りでは無かったのかもしれませんが、ゴジラが敏捷な動きをすることは私が作品から受けるゴジラ像と相反することはないです。
 ゴジラは鈍重な動きをすべきだと考える人は『ゴジラ』(54)に引きずられすぎなんですよ。
 円谷監督が創造演出したゴジラ像を十全に使えば、どんな世界・物語にも対応できるというのが私の考えです。
 ゴジラを変える必要はない、と。

ブロークンさんがおっしゃる、
>何もかも初代や2代目そのまんまでは、むしろ埋没して消えていく羽目になることは想像に難くありません。

このご意見は論証が必要かと思いますが?

私が二代目ゴジラを再び使えばいいのだと主張している理由は過去に詳しく書いているのですが、ここで簡単にまとめておくと、

 二代目ゴジラは、
不死身で巨大、戦っても強い、というのは人間の原初的なあこがれを体現している。
屈託のない性格でひょうきんな面もある性格は親しみやすい。
野生動物であることから社会的なくびきに縛られない自由さを持っている。
(ほかにもありますが簡略化していますから・・)

以上のことから観客は二代目ゴジラに自己を投影することで、自由を感じ意識の拡大を感じられるはずであり、それは普遍的な娯楽性を生むと考えられる。というわけです。
 
さて、幼なじみの例え。
 ブロークンさんはちゃんと正しい答えにたどり着いているではないですか。

 私にとってゴジラは本当に幼なじみと言える存在なんですよ。

 さて、幼なじみにゴジラを当てはめれば、

>同じ例えで言うなら、正確には人間だということしか分からないのです。

 おっしゃるとおりです。
 怪獣だということしかわからない。ゴジラではない。
 それが私の言いたかったこと。

 しかし、その先はいただけませんね。

 いやなものは見なきゃいいだろ、ということですね?

 映画を見る理由はいろいろなんですよ。批評の件も、あとでレンタルで見れば良いだろうというのも暴論だということはおわかりのはずだ。
まあ、私の例えを解体すれば、
「幼なじみと再会」というところが新作ゴジラ映画を見ることです。

「金を貸せ」と書いたのは、関連グッズや書籍のことでした。ま、それは伝わらなくてもしょうが無いとは分かっていましたけれど。
そんなことまで持ち出したのは、ゴジラマニアの中にはゴジラと名前が付けられていればどんなものでも買い集めるタイプの人がいるもので、
はたしてそれが正しいのか、という思いがあったからでした。
 気に入らない作品でもコレクションの一つとして関連グッズを入手するというのは、その作品に一票投じることになるのだから止めた方がいいというのが私の考えです。
というのも、映画も結局は商売ですから、金になるならそれでいいのだ、という考えに支配されています。
 関連グッズがよく売れるなら、その映画は「正しい」ことになってしまいます。

 私はそんなことはしないよ、と。(入場料を払っている時点である程度負けなんですけどね。評論家はいいね、タダで見られるんだから。でも貶せないんじゃ意味ないね)

 まあ、実際『シン・ゴジラ』に関しては最後まで迷ったのですよ。BBSにも書いてますけど、「見ない」という選択が最良ではないのか、と。
結果論として見て良かったです。まさか、こんな集団ヒステリーみたいな絶賛の嵐になるなんて思いもしませんでしたから。
 もし、私が見ることをせず、批評をしなかったらあとでどんなに悔やんだことか。

 ゴジラとは私にとって大変重い存在です。それを分かってもらう必要はないですが、
不愉快な結果になることが予測されても見なければならない映画というものはあるし、語らなければならない映画もあるのです。


 ミニラのことも・・。

 ミニラ批判があるのは、見た目のせいじゃないんですよ。『ゴジラの息子』ではゴジラ親子の情愛表現があったりして、ゴジラを超然としたものだと思いたい人にとっては、なにかゴジラを卑近なものにされたような気がするのでしょう。
私は『ゴジラの息子』という映画も好きですし、ミニラはあのままで十分かわいいと思っています。

 そして、『怪獣総進撃』の人間が怪獣を管理しているという設定は、ヤバいんです。
 それを使ってはいけないんです。ということは以前の投稿で申し上げているわけですが、ここで付け加えれば、だからといって『怪獣総進撃』がダメな映画かというとそうではないんです。
 あれは、本多猪四郎監督がぎりぎりの選択の中で選び取った人間と怪獣が共存する世界を描いたもの。怪獣を殲滅するのではない方法で怪獣災害を防ぐとしたらどんな形になるだろう、というひとつの答えです。
だからあの世界では怪獣映画は成立しないと言いました。そして、怪獣物語の終着点である、と。
『怪獣総進撃』は怪獣と人間の物語を考える上では、無限遠の未来にあると言っても良いでしょう。

 黄金期の映画の作劇と近年の映画の作劇に関しては私にも思うところがあるのですが、そこには分け入らないでおきましょう。

Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) - ブロークン (男性)

2017/06/01 (Thu) 20:44:00

返信ありがとうございます。
無論、私も2代目ゴジラの続編を出して良いと思います。というより、2代目に沿った作品が無さすぎる。
ですが私はどっちかといえば超然とした感じのゴジラが好きなので、VSゴジラのほうが良いんですよね。
まあその辺りは好みの違いということもあるので、あまり言うことはないですが。
(その為、私は2代目ゴジラがVSゴジラを止める形で戦う映画なんか作ったらいいんじゃないかと思ってたりします。最後は引き分けでどちらも死なずに終わる結末がよいでしょう)


『ゴジラとは世界的に有名な日本の怪獣。唯一のものだと思うのが当たり前だし、そんな有名怪獣をころころ変更するのが正しいわけがない。』
『イメージが定まらないものに人気が出るとも思えません。』
ただ、これは絶対におかしい。
というのも、私はコロコロ設定を変更している超人気キャラをいくらでも知っています。


驚くでしょうが、世界的に有名なスーパーマンやバットマンやスパイダーマンは原作のコミックで、設定が大きく変わったことが何回もあります。
全部シリーズものですが、どれも少なくとも設定は2回はガラッと変わっている。(例えばスーパーマンとバットマンは1985年と2013年)
同じなのは名前くらいで、出自も能力も服装も周囲の環境も敵の設定もすべて変えられている。そして、それまでのことはシリーズすべて全部なかったことになった。
もっと言うとアメコミにはエルスワールドという世界観があって(いわゆるパラレルワールド)、そこでは例えば『スーパーマンが実は悪だったら…』『もし全員ゾンビだったら』『もしスーパーマンが騎士だったら』『スーパーマンがソ連の英雄だったら』等のとんでもない世界観で1つのシリーズになったりする。そんな話がどのキャラにも数十以上ある。
要は上のキャラ達は20年続いたシリーズを世界観ごとすべて捨て去るということを少なくとも2回もやってるんです。それどころか別世界の話としてシン・ゴジラも真っ青なレベルで性格や設定の違う奴が数十人くらいいる。
それでも人気は今でもちゃんと出ている。
というか、スーパーマンやバットマンは映画でも最初から4作、続編として続いたけど結局リセットしちゃっている。



イメージが定まらないものに人気が出るとも思えない、というものこそ主観ではないでしょうか。反例はいくらでもある。
「そんなシリーズがどこにありますか。」というのは知らなさすぎるとしか思えない。

2代目ゴジラが好きなのは否定はしませんし、続編の作品が出てもよいと私は思っています。
しかし2代目の後期のゴジラはひょうきんな性格で、明らかに『人間の味方』『正義の怪獣(丁寧にもゾーンでそう言っちゃってるし)』となってしまっている。
じゃあひょうきんな性格が嫌いで、初代ゴジラが好きな人はどうしたらいいのか。超然としたVSゴジラが好きな人はどうしたらいいのか。ミレニアムは? ファイナルウォーズは? シンゴジラは?
さらに今までとは違う、全く新しいものが見たいっていう人はどうしたらいいのか(私はそういう友人を何人も知っています)。
2代目一本に纏めるというのは暴論としかなりえません。




あとはこういうのはどうでしょうか、という案です。


マーベル(アベンジャーズやスパイダーマンとか)やDC(スーパーマンとかバットマン)やウルトラシリーズや仮面ライダーは多世界解釈を採用しています。我々の住む宇宙は無数に存在する宇宙の中の1つに過ぎないという理論で、世界観を無限に増やしている。
要は別の宇宙だからこういう世界でも問題ないよね、という話です。
ウルトラマンティガやダイナのいる宇宙はM78星雲光の国がないから、初代ウルトラマンがいなくても問題ない。
スーパーマンが悪の首領の世界でも、おおもとの正義の味方の宇宙と違うから全然問題ない。
映画もコミックも設定が違うなら別宇宙にすれば全く問題なし。
ゴジラにもこれを導入すれば解決すると思うんですよね。
2代目がいる宇宙やVSゴジラのいる宇宙などにすれば2代目の新作や、世界観のクロスオーバーやまったくの新作だって描けます。
そしてその設定は天下のマーベルやDCが数十年以上前からやってる。
十分に成り立つんです。


これくらい壮大な設定にすれば問題ないと思うのですが、どうでしょうか。

Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) - ブロークン (男性)

2017/06/02 (Fri) 01:22:22

追記です。

ちなみに多世界解釈によってマーベルやDCは非常に自由度の高い作品ができていて、相当な恩恵を受けています。
独自の世界を思う存分描けるから、名作も生まれやすい(「キングダム・カム」や「スーパーマン・レッドサン」など)。

さらに非常に説明が楽なんです。ゴジラで言うなら
・初代から2代目ゴジラまでで、VSゴジラが出現しない世界
・シン・ゴジラがいる世界
・ファイナルウォーズの世界
・怪獣総進撃の世界
・初代ゴジラの骨が残った世界(機龍2部作)
みたいな感じでしょうか。
初代ゴジラまんまだけど、芹沢博士がいない世界なんていうのもやろうと思えばできる。
全く新しい世界観だって全然OK。

説明は「世界が違うから」の1言で済みます。
ゴジラに強いこだわりを持つ者や大してこだわらない者、ほぼ全員が納得するのではないでしょうか。
自分の好きな設定で映画や小説、漫画などを作れるのですから。


ちなみに多世界解釈はマーベルは1977年、DCは1960年からある由緒正しき設定で、人気を博しています。派生も山のようにあります。
豚がスパイダーマンになった世界なんかもあります。でも別世界の話なので文句をいう人はいない。
DCにしろマーベルにしろ何回かほぼすべてのキャラが出自や設定などを一新され、大本の物語も1からになっているので、殿様ギドラ様の言う「設定も物語もリセットする有名キャラ」はいくらでも居るんです。
それもゴジラより自国内でも世界でも有名なキャラです。

Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) 殿様ギドラ (男性)

2017/06/02 (Fri) 17:48:50

時間がないので、詳細には書けませんけれど、
取り急ぎ、短く・・・。

まずブロークンさんに謝らなければなりませんね。
私はアメコミに詳しくないけれど、おそらく設定変更の嵐が吹き荒れているのだろうな、というぐらいは想像がついていました。

ですので、その、反論の内容も予測の範囲内だったんです。

ひっかけるようなことをしたこと、お詫びします。

パラレルワールドなどを持ち込んで、「有名キャラ」(ブランド力がある)の名前を使い、別物を送り出す行為、
いまはウルトラマンも積極的に使っている手法。
(ただし、ウルトラマンは同じ名前の別の物を作ったりはしていない)

それこそ、大衆性から乖離したオタク商売。
(行き詰まって飽和したからお客さんに与える情報を増やすためにさまざまなからくりを考えているに過ぎない)

そんなことをゴジラでやって欲しくはない。
(怪獣ゴジラは行き詰まっているのか?という問題を議題にすべきなのだが、元祖ゴジラのキャラクター性が持つ可能性を十分に議論せぬまま、やれ現代的にだの時代に合わせろだのと変化ばかり求めるのは間違いであろう)

私はスーパーマンのマニアではありません。
けれども有名キャラだから彼がクリプトン星から来た宇宙人だということは知っている。
しかし、別の設定のスーパーマンがいるなんてことは知りません。そんなものは浸透していないんですよ。

もうひとつ、二代目ゴジラは『ゴジラの逆襲』から『メカゴジラの逆襲』までの出演。
その過程でストーリー上さまざまな役割を果たしています。
その振れ幅を利用せよと言っているのです。
ただし、私が主張しているのは、本多・円谷両監督が「二人とも」関わった時代のゴジラを参考にせよ、ですから、『ゴジラ対ヘドラ』以降の二代目ゴジラは除外しても構わないのですよ。

それから・・、なぜゴジラでなければならないの?
いままで見たことがないものを見たいなら、ゴジラではないものを見れば(作れば)いいのですよ。

Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) - ブロークン (男性)

2017/06/02 (Fri) 20:15:56

お返事ありがとうございます。
まず、『イメージが定まらないものに人気が出ない』ということは反例がある時点で明らかに間違いなのは分かっていただけたと思います。

また、『けれども有名キャラだから彼がクリプトン星から来た宇宙人だということは知っている。』
これはゴジラでも同じことではないでしょうか?
たぶん一般人は姿形や熱線を吐くってことくらいしか知らないでしょう。水爆云々は既に怪しい。
度々設定変更しているなんて知るわけがない。
多少知ってたら分かるでしょうが、それはアメコミでも同じこと。ある程度知識がないと別世界にスーパーマンが大量にいることや、スーパーマンが度々設定を改変されて1からやり直しになってることなんて知らないんですよ。
現に初期のスーパーマンと今のスーパーマンは(たとえ大元だとしても)姿形も設定もまったくの別物で、物語を何回もリセットしているのを殿様ギドラ様は知らなかったでしょう。知っていたら「そんなものがどこにありますか」なんて書けるわけがない。
それこそが証拠です。

となると、やはり設定変更と人気は関係がないのです。
設定変更したから人気が落ちるという意見は、(あえて書きますが)細かいことを気にするマニアでしか起きないものに他ならない。



じゃあそれが「大衆性から乖離したオタク商売」なのか。
逆でしょう。むしろ大衆性に迎合している。
何故なら、設定変更で憤るのはオタクに他ならないからです。
一般人はゴジラの姿形しか知らないから、水爆云々の出自については気にならない。というより、どうでもいい。ゴジラが暴れて、映画が面白ければそれでいい。

象徴的な話をしましょう。私は初日にゴジラを殆ど知らない友人と「シン・ゴジラ」を見に行きました。できる限り事前の評判をシャットアウトするためです。
そしたら私は凡作だなあ、熱線吐いてからの後半は面白くないなあ、なんて鑑賞後に思ってたら友人はすごく面白かったという。
友人によるとゴジラの姿形がかっこよくて、ビルの倒壊や無人在来線爆弾がすごく燃えたそうです。

私からすればゴジラが気色悪いのはあまり好きじゃないし、ビルの倒壊や在来線爆弾はゴジラが弱くて違和感を感じる場面だったけど、友人はそんなことを知らない。
考えてみれば、ゴジラをよく知らない限りシン・ゴジラのデザインはそこまで気にはならないでしょう。
実際しばらくして他の(ゴジラを全然知らない)クラスメイトに聞いたら、みんな似たような返答をする。

考えてみればこれは当たり前で、一般人は過去のゴジラがどんなのか全然知らないから、シン・ゴジラは気にならないんです。
出自も設定も容姿も能力も知らないからそうなる。
背鰭や尻尾から熱線が出ても「放射熱線すげー!」にしかならない。
過去のゴジラを知らないから、生物性なんて1ミリも気にしない。
せいぜい姿形と熱線くらいでしょうが、姿形はゴジラに似ていて、熱線は色々パワーアップしている。
「ゴジラじゃないよ」なんて思うわけないんです。


これはゴジラに限りません。初めて「機動戦士ガンダム」の世界観から離れた別物の「機動武闘伝Gガンダム」が出たとき、既存のガンダムファンは文句を一斉に言いました。
「あんなのガンダムじゃないよ」
でも考えてみてください。「あんなのゴジラじゃない」「あんなのガンダムじゃない」という言葉は、ゴジラやガンダムをよく知ってないと言えないんですよ。
さらに突き詰めると、知っていても思い入れやこだわりがないと言わない。
それはオタクでしかない。(少なくとも一般人からしたらオタクである)
で、結局一般人とわりかし寛容派なオタクたちによって(ただし認めない人もかなり多かった)Gガンダムは結構人気になり、その後続々と他の世界観の「ガンダムW」とか「ガンダムSEED」などが続くんですが、それは置いておきます。


ほかにもウルトラマンや仮面ライダーでも同じようなことが起きている(ティガとか龍騎あたりがそれ)。
要するに時代に受けるために、設定を改変する。一般受けを図るために別物をやる。
そしてそれが結構どのジャンルでも受けちゃってるんです。
そこを間違えたらいけません。
今回はここまでにしておきます。

Re: ゾーンファミリーの朝はシスコーンで始まる(長いよっ) - ブロークン (男性)

2017/06/03 (Sat) 02:48:52

追記です。
言おうか言うまいかずっと悩んでいたのですが言います。

「私はアメコミに詳しくないけれど、おそらく設定変更の嵐が吹き荒れているのだろうな、というぐらいは想像がついていました。」
「ひっかけるようなことをしたこと、お詫びします。」

これはどういうことでしょうか?
まさかと思いますが、アメコミの(それも世界一有名なヒーローの)設定改変を知ってて、私が知らなかったらそのまま押し通すつもりだったのでしょうか。
だとしたら、悪質どころの話では済みませんよ。
相手が知らないのをいいことに、詭弁で押し通そうとしていたなど論外です。
想定内云々の話ではない。

説明をお願いしたいです。

シン・ゴジラについての色々 - ブロークン (男性)

2017/05/16 (Tue) 02:15:18

初めまして。いきなり入ってきてしまい済みません。
正直な話私はいまだ学生な上にバリバリのVS世代なので、皆様から見ればまだまだ雛ですが、ゴジラについてはよく調べているつもりです。
初めに結論から言うと、シン・ゴジラは100点中40点くらいの出来だと思っております。


ゴジラについてですが、私はあれはゴジラだとはあまり思いたくないというのが正直なところです。
理由は単に弱すぎるということです。あれではイグアナと何も変わりません。

これまでのゴジラは自然現象や明らかな超兵器をもってしても、なかなか倒せないものでした。よく言われる「ファイナルウォーズ」でも、超兵器の轟天号(しかも極めて高い拍のついた超兵器)をもってしてもどうにもならず、最後はたまたま起きた地震(自然現象)を利用してようやく封じ込めたりと、配慮がありました。
また地球連合が総力を挙げて戦っているというまさしく総力戦であることがきっちりと書かれています。ゴードン大佐あたりが一番わかりやすいでしょうか。

またビオランテでもスーパーX2→抗核バクテリア→サンダーコントロールシステムと数多くの超兵器を使用し、更に紆余曲折や過ち(若狭湾で待ちかまえても来なかったなど)があって、そこがドラマを盛り上げていました。
またビオランテ自体は抗核バクテリアが効いたのはビオランテと戦闘したからだという解釈になっています。これは「ゴジラVSビオランテ大百科」にも書かれてあることですし、また完成版脚本を見るとサンダーコントロールシステムでも効かないゴジラに白神博士が「そんなはずは…」と焦る描写もあり、それなら納得だと私は感じていました。

ところがシン・ゴジラは、そのような紆余曲折や苦戦もなく、あっさりと凍結されてしまいます。これでは全然ゴジラの強さや見せ場もありません。
そもそも東京駅でグースカ寝ているというのもご都合主義です。84やビオランテではちゃんとゴジラを作戦ポイントまで誘導する描写が入れてありました。前者は磁性体による誘導、後者はスーパーX2です。
私ならあの程度でゴジラが寝たりせず、ちゃんとゴジラを誘導する描写も入れ、様々な想定外の苦戦を(例えば転倒したら進化して腕が巨大化、本来のゴジラの大きさになり、すぐに起き上がったりとか)入れて、世界全体の協力でようやく鎮圧できるかどうかという脚本にしたでしょう。そのほうが見せ場もありますし、会話劇を削れば楽な話です。
様々なしがらみや過ちを乗り越え、人類が皆で一丸となって努力して初めてゴジラを乗り越えられるかどうかという話。日本のみや権力などで固執していては勝てないという話。そういう話にしたと思います。



ちなみに米軍の大型貫通爆弾でゴジラが傷ついたことに関しては、私はアリかなあと思っています。あれはMOP「2」という架空兵器、もしくは近未来兵器であると「シン・ゴジラ機密研究読本」に書かれてあります。少なくとも現行兵器ではありません。
これまでもゴジラは例えば「モスラ対ゴジラ」で3000万ボルト電流作戦で相当に苦しんでいたことなどを考えると許容範囲です。
まあ、もっと別の名前にしてはっきりと超兵器であるとわからせたほうがいいかもしれませんが。
余談ですが「ゴジラ2000 ミレニアム」に登場したフルメタルミサイルはコンクリート10mを貫通する性能とはっきり「宇宙船」の1999年(何号かは忘れてしまいました)に書かれてあります。一方、現行兵器のMOPは70mのコンクリートを貫通してしまいます。現行兵器が架空兵器の威力を上回ってしまう。
このことには少し恐怖感を感じます。

熱線はむしろ私は好きです。というより、あのようにしないと兵器が発達しすぎてしまった現在では絶対に熱線が当たらない遠距離から延々とゴジラに向けてミサイルを撃ち続けるという酷い絵面になってしまいます。
あれは能力を「足した」だけで、弱体化はしていません。足すこと自体は私はありだと感じます。
因みに私が映画館で見たとき、横の子供は終始退屈気味でしたが、熱線のシーンでは喜んでいました。そういう意味でも、あれはいいと感じます。

また勝手に弱点をつけることに関しては、円谷監督が居られた時も電撃に弱い(キングコング対ゴジラ)、冬眠する(ゴジラの逆襲、ゴジラの息子)などの弱点を付け足されていることも考えるとそこまで目くじらを立てることだろうかと感じます。
そもそも怪獣総進撃ではゴジラが国連に管理されており、苦手な煙を吹いて追い払わせているという描写があったりしますので、科学で怪獣が解析されるのも私はありだと感じます。

逆に一番許せないのがあの醜悪なデザインです。きわめて気持ちが悪く、円谷監督は絶対にあのようなデザインを許さないだろうと断言できます。この点だけはどうしてもあり得ないと感じます。

纏めると私は
・ゴジラが弱すぎる
・ゴジラが醜悪である
ことを除けば悪くはないと考えています。
そして上2つが、とても大きなマイナス点だということです。

Re: シン・ゴジラについての色々 - ブロークン (男性)

2017/05/16 (Tue) 17:47:55

ただ、私は「ゴジラ」シリーズに関しては、ゴジラの出自等の設定は原作者の意向に合うならば改変は許されるべきだと思います。

例えば、ガンダムシリーズ。世界観の違う殆どのガンダムシリーズで「シンゴジラ」も真っ青なほどの改変が多数行われていますが(特に「Gガンダム」)、原作者の富野監督はむしろそれを肯定しています。
仮面ライダーシリーズもそうです。原作者の石ノ森章太郎が存命の時期に改変が多数行われている。

その改変が許されるのは、恐らく原作者が「これは○○だ!」と思えるようなものであると言うことでしょう。
なので私は、大元の一人である田中友幸が作成した平成VSシリーズの設定は肯定派です。
確かに「ゴジラの花嫁」等の珍作を考えてはいましたが、そんなものは富野監督が許した(むしろ喜んでいた節がある)「Gガンダム」に比べればマシでしょう。
しかも「平成ゴジラ大全」を見る限り、田中氏は積極的にゴジラVSシリーズの製作に関わっている。
ならば私はVSゴジラの設定は十分に受け入れられるものだと考えています。

「シン・ゴジラ」の問題は、その田中氏ですら受け入れがたいものであることが確実であること。
「平成ゴジラ大全」に「ゴジラvsビオランテ」の最終形態の設定が人面花だったということが明かされています。そしてそれを、田中氏は躊躇なく拒絶している。
その後川北監督等と白熱した議論を交わし、結果的にあの植獣が生まれる訳ですが、問題はそこであまりにグロテスクなもの、人間や動物そのまんまはやめろと田中氏が発言していること。
「シン・ゴジラ」はまさにそのやってはいけないことをやってしまった。
だからダメだと言う意見です。

余談ですが「平成ゴジラ大全」は田中氏の考えや当時の映画作成の雰囲気を知るには絶対に必読といってもいいと思います。

ちなみに、殿様ギドラ様の唱えていたシン・ゴジラの科学的な矛盾点に関してはある程度は書籍で補完されています。(私は訳分からんことを言って恥をかきたくないので、どんなに駄作だと判断した映画でも設定集を読んでから批評する)
書かれているのはシン・ゴジラ機密研究読本、日経サイエンス12月号辺りです。

もっとも私は、シン・ゴジラをほとんど評価してはいないのですが。

Re: シン・ゴジラについての色々 殿様ギドラ (男性)

2017/05/16 (Tue) 19:42:21

ブロークンさま、ようこそいらっしゃいました。
ささ、座布団をお敷きになって・・。

ちゃんとしたレスは後日書きますので、もちょっと待ってね。

Re: シン・ゴジラについての色々 殿様ギドラ (男性)

2017/05/18 (Thu) 20:55:58


私の基本的なスタンスとして、ゴジラを改変するのは御法度である、という立場を取っています。
ゴジラというのは架空の生き物で、作り手が変われば扱いも変わってしまうのは止められないことなのかもしれません。
それでも、誰かが厳密な基準を訴え続けないと変化に歯止めがかからなくなり、ゴジラと名付けられてもまるで別物になってしまう事態が予想されるからでした。

そんな努力もむなしく、『シン・ゴジラ』においてまさにまるで別物のご登場となったわけです。

さて、円谷時代のゴジラの弱点のことですが、初代ゴジラの時点ですでに想定されていたとは私も考えていません。
けれども、のちの作品で電撃や低温に弱いのではないか、という発想が出てくるのは、ゴジラの設定や第一作での描写を踏まえていると考えられるので、先行作と矛盾を来さないという基準を守っているのでセーフなんです。

爬虫類とほ乳類の中間型の生物であるなら、冬眠の可能性もあるのではないか、第一作『ゴジラ』でゴジラが本格的に怒るのは電撃を受けてからのこと(劇中で熱線を初めて見せるのは高圧電線に触れたとき)ですから、電気ショックはかなりこたえるんじゃないか、
と、第一作の内容を踏まえて展開させたと考えられるのです。

ですから後付け感が少ない。

そうでないとしても、原典と齟齬を来さなければ後付けもありでしょう。
たとえば、はじめの数作においてはゴジラに子供がいるなんて作り手たちもまったく考えていなかったでしょう。
それでもゴジラも生き物である以上、子孫を残すのは当たり前です。
そこにミニラを登場させる余地がありました。

ミニラが嫌い、認めないというファンも少なからずいるようです。
初期のゴジラから想像すれば子育てするゴジラなんて「やめてくれ!」という気持ちもわかります。
ですからミニラ嫌いの人を責めはしません。しかし、決してミニラは不当な「後付けキャラ」ではありません。

さて、
『怪獣総進撃』は扱いが非常にデリケートな作品でして、ゴジラ映画には珍しく未来世界を舞台にしています。
(もう一作は『怪獣大戦争』)
あの映画では人類が怪獣すら管理できるようになった世界を舞台にしています。
現実社会のシミュレーションという側面を捨てているのです。
その世界で、地球外からの敵に対しては人間と怪獣が共闘するさまを描いているわけです。

怪獣を怪獣島に閉じ込めているのですから、完全に平和的な共存とは思えない世界設定ではありますが、作り手の思いは、人類と怪獣が争わなくてもいい世界を描くことにあったのでしょう。

そんな世界が実現したら、怪獣映画というジャンルはおしまいです。
(怪獣ものの最終作にしようとする意図がそこに表れている。ただし、スタッフ証言には「総進撃」で怪獣映画を打ち止めにするなんて話は聞いてなかったというものもある)

SY-3がゴジラの熱線を浴びても破壊されないことなど、『怪獣総進撃』では怪獣は人間にとっての真の脅威ではない。
怪獣映画が成立しない世界なんです。

劇中では「20世紀も終わりに近く」、と語られていますが、それを額面通りに受け取るべきではありません。
すでに21世紀になった我々の世界ですが、『怪獣総進撃』の世界にはほど遠い。
あの世界は一種の理想型として受け止めるべきであり、ゴジラシリーズを作るなら、『怪獣総進撃』の内容を踏まえるべきではないのです。

事実、『ゴジラ対ヘドラ』以降の70年代ゴジラ映画ではゴジラは怪獣島に住んではいるものの、怪獣ランドなどはない。
『ゴジラの息子』までの内容を踏まえていると考えられます。

おっとっと、「総進撃」に深入りしていまいましたが、
怪獣たちの弱点や生態を科学的に解析することの危険は、もし現行の科学で説明を付けてしまうと怪獣は謎ではなくなり、
たとえ架空の科学理論でも人類共有の科学知識(オキシジェンデストロイヤーとは別の道具立てとなる)であるなら、怪獣は脅威ではなくなります。

一作限りの倒され役怪獣なら、それでもいいでしょう。
しかし、ゴジラやその他の再出演を期待されるスター怪獣にそれをやってはいけません。

『シン・ゴジラ』がやった怪獣に対する弱点作りは、怪獣の細胞レベルでその機能を暴き、分子生物学的アプローチで撃退法を提示するという念の入ったものでした。
これは本家ゴジラが電撃に弱いとか低温で活動が鈍るという設定とは、次元が違います。
ゴジラが電撃や低温に弱い(らしい)ことには格別な説明はありません。なぜかわからないけれどやってみたら結構効いた、という扱いです。
逆に言うと、いつでも電撃で撃退できるとは限らない、とも言えるのです。そこに謎がある。

ちんごじらには謎などない。
エセ科学であっても、劇中ではがっちりと説明がついています。そんなものはゴジラではない。

さて、『シン・ゴジラ』に登場した米軍の地中貫通弾が架空の兵器であるとは、びっくりしました。
地中貫通弾なるものがあるのは知っておりましたので、まさかMOPⅡが架空とは思いも寄りませんでした。

ですが。たとえもっと派手な見るからに超兵器だったとしても、ゴジラの肉体が傷つく描写をやってはいけません。
中野昭慶監督は結構流血描写もやりましたが、円谷英二監督は残酷描写を忌避していました。
作品によっては例外もありますが、ことゴジラに関しては初代が溶かされた以外、ゴジラの肉体が損傷する描写はありません。
原典を大切にするなら、ゴジラはケガをしてはいけない。

まあ、ちんごじらはまるでゴジラではないので、彼奴がケガをしたところで私はなんとも思いませんでしたが・・・。
(その点、「東京SOS」でゴジラの肉体がドリルで削られたのは不快だった。あのゴジラ、見た目はまずまずゴジラでしたから)

MOPⅡが架空の武器だったことにまるで気がつかなかったわけですが、それは設定書などを読まないのが悪いのでしょうか。
架空の兵器だから破壊力がすごいんですよ、とわかって欲しいなら、ブロークンさんご指摘の通り、それなりの説明、演出があってしかるべきです。

映画は作品そのもので勝負すべきで、解説書の類いを読まないと正しい解釈が出来ないようなものは出来損ないですよ。
(ですから私は映画を批評する際に、解説書から得た情報は極力使わないようにしています)

怪獣に絡む設定の科学的な誤謬を解説書がどのように説明しているのか知りませんが、どんなにおかしな描写も複雑怪奇な裏設定を作れば正当化できますよ。
問題は、作品のみを鑑賞して納得できるのか、ということです。
まあ、私も科学の専門家というわけではないので、私の突っ込み自体が間違っているというなら謝罪しなければなりませんが、劇中のセリフや描写では伝えられていないファクターを持ち出して説明を付けているとするなら、
そんなものは相手にしません。設定厨の遊びですよ。

創作キャラクターの改変問題は、私も原作者が承認、ないし自ら行ったことならば受け入れざるを得ないと考えています。
ただし、作品鑑賞のレベルでの善し悪しはありますけれど。(たとえ原作者が行ったことでもうまくいっていないと思えば評価は出来ない。しかしその場合、不当とは言わない)

とはいえ・・・。

うーーん、言いにくいことですが、私は田中友幸氏をゴジラの生みの親としてはあまり重視していません。
確かに恐竜タイプの怪獣を提案したのは田中友幸氏であったようですが、怪獣映画の製作にゴーサインを出したのは森岩雄さんのようですし、
本多きみ(本多猪四郎監督の奥様)さんによると、本多監督と円谷監督が二人がかりで田中友幸氏を説得して「ただの怪獣大暴れ映画」ではないものにしたようです。
田中氏のセンスでは、見世物映画として派手ならそれでいいと思っていたフシがあるのです。
(書籍「ゴジラのトランク」より)

映画『ゴジラ』の内容の深さ、怪獣ゴジラの魅力的な存在感、それらを実現したのは田中友幸氏のコンセプトを否定して表現を深めようとした本多猪四郎、円谷英二の意思によるものと考えています。
(もちろん香山滋氏の功績もあります)

1984年以降の完全田中体制下でもさすがに派手なだけの見世物映画にはしていませんが、『ゴジラの逆襲』から『メカゴジラの逆襲』までをなかったことにするやり方(84ゴジラのポスターにはご丁寧に「30年間の沈黙を破って」と書いてある)には
不信感しかありません。
当時の田中友幸氏の様子(テレビにも出演したし、書籍でもゴジラに関する発言を多数行っていたと思う)を見ていて、「この人は自分がゴジラを作ったことにしたいのか?」と感じました。
その疑問はいまでも払拭できません。

それから、VSシリーズにおいて、ゴジラを恐竜が放射線で変異したものだ、としたのは、ゴジラという怪獣の根幹を書き換える行為なので、やっぱりダメですよ。

どうもすいません。
昨今のおっさんたちは物わかりがよければ世の中について行っていると思いたがるみたいですが、私のような頑固親父が己の価値観を曲げずに頑張るのも必要なことかと思っています。

ともかくも、『シン・ゴジラ』の怪獣はゴジラとしてアカンという点では一致していますから、頑固親父の意見も少しは参考にしてみて下さい。

Re: シン・ゴジラについての色々 - ブロークン (男性)

2017/05/19 (Fri) 06:53:42

お返事ありがとうございます。

まず私も、怪獣の仕組みや弱点を何から何まで全部説明してしまうというのはあまり好きではありません。神秘性が失われるというのもありますが、想像の余地が消えてしまうというのもあります。
しかしある程度の説明はアリだと感じます。当時の怪獣図鑑にはゴジラやウルトラマンといった様々な怪獣の体内構造図が溢れかえっており(1970年代のものにもあった)、私はそれを見てわくわくしてた世代だったというのもあります。
更に「ゴジラ対ヘドラ」の宣伝にすらヘドラの内部図解が描かれていたというのもあります。

また「シン・ゴジラ」の血液凝固促進剤(おそらくvsスペースゴジラからとったのでしょう)については、私は許せる範囲内に収まっていると思います。
というのも、「シン・ゴジラ」のラストシーンで、尻尾からヒト型のような物体が多数出現しているのがアップにされます。
ですが凍結した直後のゴジラを見ると、尻尾には何の変化も見られない。
要するにあれでゴジラは倒せておらず、凍結してもさらに進化してしまっているということが本編ではっきりわかるのです。
この「本編ではっきり倒せてないのが分かる」ことと「進化している」ことで、想像の余地や神秘性が保たれていると私は考えています。
実際資料集の「ジ・アート・オブ・シンゴジラ」にはあれが第5形態だと書かれています。
逆に言えばそういう描写がなければ、私は本作に0点をつけていたでしょう。またその第5形態が気色悪いのは個人的には好きではありません。進化している描写は例えば目の瞬膜が外されたり、ちょっと動いたりなど他の方法はあったと思います。


MOPⅡに関しては殿様ギドラ様の意見を踏まえたうえでのギリギリという意味で使用しています。テロップでMOPⅡとはっきり出てくるので劇中だけでも架空兵器だと一応分かるのですが、それが架空だと気付くのは軍事マニア位でしょう。私も初見では分かりませんでした。
尤も調べれば直ぐに分かったのですが、不親切ではあります。


「総進撃」についてですが、私はこれ以降の昭和ゴジラの映画でもある程度「総進撃」の要素は受け継がれていると感じてしまうのが正直なところです。
例えば2作後の「ゴジラ対ヘドラ」。この戦いでゴジラはヘドラに対して、自衛隊の電力板がなければ勝つことは出来ませんでした。しかもその電力板はSY-3と同じように、ゴジラの熱線を受けても傷一つつかず、電撃を放射していました。
その後の「ゴジラ対ガイガン」のゴジラタワー破壊作戦や「対メガロ」のジェットジャガーなどもその一例です。「総進撃」以降、もっと言うなら「怪獣大戦争」以降、ゴジラは人間の助力がなければ勝利をもぎ取れたかどうか非常に怪しい描写がかなりあります。
それが頂点となったのが「メカゴジラの逆襲」でしょう。ここではゴジラは自衛隊の戦闘機(メカゴジラ2が回転フィンガーミサイルを撃ち込もうとした瞬間に乱入している)・超音波発生装置など数多くの助力を得ています。助力がなければ確実にゴジラは敗北していました。

また「人類に管理されるゴジラ」は総進撃だけではありません。本多猪四郎氏や福田純氏が関わっている「流星人間ゾーン」では地球を守る宇宙人のゾーンファイターに呼ばれてスパーリングを行ったり怪獣と戦ったりと事実上ゾーンファイターのお助け人のように扱われ、さらに出動時には何故かシャッターのようなものから出現したりといい明らかに「管理されている」存在でした。
この後の「メカゴジラの逆襲」でも、子供の「助けて」という声に合わせて現れたりと、そのような傾向はみられます。



また円谷英二の「流行っているからやるぞ」という理由で出されたシェーなどの数々の怪行動も私は良いと思っています(「シェー」のいきさつは中島春雄氏の「怪獣人生」にはっきり書かれている)。
要は面白そうで、原作者が忌避しないものなら何をやっても許される。少なくとも初代ゴジラがシェーやスぺシウム光線や勝利のVサインをすることなど誰も想像しないでしょう。空を飛んだのは田中友幸氏からすれば我慢ならなかったそうですが。
そういう見方で、私はゴジラ映画を鑑賞しています。なので「シン・ゴジラ」の背中からのレーザービームや進化するゴジラなどは面白いのでありだと感じますが(実際、話題になった)、グロテスクな造形やラストのぶっ倒れて凝固剤を飲まされてる際の無様さなどは個人的に受け付けないのもあって絶対に駄目だと感じます。
中島春雄氏も「ゴジラはまた出てくるだろうね。同じゴジラだからって、どこかで昔のゴジラを真似しているうちは、いい映画はできないんじゃないかね。」と仰っています。


なおあまりに長くなり過ぎたので、「シン・ゴジラ」に関する科学については今回は割愛しています。

Re: シン・ゴジラについての色々 - ブロークン (男性)

2017/05/19 (Fri) 16:56:53

ちなみにシン・ゴジラでゴジラが分裂したり、どんどん進化したりするのは、元々本多猪四郎氏のアイデアであることが明らかになっています。
これは「イノさんのトランク」ではっきりと明かされていることです。

ちなみにそこではゴジラが液体化・気体化、果ては非生物化したり、ゴジラが相手を吸収して大きくなるなどシン・ゴジラをも超えるレベルの変形が行われています。
ちなみに題名は「神ゴジラ」です。

大本の原作者がこのような突飛なアイデアを出しているので、面白ければ何でもいいというのはやはり間違っていないと考えます。
「これはゴジラだ」と言えるのは「グロテスクでないこと」と「強いこと」くらいしかないのかもしれません。

Re: シン・ゴジラについての色々 殿様ギドラ (男性)

2017/05/23 (Tue) 18:38:01

ふうふう、レスが遅れております。
決して無視しているんじゃないです。

ちゃんとしたレスには着手しています。
時間が作れなくてまだ書き上げられません。

いま言えるのは、物事はもっと複雑ですよ、と。

アニメ映画『ゴジラ』はどうなるか? - エクセルシオール (男性)

2017/03/12 (Sun) 20:48:43

 『シン・ゴジラ』の話題に押されて忘れられがちですが、今年は長編アニメ映画の『GODZILLA(ゴジラ)』が上映される予定になっています。今回はこの作品について考えてみました。

 といっても今のところ何が何だかわからない状況です。現在公開されているのはスタッフとキャストの一部、そしてたった一枚の絵だけ。そしてのその絵たるや地球なのか他の惑星なのか、はたまた異次元なのかわからない場所を、SF的な防護服に身を包んだ人間や『スターウォーズ』に出てきそうなメカが進んでいるものでした。これから内容を想像するのは極めて困難です。
 過去のゴジラ映画でも探検要素が含まれていたものはありましたが(『キングコング対ゴジラ』等々)。こんな妙な構成の物はありません。まさか元ネタが映像化されなかった幻の怪作『ゴジラの花嫁』などということはないでしょうが(この作品は地底にゴジラやアンギラスなどが生息するロストワールドがありそこに探検隊を送るという話があった)。
 なお、『ゴジラの花嫁』は『「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ』に掲載されていましたが、映像化されていたらカルト映画になっていたでしょうね。

 私はアニメは好きですし、アニメだからと言ってそれだけで悪いと言うつもりはありません。マニア受けを狙わずにまともな怪獣映画を作ってほしいと願うだけです。しかしながら、現在この映画に関して予想されている内容は、その真逆になりそうな感があります。何といっても脚本担当の虚淵玄氏はマニア向けの陰鬱な物語を作ることで有名ですから(まともな作品もなくはないが)、『シン・ゴジラ』の庵野秀明氏よりもさらにわけのわからない「ゴジラ」を制作するおそれは低くありません。
 厄介なのは『シン・ゴジラ』が箍を完全に外してしまっているため、虚淵氏らはもはや「ゴジラはどうあるべきか」ということを一顧だにしないおそれがあること。何とも寒心なきをえない事態です。

 とりあえずの朗報は出演者に関してのみです。近年の大作アニメは素人同然の人を知名度重視で起用することが少なくありませんが、現在公表されているキャストは人気もありますがきちんと実力のある本職の声優を起用しており、そこは安心できます。

 この作品は今のところ公開日すら未定ですが、さてどうなりますことやら。

 余談ですが、日本国内で本格的な「ゴジラ」のアニメ作品が作られるのは初めてだそうです。アメリカではハンナバーベラ版(日本未公開)とエメリッヒ版『ゴジラ』の続編にあたる作品と二種類のアニメシリーズが製作されていたのですが、日本では前例がありません。そのこともありなおさら予測がつかないことになっています。
 なお、日本では学研製作の幼児教育用オリジナルビデオアニメーションとして『すすめ!ゴジランド』という作品はありました。ゴジラもラドンもアンギラスも他の怪獣も大変可愛くデフォルメされている楽しい作品です。

Re: アニメ映画『ゴジラ』はどうなるか? 殿様ギドラ (男性)

2017/03/13 (Mon) 18:25:49

アニメゴジラにも不安というか恐怖がいっぱいですね。

私も表現形式としてのアニメーションには偏見はなく、それどころか40年ほど前までは日本のアニメに大いに期待していたほどです。

けれども、例外はあるにせよ、日本のアニメが女性と兵器に固執し始めるようになって全体として腐ってしまったと考えています。(言い過ぎ?)

そんな中、形式としてアニメーションというだけでなく、日本アニメの監督に作らせるというのですから、期待せよというほうが無理。

オフィシャルサイトで公表された画像やツイッター
https://twitter.com/GODZILLA_ANIME
に上がった画像なんか見ると、まあ、ほんとにいままでのゴジラ映画とはまるで別物になるんだろうなとは思います。

私がひっかかったのは、ツイッターにある、雑誌エンタミクスの見出し。
テーマは「人間とゴジラの因縁の戦い」とあります。

どうも未来世界を舞台にする雰囲気がありますし、またしてもゴジラを人類の前に立ちはだかる永遠の宿敵、という扱いにするんじゃないでしょうか。

嘆息・・・・。

Re: アニメ映画『ゴジラ』はどうなるか? - エクセルシオール (男性)

2017/04/16 (Sun) 22:49:58

 公式サイトやイベントで配布された資料からアニメ映画『ゴジラ』の内容が少しずつ明らかになってきました。正直、ものすごい内容となっているようです。なお、映画は三部作となり第一作目のタイトルは『ゴジラ 怪獣惑星』となりました(公開は11月予定)。

 ざっと述べると、人類は怪獣との戦いに敗れ、一部の選ばれた人間だけが別天地を求めて地球を旅立ったものの、ようやくたどり着いた移住先候補地は人間が住める星ではなく、再び地球に戻ることになります。しかし、リスクの伴う航行方法を採用したため、帰還した地球では2万年が経過しており、ゴジラを頂点とする怪獣惑星となっていたというものです。主人公はゴジラに両親を殺された青年で、地球を取り戻すための戦いを始めるというのが基本ストーリーです。

 これだけでも「うーん」と首をかしげてしまいたくなりますが、公開された情報だけでも疑問点が上がってきます。この映画のキャラクターには二種類の異星人がいるのです。地球よりはるかに優れた技術を有する彼らと友好関係にあるのですから、無理して地球に戻るよりも、否、そもそもはるか遠くの惑星を目指さなくても、どこか適当な惑星又は衛星を改造(テラフォーミング)するなり、スペースコロニーを建造するなりして定住した方が無難なのではないか?相応の理由はあるのでしょうが、異星人を登場させたため無用の疑問を生じさせています。

 また、「アニメジャパン2017」というイベントで資料が公開されたそうですが、そこには作品世界の歴史が語られています。カマキラス、ドゴラ、ダガーラ、ラドン、アンギラス、オルガといった怪獣が出現して人類を脅かし、その後に全ての怪獣を超越するゴジラが現れ人類を存亡の危機に陥れます。驚くべきはその被害者数。ゴジラが現れてから億人単位で死傷者が出たという設定です。「ゴジラってここまで凶悪だったかな?」と思ってしまいますし、もはや設定が暴走している感があります。また、中国に現れたラドンとアンギラスを倒すため、生物化学兵器「ヘドラ」を用いたとの記述もあり、さすがに頭を抱えてしまいました。やはり『シン・ゴジラ』が箍を外してしまったとの懸念は現実化したものと思われます。

 なお、私がこの内容を見聞きしてふと思ったのは、地球に取り残された人類はどうなってしまったのかということです。いまのところみんな怪獣に殺されたという可能性が高いですが、それではありきたりです。もしも彼らが何とか怪獣と共存する道を探し出して、どうにか平和に暮らしていたところへ、宇宙から自分たちの祖先を置いてけぼりにした者たちが戻ってきて、迷惑極まりない地球奪回戦を始めてしまったという展開なら面白いのですが。

 

 

Re: アニメ映画『ゴジラ』はどうなるか? 殿様ギドラ (男性)

2017/04/17 (Mon) 18:54:52

嗚呼。

アニメゴジラの情報もざっくりとは仕入れていましたが、そこまで詳しくは知りませんでした。

大まかな設定と導入部の劇展開から、怪獣を英米的なSFの枠にはめ込もうとする意図を感じていましたが、それどころじゃないですね。

印象としては、『ゴジラ・ファイナルウォーズ』をまたやるの?

というところです。

怪獣たちの名前と形(デザインには大幅な変更が考えられる・・)だけを流用して、怪獣映画ではないものを作るのでしょうね。

元々の設定や背景を無視した形でうじゃうじゃと怪獣を登場させるだけで、怪獣のスター性は薄れます。
そこにボスキャラとしてのゴジラですか。

怪獣と怪獣映画の歴史に疎い人が考えそうな設定です。

そして安易きわまりない、ゴジラに復讐心を持つ主人公、と。
(手塚昌明監督の影響でしょうか)

怪獣を生命体として人間と並列するのではなく、人間と対立する障害として扱うのでしょうか。
そこに小賢しい存在理由を付加するんでしょうか。

怪獣に意味づけを行って、それがテーマだ、とでも?

そうなるかどうかはわかりませんが、怪獣素人は怪獣そのものに意味(人類に対しての役割)を持たせようとしたがりますから。
84年版の準備のために書かれたSF作家たちによるプロットなんてゴジラに意味づけするために必死だもんなぁ。

とはいえ、アニメにする以上、王道の怪獣映画を作っても所詮実写にはかないませんから、
アニメっぽい飛躍性を取り込まないと成立しないような気もしますね。
(設定改変を認めるわけではありません)

とかなんとか考えると、アニメ「ザ・ウルトラマン」の後半部を思い出す・・・。
(頭いてぇ)

キングコング髑髏島の巨神 殿様ギドラ (男性)

2017/03/26 (Sun) 16:45:03

『キングコング髑髏島の巨神』、見てきましたよ。
 まだご覧になっていない方のために、内容はばらさないように簡単に印象を書いてみます。

 この映画、事情通ならご存じの通り、レジェンダリー版ゴジラと同じ世界を舞台にした物語です。
そして2020年公開予定の『ゴジラ対キングコング』への布石であり前哨戦です。

 第一に怪獣観が正しい。
あくまでも自然の驚異という扱いです。これは前作『GODZILLAゴジラ』と共通する思想ですが、
前作ではゴジラを核実験と切り離してしまったためにゴジラ本来の個性が薄れるという欠陥を招いてしまいましたが、
キングコングならなんら問題はないです。
(本作でも1954年の核実験はある生物を殺すために行われた、と核実験の非道をごまかすような発言はある)

 ただちょっと文句を付けるなら、怪獣たちは人類以前に地球を支配していた種族であり、モナークは再び怪獣が地球にはびこるのを
阻止するために活動しているという説明があって、その考え方はいたずらにゴジラ(怪獣)を人類と対立するものという概念に誘導するので危険です。
(日本のアニメゴジラもその考え方を踏襲しているらしい。これは平成VSシリーズが招いた間違いである)

 あ、それで、『GODZILLAゴジラ』でムートーの命名がなんか適当だったという苦情がありましたが、やはりそれは字幕の出来がわるかったのでした。
その後、『GODZILLAゴジラ』の吹き替え版を見たらMUTOというのが略語だったことがわかり、さらに今回の『キングコング髑髏島の巨神』ではっきりしたのは、
MUTO(ムートー)というのはモナークの用語で陸上タイプの怪獣を示す言葉だったらしいことです。
 あのムートーちゃんはムートーという種族名を付けられたのではなく、名無しの権兵衛だったということです。(それはそれでひどいけど)

 第二に武力で問題解決を図るという思想を否定していることが素晴らしい。
メインキャラクターに軍人もいるのですが、彼はアメリカンマッチョ思想を代表するような人物であり、部下の敵討ち、ひいては母国を守るため、と
コングを殺そうとします。その彼がどうなるか・・・。また、ダメなシナリオだとこういう人物を単純な暴力野郎にしてしまうところ、
ちゃんと情のある部下思いの軍人としているところがリアルです。

 映像面では、コングおよびほかの怪獣による大暴れや襲撃を、臨場感を持って描いているのがお見事。音響も7.1ch。
カメラは主観・客観を縦横に切り替えて観客を現場に立たせます。

 ストーリー上、人間が余計なことをしたからコングの怒りを呼んだのだとはっきり表明していますし、そのあたりは映像面でも感覚的に表現されています。

 キングコングマニアの方がどのように感じるのかはわかりませんが、本作のキングコングの性格付けはオリジナル版に非常に近いと思われます。
そして東宝コングへのオマージュまであって驚きました。

 それから日米協調も大事だと言いたげな出来事も織り込んであって、まあ、それはそうなんだけど、アメリカさん、そちらの政府は世界平和を願ってますか??と苦笑。

 んー、あんまり長くは書かないようにしましょう。
最後に、エンドロールが終わったあとに次回作につづくおまけシーンがあるので怪獣ファンは見逃さないように!

Re: キングコング髑髏島の巨神 - K4 (男性)

2017/04/02 (Sun) 18:55:12

ご無沙汰しております。
キングコング。
正直、やられた、という感じです。
逆に、私がこれまではギャレスゴジラの評価があまり高くなく、シン・ゴジラは楽しめた
と、なぜ思ったのかも見えてきました。
またコングを観ると、怪獣映画に求めているものが凝縮されていて
シン・ゴジラにはそこが欠如していることも明らかになってます。
私がシン・ゴジラを楽しめたのは、やはり怪獣映画としてではなく
80年代のアニメブームを原体験してきた世代以降の人間に共通する
オタク文化の土壌の上に成り立つものだと思いました。
またそれは昭和ゴジラとは全く別物であって、いわゆる平成ゴジラ作品の
ゴジラ観を極めたものなのだと思います。
あくまで個人的と断っておきますが、それでもシン・ゴジラはこれはこれで
作品としてはありだと思ってます。
ただ、従来のゴジラの名前を借り新しいものを作ったというなら
名前はとにかく伊福部音楽に頼らず、独自の世界観で突き進むべきだった、という
考えは変わりません。

今回のコングが、ギャレスゴジラの反省からなのか、はたまた
元からの世界観の設計なのかはわかりませんが、コングを通して、
この世界観が見えた事でギャレスゴジラの評価が自分の中であがりました。
シン・ゴジラはあの話の延長で次作を作ろうとしても、怪獣映画には
ならないと思います。
あのゴジラが最後の一匹だとは思えない、から広がった昭和ゴジラ。
そして、前の時代なのだけれどもギャレスゴジラの世界観をうまく補足し
更に次作以降の展開にうまくつなげたコング。
単体の作品として楽しんだシン・ゴジラより、今回のコングを観て
レジェンダリーのゴジラの展開の方がわくわくしている自分がいます
(中国資本になったことの影響がどうでるかは不明ですが)。


Re: キングコング髑髏島の巨神 殿様ギドラ (男性)

2017/04/05 (Wed) 16:19:07

K4さん、いらっしゃいませ。

単独の作品としての評価が分かれているとしても、『シン・ゴジラ』の中身が元祖ゴジラシリーズとは別物であるという点で一致できたことはうれしいです。

そこでレジェンダリーの怪獣世界(なんとかというシリーズ名がつけられていたみたい)がどう展開するか・・。

いずれにせよ、原典に忠実と言うことはないでしょうし、ハリウッド流のアレンジを加えるのでしょうけれど、
次回作が三大怪獣地球最大の決戦を模した物になるのは決定のようですね。

モスラの扱いをどうするんでしょう。
インファント島の設定には明確な反核思想がありますが、やはりそこは改変して、なかったことにするんでしょうか。
それから、キングギドラをちゃんと宇宙怪獣にしてくれるのでしょうか。
さらにラドンをゴジラと並び立つスター扱いにしてくれるのか・・・。

どうなろうと彼らの「大活躍」を現在のハリウッドクオリティで丁寧に映像化してくれたら、日本の怪獣もの(ウルトラ含む)よりずっと楽しめそうです。

などと、不安と期待がぐっちゃぐちゃですね。
(不安がいっぱいなのは東宝のアニメゴジラだ)

Re: キングコング髑髏島の巨神 - K4 (男性)

2017/04/07 (Fri) 23:18:10

シン・ゴジラは
・作品は鑑賞時は楽しんだ。
・鑑賞後は怪獣映画としては違和感が残った。
・新しいゴジラを作りたいと意気込むのであれば
 伊福部音楽は使わなかった方が、別の作品として割り切れた
 のに、という思いが消えない。
・映像は予算の制約のある日本でここまで出来た事は
 素直にすごいと思っている。
・・・だから何?というのがうまくまとめられない、と言ったとこで
思考が停止してました。

でも、ここでキングコングが出てきた。
>レジェンダリーの怪獣世界
モンスターバースですね。
憶測ですが、過去の地球では自分たちのテリトリーとして
陸上では髑髏島のコング、インファント島のモスラ他がいて
更に空中のラドン、海洋のゴジラが存在してバランスを保っていた。
そこに宇宙怪獣のキングギドラが来襲していたんじゃないかと
(モスラ3っぽいですが)勝手に想像してます。
前作、ムートーと呼ばれた怪獣も外来種なのかもしれません。
まったく的外れかもしれませんが、ギャレスゴジラが消化不良だった私ですが、
妄想が膨んでしまう、うまい世界観の設定だと思いました。
(今回、地下空洞世界の存在の可能性も示唆されてましたから、
環境変化で退避した他の何かが潜んでいるという展開もある?)

コングを観て思ったのが、
映像では、まだまだハリウッドには敵わない。
怪獣映画(自分なりの感覚ですが)としての満足度が高い。
モンスターバースの設定は私の好み。
というのと同時に、これまでのキングコングをこよなく愛してきたファンは
どう感じているんだろうか・・・
ということでしたが、ここでシン・ゴジラと今回のキングコングの違いを
感じたわけです。
同じ名前でこれまでの設定とはまったくの別物をつくる、その時の
過去作への敬意があるのか。
その差ではないか、と感じ始めています。


Re: キングコング髑髏島の巨神 - エクセルシオール (男性)

2017/04/08 (Sat) 22:16:59

 『キングコング 髑髏島の巨神』を私も観てきました。感想としてはまずまず良い怪獣映画だったと思います(管理人さんが挙げる美点にもほぼ同意いたします)。

 怪獣の元祖であるキングコングにもほぼ定着したイメージがありますが、本作品ではそれから大きく逸脱することなく、映画を観ながら「これでこそキングコング」とうなずかされる点が多々ありました。この映画はキングコングを「凶暴残虐な巨大猿」にしてしまうような愚かなふるまいはせず、基本的には穏やかな性格で弱いものには優しさを示す存在として描いていました(恩には恩で報いる姿も見られた)。これは良かったことだと思います。
 
 個人的にほっとしたのは髑髏島の先住民の描き方。ピーター・ジャクソン版では疑問を感じずにはいられなかった部分ですが(ほぼ意思疎通不能の野蛮人として描いていた)、本作品では私欲を捨てて悟りを開いたような穏やかな存在として描かれており(言葉なしで意思疎通が可能と言う設定)、彼らと共に暮らしていたマーロウ中尉が仲立ちとなり主人公達とも悪くない関係を築くことができました。
 キングコングシリーズにはどうしても文明社会から来た者(多くは西洋の白人)が上から目線で「未開社会」の先住民と交流するという差別的な要素が残存しがちです。でも、本作品ではむしろ文明社会の住人の方がよほど野蛮であるという要素を盛り込んであり、そこはベターなものであったと思います(この点は非西洋である中国の会社が製作に加わったことが良い方向に作用したのかもしれない)。

 レジェンダリー版ゴジラと作品世界を共有する本作品。何でも地球空洞説が事実らしいという面白い設定があるようです。ジュール・ヴェルヌの名作『地底旅行』以来SFの代表的設定ではありましたが、地球の中が岩をも溶かす高温の世界だという事実が知れ渡ってからはやや低調になっていました。そこをどうクリアするのかは見物です。もっとも地球内部が超高温だと分かってからも地底世界の存在余地を追求する作品(例えば大長編ドラえもんの第8作目『のび太と竜の騎士』。「薄い」地殻と言っても数十キロの厚さはあるので地底世界の存在は十分可能だとしていた)もあるので、全く荒唐無稽というわけではありません。

 さて、エンドロールが上がりきった後、この世界にはゴジラ、ラドン、モスラ、キングギドラが存在することが明かされます。どうなるのか分かりませんが、きちんとキングギドラは宇宙怪獣にして、モスラは高度の知能を持った守護神として描いてほしいです。また、インファント島を荒廃させた核実験の罪悪からも目をそらしてほしくないです。
 そして願わくばゴジラ・ラドン・モスラ対キングギドラで怪獣決戦を描いてほしいですね。

 

Re: キングコング髑髏島の巨神 殿様ギドラ (男性)

2017/04/12 (Wed) 17:37:22

 みなさま、どうもです。

 モンスターバースでしたね、レジェンダリーが構想する怪獣シリーズ。
マーベルスタジオがヒーロー世界に横のつながりを持たせて立体的にシリーズ化していることに触発されたんじゃないか、
などと言われていますが、
実は昔の東宝怪獣映画がやっていたことにも通じる考え方でもありますね。

 本多・円谷時代の特撮映画ではそれほど自覚的ではなかったにせよ、別作品に登場した怪獣を組み合わせることで、
一本ずつの作品では出来ない作品世界の広がりを作っていました。

 これもハリウッドに取られたか~、という思いです。

 ただ、レジェンダリーピクチャーズがどこまでうまくやれるかは今後の展開を見ていかないとわかりません。
昔の東宝のやり方は、作品同士の関連を限定しないことで自由度を上げていました。
 はっきりと繋がっていることを示したり、まるで無関係であるなどと規定しないわけです。

『ゴジラ』と『ゴジラの逆襲』は完全に続編扱いですが、では『空の大怪獣ラドン』は『ゴジラ』の世界と繋がっているのか?
劇中でゴジラに言及することはありませんし、『ゴジラ』と共通の人物も登場しませんから一般的な見方をすれば別の世界のお話と考えるのが筋です。
しかし、重要なのは、『ゴジラ』の世界とは切り離されていると断じるべき表現もないことです。
 これによってのちにゴジラと共演することが可能になっているわけです。
 ラドン以外の怪獣たちにも同様な曖昧さを残していたから、『怪獣総進撃』という企画が成り立ったと言えるでしょう。
(しかし、「総進撃」はモスラをインファント島から切り離してしまったのがまずい)

 レジェンダリーのモンスターバースは、モナークという人間側の組織ががっちりと縦糸になるようなので、
ひょっとすると怪獣対人間という図式の中でストーリーが行き詰まる可能性があります。
人間が怪獣を征服するのか、和解するのか、あるいは怪獣の勝利に終わるのか、みたいに終点を探ることになったらまずいです。

 怪獣とは自然の者。人間と自然の付き合いは終わることがないのですから、終点を決める必要はないはず・・・。

 さて、次回作、どうなるんでしょう。『キングコング髑髏島の巨神』エンドロール後のおまけシーンには、日本列島の地図にいくつかの地点が示されていたようでもあるし、
怪獣たちが洞窟壁画に描かれていたようにも見えます。やはり太古の昔、宇宙からキングギドラが襲ってきたことがあり、そのときゴジラ・ラドン・モスラ連合が地球を守ったのでしょうか。
そして、再びキングギドラの脅威が迫っているというところからお話は始まるんでしょうか。

 ううーーん、あるいは、有人金星探査をしてみたらキングギドラの落とし物(岩石)があり、それと知らずに地球に持ち帰ってしまったら金星の石がどんどん成長、
めでたくギドラ登場! なんてなーー。

 おっとキングコングの話を全然書いてないや。

 私も髑髏島の住民の描き方には好感を持ちました。ジャクソン版はほんとにひどかった。あの映画はどうにも体に合わなかったので劇場で一回見たっきりなんですが、
島の住民は意味不明に撮影隊に襲いかかってきて、さらに白人たちは原住民をばんばん射殺していませんでしたか?
 1933年のオリジナル版より一層白人上位思想が見えて気持ち悪かったのです。
 対して、今作ではエクセルシオールさんがおっしゃる通り、髑髏島の住民は科学文明を持っていないだけで高度な文化を持っているような描き方をされており、自然と調和して生きている人々という
扱いだったと思います。(ちょっと作り手は東洋的な神秘に憧れすぎているかも、と思いもしましたが・・)

 コング(今作ではまだキングコングではないらしい)が変なアレンジを加えられていなかったのは本当に喜ばしいことです。
レジェンダリーのゴジラよりずっと原典に近い。
 まあ、キングコングは基本的にはでかいゴリラなので(とはいえゴリラとは体型・姿勢など違いはある)あからさまなデザイン変更はやりようもなかったんでしょうけれど。

 このコングがキングコングに成長した暁、ギャジラ(ギャレスゴジラの略です)と戦うとなるとなんらかの追加設定は必要な気もしますねぇ。
帯電体質になっちゃう?

『シン・ゴジラ』という蒙昧を斬る(ゴジラファンとして) 殿様ギドラ (男性)

2017/03/23 (Thu) 18:32:12

『シン・ゴジラ』に登場した化け物はゴジラではない。
名前がないのも不便なので、ギドラの巣では「ちんごじら」という名称で呼ぶことにしています。
(「ごじら」という言葉を残しているところに優しさがあると思って欲しい。発案者はルー等級つつ大臣さん)

 ゴジラというのは、爬虫類とほ乳類の中間型の生き物で、水爆でも死なず、体に放射能を持っているのは水爆のせいである、という生き物です。
これは『ゴジラ』(1954)劇中で山根博士が発表するゴジラに関する説明を要約したものです。姿形を文章で説明するのは難しいので、みなさまお手持ちの写真やビデオを参考になさって下さい。

『ゴジラ』(1954)劇中で山根博士の意見を否定するような反証は出てきませんので、これがゴジラの基本設定だと考えて間違いないでしょう。
その後登場した二代目ゴジラも外見は初代とほぼ同じで、同種族の個体差と言って差し支えないでしょう。

 ここで特に注意していただきたいのは、ゴジラは核兵器の放射線で変異した生き物ではないということです。
付け加えれば、放射線によって突然変異を起こすのは被爆した個体ではなくその子孫であることも覚えておくとよいでしょう。

 上記の設定は『メカゴジラの逆襲』までは守られていました。

 ところが『ゴジラ』(1984)において、ゴジラは原発を襲い原子炉を抱えてうっとりします。この作品からゴジラは放射性物質をエネルギーとすることにされてしまいます。
二代目ゴジラが放射性物質を求める描写などありませんし、それどころか初代は大戸島で家畜を食べたことが示唆され、二代目は鯨の群れを追っている様子(『三大怪獣地球最大の決戦』)が描かれています。
オリジナルのゴジラは肉食動物であったと考えられるのに、1984年版では別の動物にされてしまいました。

 84版から繋がる平成VSシリーズにおいてはさらに設定が付け加えられて、恐竜が放射線で変異したものとされます。(科学的におかしなことになってしまった)

 私の厳しいゴジラ基準では、平成VSのゴジラももはやゴジラではないのですが、その姿形はゴジラに分類しても問題ない範囲に収まっていました。
口から吐く熱線とか発光する背びれなどその能力もゴジラと同等と言えます。
(ただし、性格や劇中での立ち位置は二代目ゴジラとは違う)

 俗にミレニアムシリーズと呼ばれるシリーズではそれぞれのゴジラに関連がなく、明らかに設定が違うのは『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃』に登場した白目ぐらいで、
その他のゴジラたちがどんな出自、生態を持っているのかは判然としません。

 ここまで大まかにゴジラ像の変遷をまとめてみましたが、そこから見えてくるのは元祖ゴジラシリーズでは見た目こそ多少の違いがあるもののゴジラという生き物の設定を改変することはなかったのに、
84版以降、ゴジラの設定は変えても良いことにされているらしいこと。

 ゴジラという同じ名前でありながら違う動物にしてしまうことをどのように正当化するのか私にはわかりません。
しかし、なぜそうなったのかはある程度想像できます。

 それは1984年以前のゴジラ復活待望論の時代にさかのぼります。
当時、ゴジラ映画は『ゴジラ』(1954)のみが傑作であり、その後の作品は付け足しであるという論調が支配的で、ゴジラファンの中にも怪獣同士が戦うものは子供っぽいから良くないという意見が多かったのです。
これは1970年代のいわゆるヒーローゴジラ(人間社会に害を為す怪獣をゴジラが倒すという形式のストーリーだった)に対する反動だったのだと思いますが、1960年代の怪獣対決映画に関する分析が不足している意見です。
さらに『ゴジラ』(1954)が傑作なのは、反核映画だからだ、という意見が支配的になりました。

 そこで84版では反核映画感を強めるためにゴジラ自体が放射性物質で活動することにされ、ゴジラ=核兵器の構図を強めたのだと推察されます。
(『ゴジラ1954』でのゴジラは核実験の被害者であったことにも意味があったのに・・・)
もうひとつ、84版では1954年の初代ゴジラ事件はあったことになっていますが、なぜか『ゴジラの逆襲』以後の二代目ゴジラの存在は消されています。
ここで、二代目の存在もありつつも、それとは別の放射性物質をエネルギー源とする三代目ゴジラ、ないしゴジラに見えるが別の生き物であるとしていればその後の混乱が起こることもなかっただろうと思われますが、まことに残念な結果です。

 この84版がやらかしたことに対する分析も反省もないまま、それもゴジラ史の一部となってしまいました。
それは、作り手の都合でゴジラを改変してもいい、という間違った認識を生みました。

 R・エメリッヒの偽物も同じこと。あのとき、東宝が厳重に監修して姿形や生物としての設定を守り抜いていればゴジラ像がこんなにぶれることはなかったでしょう。

 そうです。ゴジラ像はブレ続けています。

 VSもミレニアムも白目もギャレス版もみんなゴジラと呼ばれる。
もはやゴジラファンといっても同じ物が好きなわけではない。

 まず、こんなに中身の違うものを同じ名前で呼ぶことに私は反対です。

 それでも、エメリッヒ版は核実験の放射線で変異した怪物であり、その部分ではVSゴジラと同じ設定であり、核兵器との関連を守っています。
また、ギャレス版は放射線をエネルギー源とするものの、何かの生物が変異したものではなく大自然が生んだ驚異の生物という点は元祖ゴジラと同じです。

 このように84以降の改変ゴジラたちもどこかに元祖ゴジラから引き継いだ要素を入れようとはしていました。(うまくいっているとは限らないけれど)
例外は『GMK』の白目。あれは人間の意識だか霊魂だかが集合したものらしいので、根本のところでゴジラとは違う。どこかの「穿ち」好きが初代ゴジラの中に英霊の意識を勝手に感じて、『ゴジラ』感想文を発表したことに影響されているらしい。
(一例として「映画宝島 怪獣学入門!」1992年刊内「ゴジラは、なぜ皇居を踏めないか」赤坂憲雄)
しかしそれは劇中のゴジラ像を表すものではなくて、映画『ゴジラ』の解釈でしかない。個人の感想は自由なのでその人がゴジラの中に戦死者の霊を見るのは自由だが、ゴジラ映画の設定として使うべきではない。

 平成VSからゴジラに入った人にとってはゴジラはゴジラザウルスが放射線で変異したものなのでしょうけれど、歴史をたどればそれは本来のゴジラとは違うということは理解できるはずです。
しかし、そんな差異は劇中で言及されたときには違いを意識させられてしまうものの、ストーリー上で設定の違いが問題にならないときには見た目と生態でゴジラと認識しますから、たとえば『ゴジラvsモスラ』を見た私が、
「こんなのゴジラじゃねぇ」と感じるほどではありません。(こんなのモスラじゃねぇ、とか、結局ゴジラ退治かよ、とは思う)
 逆に平成VS世代の方が『モスラ対ゴジラ』を見たときに、こんなのゴジラじゃない、とは思わないでしょう?

 日本のゴジラはぎりぎりのところでゴジラ像を守ってきたのだろうと思っておりました。
(白目が登場しても次の機龍篇では比較的にまともな形に戻る)

 12年の空白ののちにギャレス版のヒットを受けて作られた日本のゴジラ映画『シン・ゴジラ』。
あの映画の作り手たちは、どうすればゴジラではないものを作ろうかと腐心したように見えます。
なんらかの海棲生物が放射性物質を食べて放射線耐性を身につけ、それが人の手で品種改変されて怪物化したのがちんごじら。
ちんごじらは変態し(ゴジラはそんな生態を持たない)、口、尾の先、背中から直線的なビームを発射する(ゴジラの熱線とは別物)。
性質も違う。
姿形も似ているのは背びれだけで、あとは何もかも違う。(ゴジラのアイデンティティは背びれだ、とでも?)
 核兵器の影響もなく科学を超える大自然の象徴でもありません。

 あれはゴジラではありません。

 ちんごじらの表層がゴジラと違っていてもその精神性はゴジラなんだ、という人もひょっとしたらいるんでしょうか?
としたら、その認識は間違っていますよ。
 ゴジラに込められた精神とは何ですか?
 冒頭に書いたゴジラの基本設定から考えて下さい。

 第一にゴジラは人間が作った物ではありません。これを誤解している人が多すぎる。そんな誤解の出発点は、ゴジラは水爆の放射線で恐竜(ないし何かの動物)が変異したものだという思い込みにあります。
核兵器は人間が作ったものであり、その影響で生まれたならゴジラも人間が作ったものだという論法があるのはそんな誤解のせいでしょう。

『シン・ゴジラ』公開当時に書いたことを繰り返します。
 ちんごじらデザイナーの一人、前田真宏氏は劇場パンフレットのインタビュー記事で「第一作では爬虫類が変化したものという説明がされますけれど」と発言している。
この勘違い。そんな説明は『ゴジラ』(1954)にはありません。
 どうして『ゴジラ』(54)を見直さずに勝手な解釈をするのですか。これは初代ゴジラの骨が溶け残っていたと勘違いしたまま突っ走った機龍二部作と同じ不勉強である。

 ちんごじらは放射線による突然変異体であり、さらには人間の手が加わって出来上がった怪物。ゴジラとの共通点はない。

 また、ゴジラは水爆でも殺せない動物とされていて、オキシジェンデストロイヤーという人類科学の行き着く先を象徴した架空の技術でようやく殺されます。発明者とともにオキシジェンデストロイヤーは永遠に失われ、
その結果人間はゴジラを殺せないという図式を作ったのが元祖ゴジラシリーズ。
それに対し、ちんごじらは核ミサイルで滅却できるという。

 ゴジラが背負っていた精神性の何をちんごじらは受け継いでいるというのか?

『ゴジラ』(54)と『シン・ゴジラ』の作品内容を比べても、両者に共通点はない。

『ゴジラ』(54)は科学技術を軍事に使うことを批判した作品であり、科学者の倫理を問う作品です。(極めて今日的なテーマである)

『シン・ゴジラ』は?
 出来の悪さを割り引けば、危機管理のためには素早い意思決定が必要だという話であり、日本の国防には米軍が必要だという主張が含まれ、なにより大災害でも国家権力がうまくやるから国民は安心しなさいという作品でしょう。
科学と人間の関係を考察するエピソードなどどこにもない。科学がらみの設定、ストーリーは極めていい加減に流している。

『シン・ゴジラ』はゴジラからなにも受け継いではいない。

 こんなものをゴジラ映画として認めるとは笑止千万である。

『シン・ゴジラ』にゴジラは出てこないし、ゴジラ映画でもない。

 さらに、ここからはゴジラファンの皆さんへの問いかけです。

 皆さんがゴジラファンなのは、どうしてですか?
 ゴジラ映画がおもしろかったことや怪獣ゴジラのキャラクター性に惹かれたのではありませんか?

 その魅力とは何ですか?
『シン・ゴジラ』にそれはありましたか?

 あった、というなら、ずいぶん浅いゴジラ観をお持ちですね。
 でかい怪物が現れて、軍隊とドンパチやるのがゴジラ映画ですか?
ならばそんな映画は世界中にたくさんありますよ。エメリッヒ版でもいいですね。ゴジラじゃなくてもいいでしょう?

 ゴジラを人類の前に立ちはだかる壁扱いし、基本的にゴジラ退治をストーリーの主眼に据えていた平成VSシリーズでは初期にはゴジラが人間の技術の前に倒れるという展開はありましたが、
軌道修正されて人間には決して倒されないものという扱いに変わっていきます。
そして、VSゴジラでもゴジラには心があるという描写はなされていましたし、ちんごじらのような感情のない脊髄反射生物のようには描かれていませんでしたよ。
『シン・ゴジラ』には平成VSとの共通点も少ない。

『シン・ゴジラ』以前からゴジラファンだったという人で、『シン・ゴジラ』もゴジラ映画に見えたという人がいるなら、どうしてなのか説明して欲しい。
私にはまったく想像も出来ない。

「特撮秘宝vol.5」に『シン・ゴジラ』エグゼクティブ・プロデューサー山内章弘氏のインタビュー記事があります。
氏は「実はこれ、ゴジラが登場しなくても成立するお話なんですよ」と発言している。
その通りです。実際にゴジラは登場しない。
ストーリーの要求に合わせた形の怪物を登場させて、ゴジラと名付けただけだ。

 ゴジラファンがこんなものを受け入れてはいけない。
『シン・ゴジラ』はゴジラという名前をプロモーションのために使っただけであり、はなからゴジラ映画を作るつもりはなかったのですよ。

 ゴジラはすでにブレてしまったキャラクターですが、こんな改変を受け入れていくならば「ゴジラ」という名称は何者も表さなくなり、「ゴジラ人気」など雲散霧消するでしょう。
そんなゴジラ消失を止められるのは、ゴジラファンしかいない。
 製作サイドがゴジラという名前を宣伝材料としか考えていない現在、ゴジラファンがゴジラを守らなくてどうするのですか。

 もう十数年前になりますが、ある方が「どんな出来でもゴジラ映画が作り続けられさえすれば、いつか傑作が生まれるはずだ。だから製作が止まるようなことはしない」とおっしゃいました。
それはおそらく、私が新作への批判記事を書くことが多かったので、それを牽制する意図があったのだと思われます。
このご意見、一見正しいように見えますよね。最近も身内から同じようなことを言われてびっくりしました。

 しかし、上記の考え方はあまりにも楽観的で性善説に立ちすぎです。
 前提として、ゴジラ映画を作る人はゴジラが好きでありおもしろいゴジラ映画を作るために日々研究努力しているはずだ、という思い込みがあります。

 水は低きに流れ、悪貨は良貨を駆逐するのです。

 批判にさらされなければ、人は楽な方へ流されます。
 映画の作り手も同じこと。
 ゴジラと銘打ちさえすればゴジラファンは必ず見てくれるとなれば、中身は好き放題に出来ます。何をやっても批判されないのであれば、己を律することもないでしょう。
ただ客さえ入れば良いということになる。

『シン・ゴジラ』がやったことは、昨今流行りの日本賛歌でしょう? 『永遠の0』『海難1890』あたりと並べれば良い映画ですよ。
怪獣映画の楽しみなどない。
 しかし、商売としては成功した。

 ゴジラファンがそれをよしとしてはいけません。

 ゴジラ映画が作り続けられればそれでいいという理屈にだまされてはいけません。

 違うと思うなら違うと言いましょう。おもしろくなければおもしろくないと言いましょう。

 東宝は、今度はアニメのゴジラだと息巻いていますが、客層としてアニメファンを取り込みたいんですね。
『シン・ゴジラ』もエヴァンゲリオンファンを取り込むための企画だったようですから、発想は同じですね。

 日本のアニメはガラパゴス的な進化を遂げていますから、映画全般をよく知っていても日本アニメの定石には理解しがたいところがあります。
そんな日本アニメのクリエーターが日本映画史の核に(かつては)位置していたゴジラを正しく描けるものでしょうか。
またしても作り手が自分のフィールドに引き込んでゴジラでもなくゴジラ映画でもないものにするのではありませんか?
(そして新しいゴジラ映画だと言う。騙されるな。決して変わることのないゴジラを用いて新たな物語・映像を作るのが新しいゴジラ映画である)

 それでもゴジラと名付けられていれば受け入れるのですか?

 そんな欺瞞を私は許さない。

 さらに、ここからは『シン・ゴジラ』なんかNOだ、とお考えのゴジラファンのみなさんへ。

 諦めないで!
 地道に訴え続ければ、正しいことが認められるはずです。
 社会体制も経済も多数決の時代ですが、少数派でも誠実に議論を繰り返していけば、ゴジラファンではない人の賛同も得られるでしょう。
 そして、あなたが好きだったゴジラからもらった夢を忘れないで。
 二代目もVSもゴジラは強くてかっこよかったのではありませんか?
 人間の浅知恵や武力を蹴散らすのがゴジラなのです。
 そんなゴジラが復活するまで倦まず弛まず機会を見つけてゴジラの魅力を伝承しましょう。

 私は、二代目ゴジラこそゴジラ人気を作った立役者であり、ゴジラ映画を作るなら二代目ゴジラのあり方を研究すべきと考えます。

 巨大、不死身、直情的でも屈託のない性格。もちろん外見を変更してはいけない。
 そんなゴジラが現代社会に出現する物語を現代の映画技術で描いて欲しい。

と、長々と書いてきましたが、はたしてどなたが読んでいるのか、幾人が読んでいるのか、暗闇で拳を振り回しているような気がしますが、
私は諦めません。

『シン・ゴジラ』絶賛という蒙昧を斬る(映画ファンとして) 殿様ギドラ (男性)

2017/03/17 (Fri) 18:46:15

 映画の楽しみ方は人それぞれで、観客によって評価はさまざまに分かれるのは当然でしょう。
しかし、映像と音響でなんらかのストーリーを伝える劇映画には出来不出来を判定する基準があるのも確かです。
映画を見るのは人間ですから、人間の感覚や知性に訴えるためにはそれ相応のテクニックがあるはずです。
そんなテクニックを適切に運用してドラマを正しく(作り手の意図通りに)伝え、人間の感情や理性に刺激を与えているものが「上手な」作品でしょう。

 さらに、物語とは何か、と考えたとき、何らかの出来事を通じて喜怒哀楽という感情を喚起させ、精神に充実感(娯楽性と言っても良い)を与えるものであり、
加えて人間性や世界のあり方への理解を深めさせるものであると言えます。
 作品を通じてより強い感情の喚起、より普遍的な世界への理解を導くものが優れた物語と言われるのです。

 一観客という立場なら、それぞれの特殊性に準じた評価で善し悪しを語って良いでしょう。
しかし、評論家と名乗る人もそれでいいのか?

 この一文は映画評論家と自称・他称されている人への問いかけです。

『シン・ゴジラ』は名作ですか?

 シナリオは状況説明のセリフに溢れかえり、物語のターニングポイントを映像で見せることがほとんどありません。
 怪物の第三形態が海に没する映像はない。マキゴロウの所在を捜す捜査員のシーンもない。新法を作るための国会のシーンもない。怪物の残した放射性物質をサンプリングするシーンもない。前半での総理が命を落とす瞬間もよくわからない。その他その他・・・
そもそも全体として映像による場所の提示がほとんどなされない。

 これが映画か?

 怪物の出現がストーリーの発端であるにもかかわらず、怪物の設定が科学的に穴だらけ。状況証拠(マキの研究成果が怪物の体機能に応用されているという)から怪物は人間が作ったものであることを明示しているにも関わらず、
観客に対して怪物を作った人物のバックボーンを何も伝えない。それは劇中でも謎というわけではなくて、どうやら登場人物は知っているらしい。
(妻を見殺しにした日本を恨んでいるとか?)
このマキゴロウの背負うものを観客に対して隠すことがどんな効果を生むというのか? 重要な設定であるにもかかわらず、伝えようとしないのは「逃げ」ではないのか? 重要であるゆえに「突っ込まれる」とまずいのでぼかして逃げたとしか思えない。
同様にアメリカ特使の祖母が原爆でどうなったのか、も教えてくれない。
 ネットを眺めていたら、マキの妻が広島の原爆で死んだと思っている人がいる始末。
http://blog.goo.ne.jp/okudaidou/e/3cbc34fe2434f80c7c891cb82f467b2c
年齢から考えてそれはないでしょう。1945年8月6日にすでに結婚していたなら2016年には最低でも90歳オーバーでしょう? もちろん劇中でも広島の原爆で妻を失ったとは言っていません。
しかし、こんな誤解を呼ぶのは、マキゴロウについて何も描かないから。ストーリーの鍵を握る人物について観客に何も教えないのはフェアじゃありません。

 次に、ストーリーの全体像を考えましょう。
 いかにもヒーロー然とした主人公(冒頭で異常現象が生物によるものであることの可能性をいち早く指摘する)と彼が差配するグループが次々と快刀乱麻を断つかのごとく真実に到達。
彼らは何一つ間違えることなく事件を解決します。こんなストーリーの何がおもしろいのでしょう? 危機管理のストーリーにおいて間違いを犯さない人間を描いても、それはただの絵空事。人間性の真実には迫れない。
(ロバート・ワイズ『アンドロメダ・・・』を見よ!)
 構図としては「大人たち」に相手にされなかった「子供たち」が日本の危機を救うという出来の悪い児童映画そのものではありませんか。

 そして、怪物出現という想定外の危機に対して日本政府がどのように対応するかという物語であるにも関わらず、そこに「議論」がないのは単純すぎます。意見の対立のようなものは、主人公が生物説を唱えるのに対してまわりの者が抑えようとするくだりとか
上陸するのかしないのかという判断で意見が割れたりする程度で、異なる観点からの意見のぶつかり合いはまるで描きません。
 これではこちらの知性を刺激することがありません。
 そして、さらっと流していますが、劇中で総理大臣に全権委任する法律を作ってしまいます。しかし、その内容をまるで伝えません。全権委任とは? これも国会論戦のシーンを作れば、怪物事件に対してどんな対応が必要なのか、総理大臣に権力を集中することの危険性は何か、
と現実の危機管理に対する問題意識を喚起できたはずです。なぜ結論だけを押しつける?
 付け加えれば、これは現政権が実現を目指している緊急事態条項と同質のものではありませんか? それを議論もなしに成立させていることは正しいのでしょうか? たとえプロパガンダ映画だとしても、反対意見を劇中で論破する手間を惜しんでいるようなものは欠陥品ですよ。

 私は映画とは芸術であるべきだと思っています。それは美の探求であるとともに真実の探求です。何者かが己の利潤や権勢のために表現行為を利用して人心を操ろうとするようなものは芸術ではありません。(そういう意味で私はコマーシャルフィルムを芸術だとは思わない)
映画評論とはなんですか? 映画の芸術性を守るための戦いでもあるのではありませんか?
 商業としての映画なら、客がたくさん入って収益が上がればそれが良い映画です。ではなぜそこに評論が必要なのですか? 映画の芸術性を守るために客の入りとは関係なく内容を吟味し、善し悪しを論じていくのが映画評論の意義ではありませんか?

『シン・ゴジラ』が自衛隊の意向を汲み、現政権のお先棒を担いでいる国策映画なのに、なぜそれを積極的に批判しようとしないのですか?
まだ日本には言論の自由があります。(だんだん怪しくなってきたけれど)言論の自由を制限しようとする者とは戦って下さい。もし、製作会社が批判は許さないと言ってきたなら、それも含めて批判して下さい。

 それから、私のような観点から『シン・ゴジラ』を否定する人々を左翼だとする意見もあるようですが、劇中で何の検証も行わずに現政権の方針をなぞるようなストーリー展開を行っている映画を国策映画だと指摘するのは右だの左だの関係なく正しいことだと思いますが?

 一番大事なことを書いてしまったような気もしますが、まだ問題はあります。

 映像面では、人物による芝居はほぼ室内で、色彩に乏しく見栄えはしない。たまに屋外に出ても殺風景な場所ばかり。見ることの「美」はない。芝居に動きも少なく、カメラをひねくれた場所に置くことでどうにか映画っぽくする努力も少しは見られますが、
最終的にはしゃべっている人物の顔を映すだけ、という凡庸さに落ち着いてしまう。
 映画映像としてへたくそでしょう?

 怪物のシーンになるともっとひどい。
 カットの連携がなく、動く一枚イラストを並べたような構成。ワンシーンワンカットみたいなもの。しかも遠巻きに眺めているばかりで、怪物による破壊のスペクタクルにも臨場感がない。
 災害の報道映像を真似したものと思われますが、それは現実のTV報道がやっていることなのですから、劇映画映像にはもっと対象に踏み込む臨場感が必要なのではありませんか?
それが確信犯なのだとしたら、観客がTVを通じて現実を見ているということを利用した現実感の創出なのでしょうけれど、それこそ、TV報道では真実に迫れないという事実に無頓着と言うべきです。
あの怪物に恐怖を感じた人がどれだけいたのでしょう。少なくとも私にはまったく怖くなかった。自分の身に迫った災害とは思えなかったから。

 音響。
 なぜサラウンドにしなかった? スペクタクル映画なのですよね? 背後に音が回ることによって観客をドラマの現場に立たせるほうが効果的ではありませんか? これはまったく理解できない。
そして、曲調も音質もばらばらの音楽。この統一感のなさはなんだ? 伊福部音楽を持ち出したことは大失敗。ゴジラと伊福部音楽の関係性を知っている人になら何かは伝わるかも知れませんが、独立した作品としてはただちぐはぐなだけ。
そもそも従来のゴジラとは全く違う怪物なのですから、ゴジラに当てた音楽をつけるのは間違っています。

 ストーリー内容を度外視したとしても、映画テクニックが上出来な作品だとも思えません。

 こんな映画が映画賞総なめとはまったく納得できません。

 私は映画評論家ではありません。評論家と名乗るほど幅広い映画の知識はありません。それでも映画が好きなので、映画を見るときには真剣に向き合います。これまで、おもしろい映画とつまらない映画では何が違うのだろうと考えてきました。
そんな私は『シン・ゴジラ』を上記のように見ました。
 間違ってますかね?

春と修羅 - 海軍大臣 (?)

2017/03/17 (Fri) 18:01:02

 いまだにシン・ゴジラ論で特撮ファン界はざわめいている様子ですね。
 映画冒頭に出てきた「春と修羅」に付いても、あの詩の内容にばかりこじつけたみたいな解釈ばかりです。
 これは私の勝手な思い付きですが、あれは牧何某という人物のスタンスを、詩集の成立過程に絡めて揶揄しているだけではないのかな、なんて考えています。
 宮沢賢治は、自分が裕福な商家(確か質屋だったかな?)の生まれだったことを酷く嫌っていたとかで、貧しい農民を擁護する運動なんかに手を出したりしているけど、結局、金銭面ではあれだけ嫌っていた実家に頼り切りだったと聞きます。
詩集「春と修羅」にしても父親が株で儲けた金で漸く出版されたのだそうです。
 映画の中で、日本の原子力行政だとかアメリカの核戦略だとかを批判していた牧何某も結局のところ、自分の毛嫌いしていた大国の力を借りなければ復讐は果たせなかった訳なのですから、何となく宮沢賢治の俺様振りにダブって見えてきてしまいます。余談ながら、法華経信者だったことで有名な宮沢ですが、これがタダの法華経ではなくて田中知学の国柱会という愛国思想集団に帰依していたとか。グスコーフなんたらの自己犠牲も、じつは爆弾三勇士と同列の精神と変わらないことになりますね。
 まあ、あの映画のスタッフたちがそこまでアイロニーを込めていたかはわかりませんけど。
 それでは、また。
 
 

Re: 春と修羅 殿様ギドラ (男性)

2017/03/17 (Fri) 18:39:57

ううーーん、あの「春と修羅」に絡めてもいろいろ解釈が出ているんですね。

なんともエヴァっぽいと申しましょうか。
私は、あの本が初版本らしかったので、岡本喜八監督絡みで置いただけかと思ってました。
(たとえば岡本監督の蔵書にあったとか)

どうも私は単純でいけません。

でも、海軍大臣さんの解釈には別の意味で頷けるところがあり・・・。
宮沢賢治がそんな背景を持っているなら、あの映画の作り手が賢治に傾倒していてもおかしくはないなー、なんて・・・。

『シン・ゴジラ』絶賛という蒙昧を斬る(一人の日本人として) 殿様ギドラ (男性)

2017/03/13 (Mon) 18:35:48

 この一文では私が映画ファンであること、特撮ファン・ゴジラファンであることを排除して『シン・ゴジラ』をどう受け止めたかを書いてみます。

 なんのタメもなく怪物が登場して、役人や政治家のディスカッションが延々と続く構成から、これはドキュメンタリードラマのパロディであろうと見ました。
架空の事件を扱っているわけですから、事実の再構成たるドキュメンタリードラマではなく、その物まねだな、と。
 2011年3月11日の震災後にそんなドキュメンタリードラマがいくつか放送されましたから、その空気感をいただいて観客に現実感を与えようという目論見でしょう。

 ところが、その内容と言えば、怪物出現という現実にはあり得ない事態を使っているために「わかりません」「できません」のオンパレード。
 当たり前ですね。怪物対策の制度・法律なんてあるわけがないのですから事態が滞るのは当然。それを延々と見せられる。こちらの認識は何も改められない。『シン・ゴジラ』はなにも伝えてこない。

 続いて怪物に対して自衛隊が防衛出動することになる。これはひどいすり替えだ。外部からの武力攻撃に対して出動するのが防衛出動。この段階で怪物は武力行使していないし、ここで言う武力とは他国やテロ組織によるものを指すのではないか?
劇中人物の決めつけによって、怪物退治に自衛隊を防衛出動させている。意図的に怪物の存在を他国からの攻撃と同一視させようとしていないか?

 害獣駆除で武器を使ったこともあるのだから、防衛出動である必要はない。(石破茂氏の発言が参考になった)

 それから不審なセリフが登場。防衛拠点が関東近郊に偏っているとかなんとか記者たちが言う場面で、地方切り捨てか、という批判めいたセリフを受けて、東京には人口も経済も集中しているという理由で仕方ないだろう、と。
ここまでは記者の対話として、まあいいでしょう。その次、「国を守るって大変なんだな」とは? どうも意味が繋がらない。地方の人々を後回しにして首都圏を優先することに、なんらかの苦労があるのか?
 ここで言わせるべきは、「国家を守るって非情なことなんだな」でしょう? その非情さを登場人物のセリフを使って、為政者の正当な努力のようにすり替えている。

 為政者は国家体制を守るためには地方を犠牲にする。これは紛れもない事実。なぜ東京湾沿岸に原発がない? 原発は危ないからです。原発事故で首都が機能しなくなったらヤバいから東京の近くには原発を作らないのです。
地方ならいいのか?

 怪物対策チームが作られても、そこに集められたのは「官」ばかり。この映画、徹頭徹尾お上の視点を守る。と同時に、主流派は間違っていて、突拍子もない意見が常に正しいという展開をする。
その流れの中で怪物が原子力で動いていることになる。(論証は何もない。ただ怪物が歩いたところの放射線量が高いというだけ。ただし、軽微)

 こうなると怪物は原発事故の隠喩かと思われました。ところが放射線による被害は全く描かれない。これは一体どうしたことか? 現実に原発事故は起こりました。しかしこの映画では、原子炉を持つとされる怪物が放射性物質をまき散らすものの、
その放射能は軽微で、半減期も短く東京が死の街になることもない。現実の事故よりもまるで軽い災害である。なんのための原子力怪物なのだ? 観客に対して原発事故の現実を伝える気がないのだな。

 アメリカがしゃしゃり出てきて高圧的な態度を取る場面もありますが、日本の対米政策を批判するストーリーにはならない。アメリカはひどいぞ、と言いながら、結局はアメリカと協力して事態を収拾する。
これは日本国憲法などアメリカの押しつけ憲法だと言いながら軍事的には日米同盟を強化している現政権の姿勢と同じである。

 アメリカなしでやっていく道を示す姿勢はなく、現状を肯定するのみである。

 怪物をエセ科学で解き明かしていく諸々の場面などは噴飯物で、一気にリアリティがなくなる。(2016年8月8日、8月24日の私の投稿もご参照ください)

 怪物に対しては核攻撃か主人公が推進する根拠薄弱の博打作戦かと二者択一に落とし込むやり方も詐欺めいている。
 怪物が無数に増えて空を飛ぶかも知れない、などというこれまたなんの確証もない思いつきの可能性がまるで確定した事実のように扱われ核攻撃の根拠とされているが、アメリカが怪物の情報を秘匿したいならば同様にロシアであれ中国であれ、
怪物の秘密を手に入れたいはず。国連安保理が核攻撃を容認するとも思えない。

 フランスが原発推進国だから研究のため怪物消滅には反対なんじゃないか、などと反対票(核攻撃に猶予を与えてもらう)を入れてもらうために日本政府が動いたことになっているが、
そんな理由ならフランスは初めから反対するさ。

 怪物凍結作戦(血液凝固でどうして凍り付く??)のまえに主人公が自衛隊に演説するのも気色悪い。この映画のあと、2016年9月に国会で総理大臣と与党議員が自衛隊・海上保安庁・警察にスタンディングオベーションを行ったのと同様の気持ち悪さ。
あの演説シーン、要るか?

 怪物が凍った後、なぜそのまま放置する? 零下200度近くまで体温が下がっている(繰り返しますが、なぜ低温になる??)のですよね? ならばミサイルでもがんがんぶっ込めば怪物はバラバラになるでしょう?

 そしてストーリーは、怪物が再び動き出せば核攻撃のカウントダウンが始まると表明します。怪物をダモクレスの剣に見立てたいんですね。なんだか、北朝鮮のミサイルが危ないと言われているのと同じ匂いがしますな。
為政者が考えそうなことです。

 さて、しかし、私が一個の人間としてこの映画に感じた最大の気持ち悪さは、民の不在です。

 被災者を描く視点がない。大衆は塊として眺められているだけで、一般大衆に何が起こっているのかをまるで描かない。被災した人々の困窮、慟哭、悲劇にはまったく興味を示さないストーリー。
デモ隊は何を言っているかわからないし、避難所の人々の表情を丁寧に追うこともしない。3.11からヒントを得た映画であるのは間違いないのに、国民不在である。

 この映画を作った人間は一体何様なのだ? 為政者の立場を擁護することに必死か?(総理の仕事って大変なんだな、というセリフ!)
 災害を防がなければならないのは、国民の生命財産を守るためであって国家体制を守るためではない。

 このように国民をないがしろにした映画を絶賛とは、国民主権なんて日本じゃ廃れてしまったんだな。

ビオランテからでも今年で28年!ショック!! 殿様ギドラ (男性)

2017/03/02 (Thu) 18:19:04

 またまたスレッドを新しくします。

 エクセルシオールさんの『vsビオランテ』分析に影響されて、『ゴジラvsビオランテ』を見直してみました。

 いやー、細かいところで当時の大森監督のハリウッド趣味が鬱陶しいけれど、自衛隊とゴジラの力関係はエクセルシオールさんのご意見の通りでしょう。
ストーリー全体としても、人間の過ちを見つめる視点はあります。白神、大河内、黒木、三人のやり方を正当化するドラマではなかったと感じました。
白神は劇中で自ら反省していて、大河内(父)に関しては主人公がそのやり方に疑問を呈することで観客にも抗核バクテリアの開発は倫理的にまずいと感じさせています。
黒木の扱いは微妙なところですが、無感情な芝居をさせ、自分の目的のためには手段を選ばない人物として描くことで観客の反感を買うように演出されていたと思われます。

 ですから『vsビオランテ』もドラマの基本姿勢としてはそれ以前の怪獣映画とそれほど違ったものではなかったと言えます。

 平成vsシリーズは『vsビオランテ』が不入りだったことを受けて別の方向へ舵を切り、出来の善し悪しはあるにせよ関沢新一的ストーリーにも取り組むようになっていきました。
それで良かったのに・・・。

『vsビオランテ』を支持した人にもいろいろいるのでしょうけれど、平成ゴジラがだんだんゴジラに共感させるような作劇になっていったこと、あるいは未来人だのメカゴジラだのが出てきて空想度が上がったことに不満を持つ人が、
ビオランテはよかったなぁ、と嘆いていたように覚えています。

 そこに登場したのが平成ガメラ。

『vsビオランテ』からの影響は明白。客の入りは悪かったけれど特ヲタは熱狂。だけど、私には『vsビオランテ』のまずいところを取り入れてしまったと見えました。
 それは、怪獣をバイオテクノロジーで説明することも問題だけれども、映像構成も含め怪獣が主役になっていないことが大問題。ストーリーも映像も人間にとっての怪獣という描き方しかしない。
『vsビオランテ』もその傾向が強かった。そして、私が感じた不満はそこにもあった。

 平成ガメラと『vsビオランテ』には差異がさまざまにあるはずですが、似た空気感があるのは確かで、しかし、平成ガメラから逆流するような形で『vsビオランテ』の内容がゆがんで受け取られているとしたら大問題ですね。

 ところで、映画『ゴジラvsビオランテ』ではビオランテが自衛隊を壊滅させるシーンはなかったようです。それは小説版のほうかな?(読んでない、持ってない・・・)
ゴジラの感情にも考慮した内容のようで、うーん、興味深い・・。

今回は短くしました!(『vsビオランテ』からのゴジラシリーズ史、そこに挟まる平成ガメラ、その行き着いた先が『シン・ゴジラ』だったという悲劇の話をすべきか)

Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/03/02 (Thu) 20:35:23

こんばんは、『VSビオランテ』の後半で芦ノ湖の時よりさらに不気味な姿になったビオランテが出現するや否や触手でメーサー戦車や自衛隊が設置したM6000TCシステムを叩き壊す場面ありますよ。エクシオール氏が仰るビオランテが自衛隊壊滅させるシーンというのはそれでしょう。

『VSビオランテ』って特殊災害研究会議Gルームや特殊戦略作戦室といった国家機関が中心となりゴジラやバイオメジャーとの戦いが主軸の仮想戦記なんですよね。あくまでゴジラは日本政府が打倒すべき標的であり、そのために日本政府がありとあらゆる手を尽くすという展開です。主人公の桐島は白神博士や大河内誠剛に対して批判的なもの言いをしたりはしますが、ゴジラの体温が低いことを指摘してM6000TCシステムを使った作戦実行のきっかけを作る役回りで、あの大イグアナが出てくるエメリッヒ映画の主人公ニック同様に学者の立場で国家権力主導の怪獣討伐作戦に協力する御用学者的な立ち位置です。ニックもあの大イグアナの繁殖力の危険性を訴えアメリカ軍によるマディソン・スクエア・ガーデン爆破作戦実行のきっかけを作る役回りでしたし。そういえば『シン・ゴジラ』でも学者達がゴジラとも呼べない使徒モドキ打倒のために色々助言をしていましたよね。いずれにせよ『VSビオランテ』は1984年版ゴジラ同様に学者の英知が日本政府主導のゴジラ打倒作戦を進めるカギとなる物語と言えます。そして日本政府の暴力装置である自衛隊が怪獣に立ち向かう様子を描くのに力を入れた平成ガメラに繋がっていく作品であることは疑いようがありません。最終的には白神博士も二度と抗核バクテリアを作らないと言いますが、一度は抗核バクテリアを作って自衛隊に提供して使用させているわけです。最後まで日本政府や防衛隊にオキシジェンデストロイヤーを提供することも使用法を伝えることも無く全ての設計図を焼いた上で自らの口封じのためゴジラと心中する芹沢大助博士を描いた初代ゴジラと比べると為政者が強力な兵器を使用することへの批判が大幅に後退しています。1984年版ゴジラもそうですがゴジラ打倒ありきの日本政府の方針への批判的視点を後退させれば、結局ゴジラの物語ではなく日本政府主導のゴジラ退治物語になってしまうんですよ。『VSビオランテ』はゴジラの息の根を止めることは出来ずとも、最終的にはゴジラを海に追い返し原発をゴジラから守ることには成功しているわけですし。

『ゴジラVSビオランテ』について 補足 - エクセルシオール (男性)

2017/03/02 (Thu) 22:03:23

 ビオランテが自衛隊を壊滅させるシーンについては芹沢さんの書かれた通りの部分です。まあ、おまけみたいなシーンですが復活したビオランテの力を示すためのものだったと思われます。

 さて、小説版について若干補足します。記憶をたどってのコメントになりますが、この小説は映画版と大枠は同じでも内容はだいぶ違います。
 キャラについては白神も黒木ももう少し人間味のあるキャラになっています。映画版の白神は無責任な傍観者みたいだと批判されることも多いのですが、小説ではビオランテがゴジラに倒された後に「娘を殺された」怒りのあまり狂気の世界に足を踏み込みかける描写があります(彼を救ったのは三枝未希である。彼女は要所要所で重要な役割を果たす)。黒木も作戦が失敗して感情を爆発させたり、打つ手が無くなって途方にくれたりしたシーンがあったと思います。最大の違いは白神も権藤も死なない点ですね。
 メカについてはスーパーX2が映画と大きく違います。ファイヤーミラーはなく、代わりに超強力な粒子ビーム砲とアンコウの触角のような砲門から放つハイパーレイザー砲がついており、その他にも抗核バクテリア弾を撃つための小型ミサイルランチャーが付属しています。この小説では生身の人間による肉弾攻撃ではなく、スーパーX2が抗核バクテリア弾を撃つというある意味普通の設定なので、権藤は助かったのです。
 ゴジラがなぜ大阪に現れたのかについても映画版では「なんとなく」でしたが、小説ではいったん別の原発を襲おうとして三枝未希に止められたため、ルートが変わったためとなっており、ある種合理的な展開になっていました。
 そしてビオランテ。芦ノ湖では映画とほぼ同じ姿ですが、若狭湾では大きく異なります。最初は芦ノ湖と同じ姿だったのですが、再びゴジラに燃やされてしまいます。しかし、未希の超能力の支援を受けて「バラのイメージを持ったゴジラと同じような姿」になり放射火炎もはけるようになります。最後は両者とも海へ転落しました。それでビオランテは空に消え、ゴジラは海に帰るという落ちでした。
 最も大きな違いは未希によってゴジラが恐ろしい力を失ってしまったことが語られることです。この結末はゴジラは水爆を受ける前の元の姿に戻ったとも解釈でき(未希は「ずっと海の底で静かに暮らしてほしい」と願います)、かなり寂しいですが含蓄のある結末でした(無論「人類の愚かさを戒める脅威がなくなってしまった。それでよいのか?」という批判的な評価も可能です)。
 ちなみにこの小説には挿絵が一切ありません(表紙こそ今は亡き名ポスター画家、生頼範義さんの画いたポスター絵がそのまま使われていますが)。そのためビオランテやスーパーX2がどんな姿をしているのか想像力を駆使する必要があります。
 いずれにしても映画版との違いは結構楽しめますので、いつか機会があれば読んでみてください。

 なお、『ゴジラVSビオランテ』は漫画版も二種類あります。そのうち小林たつよし氏のものはタイトルも内容もほぼ同じのオーソドックスな作品でしたが、もう一つの平野俊弘氏の手によるものはタイトルが『ゴジラ1990』となっているだけでなく、内容も大幅に異なりますので(三枝未希を人間側の主人公としている)、なかなか興味深いものがありました(個人的には後者の方が好きですね)。

Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! 殿様ギドラ (男性)

2017/03/03 (Fri) 19:46:54

 いやどうも、これは失礼。

 ビオランテによる自衛隊壊滅シーン、んー、あれはビオランテ出現の余波、という表現に見受けました。
(円谷監督もよくやる、怪獣の強大さを示すための周囲への影響描写ですね。一例としてモスラが繭を作ろうとして糸を吐いたらヘリに当たってヘリ墜落という見せ方と同等)
つまり、ビオランテには自衛隊に対する攻撃の意図はないわけで、さらにその破壊も壊滅というほどでもなかったんじゃないかと。
というわけで、もっと別のビオランテ対自衛隊のシーンがあるのかと思ってしまったのです。

 私も『ゴジラvsビオランテ』がゴジラ退治の物語であることに不満があります。しかしながら、ミレニアムシリーズ以降のように怪獣を倒す人間は偉い、という見せ方はしていないと感じています。
科学者の倫理問題は正面から扱っていますし(もちろん芹沢博士と白神博士はまるで違うキャラクターです。芹沢は正しい倫理観を持った科学者で、白神は、大変な過ちを犯した科学者という扱い)
抗核バクテリアが国外へ持ち出されるのを止めるためとはいえ情報操作する様子を織り込んで、権力者(為政者)は嘘をつく、という表現を行っています。
これは見方によっては、敵を足止めするための正しい方法と受け止める人もあるのかもしれませんが、「それは情報操作ではないか!」と憤る人物を配置することで作品としては批判性を出しています。
『vsビオランテ』では人間のダメな面(サラジアもバイオメジャーもダメな奴ら)を積極的に取り込んでいて、人間批判の意識があるという点で基本姿勢はそれほど違っていないと申し上げました。

 主人公がゴジラ退治のためのアイディアを出していくのも、劇中のリアリティを考えれば当然のことで、彼がゴジラ災害を無くそうと努力することを批判はできません。問題は、その作戦が成功してしまうこと。
そのために作品全体の表現としてゴジラもまた科学で抑え込めるのだ、という結論を出してしまった。この作品のストーリー上最大の問題がそこにあると考えています。
(うーん、それは同時に権力者批判が薄まったことにもなるか・・。政府主導ではない対怪獣作戦だったらいくらかマシになったと言えるかもしれない)

 怪獣に関すれば、ビオランテに人間の要素を入れてしまったこともあまり褒められない点です。白神の娘の意識がどれほど残っているのか曖昧にされていますし、途中で「もうエリカさんの意識はなくなっている」
というようなセリフはありましたが、ラストでは再び意識が戻ります。前半で白神博士の研究所に忍び込んだバイオメジャーを襲うのは、娘の心がビオランテを動かしているという表現ではありますまいか?
今回、手元にあるシナリオも参照してみましたら、シナリオには芦ノ湖でボートに乗る自衛官を襲うシーンがありました。しかし、それはカットされている。ビオランテは悪いことをしないのだ、という線引きがなかったか?
クライマックスでゴジラの前に天から降ってくる(ここの表現は非常にわかりにくい。金粉状の物が降ってくるけれど、ビオランテは地中から姿を現す)のも、ゴジラ退治のために参上したようにしか見えません。

 こうなると怪獣対決物というより、ウルトラマンの怪獣退治に近い。(ウルトラマン的な非人間ならいいけれど、ビオランテはエリカだもんなぁ。いやそのうえゴジラでもあって、ここにも大問題が潜んでいるけれどいまはカッツアイ!)

 この、人間がゴジラを倒すという発想がのちのちまで尾を引きます。

『vsキングギドラ』でもメカキングギドラには人間が乗っている。その後平成vsでは人間がゴジラを倒すという考えは薄まっていきますが、『×メガギラス』においてストレートにゴジラは人間が倒すのだ、という作劇が始まります。
途中のあれこれはいまは割愛しますが、『ファイナルウォーズ』ではゴジラを倒すどころか敵怪獣に負けそうなゴジラを人間が超能力で救うというとんでもない人間至上主義が登場。

 かつての怪獣映画では生命として人間と怪獣は同列のもので、怪獣描写には観客の意識を怪獣と同化させるような演出も盛り込まれていました。(例外はありますよ)
そのうえ害獣とされる怪獣が人間の武器では殺せないことを前提にすることで人間存在を客観的に見る視点を涵養せしめていたはず。(ちょっと小難しい表現だけどほかにいい言い回しが思いつかなかった)

 しかし、おそらく『vsビオランテ』を境に人間中心(なにもかも人間の業とする)でしかない怪獣映画が増えていったのではなかろうかと思われるのです。
(『2000ミレニアム』でも「ゴジラは俺たちの中にいる」というセリフがあります)

とはいえ、『vsビオランテ』が好きな人がいるのもわかるのです。もし、怪獣映画の歴史がまったくないところに登場した作品なら(ゴジラの存在とか相当無理がある想定ですが)、
おそらく私も楽しんだことでしょう。突っ込みどころはあるけれど、もたつかないドラマ構成や科学が政治経済の道具にされている現状を斬る視点などいいところがたくさんあります。
 間違いなく『シン・ゴジラ』より50倍はおもしろいですね。
(『シン・ゴジラ』、項目別に批判しましたが、総括的に批評する必要も感じています。しかし、あの映画は問題点が多すぎて突っ込みの大渋滞。全体としてどうとかこうとか非常に言いづらい)

 小説版「vsビオランテ」、かなり大胆なアレンジが為されているのですね。映画では踏み込めない領域でディティールを描いているような・・。

『シン・ゴジラ』が2016年日本一の映画に・・・ - エクセルシオール (男性)

2017/03/04 (Sat) 21:03:26

 『ゴジラVSビオランテ』に関していろいろ論じているうちに、またも卒倒しそうな情報が入ってきました。かの『シン・ゴジラ』が第40回日本アカデミー賞で最優秀作品賞を含む主要7部門を制覇してしまいました。管理人さんの考えによれば『VSビオランテ』の50分の1しか面白くない映画が(ちなみに私にとっては比較するのも『VSビオランテ』に失礼なものです)、「怪獣映画初の最優秀作品賞」になってしまったわけです。怪獣映画の末世的状況というほかありません。

 まあ、日本アカデミー賞という賞はいろいろと問題が多く本家と比べると権威も乏しいのですが、それでも「日本一の映画賞」と評されていることは事実であり、ただでさえ無批判な礼賛論が大勢を占めていた『シン・ゴジラ』論説が、さらに賞賛ばかりになるのは避けられません。この作品がゴジラ映画の、否、これからの怪獣映画のスタンダードになるとしたら、掛け値なしの地獄絵図というべきでしょう。

 それにしても日本アカデミー賞は「五大映画会社の大作以外は極めて不利」「授賞式を行う日本テレビの意向が大きい」「映画の内容とは無縁の要素が選考を左右している」等々と批判されてきましたが、今回もすこぶるうさんくさい(興行成績で判断するなら『君の名は』が受賞すべきだったろう)。ブルーレイ・DVDの発売・レンタルが今月から始まることや内容が国策映画に近かったことなどが影響しているのではないかと私はかなり怪しんでいます。

 ちなみに本家のアカデミー賞では『シン・ゴジラ』のような娯楽超大作はまず受賞できません。むしろその種の映画の多くはゴールデンラズベリー賞(最低映画賞)の担当になります。日本版ラジー賞もあるようですが、『シン・ゴジラ』を最低作品賞にするような気骨はおそらくないでしょうね。

Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! 殿様ギドラ (男性)

2017/03/06 (Mon) 18:53:33

これは申し訳ないことをしました。

『vsビオランテ』を『シン・ゴジラ』なんかと比較してしまいまして、どうもすいません。
『シン・ゴジラ』のよかったところはビルの壊れ方だけだったので、『vsビオランテ』の尺の50分の1ぐらいかなーと・・・。

さて、私もニュースで知って、まあそんなもんだよなぁ、と白けていました。

日本アカデミー賞はテレビで大々的に授賞式を放送したりするので、映画マニアではない人への影響が大きいでしょうね。
まったく困った物です。

それにしても、『シン・ゴジラ』、なにがどうして高評価なのか?
毎日映画コンクールの講評でさえ佐藤忠男氏が褒めている。
佐藤さん、呆けたんじゃ無かろうか。

なんと言うことはない、怪獣映画に対する偏見が裏返った結果の、「大人」に大好評なんじゃないでしょうか。

くだらないと思っていた怪獣映画に政治家や役人がメインで出てきて、法律の話だの外交の話だのしているので、おーおー、坊やたちよくお勉強ちまちたねぇ、と褒めてくれたということでは??

まあ、政治の世界が金権政治なんですから芸能の世界となるとそれ以上・・・・でしょうしね・・・。
評論家も人の子。あれば欲しいのが◯◯というわけで。

あんまり大人たちが褒めているので、自分がおかしくなったんじゃないかと不安になり、自分の『シン・ゴジラ』評を改めて読み直して見ましたが、私は変なことは書いていないよなぁ。

かつてドイツにナチスがはびこったときって、こんな感じだったんだろうな、と想像します。
どうすれば、この狂った状況を変えられるのか!?

みんな圧力に負けずに正直になろう!
偉そうな人が正しいとは限らない。自分で判断しよう!
映画はただの暇つぶしではない。もっと真剣に向き合おう!!

Re: Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! - ルー等級つつ大臣 (男性)

2017/03/09 (Thu) 00:35:39

えー!?あのちんごじらが日本アカデミー賞取ったざますって!?
実に世も末ですね。
あの個人的には東宝効果音くらいしか良い所の無い作品がよくアカデミー賞受賞したものざます…
でも冷静に考えてみるとこの日本アカデミー賞って端からみたら駄作じゃないの?って作品でも受賞してるくらいですからまぁこんなものでは。
(と口をあんぐり)
それよりもむしろ「VSビオランテ」公開からもう28年経過していたというほうがびっくりざます。
実を言うとこのビオランテ公開時は実に芳しくなかったのです。
というかあんまり面白くなかったというべきか。
(もちろんGMKみたいな屁理屈系のようなつまらなさではなかったけれども)
やはりこれは今考えたら大森監督のハリウッド映画の真似のような演出ぶりが鬱陶しいというところでしょうか。
やれバイオメジャーやらゴジラ細胞やらで確かに新しさはあったのですがただ一つ公開時から現在に至るまで許容出来ない点といえばやっぱりあの超能力少女の存在でしょう。はっきり言って彼女はいらん。正直私は苦笑しましたから。
それ以外は今はOKです。ただこの映画の悪影響かミレニアムシリーズでのゴジラを倒せ的なストーリーの狭さが生まれてしまったのは否めないざますねぇ…
少なくともちんごじらの数倍は面白いざます。

日本アカデミー賞のインチキっぷりはこちらの画像をご覧下さい。 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/03/09 (Thu) 18:54:32

この画像を見ればおわかりでしょうが、日本アカデミー賞会員は東宝の人間多いんですよ。監督、脚本、プロデューサー足しても東宝の票より少ないくらいです。要は東宝映画はヒットさえすれば東宝の人間がたくさん票入れて日本アカデミー賞総なめという図式を作れます。はっきり言ってこれは茶番どころかインチキでさえありますよ。本家のアカデミー賞も審査員の間でいまだに白人至上主義が強かったりと問題はありますが、大手映画会社の組織票でインチキできる日本アカデミー賞とは比べるのも失礼なくらいの隔たりがあります。『シン・ゴジラ』自体野党と国会で合意して物事を進める民主主義を放棄して政府与党の一握りの人間が文字通りの軍民一体化を進めることを全面的に肯定する戦時中の国策映画そのものなのでそういう映画に賞を与えて褒め称える日本社会自体に危機感を感じずにはいられません。

それと、私は『VSビオランテ』小さい頃ビデオで初めて観た思い出の作品ではありますが平成VSシリーズの中では『VSキングギドラ』と並んで最低ランクの評価です。どちらも国家がゴジラを殺すことは出来なくても日本国内から排除する力を持つことを肯定する結末になっていて、一見人類の愚かさを描いているようでその愚かさの大半を外国のせいにし日本を被害者の立場に甘んじさせているからです。日本を被害者の立場に甘んじさせることで日本がゴジラを撃退する結末を正当化しているともいえます。イグアナの巨大化をフランスの核実験のせいにしてアメリカを被害者にしたエメリッヒ映画を批判するなら、外国を悪者に日本を被害者にという構図のゴジラ映画もしっかり批判しないと筋が通りません。1984年版ゴジラのスーパーXのカドミウム弾でゴジラを昏倒させることに成功したのにソ連の核ミサイルがゴジラを復活させる引き金になるという展開も「日本はゴジラを倒せる軍事力を持っているのにソ連が余計なことをして台無し」という何ともせこい筋書なので容認できませんよ。もし他の国が「自国の軍事力で倒せる外敵だったのに日本が余計なことをして台無し」という筋書の映画を作ったらどう思いますか?

確かに『シン・ゴジラ』なんかより『VSビオランテ』と『VSキングギドラ』がずっといい作品であることは否定しませんが、この二作は「為政者がゴジラを科学や武力で押さえ込むのは正しいし実際にゴジラを日本国内から追い出す形で押さえ込むことが出来る」という内容なので、『シン・ゴジラ』に繋がる悪しき前例を作ってしまったんです。『VSビオランテ』の超能力者とはいえ民間人の少女をゴジラの目の前に立たせる特殊戦略作戦室室長の黒木の作戦がゴジラを方向転換させるのに成功したという展開や、『VSキングギドラ』の地球人には制御できない宇宙怪獣であるキングギドラが未来人とはいえ地球人が作った人工物へと設定を改変され、最終的には未来の政府によって地球人が操縦できるメカキングギドラに改造されゴジラを日本から排除するのに貢献する展開はいただけません。前者は民間人をゴジラとの戦いに利用する為政者のやり方が結局正しかった、後者は未来の政府の技術力がゴジラを撃退したということですので。こうやって「国家がゴジラを撃退するためなら何をやってもいいし、ゴジラは国家に負ける存在でいい」という図式を作ってしまったことが在日アメリカ軍の現行兵器で大量出血し、戦時中の民間商船徴用よろしく権力者である主人公が徴用した電車や工事用作業車に敗北するゴジラとも呼べない使徒モドキを描いた映画を許す下地になっているのは火を見るより明らかです。

Re: ビオランテからでも今年で28年!ショック!! 殿様ギドラ (男性)

2017/03/10 (Fri) 20:22:58

『シン・ゴジラ』なる珍妙な映画がどうして出来上がってしまったのかを検証する必要も感じていて、そこから『vsビオランテ』の批評に繋がっていった次第ではあったのですが・・・。

日本アカデミー賞は発案者である水野晴郎さん自身が「映画人のためのお祭りである」とおっしゃっていて、優れた映画を表彰するという意識はあまりなかったようです。
というわけで、私はもともと日本アカデミー賞にはなんの権威も感じておりませんでした。

しかし。
『シン・ゴジラ』、その他の様々な賞で受賞ないし上位にランキングされている。
そのうえ、日本SF大賞から特別賞を受けている。
(さすがに大賞はちゃんと小説に与えられたようです)

これはほんとに異常事態。
科学性、思索性において極めていい加減な『シン・ゴジラ』にSF賞とは?

やっぱり『シン・ゴジラ』に集中して批判分析を進めねばならんとふんどしを締め直しました。
それで、総論みたいなものに着手したのですが、以前に書いたとおり突っ込みの大渋滞なので、ズバッと一発で叩き切るのが非常に難しい。
ちょっとまとめるのには時間がかかりそうです。

そんなポンコツ代表みたいな映画に表彰が集中とは。
これ、集団ヒステリー現象では??

批判論はあるはずだけど・・・ - エクセルシオール (男性)

2017/03/10 (Fri) 21:53:32

 確かに日本アカデミー賞だけでなく様々な賞を『シン・ゴジラ』は受賞していますね。こうも絶賛の嵐ばかりだと「この映画を批判している自分はどこかおかしいのでは?」と考えそうになります。

 この礼賛一辺倒の状況には様々な要因が絡んでいるのでしょう(同調圧力、怪獣映画への無理解、商業上の理由等々)。しかし、それでも異常すぎる。『シン・ゴジラ』はゴジラの描き方のみならず、ストーリーや人物描写、その思想背景すべてにわたってツッコミどころが満載であり、全方面から叩かれても不思議ではない作品でした。それなのに「ここはいいけどここは悪い」みたいな意見すら珍しい有様です。
 以前紹介したように映画評論家の中では山根貞男さんがただ一人『シン・ゴジラ』に批判を浴びせましたが、後に続く者ははいませんでした。今やこの映画の支持者たちは批判論に反論する必要性すら認めていないように感じます。

 しかし、いつかブームは去りこの映画をきちんと批判する動きも出てくるはず。以前にも同じようなことを書きましたが、体系だった批判論が存在していれば将来『シン・ゴジラ』に疑問を感じた人の助けに必ずなるはずです。その時が来るのを信じて今はこの気色悪い礼賛の嵐に耐え抜くしかないでしょう。

 

  
 

日本の怪獣映画は映画の革新だったはずなのに 殿様ギドラ (男性)

2017/02/06 (Mon) 18:28:03

 この記事も基本的には前スレッドへのレスなのですが、すっかり長くなってしまったので仕切り直します。

 というわけで・・・。

『シン・ゴジラ』が海外でコケたのは当然の結果と思います。あの映画にはストーリーのおもしろさ(意外な展開や人間性の普遍的な本質を突く、など)はなく、
映画ならではの娯楽性(怪獣が登場するならその強大な力をスペクタクルとして臨場感たっぷりに描く。簡単に言えば怪獣が大暴れする)もないのですから、
ヒットするはずがないのです。

 こう書くと、「それは、あくまでも日本の問題を扱った作品なのだから外国人の興味を引かなくても当然なのだ」という反論が出てきそうですね。
(この掲示板には『シン・ゴジラ』をよしとする人が現れませんので、勝手に憶測しました)
では、日本で外国の問題を扱った映画がなにもかもコケているのでしょうか?ざっと思いつくところでも『シンドラー・リスト』だの『プラトーン』だの『史上最大の作戦』だの(あ、戦争がらみばかりだ)が
日本で大コケしたのでしょうか。

 さらに、『ゴジラ2000ミレニアム』より成績が悪いのはどういうことでしょう? ゴジラブランドの力を持ってしても『シン・ゴジラ』は海外でコケている。
芹沢亀吉さんに教えていただいたBox Officeのデータによると日本でだけ突出してヒットしている。

 私には謎でも何でもありません。公開当時から感じていたことで、ものすごく宣伝費を使ったのだな、という感触があります。テレビや新聞がこぞって話題にしている様は気持ち悪いほどでした。
それを裏付けるのが、このたび芹沢亀吉さんが紹介なさった記事。
 製作費が20億以上とはいうものの、80億超えないと黒字にならないとは?? 何に大金使った????

 どんな宣伝戦略だったのかは知りません。けれども、「宣伝に限界はない」(多胡部長)のですからステルスマーケティングだってなんだってやったのでしょう。
口コミヒットの代表作として『君の名は。』と並び称されていますから、そりゃ、ネット工作部隊もいたんでしょうね。同調圧力に弱い日本人をたぶらかすには最適な方法でしょう。
あ、単なる憶測です。でもね、あの映画の製作費が80億に近いとはとても思えませんよ。そりゃ映画公開のためには直接製作費だけではなくさまざまな諸経費が必要でしょうけれど、
何十億も使うとしたら何のためでしょうかね・・。

 そんな宣伝も日本国内に限定されていれば、日本でヒットして海外でコケるのは理にかなったこと。

 どこかの誰かが褒めていても(貶していても)本当か?と疑う心が理性というもの。己の知識経験、悟性を駆使して判断するべきなのだ。多数派、あるいは権威者の判断に自分を合わせることで安心してはいけない。
かつて怪獣映画はゲテモノ扱いだった。しかし、「偉い人」がなんと言おうと、自分の判断を信じて、怪獣映画とは素晴らしい映画形式であると主張しつづけた人々がいるからジャンルが続いているのではないか?
 同様に、私は『シン・ゴジラ』は世論操作のためのプロパガンダ映画であり、劇映画としての完成度もお粗末きわまりない、と主張しつづける。

 そして、そうそう、ゴジラ総選挙なるものがありましたね。日本映画専門チャンネルがギャレス版への景気づけに行ったものでした。
お恥ずかしい。私は投票してます。ゴジラファンも世代交代が著しいので、一矢報いようと『三大怪獣地球最大の決戦』に投票したと思います。(上位には平成VSものが来るだろうな、と予想しました)
蓋を開けたら、なななんと、「vsビオランテ」が一位ということで、ひっくり返ったのを覚えています。

 公開当時の自分の感想を思い出すと、バイオテクノロジーを絡めた国際陰謀というアイディアやドラマ構成(エピソードのつなぎ方、緩急の付け方などなど)には感心しましたが、
とにかく怪獣描写に不満がありました。ゴジラは無表情に歩くだけで感情が見えず、ビオランテは人間社会に暴れ込むわけでもなく、さらには劇中、ゴジラの細胞を分析してゴジラ退治の方法に道筋を付けてしまう。
こんなことをしてしまってはゴジラは謎の存在でも何でもなくなってしまうし、シリーズを進めていくなら、最後には人間がゴジラを倒すことになる。こんな映画はゴジラ映画落第である、と思いました。

 しかし、当時のゴジラファンにも『vsビオランテ』を好んだ人は多かったのです。(最近は公開当時ファンに不評だった説が流布していますが、そんなことはない)
怪獣映画ファンだと公言していた金子修介氏が作った偽ガメラシリーズなど、怪獣の設定やドラマの雰囲気など『vsビオランテ』の影響下にあるのは明白。

 怪獣映画を誤解しているのだ!

 ギャレス版『GODZILLA』はエメリッヒ版を超えて世界的にヒットしました。
 なぜだ?

 私は、ギャレス版が名作だとは思いません。ここで細かいことは書きませんが、さまざまな部分に瑕疵がありとても上出来とは言えないと思っています。けれども、怪獣映画として高く評価するところがあります。
それは、怪獣をあくまでも野生の生物とし、その描写には彼らなりの意識・感情があることをしっかりと見せていたこと。彼らの闘争に横やりを入れてくる人間の軍隊が怪獣の前では無力であること。
野生の勝利を謳っていることがあの映画の魅力であろうと分析しています。
 だから世界的にヒットしたのではありませんか?
(主人公が人間だったとしてもワイルドなヒーローは受けませんか?)

 怪獣映画の価値、魅力とは、怪獣を倒す人間を称揚することではない!

 繰り返しになっても大事なことは何度も書かねばなりません。
 日本の怪獣映画がその他のモンスター映画と区別されるのは、怪獣が人間に倒されることがないストーリーを成立させているからです。
悲観的なエンディングを狙って怪物が倒されずに終わるのとは違います。
 東宝怪獣映画でも初期の作品では怪獣は倒されて終わります。しかし『モスラ』(1961)で事態は大きく変わります。
『モスラ』では怪獣が殺されません。善悪の対立は人間同士にあり、ストーリーは人間の悪を突くものとなっています。
そして、劇中でモスラ退治作戦が行われていても、観客の意識を怪獣退治には向かわせません。

 そもそも『ゴジラ』(1954)におけるゴジラも決して悪ではなく、水爆実験の被害者(ゴジラ)が人間社会と交わることで起きる災害でした。
被害者ゴジラを殺して終わるのはどうにも後味が悪い。ストーリー上は核兵器の象徴のような扱いにされていますから、それを退治する劇展開になるのは仕方ないとしても、
劇中世界でのゴジラには悪意などなく、もちろん水爆の化身でもない。そんなゴジラ、およびその他の怪獣を映画の中で殺し続けるのが正しいはずがない。

『空の大怪獣ラドン』のエンディングではラドンの死を悼むような演出が施されています。

 本多猪四郎監督の述懐に
「人間が万物の霊長である、人間こそが偉いんだという立場を僕は取らない。ゴジラにしろラドンにしろ、自然の中から生まれてきたもので、我々が考え出した架空の存在ではあるけれど、
やはり人間と同じ地球上に生を受けた一つの生命体、大きな宇宙生命の一つとして向かい合っているわけです。」とあります。
(ゴジラのトランク展パンフレットより)

 そんな思考から生まれたのが日本の怪獣映画である。

 だから怪獣たちは殺し合いをしない。本多・円谷コンビの作品では怪獣対決ものでも、負けた側が死ぬことはほとんどない。(『モスラ対ゴジラ』での成虫モスラは寿命が尽きかけていたのであり、
ゴジラに殺されたのではない)
 怪獣という命を大事にする視点があるのだ。

『三大怪獣地球最大の決戦』では、ゴジラ・ラドンが「人間はいつも自分たちをいじめているではないか」と訴えます。
 そうです。怪獣出現で被害を受ける人間たちは彼らを抹殺する努力をしますが、彼らにとっては謂われなき暴力をふるわれているのです。
怪獣たちには悪さをしている意識はない。

 それが基本。
 悪ではない者を死なせてはいけない。(大映のガメラは対戦相手を殺してしまいますが・・)

 観客が怪獣の大きさや強さに魅力を感じるのは当然として、さらにそんな怪獣が死なずに済む物語形式を確立したのが画期的なのです。対立構図を怪獣対人間ではなく、怪獣対怪獣とした怪獣対決ものの開発です。
怪獣同士が闘争することで巨大な「野生」が躍動する「祭り」になる。もはや怪獣が死ぬかどうかは問題ではなくなる。人間社会の問題は、怪獣出現という大災害を背景として人間同士のドラマという形であぶり出されるのだ。
ストーリーは、怪獣闘争が終結(勝ち負けがはっきりしなくても戦いが終われば良い)することで終わることが出来る。試合終了ということですね。

 しかし、これは革新的な発想なので理解できない人が多かったのでしょう。それでも怪獣ブームの頃に子供だった人なら体得している発想だと思っていたのですが・・。
(84ゴジラやVSビオランテなどは怪獣ファンではない人が監督でしたから、旧態依然とした怪物映画の域に戻ってしまったのだと考えていました。ぎりぎりゴジラが死なないのは、田中友幸氏がコントロールしたからだろう、と。
ただし、田中友幸氏が本多・円谷コンビと同じ思想を持っていたかどうかは怪しい。ゴジラを放射線で変異した生物だとする設定を許容しキングギドラが宇宙怪獣ではなくても良いのですから)

 先に挙げた金子ガメラの例にも明らかなように、ゴジラ退治を追求する『vsビオランテ』のフォロワーは多い。おそらく『シン・ゴジラ』も例外ではない。(白神博士とマキゴロウは似てないか?そして両者とも芹沢大助には似ていない)

 怪獣映画を限定的な形式に押し込める気はありません。怪獣退治を主眼にするものがあってもいいのでしょう。(私はあまりおもしろいと思わないけれど)
しかし、それは古い形式であると知れ!
『原子怪獣現る』や『放射能X』の時代に退行しただけなのだ。

 真に革新的であった怪獣対決映画の復活を望みます。主役怪獣が対戦相手を殺してしまうようでは、まだまだ甘い。怪獣はスターであるべきで、片方をかませ犬のように扱ってはならない。
怪獣対決映画のひとつの到達点たる『三大怪獣地球最大の決戦』では一匹も怪獣は死にませんよ。
 社会的メッセージは怪獣ドラマを背景とした人間同士の葛藤として十分描けます。怪獣出現の社会的混乱をきっかけにして人間社会の問題が浮き彫りになれば良いのです。
(なんですぐ人間の問題をストレートに怪獣に仮託するかね)

 ということは、もう十数年以上書き続けてきました。東宝さんが私の発言をまったく知らなかったはずはないけれど、上記のような怪獣映画がついに作られていないということは、
賛同を得られていないということなんでしょう。私の認識は本多・円谷コンビの特撮映画から得られました。ゴジラ映画を作るなら、その精神も引き継がなければ意味がないと考えています。
先人が残した遺産を名前だけ借りて中身を捨ててしまうのでは、偽ブランド品と同じこと。そんな不正はもう止めて下さい。

と、私の主張を述べました。
 この記事をどこのどなたがお読みになっているのか、詳しく知ることは出来ません。私の希望は、この意見をきっかけにしてお読みになった方々にそれぞれ怪獣やゴジラ映画について考え直していただくこと。
作品を見直し、ストーリーのことや演出のこと、設定が持つ意味などなど、自分の頭で考えてほしい。
 私が正しいのなら、多くの人が似たような認識にたどり着くはずだし、そうすれば正しいゴジラ映画が復活するでしょう。

 権力者(映画製作においては出資者、プロデューサー、監督であり、映画批評においては評論家やライターなどマスメディアを使える人々)の言うこと、やることが正しいとは限らないのですよ。
権力者は己の意思を通すためには大衆を欺くこともいといませんから気をつけて!!!

『ゴジラVSビオランテ』について - エクセルシオール (男性)

2017/02/18 (Sat) 22:26:52

 『ゴジラVSビオランテ』は私は好きな作品です。遺伝子工学の問題性に踏み込んだり、国家と多国籍企業がゴジラ細胞をめぐって暗闘を繰り広げたり、スーパーX2の良い意味でトンデモな性能(ゴジラの放射火炎を一万倍にして反射することができる。すごい!)、次々繰り出される大作戦等々、面白い要素はたくさんありましたし、生粋の新怪獣であったビオランテもよかったです(その後もキングギドラやモスラに頼らずにどんどん新怪獣を出せばよかったと思う)。また、なんだかんだ言ってもゴジラは強く描かれており、後のミレニアムシリーズのように人間に負け続けなどということはありませんでした。その意味ではオールタイムランキングで上位に入るのは理解できます。
 
 しかし、一方で管理人さんが仰るような問題が包含されていたことも否定できません。実は自衛隊が細かく作品内容に注文をつけだしたのはどうもこの作品からだったようです。ただ、この時点では主として組織構造に関してのものであり、その後の平成ガメラ三部作やゴジラミレニアムシリーズほど露骨な「我々を強く描け」というものではなかったようですが(この愚かな要求は怪獣映画を破滅させてしまうものである)、まさに躓きの石が含まれていたと言えるでしょう。
 また、この映画におけるゴジラを衰弱させる抗核バクテリアという設定がゴジラ映画をゴジラ退治映画に変質させる危険性のあるものだったことは確かだと思います。一応ゴジラは半病人且つ腹ペコでありながらも自衛隊を打ち破り原発に迫るのですが、第二形態のビオランテとの戦いの最中についに発病してひっくり返ってしまいました。その後、海水で体温が下がって甦るのですが、打ち込まれたバクテリアはそのまま。これでは「もうゴジラは脅威ではない」ということになりかねません(白神博士は暗殺されてしまったが、他にも作る人間はいるだろう)。今思えば、どうして「ゴジラの免疫がバクテリアを駆逐してしまった」という落ちにしなかったのかと思います。
 実は初期脚本段階では抗核バクテリアという設定はありませんでした。第一段階ではゴジラは第三の怪獣デューテリオスを倒し自衛隊を蹴散らした後にビオランテと対決しますが、激闘の果て相討ちになって海に沈むというものでしたし、第二段階ではビオランテを破り自衛隊を粉砕した後に、復活したビオランテと対決し一度は吸収されかけるがビオランテが細胞崩壊を起こして難を逃れ海に帰っていくという内容でした。興味深いことにはゴジラが原発を狙うという設定もありません(この辺は『「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ』(角川書店、2010年)に載っていますので読んでみてください。)。
 そうなると、わざわざ「ゴジラ退治話」に持っていくために抗核バクテリアの設定が付け加えられたようにも思えてきます。以前にも書いたように私は基本的にVSシリーズまでは好きで、平成ガメラ三部作を経たミレニアムシリーズから「ゴジラは許容限度を超えておかしくなった」と思っていますが、VSシリーズのころから既に問題の萌芽はあったということは否定しがたいと考えます。

 なお、「○○総選挙」という企画は考えものです。大体インターネットを使用するのですが(一人の人間が複数回投票して結果をゆがめる問題もある)、概して①古い作品は不利になる。②一般向けの作品よりマニア受けする作品の方が有利になることが多いですから(例えば、今、NHKが「日本のアニメベスト100』などという企画をやっているが、上位に来ている作品には最近のとても一般向けとは思えない深夜アニメが多い。一方、『鉄腕アトム』も『サザエさん』も『ドラえもん』も50位以内にいない)。ただ、『GMK』が一位になることを考えれば『VSビオランテ』で止まったことはまだよかったと思いますよ(普通に考えれば『ゴジラ(1954)』が一位になるべきだと思いますが)。
 仮に今同じ総選挙をやったらどうなるか?おぞましいことですが、確実に『シン・ゴジラ』がダントツの一位になってしまうでしょう。

 


 
 

Re: 日本の怪獣映画は映画の革新だったはずなのに - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/02/19 (Sun) 20:38:27

最近殿様ギドラ氏と私の一対一の対談みたいになっていたのであえて投稿をせずに他の方が投稿されるのを待っていましたが、エクセルシオール氏が来られましたか。

過去の投稿を見ればおわかりでしょうが私は『VSビオランテ』への評価低いです。理由は色々ありますが、スーパーX2や抗核バクテリアといった「日本にはゴジラに立ち向かう凄い武力と技術力があるんだぞ」という自国の力を過剰に誇示する設定が鼻につき、明らかに日本が国産のブラックホール砲を開発する『×メガギラス』やキングギドラでも倒せないゴジラにこれまた国産の削岩弾で致命傷を与える『GMK』等の先駆けになっているのが大きいです。劇中で大河内誠剛が日本が抗核バクテリアを保有することを手放しで肯定する台詞がありオーディオコメンタリーで大森一樹監督が名台詞だと絶賛していることも確認済みですが、初代ゴジラの芹沢大助博士がオキシジェンデストロイヤーを日本を含むどの国の為政者にも渡さないようにゴジラと心中したことの意味をまるでわかっていないと呆れましたよ。『原子怪獣現る』や『放射能X』と同様に怪獣に立ち向かい勝利する人達を描くことに力を入れた映画なので「ゴジラが凄い」という感想よりも「自衛隊の作戦が凄い」「スーパーX2かっこいい」という感想が多くなるわけです。エクセルシオール氏の仰る通り抗核バクテリアがゴジラの免疫により駆逐されたという結末だったらもう少し評価はよくなっていたでしょう。もっともゴジラ出現を外国のテロリストのせいにするなど徹底的に外国を悪者にして日本を被害者にする映画を手放しで評価することは出来ませんが。イグアナの巨大化をフランスのせいにしてアメリカが先制攻撃したわけでもないのに一方的にアメリカを襲う大イグアナを描いた某エメリッヒ映画と同じ発想ですので。

実を言いますと私は本多・円谷コンビが怪獣同士の対決を重視するようになって怪獣に武力行使する為政者の愚かさ、罪深さに関する描写を大幅に後退させてしまったことを残念だと思っています。『三大怪獣地球最大の決戦』のキングギドラは人類側が何もしていないのに地球を攻めてくる存在で、水爆によって目覚めたゴジラやアンギラス、自衛隊に攻撃されて阿蘇山の火口に消えたラドン、研究員らに眠りを覚まされたバラン、さらわれた小美人を取り戻しにきたところを防衛隊からナパーム弾や原子熱線砲で攻撃されたモスラ、ファロ島から無理矢理連れてこられたキングコングとは違って人類の罪の要素がありません。だからといって未来人のペットが水爆で合体巨大化した怪獣にしていいわけがありませんけど。私が本多・円谷コンビの生み出した日本の怪獣映画が革新的だと考えるのは、『放射能X』や『原子怪獣現る』といった当時のハリウッドの怪獣映画では人類、というより為政者が武力で倒すべき敵という扱いだった怪獣を権力や武力を濫用する人類の愚かさ、無力さ、罪深さを観る者に思い知らせる存在に格上げしたからなんですよ。怪獣を武力で倒すこと自体が間違いであることを主張する山根博士のような登場人物を通じて自然の大いなる力を体現している怪獣を敵とみなして攻撃することは本当に正しいのかと観客に考えさせるようにしたことも大きいですが。

だからこそ自衛隊などの国家機関がゴジラを攻撃することを当然視する為政者目線の映画を私は厳しく批判するわけです。それは怪獣映画じゃなくて映画化された架空戦記であって登場する怪獣は単なる国家権力の標的、サンドバッグですので。

Re: 日本の怪獣映画は映画の革新だったはずなのに(また長くなってしまったトホホ) 殿様ギドラ (男性)

2017/02/22 (Wed) 18:42:47

 エクセルシオールさん、芹沢亀吉さん、ご投稿ありがとうございます。
やはり複数の方から意見が寄せられないと話の内容が偏ってしまいますのでお二方からの書き込みは本当にありがたいです。
(『シン・ゴジラ』擁護の意見が寄せられてもいいような気もしますが、ネットを漁ってみてもさほど深い意見は見当たらないので、ま、いいや)

 近年の怪獣映画の問題点を考えるとき、どうしても『ゴジラvsビオランテ』に突き当たってしまいます。怪獣を生化学的に解明する展開に持って行きたがるのは『vsビオランテ』の影響であろうと考えられます。

 怪獣映画のストーリーで、人間社会が怪獣対策を行うのは当然のことであり、生き物を殺そうとすればその生態や生理を研究するのは当然です。ですから怪獣退治物語のリアリティを求めればバイオテクノロジーを取り入れざるを得ないのも当然のこと。
『vsビオランテ』で抗核エネルギーバクテリアなるアイディアが出てきたのは、ゴジラを倒す、ないしゴジラの弱点を作るためだったと思われますが、それは同時に人間の科学でゴジラを倒せる、という表現に繋がってしまう。
(オキシジェンデストロイヤーとはストーリー上の立ち位置が全然違うことにも留意)
どなたの発案だったのか? 大森一樹監督?(すいません、平成ゴジラにはあまり詳しくない)とすれば、怪獣映画への無理解が引き起こした設定と考えられます。その後、怪獣映画への造詣を深めた大森監督は抗核エネルギーバクテリアを使わなくなる。
しかし、その後の多くの作品が怪獣の謎を解く道具としてバイオテクノロジーを取り入れているのはいかがなものか? 結局、現行の科学知識ないしその延長で怪獣を説明してしまう。謎が解ければ倒すことも可能。しかし、それは間違いだ。

 怪獣映画の主眼は何か、ということを考えればわかるでしょう。そもそも怪獣とは架空の生物です。何のために映画に怪獣を登場させるのか? 芹沢亀吉さんのおっしゃる「権力や武力を濫用する人類の愚かさ、無力さ、罪深さを観る者に思い知らせる」ためであっても、私の解釈である「巨大な野生の祭典」であっても、
怪獣が人類に負ける必要はない。そして怪獣が大自然の驚異を体現するものならなおさら人類の科学ごとき浅知恵で倒されてはいけない。

 科学解説を入れるとなんとなく高級っぽく見えますから、まじめに作りましたと上っ面を飾りたいときには科学用語を入れたがる傾向があります。
(『vsビオランテ』は真剣にバイオテクノロジーを怪獣映画に取り込もうとしたのでしょうけれど、その害については無自覚だった)
科学啓蒙としては怪獣映画に科学解説が出てくるのもいいでしょう。しかし、劇中で科学的に分析された結果怪獣退治の方法(ないし怪獣の生理)が明かされてはいけません。

「科学の解説が何が驚異だ!」(これも多胡部長)

 怪獣はあくまでも謎の生物でなければならない。そうでないと、日本的怪獣映画は成立しない。

 ただ、まるっきり科学的分析を無視したシナリオでは観客の反感を買うでしょう。「この世界の科学者は何をやっているのだ?」と。ですから科学的視点や科学者を登場させるなら、科学の手法では何もわからない、ということを科学的に説明すれば良いのです。

 手前味噌になりますが、『vsビオランテ』原案と同じく1985年の公募に応募した私のストーリーでは、はっきりと、怪獣は生物学ではどうしても歯が立たない存在であると規定し、「不確定性生物」という言葉をひねり出しました。科学では倒されない存在とはどういうものだろうと考えた末のぎりぎり解説でした。しかし、そんな思いつきも30年以上も昔のことで、今では、そんな解説なんかいらないと考えています。

 怪獣映画では、怪獣という現象を見せればいいのです。その姿形、動き、力、性格・・・。外から見える怪獣の在りようを見せれば良い。
 そんな生き物は現実にはいないのだから、存在理由を説明されないと現実味を感じられない、というのはあまりにも科学を知らなさすぎる。この宇宙では光速より速く移動することは出来ないというけれど、その理由を説明できる科学者がいますか?
 理論があって現象が起こるのではなく、まず現象があるのです。特殊相対性理論は宇宙の限界速度が光速である、という現象から導き出されました。劇映画はフィクションであり、どんな現象でも起こせるのがフィクションの特性です。怪獣という現象を使って科学の限界を伝えるのもSF映画としての怪獣映画の役割です。

 てなことを言うと、「なんだお前、いままでさんざんいろんな作品について科学的な誤謬を指摘してきたじゃないか」と突っ込みたくなる人もいるでしょうね。

 違いますよ。私が批判してきたのは、科学的な設定が間違っていたり既知の現象を科学的に間違った描写をした場合です。『シン・ゴジラ』で怪獣が原子力で生きているという設定が出てきたとたん、なぜか体内に原子炉があることになってしまった。核分裂湯沸かし器である原子炉を使ってどうやってあの怪獣が生きているのか、雁首そろえた専門家たちは推論できたのか?こういう馬鹿な科学解説を批判するのです。

 怪獣は、説明すればするほど袋小路へ入ってしまいます。(『シン・ゴジラ』に出てくる怪獣は説明が多く、しかもその科学的なバックボーンが弱すぎてかえって信憑性を失っている)

 ゴジラは初出の『ゴジラ』が第五福竜丸事件をきっかけに企画されたものであるために、核実験によって出現した怪獣という設定が揺るがしがたいものであり、まさに人類の過ちが呼び覚ました災禍であるという「説明」がついて回ります。それは尊重すべき設定なのですが、どうも人間の業と結びついてしまっていて私としてはなんとなく居心地が悪いのも確かだったりします。
原点回帰を叫ぶ作品が、やたらとゴジラを人間の従属物にしたがるのもそのあたりに原因がありそうです。(「GMK」では人間の意識が凝り固まったものだし、『シン・』ではどうやら人造怪獣だし)

 これはグレーゾーンと申しましょうか、絶対にそうでなければならないとまでは言えないまでも、私としてはそうあって欲しいと思う怪獣観として、「究極のアウトロー」であって欲しい。
人間の行為や人間との関係の中で生まれた者とか、何らかの役割(◯◯を倒すとか守るとか)を担っていたり、その怪獣を登場させることによってストーリーになんらかの枠がかかってしまうような設定はない方が良い。
もちろん、怪獣というだけで枠は出来るわけですが、それ以上の枠はなしよ、と。

 そんなことを考えると、なんともキングギドラくんがいとおしいのであります。
 キングギドラが自由だったのは『三大怪獣地球最大の決戦』しかないけれど、それこそ、人類の過ちとも関係なく、何しに地球へ来たのかもわからないし、破壊の目的もわからない。あんなむちゃくちゃなヤツはいないです。
 それでも、わからないからこそ、逆にキングギドラがおとなしく座っていてもそれはそれで間違いではない。つまりキングギドラが登場するからといって、自動的にストーリーが規定される心配がない。この自由さがいい。
(でも、人間を助ける優しいキングギドラ、なんて絶対にNGだ。それは怪獣映画のおもしろさとはなにか、という観念が出来ていれば間違えない領域の問題でしょう)

 たしかに本多・円谷コンビの作品でも「権力や武力に対する批判」が薄いものはたくさんあります。それはストーリーのバリエーションと考えてもいいのではないでしょうか。『三大怪獣地球最大の決戦』では自衛隊(この映画では防衛軍)は怪獣に対し監視するだけで攻撃することがありません。そのため武力の無益さを伝える内容にはなっていないのですが、たびたび怪獣が現れるあの世界において怪獣に対して効力のない攻撃を加えるほど間抜けではないということでしょう。
それでも、防衛大臣がひたすら逃げの答弁を弄する様子を描いていて、権力者に対する批判を込めています。作品全体の主題はさまざまでも、その都度右に左に転向しているわけではないのでよろしいんじゃないかと・・。

(本多作品における武力や権力の扱いは細かく見ていくといろいろと興味深いところがありますが、それはまたいつか・・)

 「ゴジラ東宝特撮未発表資料アーカイヴ」、ひさびさに引っ張り出してめくってみたら、そういえば「vsビオランテ」原案コーナーに補足としてビオランテ発案者による守るべきゴジラ観があったっけな、と。
その第二条に「一、凶暴、残虐な獣性の復活」とあります。
この方、一体どの怪獣を復活させようと考えていたのでしょう?? ゴジラが凶暴残虐だったことがあったのでしょうか? 『ゴジラ』(1954)でのゴジラが「凶暴?」に暴れたのは攻撃されたからでしょう?虐げられて暴れるのが凶暴なら、ブルース・リーも相当凶暴ですな。残虐となると論外。
こんな誤解に基づいた原案からスタートしてしまったのが平成VSシリーズのつまづきであり、その後のゴジラ映画を狂わせた元ですよ。

『ゴジラVSビオランテ』について その2 - エクセルシオール (男性)

2017/02/28 (Tue) 20:59:58

 小林晋一郎氏の挙げた「凶暴、残虐な獣性の復活」云々という部分は、管理人さんの仰る通り違和感を覚えざるを得ないものでした。私も「ゴジラってそこまで凶暴残虐だったかな?」と思ったものです。それまでの16作品では大きく「こわいゴジラ」をメインにしたものと「親しまれるゴジラ」を強調したものとに大別できましたが、この時点では後者の方が優勢だったことを考えると、別の意味で行き過ぎていたと思います。おそらく、これは当時「子ども達のアイドルに堕落したゴジラを大人向けの正しい姿に戻すのだ」と息巻く意見が強かったので、それが極端な形になってしまったものと思われます(「子ども達のアイドル」というのはそれはそれで立派なもののはずなのですが)。

 とはいえ、そんなところからスタートしたVSシリーズも回を重ねるごとにゴジラに同情的な内容になっていきました。特にゴジラが再び「親」になってからは、「凶暴残虐な獣性」というものとはかけ離れたものになったと思います。ただ、そのことを批判するマニアが少なくないのも事実であり、その中にはその後の作品を全否定する方もいます。私自身は映画の出来は別にしてゴジラに関しては良い方向に動いていたと思うのですが。

 それに『VSビオランテ』に関しては近年解釈が変わってしまった印象もあります。最近の本作品の評価では「自衛隊がゴジラと対等以上に渡り合っている」「常に戦略的優位を保っている」等々という意見が目立ちます。黒木特佐にしても上映当時は「犠牲を顧みず勝つことしか考えていない、戦争をゲーム感覚でとらえる軍人」という否定的な見方が強かったのに、今では「これぞ軍人の鑑」みたいな持ち上げ方をされることがあり、寒心なきをえません。
 このような捉え方は内容とかけ離れています。ゴジラと何とか渡り合えたのは超現実的な性能のスーパーX2だけでその他は歯が立たず、スーパーX2も結局やられてしまいます。黒木はゴジラの出現ポイントを読み違える大チョンボをやらかし、しかもその埋め合わせを三枝未希に頼みます(女子高生をゴジラに一人で立ち向かわせるという確実に問題視される行動)。さらに、わざわざ生身の自衛官によるゴジラへの抗核バクテリア撃ち込み作戦を展開し(ゴジラがビルを壊したらおしまいであり、ほとんど特攻に近い)、権藤は殉職。総力を若狭湾に結集させてゴジラを迎え撃ちますが、ゴジラを阻止することはできず大損害。高浜原発破壊を免れたのはビオランテが現れてゴジラと戦闘になったからで、ほとんどラッキーでした。なお、ビオランテによって残った部隊が壊滅させられています。これでどこが「対等以上」なのか理解に苦しみます。『VSビオランテ』における怪獣VS自衛隊は従来の描き方からそうそう外れたものではないと考えます(それは別に悪くはない)。むしろ、対怪獣作戦は現実離れしているからこそ面白いのです。

 それがなぜ上記したような妙な解釈をされるようになったのか?無論、本作品に内包された問題や隙があったことは否定できません。しかし、私はその後の作品、特に金子修介監督による平成ガメラ三部作の影響が大きかったと思います。この作品では自衛隊によるストーリーへの不当な要求とスタッフによる自衛隊への阿りが激化し、「怪獣と対等に渡り合える強い自衛隊」が強調されました(その結果、怪獣の弱体化がおこった。例えば、第二作目の翔レギオンなど自衛隊が退治しやすくするために飛行速度がマッハ2から時速150キロに低下させられてしまった。これは大谷翔平の速球より遅い。)。本来「斬られ役」「やられ役」にすぎない防衛組織が主役である怪獣を脅かす存在になってしまった。この逸脱としか言いようのない内容に感化された人々が過去の作品も同様の視点で再解釈してしまい、付け入る隙が最も大きかった『VSビオランテ』を平成ガメラ三部作に最も近い作品と考えて、その評価を間違った形で上昇させた側面があったと思います。これは困ったものです。

 私自身は『VSビオランテ』はやはり嫌いにはなれませんし、娯楽作品として面白い映画だったと考えています。ただ、もう少し怪獣を大切に作ってほしかったとは思いますね。

 なお、今ではなかなか読めませんが角川文庫から出ている小説版ではゴジラは単なる凶暴残虐な怪獣ではないという要素も盛り込まれていたと記憶しています。例えば三枝未希が「ただ海を泳いでいるだけのゴジラに戦闘機が爆弾を落とし、ゴジラはなぜそんな目にあうのか悲しむ」という夢を見たりしており、彼女はゴジラに相当同情的な考えを持っていた姿が書かれていました。

 

ゴジラ観・・その存在が示すものについて - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/25 (Wed) 22:38:30

誠に勝手ながら、前スレッドが長くて読みにくくなってきたので殿様ギドラさんへの返信のために新しいスレッドを立てさせて頂きます。まあ私の長文が主な原因なんですけど(汗)。

古参のゴジラファンである殿様ギドラさんからそういうお言葉を頂けるのはありがたい限りです。何故か小学生の頃から新聞やニュースなどで自分なりに社会の実相を見極める習慣が身についていたのもあるでしょうが、ゴジラ退治物語が大好きな所謂ゴジラオタクの間では評判が悪いミレニアムやギャレス版がお気に入りになったことも大きいと思います。初めて映画館でミレニアムを観た頃私はまだ小学生だったのは先程お話しした通りですが、当時クラスでもゴジラと戦うGフォースや自衛隊かっこいいと言っている人達をゴジラが好きなんじゃなくてゴジラをやっつける人達になりたいのかとちょっと一歩引いた目で見ていました。

物質文明の発達によって人間がゴジラにとって邪魔な物をたくさん作り出してしまったという解釈には私も賛同していまして、だから『モスラ対ゴジラ』で工場から出る煙で汚れた空気に苛立ったゴジラが工場地帯で放射熱線吐いたという見解に至った次第です。年齢が一桁の頃から動物や植物の図鑑を読むのも大好きで、ゴジラが都市に引き寄せられるのはサメのロレンチーニ器官みたいに電気を感じ取る器官があって田舎や山林よりも圧倒的に多い電気の量に反応しているのかなと考えたりもしていました。といってもサメのように獲物に襲い掛かるのではなく人間よりはるかに優れた嗅覚を持つ犬が嫌な臭いを発するものに吠えるのと同じ感覚で大量の電気を使っている都市に対する怒りを爆発させるといった感じです。ミレニアムの冒頭でゴジラが根室の発電所を襲撃する場面を見ながらそんなことを考えていたのですが、『キングコング対ゴジラ』で氷山から出てきたゴジラが軍事基地を襲撃する場面等もそれで説明できるのではないでしょうか。

ゴジラが軋轢を引き起こすのは対個人ではなく対社会というご指摘もその通りだと思います。少なくともゴジラに攻撃を仕掛けるのは個人ではなく社会を動かす力がある国家権力の組織なわけですし。ゴジラ退治物語に成り下がっている作品でもその部分は崩していませんが、それは戦時中の国策映画と同じで「外敵」に勇敢に立ち向かう軍隊(ゴジラ退治物語では自衛隊であったり防衛軍であったりする)という国家権力の暴力装置をかっこよく見せるための設定に過ぎません。人間社会と対立する存在であるゴジラは社会を動かす為政者からすれば排除すべき敵であり、ゴジラが人間社会に深刻な打撃を与え為政者の無力さや愚かさを暴く作品は為政者からすれば不愉快極まりない内容なのは確実です。逆に言えば国家権力がゴジラに立ち向かい勝利することだけに重点を置いたゴジラ退治物語は為政者にとって望ましい作品でしょう。ちなみにゴジラ退治物語の典型である『VSビオランテ』の三枝未希が超能力でゴジラの意志を曲げて進路を変えさせる場面なんですが、防衛庁特殊戦略作戦室という国家権力の一端を成す機関の室長である黒木翔が「彼女もチームの一員」と明言していることから、国家権力主導の作戦にゴジラが負けた場面ということになります。あのイグアナの化け物が登場するエメリッヒ映画も結局「外敵」をアメリカ軍が打倒するという展開なので国家権力が主体となるゴジラ退治物語のハリウッド版に過ぎません。

私も別に無政府主義者ではありませんが、特撮映画の内容は勿論日本社会そのものが権力者や為政者への批判的視点が乏しくなってきている現在だからこそ日本社会で生活し税金を納めている有権者の一人として社会の実相を見極め国家権力、為政者のやり方を批判的に見る必要があると考えています。批判されなくなった国家権力が暴走し怪獣同様に多くの人々を抑圧し生命の危機に晒すことは歴史を見ればすぐにわかりますので。映画を使って一般人が国家権力に無批判になるよう誘導する事例が数多くあるのを知っている身としてはゴジラ映画がそういう形で利用されるのは真っ平御免ですよ。逆に片桐CCI局長が自衛隊指揮してゴジラに先制攻撃を仕掛けて怒りを買い自らゴジラに殺される原因を作ったミレニアムや、フォード親子を抑圧する日本政府やモナークの隠蔽工作がムートーの前では無力でスクールバスの子ども達を命の危機に晒すアメリカ軍のミサイルがゴジラには全く通用しない有様を描いたギャレス版を為政者の横暴が人智を超えた大自然の謎を象徴するゴジラの前では無力であることを描いた作品だと高く評価するわけです。そういえば『キングコング対ゴジラ』も結局日本政府にとってゴジラもキングコングも手に負えない存在だからこそ両者を戦わせるという手段を採らざるを得なかったという物語ですよね。『三大怪獣地球最大の決戦』も日本政府や自衛隊には手に負えない存在であるキングギドラをゴジラ、ラドン、モスラ幼虫が連携して敗走させる物語ですし。

私達は社会という枠組みの中でしか生きられない存在です。しかし社会を動かす為政者は自分達の過ちや愚かさ、横暴さや無力さをなかなか見せてくれませんし、社会で暮らすことで大自然の力の程度を体感できる機会の大部分を失うのもまた現実です。怪獣映画、特にゴジラ映画の大切な部分はそうしたものを観客に提示する点ではないでしょうか。人類の理解を超えた大自然の謎を体現しているゴジラが絶大な放射線耐性を持ち現行兵器が全く通用しない存在であり、国家権力の強権や武力には絶対に負けない存在であるからこそ私達はゴジラ映画を観て日頃忘れがちな為政者の愚かさや傲慢さ、そして大自然の力の途方の無さを知ることが出来るんです。ゴジラに勇敢に立ち向かい勝利する国家権力を描くことだけを重視するゴジラ退治物語は本来のゴジラ映画が持つ大切な部分を捨てています。現行兵器で大量出血し、自衛隊の総火力攻撃と同程度かそれよりも劣る爆発で重傷を負いブザマによろめく使徒モドキの醜態を描いた『シン・ゴジラ』なんかまさにその典型ですよ。そういえばUSJでその使徒モドキのアトラクションが出来たそうですが、例によって向こうから一方的に襲ってきた使徒モドキに観客が戦闘機に乗って立ち向かうというゴジラ退治物語です(参考:https://www.usj.co.jp/universal-cool-japan2017/godzilla/)。私の地元大阪でこんなのやるなという怒りしか感じません。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて 殿様ギドラ (男性)

2017/01/27 (Fri) 18:13:50

いや、どうも、長文を書いてしまうのは私も同様でして、正確に書こうとするとどうしても長くなってしまう悪い癖。

今回はなんとか短くまとめてみます。

芹沢亀吉さんのご意見を頷きながら読ませていただきました。

私たちが主張しているゴジラ映画のあり方は、少なくとも最初のゴジラシリーズを模範とすれば決して間違ってはいないはずだと思います。
ということは、ほかにも同じように考えている人はいるはず。
(もちろん完全に同じ、ということはないでしょう。私と芹沢亀吉さんにも相違はあるはずですし)

けれども、ゴジラ退治物語なんかNOだ!
という声はあまり聞こえてきません。

なぜだ?

ひとつは、現行のゴジラ映画が長い間ゴジラ退治物語を量産してしまったから、そちらが本道のように見えているのが原因かもしれません。
それから、議論が苦手な日本人は現状追認がお得意で、内心はNOだと思っていても、それを表明しないまま受け入れてしまうからかもしれません。
(ゴジラファンでもそれほどゴジラに入れ込んでいなければ、多少変な作品が出てきてもわざわざ批判するほどでもないや、という人もいるでしょうね)

もっとやっかいなのは、これは一般のファンよりライター業の人なんかに多いんじゃないかと思われますが、
批判(=貶すと考えている)すると自分のスタッフ受けが悪くなって仕事がしづらくなるんじゃないかと配慮して、批判を控えるという態度もあるでしょう。

少し文脈が違いますが、複数の特撮系ライターが雑誌などに発表した文章に、
「作品の出来が悪いと思っても現場の苦労を知ると貶すような評を書けない」(それぞれ表現に違いがあっても大意は同じ。二人以上の別のライターがこんなことを書いていた)
とあるのを読みました。
(出典を提示すべきなのですが、そこまで資料整理が出来ていないので誰がどこで書いた文章、と明示できません。
信じてもらえないかもしれませんが、私は嘘はもうしません。“池田さんみたいなことを言ってるよ”)

これではどんなものが出来上がっても批判されることがない。

私がいま考えているのは、元祖ゴジラシリーズこそ守るべき規範で本物だ、と考えている人々の力を結集するにはどうするか、ということ。
そんな人はもはや少数派なのかもしれません。
それでも、いないはずはない。

おっさんたち、面倒くさがるな! 声を挙げろ!
と檄ってみてなんとかなるかなー。

(USJ、まー商売だからそんなアトラクションも考えちゃうんでしょうね。ちんごじら・使徒モドキじゃなくてゴジラを使うなら、お客さんがゴジラになって軍隊を蹴散らすアトラクションがいいな)

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/29 (Sun) 21:18:31

ゴジラ映画のあり方について殿様ギドラ氏と私で相違があるのは自然なことです。大切なのは相違がある中でも国家権力によるゴジラ退治物語は本来のゴジラ映画ではないという見解で完全に一致しているということでしょう。

http://www.mdsweb.jp/doc/1449/1449_08a.html
こちらの記事を読めばお分かりと思いますが、日本のゴジラ映画でゴジラ退治物語が主流になってしまったのは旧防衛庁や現防衛省による映画製作への介入がどんどんエスカレートしたことと無関係では無いでしょう。自衛隊が部隊や戦車等を映す場面への撮影に無償で協力する代わりに映画製作側に自衛隊の印象を悪くする描写や展開を排除する指導が行われてきました。自衛隊幹部に最後は米軍の武力が勝利するエメリッヒ大イグアナ映画のような映画を期待するという声があることを踏まえてもやはり自衛隊側はゴジラ退治物語が望ましいわけです。『ゴジラ2000ミレニアム』を最後に防衛庁(当時)が一時的とはいえゴジラ映画への製作協力を拒否するようになったのは、ミレニアムの本編の自衛隊がゴジラに先制攻撃仕掛けて怒りを買い東京炎上の原因を作る展開や、イオに襲いかかる自衛隊機の爆風、篠田が自衛隊に見捨てられ自衛隊の設置したブラストボムの爆発で命の危機に晒されるといった描写が不興を買ったからではないかという疑念を以前から持っていた私ですが、先程の記事を読み疑念が確信に変わりました。現に『×メガギラス』以降の日本のゴジラ映画は自衛隊やそれに相当する日本政府側の組織が武力行使で直接民間人を巻き添えにしたり見捨てたりする描写が一切無い国家権力目線のゴジラ退治物語ばかりですし。いずれにせよミレニアムのそうした描写を物語に現実味を与えていると高く評価するのが私です。為政者に都合のいい自衛隊像ばかり見せられても白々しいだけじゃないですか。ミレニアム以来途絶えていた自衛隊の撮影協力が復活した『×メカゴジラ』がどういう作品かはもう言うまでもないですし。

自衛隊は紛れもない国家権力側の組織です。つまり国家権力による製作現場への介入が為政者にとって都合のいいゴジラ退治物語の量産に繋がっているのだとしたらこれは由々しき事態ですよ。ライター業の人がスタッフ受けが悪くなり自分が取材させてもらえなくなるのを恐れて批判を控えるのと同じで、ゴジラ映画製作側が自衛隊受けが悪くなり撮影協力を拒まれるのを恐れて自衛隊側の介入に無批判になってしまったと言うことも出来るでしょう。

私がゴジラ映画から国家権力の暴力性、自然を制した気になっている為政者の愚かさなどを読み取ることをゴジラ映画の政治利用だと叩く人がいます。しかし映画で表現していることを読み解くのを政治利用だというのは言いがかり以外の何物でもありません。大体国家権力の暴力性、自然を制した気になっている為政者の愚かさ等日頃実感する機会に乏しい真理を追究することの何がいけないのでしょうか?ゴジラ映画の政治利用をやっているのは映画製作に介入し自衛隊の良い面ばかりを見せつける作品に改変してしまう旧防衛庁や現防衛庁ですが、私を叩いている連中はそうした為政者側が主体のゴジラ映画の政治利用に対しては現状追認しかしていません。私はそんな下らない言いがかりに屈することなくゴジラ映画が表現していることを読み解いてきました。そして1984年以降に生まれたゴジラファンにもゴジラ退治物語なんか駄目だと考えている人がいるということを一人でも多くの方に知ってもらうためにTwitterをしたり、こうやって殿様ギドラ氏の掲示板に書き込みをさせてもらっているわけです。

ちなみにUSJのアトラクションですが、私なら自衛隊がゴジラに先制攻撃を仕掛けて怒りを買いUFJ一体が火の海にされるという展開にしますよ。ゴジラを武力で倒せるという為政者の思い上がりの愚かさやゴジラの途方も無い破壊力を目の前で見せ付けられる民間人というのがお客さんの立ち位置です。防衛省が激怒しそうなアトラクションですね(笑)。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて 殿様ギドラ (男性)

2017/01/30 (Mon) 18:39:20

やや、これはおもしろいまとめページですね。
情報に感謝します。

自衛隊が映画に協力するとき、ある程度内容に干渉することは知っておりましたが、ここまでとは・・。
つまりは自衛隊広報映画にせよ、ということですね。
そんなもの、国策映画に他ならないではないですか。

ごく初期の特撮・怪獣映画にも自衛隊は協力していましたが、
営利事業である民間の映画に自衛隊が協力するとは何事だ、と国会で責められて自衛隊の映画協力が一時期なくなったと聞いています。

『ゴジラ』や『地球防衛軍』には本物の自衛隊が出てきますが、
その後は「東宝自衛隊」と記録フィルム・バンクフィルムの組み合わせで、本物の自衛隊を新規撮影はしなくなります。

ところが近年(といっても平成ガメラなんて20年も前か)は再び本物の自衛隊が出てくるようになって、どういう風の吹き回しだ?
と思っていたのですが、積極的にメディアを使って宣伝することにしたのですね。(自国民に対する情報戦だ)
自衛隊機が撃墜されるような描写は拒絶、という程度の話は知っていたのですが・・・。

まったく・・・。

表現者なら、内容にケチをつけられるぐらいなら、自衛隊の協力など当てにせず、すべて特撮で勝負したらどうなんでしょうね。
庵野・樋口氏は自衛隊賛美映画を作りたかったのか、ただ、本物の兵器を自作に登場させたくて自衛隊の言いなりになったのか??

自衛隊がらみではない部分の脚本なんかを見ても、行政の実態を役人や政治家に取材するうち為政者の主張を鵜呑みにして、彼らにとって都合の良い法整備を劇中で実現してみせたように思えます。

つまり一方の主張のみを正当とする劇展開にしているんですね。

怪獣出現に対して防衛出動が出来る法律だの、内閣に権力を集中させる法律だのの、リスク(反対論)にはまったく触れないストーリーですから。
(あの映画の大きな問題点であり、間抜けなところだ)

映画を政治利用するというのは、ひとつの主張をさも正当であるかのように見せかけて大衆に体感的に刷り込むことであって、
作品の中からストーリーにおける社会観・世界観を読み取ることとは違う。

国家権力がともすれば覇権主義に走り、国民を抑圧し、人権を無視する行動に出るのは、これまでの人類史を見れば明らか。
だから民主主義思想が生まれたのであり、芸術を武器にして戦う表現者は、権力者の暴走を常に止める活動をしなければならない。

こんなことも今の日本人はわからなくなっているのですね。
それこそ平和ボケだ。

国民が監視・制限しなければ、為政者はすぐ戦争を始めるのですぜ。

本多猪四郎監督は戦争体験者であり、徴兵制度によって映画人としてのキャリアをねじ曲げられてしまった人。
声高ではなくても、その作品のあちこちに為政者・権力者への批判は含まれています。
ただし、戦場に出る兵士ひとりひとりのがんばりも知っている人なので、本多作品に出てくる兵士や警官は全力で職務を全うしようとするのである。
決して、組織としての軍隊を称揚しようとは思っていない。

自衛隊賛美映画なんか作る奴は、本多作品から何も学んでいない。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/31 (Tue) 19:34:35

こんばんは。私の紹介した情報が参考になったようで光栄です。

こうやって自衛隊員募集ポスターに使われていることを踏まえても『シン・ゴジラ』が自衛隊広報映画であることは疑いようがありません。アメリカ軍も新兵募集を行うことは勿論ありますがエメリッヒ大トカゲやギャレス版ゴジラを使ったりはしませんよ。もっともアメリカ軍万歳映画のエメリッヒ大トカゲならともかく、徹底的にアメリカ軍の行いを事態を悪化させるものとして描いたギャレス版ゴジラなんかアメリカ軍の広報には使いようがありませんが。

で、『シン・ゴジラ』もとい使徒モドキ映画の本編なんですが製作側の意図がどうであれ「自衛隊が出動すればゴジラにも対応出来る」「内閣に権力を集中させれば危機対応出来る」という為政者側の一方的な主張を正当なものだと観客に信じ込ませる思想誘導、プロパガンダ丸出しの国策映画になっていることは疑いようがありません。本来ならゴジラファンはゴジラ映画の国策映画化に対して怒りを表明しないといけないところなんですよ、これは。ところがそういう人はネット上でも少数派で不当な攻撃に晒される始末です。批判の声を弾圧する為政者と同じようなことをあの映画絶賛している連中がやっているわけですよ。弾圧は権力が無いと出来ませんが執拗な嫌がらせ等による抑圧は為政者じゃなくでもできますし。まあゴジラ映画を国家権力主体のゴジラ退治物語に改変すること自体がゴジラ映画の自衛隊広報映画化に繋がっているのは殿様ギドラ氏もおわかりでしょう。

無視できないのは、最初から外敵に勝利する日本政府という結論ありきの筋書に無理矢理合わせるために現行兵器が一切通用しないという本来のゴジラの設定を改悪して現行兵器で大量出血する脆弱な存在にしてしまったり、東京が壊滅したのに線路が無事、空気中の放射能濃度が上昇すればガンマ線の影響で機械が異常をきたすはずなのにアメリカ軍の無人機や自動操縦の電車が何の支障もきたさず運行されている等物語の根本的な部分に致命的な欠陥が多数生じていることです。実際に役所の人間の話し方を取材して本編に反映したようですが、平時の役人の話し方を真似たところで非常時の緊迫感が出せるはずが無いこともわかっていないのですからそれでもプロかと言いたくなります。その結果一本調子でダラダラと早口で話す人達が多過ぎて有名な役者を大勢出している割に大半の出演者が埋没して印象に残らない有様ですよ。初代ゴジラのBGMを劇中で使用しても音割れという有様でこういうところにも粗悪さが出ています。この映画ってゴジラ(とも呼べない使徒モドキ)に立ち向かうための法律とかをペラペラ喋ることだけに軸足置いていて他が全部雑なんですよね。使徒モドキ自体生物感のある描写に乏しくてハリボテを動かしているだけにしか見えませんし。為政者側に都合のいい描写ばかりに力入れてゴジラの設定を含む他の部分を全部雑にしているようではいくら自衛隊のご機嫌を損ねないようにおもねりながら撮影協力してもらっても意味ないですよ。最初から自衛隊の協力なんか拒否して自衛隊の武力行使が民間人を巻き添えにする等自衛隊、ひいては為政者ににとって不都合な現実を反映したほうがよっぽど現実味ある作品になります。

これゴジラファンに限ったことではなく日本人にありがちなことですが、空気を読むと称して自分の主張を押し殺して多数派になびくというのが酷過ぎるんですよ。ゴジラ映画を国策映画にされるわ、そのせいでゴジラは醜悪で脆弱な使徒モドキに改悪され、映画自体欠陥だらけの駄作とも呼べない何かになってしまったのに世間の絶賛の声に押されて「ふざけるな東宝!ふざけるな庵野!ふざけるな樋口!」さえ言えない人多過ぎます。それだけならまだしも批判している人達を嫌がらせして黙らせようとする輩、それを見て見ぬフリする輩まで出てくる始末です。そうやって批判の声を同じ日本人同士で抑圧し合った結果為政者の好き勝手を許して、本多猪四郎監督をはじめとする多くの方々の人生を狂わせる戦争が始まってしまったんですけどね。

ちなみに私は空気を読むというやつが昔から大嫌いだったので色々な人から叩かれてきましたが、そのお陰で世間的な固定観念に縛られないゴジラ観を確立できたともいえます。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて 殿様ギドラ (男性)

2017/02/01 (Wed) 18:24:39

どうも『シン・ゴジラ』を取り巻く状況を見ていると、
日本の未来に不安が募ります。

まさしく、私も、ゴジラ云々を外したとしてもあの映画はシナリオも演出も粗雑な作りの歴史的駄作だと思っています。

(官邸の様子だの会議の様子だのは細かく取材して本物そっくりにしたらしいし、そこには手間をかけたのでしょうが)

それなのに映画賞を取ったりする。
毎日映画コンクール大賞とな。
部門賞にも多数ノミネート。

どう考えてもおかしい。

金の力か、なんらかの圧力か??

きな臭いです。

この映画にノーと言えなければ、日本の未来は暗い。
さらに、ゴジラの未来も壊される。

もともとゴジラにはさほど興味が無くて、なにかのはずみで『シン・ゴジラ』を見てみたら、テレビでよくやるドキュメンタリードラマみたいで、怪獣映画というのは怪獣が大暴れするだけの「くだらない」映画だと思っていたのに、なんだ、まじめに行政の話をやってるじゃん、大人の鑑賞に堪えるじゃん、と騙された人ならともかく、
ぼくちゃんゴジラファンですと表明していてなおかつ、『シン・ゴジラ』サイコーなどと言ってる奴は信用できません。
ヒットしたから傑作なのか? 東宝さんと仲良しだからけなせないのか?

あんなもの、ゴジラでも何でもないです。
無名の怪獣としても、ヘドラの劣化焼き直しでしょう。

と、まあ、私も周りに流されるのは大嫌いなので、嫌なものは嫌、ダメなものはダメ、とはっきり言い続けて来ました。
その結果、いわゆる特撮ファンダムからはじき出されたようなものなんですけどね・・・。

Re: ゴジラ観・・その存在が示すものについて - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/02/02 (Thu) 20:02:22

元々『シン・ゴジラ』もとい使徒モドキ映画は日本発世界的大ヒット映画になることを期待して東宝が製作したものの、結局アメリカではミレニアムの1/5以下、ギャレス版の1/100以下の興収しか得られていないなど肝心の海外で大コケだったというお話を以前にしたことがありますが、以下にURLを貼っておきます。

使徒モドキ/約190万ドル
参考:http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=shingodzilla.htm

ミレニアム/約1000万ドル
参考:http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=godzilla2000.htm

ギャレス版/約2億ドル
参考:http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=godzilla2012.htm

勿論興収だけでいい映画と判断することは出来ませんが、折角ギャレス版で世界的にゴジラ映画に対する関心が高まったはずなのにゴジラの本家であるはずの日本が世界の期待に応えられる作品を製作出来ていないことはこの数字が物語っています。実は使徒モドキ映画って当初は全米の映画館で上映される予定だったそうですが結局一部の地域の映画館で二週間程度の上映しか出来ませんでした。何があったか知りませんが全米上映計画が頓挫したのは確実です。

Twitterやっていると使徒モドキ映画の日本国内限定の大ヒットや多数の映画賞受賞やノミネートに狂喜乱舞するツイートが目立ちます。しかしどれだけ日本国内で映画賞を受賞しようが海外では大コケで百カ国上映計画が頓挫した現実は微動だにしません。「世界のGODZILLA」を自ら潰してしまったんですよ、東宝は。かつてアメリカ軍によるゴジラ退治物語を製作したハリウッドが今では国家権力主体のゴジラ退治物語を全面否定した作品を製作上映するようになったにも関わらず、性懲りも無く国家権力主体のゴジラ退治物語にしがみつき醜悪で脆弱な使徒モドキをゴジラだと言い張っているようでは・・・。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160913/Cyzo_201609_80_7.html
こちらの記事を読めばおわかりでしょうが制作費20億円程度のはずの使徒モドキ映画を東宝は興収80億円超えないと黒字にならないと認識しています。差額の60億円は一体何でしょうか?国策映画などを調べている辻田真佐憲氏が東宝から使徒モドキ映画を一切批判するなと厳しく言われたのは前にもお話ししましたが、60億円の使途不明金は批判の声を抑圧し世間を絶賛の声で埋め尽くすための裏工作(=不正、イカサマ)に使われているのではないかと疑いたくなりますよ。ヒット作=傑作であるかのような風潮が主流になってしまっている日本の現状を踏まえると反則技使ってでも製作側がヒット作に仕立てる事例があってもおかしくありません。日本アカデミー賞をはじめとする日本国内の映画賞もヒット作を追認し、箔付けするためだけに存在しているものが大半なのは殿様ギドラ氏もご存知かと。そういうことしているから日本映画がどんどん空洞化するんですけどね。ヒットさえすれば駄作でも傑作扱いされ、結果的に日本映画の水準を下げてしまいそれをまた日本国内の映画賞が追認するという駄サイクルが出来上がってしまってるんですよ。その結果、音響もCGも物語展開も役者の使い方もまるでなっていない使徒モドキ映画が日本国内で絶賛という異常事態になっているのは間違いないでしょう。

ギャレス版ゴジラが上映されていた時期に総選挙と称して日本のゴジラ映画でどれが一番いいかを決めるファン投票が実施されていたのをご存知でしょうか?私は単なるファン投票を投票しようがしまいが有権者全員に影響を与える選挙と混同しているセンスに呆れて投票しませんでしたが結局『VSビオランテ』が一位になりました。ご存知の通り結局ゴジラが日本政府主導の作戦で日本海に追い返されて終了という典型的なゴジラ退治物語です。上映当時は平成VSシリーズでもさほど興収が振るわなかった作品がファン投票で一位になるあたりゴジラファンの主流派はゴジラ退治物語が大好きといえるでしょう。『シン・ゴジラ』に好意的なゴジラファンが『VSビオランテ』を絶賛しているのを何度も見ました。本来のゴジラ映画の趣旨から完全に逸脱している作品、しかもそれは自衛隊広報映画であり「外敵」を迎え撃つ為政者の主張や行動に無批判であることが正しいと観る者に信じ込ませる国策映画同然になっている作品がここまで絶賛される現状には危機感しか感じません。勿論ですが駄作とも呼べない映画のどこが駄目かもわからず絶賛している人達が多いようでは悪政が行われていてもそれを認識出来ない人が多いということになりますのでゴジラファンだけの問題ではなく、日本の将来に関わる大問題なのは明白ですが。

ゴジラ観・・その行動 殿様ギドラ (男性)

2017/01/16 (Mon) 18:41:30

芹沢亀吉さんへのレス記事ですが、前スレッドが長くなってきたので別スレッドを立てました。

『ゴジラ』(1954)では詳細に説明はされていないのですが、山根博士の発言から察するに、
ゴジラはおそらく水爆実験において水爆の熱線にさらされていると考えられます。
(ゴジラが持つ放射性因子は水爆によるものだろう、という推察は死の灰を浴びていることを指すのではなく、中性子線によって体が放射化しているという意味だと受け止めています)

芹沢亀吉さんがおっしゃるとおり、私もゴジラが光を当てられて怒るのは、水爆実験を思い出すからだろうと考えています。
もちろんゴジラは水爆とはなにかとか、それが人間の仕業だなどとは知る由もありません。
それでも、強烈な光が住処を破壊し、それと同時にゴジラ自身に熱線や放射線が襲ってきたのですから、光を嫌うようになるのは当然です。
たとえ死ななかったとしても水爆の熱線・放射線はゴジラに苦しみを与えたはずです。

ただここで私が、待てよ、と思うのは、ゴジラの知力がどれぐらいなのか、ということ。
初代は殺されてしまいましたから、二代目ゴジラの描かれ方から推測するに、犬猫よりは頭が良いんじゃないか、ひょっとしたら文字を持たないから文化を持っていないだけで、
イルカや鯨並みでもおかしくないなと思っています。
となると、光で怒るのも初めのうちだけで、学習するうちに水爆の光とそれ以外の区別がつくようになってもおかしくないな、と思うのです。

第一作目にこだわるあまり、光さえ当てればいつでも激怒するゴジラ、という描き方が出てくるとしたらそれも違うんじゃないか、
ゴジラとはもっと高等な生物ではないか、と考えています。
(『ゴジラ2000ミレニアム』でカメラのフラッシュに反応するのは問題ないです。そりゃ、突然まぶしくなれば誰だってびっくりします)

『2000ミレニアム』に絡めてちょっとした思い出話・・・。
あれは1998年。
ハリウッドオオトカゲというか、トライスター版ゴジラというか、エメリッヒによる偽ゴジラ映画が公開されたころ。
私は公開前からアメリカの公式サイトで情報を仕入れつつ日本公開を待っていました。
当時はまだ映画館での座席指定は一般的ではなかったので、混雑が予想される休日を避け、わざわざ平日に休みを取ってエメリッヒゴジラを見に行ったのでした。

結果、怒髪天をつく大激怒。
事前情報では、映画ライターなんかが「けっこうおもしろい」とかなんとか言っていたので余計に頭に来ました。
で、ハリウッドゴジラの情報・評判はないのかとwebサーチしたら、なんと、知らなかった、東宝がハリウッド版ゴジラのBBSを運営しているのを見つけたのです。
(いまでは考えられませんね。映画のオフィシャルサイトに検閲なしのBBSがあったのですから)
そこでゴジラファンのみなさんと意見交換し、話が進むうちゴジラ映画を作るとしたらどうすればいいかという話にまで発展していきました。

そのBBSで出された意見がある程度『ゴジラ2000ミレニアム』には反映されていたと考えられます。
たとえば、ゴジラが放射能を持っているなら、ゴジラに近づいた電子機器はガンマ線の影響で異常を起こすんじゃないか、とか。

そんな話し合いの中、ゴジラの行動にどんな動機付けが必要だろう、という話も出ました。
都市を襲うなら、なぜ襲うのかに動機が必要ではないのか、と。
そして出てきたのが、人間の文明を憎んでいる、というのはどうだ、というアイディア。
この発想が実際の作品では、人間が作り出すエネルギーを憎んでいるという設定に繋がったのではないかと思われます。

ただこれはあまり良くない設定だなぁ、と思いました。
まず、人間が作り出すエネルギーとはなんぞや、です。
焼き芋を作ろうとして焚き火をやるのもそれに当たるでしょうか。
そして、ゴジラがどうやって人間が作り出すエネルギーを感知するのでしょう。
そこに目をつぶっても、こんな設定があると、ゴジラは常に人間に敵対することになってしまい、どうも平成ギャオスと似たものになってしまいます。
これでは生物ゴジラの自由度が下がってしまう。

私は大反省しました。
ゴジラが人間の文明を憎んでいるというのはどうだ、と書いたのは私です。

私は文明すべてという意味ではなくて、都市文明と書いたように記憶しておりまして、それはゴジラが上陸してきたときに自然の景色とは違うビル群など人工物を見れば嫌な気分になるんじゃないか、
という発想でした。
それから、劇中ではっきりとその設定を表明するのではなく、裏設定として製作側が認識していればいいんじゃないかと思っていたのですが、そのようにはっきりと書いたかどうかは定かじゃないです。
そんなアイディアが浮かんだのは、
『モスラ対ゴジラ』で、干拓地から出現したゴジラが工業地帯を歩いていたとき、とくに攻撃されたわけでもないのに大きめの建物に熱線を吐くシーンがあったからでした。
ゴジラはどうして苛ついたのだろう、と考えた結果だったのです。

今現在では、ゴジラの感情はその瞬間ごとに動機付けが必要ではあるけれど、ゴジラには格別な目的意識などは設定しなくていいんじゃないかと考えています。
動物として自然に見えればそれでいいじゃないか、と。

野良猫が縄張りを見回るとき、おそらくその都度なんらかの目的はあるのでしょうが、それは人間の価値観とは違う目的でしょうし、我々の目からはっきりと理由が見えなくても仕方のないことで、
ゴジラの行動も人間に予測できるものである必要はないと考えています。

私の好きなゴジラの行動のひとつに、『キングコング対ゴジラ』での富士山登山があります。
なぜゴジラは富士山に登ったのでしょう。わからなくていい。
そんなゴジラが好きです。

ただただ、芹沢亀吉さんと同様に、ゴジラがなんの理由もなく狙ったように都市部に現れてぶっ壊し始めるのは絶対に違う、と思っています。
そのとき、ゴジラの感情はどうなっているのですか?
暴れる理由は??
そこには筋を通さないと。

そして、『シン・ゴジラ』。
変態(劇中で「進化」などと言いますが、個体が変容するのは進化ではなく変態です。おたまじゃくしがカエルに進化するんですか?)した挙げ句、体温が高いんだかなんだか、
海に入り直すのは噴飯ものですが、まあ、目的不明のまま上陸するのはよしとしましょう。
(いや、それでも繰り返し東京を目指すのは不自然きわまりない。本物のゴジラにはそんな行動はない。初代ゴジラが東京に二回上陸しているのは、芹沢亀吉さんの分析が正しいでしょう。
二度とも先に人間がゴジラに対してアクションを起こしている)
私が大きく問題視するのは、多摩川で自衛隊にバンバン撃たれながらも反撃しないこと。
痛くも痒くもないのならそのまま前進すれば良いものを進行方向は変える。
まったく不自然。
その後、米軍の爆弾でケガをするのですから、あの自衛隊の攻撃だってまるっきり平気なはずはない。
それなのに、怒りもしないし反撃もしない。
なんだあれは?
あれもマキゴロウ博士がなにかを仕組んだという裏設定でもあるのか?
怪獣にも心があるはずだという怪獣演出の基本中の基本がおろそかになっている。

Re: ゴジラ観・・その行動 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/16 (Mon) 22:45:09

こんばんは。私への返信のためにわざわざ新しいスレッド立てて頂いて痛み入ります。

エメリッヒ版の公式サイトにBBSがあって公式サイトのBBSがあったんですか。その当時私はまだ小学生でロクにパソコンの使い方もわからなかったんで知りませんでした。ミレニアムのゴジラが体を近づけることで篠田の車に積んである機器が火花散らす場面はゴジラの放射能の影響を可視化していて私も高く評価しているのですが、BBSで出された意見が元ネタの可能性もあるわけですか。お陰で私のお気に入りのゴジラ映画が出来たのですからありがたい話です。ちんごじら、使徒モドキ映画を批判する人達への執拗な嫌がらせに批判声明も出さずに放置するTwitterのゴジラ公式アカウントとは大違いですよ

ちなみに私がミレニアムを高く評価する理由の一つは主人公の篠田(民間人)がゴジラを武力や権力で打倒しようとする片桐(権力者)のやり方に真っ向から反対し、初代ゴジラの山根博士同様にゴジラの生命の謎を追う人物として描いていることです。地震計や放射能探知計等を駆使してゴジラの行動をいち早く把握し被害を最小限に抑えるというゴジラ予知ネットの活動は、力によるゴジラ打倒のみを目的とするVSシリーズの特殊戦略作戦室やGフォースとは違い人類にはゴジラと敵対し戦う以外の道があることを明示しています。

しかしメガギラス以降の日本のゴジラ映画がミレニアムで示した武力による打倒以外のゴジラへの対応策を捨ててGグラスパー、防衛軍、特生自衛隊、地球防衛軍、巨災対(笑)とゴジラ打倒を絶対視する国家権力側の組織を軸にした作品ばかりになってしまったのは周知の事実です。メガギラス以降の日本のゴジラ映画にはゴジラを力で打倒することに反対しゴジラの生命の謎を追うことを主張する主要人物がいません。ミレニアムを最後に東宝は山根博士の要素をゴジラ映画から排除してゴジラを人類と敵対し力で倒すべき存在として扱うようになったわけです。『ゴジラ FINAL WARS』の終盤でミニラと一緒に帰るゴジラを見ながら主人公の尾崎が「始まったんだ、新たな戦いが」と言っているのはゴジラを戦って倒すべき存在とみなしているからですよ。GMKに至ってはゴジラを倒すことに反対する人達を面白半分でゴジラに同情し結局全員ゴジラに殺される愚かな若者達として描く始末です。劇中の伊佐山教授も武器ではゴジラは倒せないから護国三聖獣を目覚めさせてゴジラを倒せと言っているわけですし。もっとも日本のゴジラ映画が捨てた山根博士の要素をハリウッドが拾うとは思いませんでしたが。ギャレス版ゴジラに登場する芹沢博士はゴジラへの武力行使に断固反対し、ゴジラの生命の謎を追うという初代ゴジラの山根博士を継承する登場人物になっています。

私はゴジラの行動原理を推察することに力を入れる方なんですが、『キングコング対ゴジラ』での富士山登山みたいな一見何でもない行動も興味を持っていたりはします。人間の尺度や価値観では測れないゴジラの生き物らしさを表現している場面ですので。ちなみに『モスラ対ゴジラ』でゴジラが工業地帯で攻撃されたわけでもないのに太い熱線吐く場面は丁度四日市ぜんそくなど工場の煙による大気汚染が社会問題になっていた時期だけにゴジラも汚れた空気で不快感を感じたと解釈しています。干拓地から出てきて初めて吸った空気が汚染されていて不快なものだったら怒っても無理はありません。

でもってあの使徒モドキですが、自衛隊の武装ヘリや戦車からいっせいに攻撃されて突っ立ってたと思いきや進行方向変えたので全く効いていないわけではないですし随分と自衛隊にはお優しいのだなと呆れました。初代ゴジラは戦車や戦闘機に攻撃されたら反撃していましたし、ミレニアム版ゴジラも自衛隊の先制攻撃に怒って放射熱線吐く寸前だったのでもしあの時点で岩塊の乱入が無ければ放射熱線で自衛隊を壊滅させていたのは確実ですし、人類に無関心っぽいギャレス版ゴジラでも金門橋から戦車で砲撃された時は金門橋ぶっ壊して子ども達が乗るバスを何台か巻き添えにして戦車隊壊滅させているんですけどね。

その後使徒モドキは米軍の爆撃で大量出血する脆さを露呈し、上に向いてビームを吐くこともせず背中からビーム乱射とロボットアニメの猿真似みたいな攻撃して自分でエネルギー切れの原因作ってるんですから間抜けと言わざるを得ません。終盤のヤシオリ作戦でもちょっと線路から離れるだけでいいのにそうした知性も無いのには呆れましたよ。「電車ぶつけられるだけでやられる雑魚とか言うけどヤシオリ作戦で使われた火薬は凄いんだぞ!」と力説している方もいますが、それが本当なら凄まじい爆発で線路が壊れて後続の電車が突っ込めなくなります。つまり線路にはほとんど影響の無い程度のショボイ爆発で使徒モドキは重傷を負いよろけていたんですよ。対ゴジラ用に開発された貫通弾頭フルメタルミサイルも頑丈な表皮で砕くことで貫通させずその時の傷もオルガナイザーG1の治癒力で数時間で完治させる高い生命力を誇り、ケーブルで縛られても特にもがきもせずに熱線を吐く時の熱を利用して焼き切って操り主であるUFOへの攻撃に繋げ、ゴジラになろうとするオルガの貪欲さを利用してわざと飲み込まれ爆殺する作戦を立てて実行する知性を持ったミレニアム版ゴジラに思い入れのある私が脆くて愚かな使徒モドキに心底呆れたのはここに書くまでもないでしょう。

Re: ゴジラ観・・その行動 殿様ギドラ (男性)

2017/01/18 (Wed) 18:45:51

芹沢亀吉さま

ちょっと一点。
ギャレスゴジラのゴールデンゲートブリッジでの行動について・・。
たしかに橋をぶっ壊して前進していますから、そこにいた戦車は破壊されたと見て間違いないかと思います。
しかし、スクールバスが巻き込まれたという明確な映像はなくて、少なくとも主人公の子供が乗ったバスとあと何台かは無傷で橋を渡っていますし、
ギャレスゴジラも戦車隊に攻撃することはなく、
ただ通り過ぎた結果、橋が壊れたという表現になっています。
私が感じるこのシーンの問題点は、ギャレスゴジラ浮上に驚いた海軍が狙いも定めず射撃開始(これは人間の間抜けさを伝えていて良い)、
そのミサイルが橋の索を破壊、さらにスクールバスにまで当たりそうになったところギャレスゴジラの背びれが遮ってくれて子供たちは助かる、という流れです。
もちろん、ゴジラがあからさまに子供を死なせるようなストーリーにしてはいけません。
けれども、劇中の主要人物(主人公の子供)を助けたような流れを作るのは感心しない。
さらに、あれほど軍艦から砲弾やミサイルを浴びせられながら、艦船に対する反撃もない。
このシーンこそ、劇中で最初に熱線を吐くべきシーンではなかったか、と思うのです。
『ゴジラ』(1954)での高圧電流鉄塔のシーンに準ずる場面になり得たはずなのに。

ギャレスゴジラはなぜか人間に直接危害を加えることを避けているように見えるのです。
(橋を突き抜けて歩いて行ったとき、そこに止まっていた車両を破壊しているのはわかりますが、その行動は大ロングで見せるだけで破壊の詳細を描写していない)
たとえ怪獣であっても主役は人間に悪さはしないもの、という思い込みが自然な怪獣描写を妨げていたのでは??
余談になっちゃいましたが、『GODZILLAゴジラ』への私の不満の一端でした。

とはいえ、今回確認のために橋のシーンだけ見直しましたが、怪獣の動きや映像構成、音響などなど『シン・ゴジラ』よりは格段によく出来ているんだなぁ。

で、本筋。
1998年当時の東宝公式ゴジラBBS、管理人さんが出てきて対話の交通整理をするようなことはなくて、参加者の自主性に任されていました。
そういう意味では、現在のゴジラTwitterと同じようなものかもしれません。
しかしあの頃はインターネット黎明期で、おそらくパソコン通信から流れてきた人も多かったんじゃないかと推察しています。
ですから、現在のツイッター的な軽薄短小な物言いや炎上だったりという行為はなかったように思います。
そりゃもちろん、諍いが起こることもありましたがBBSが荒れ果てることもなかったですねぇ。
というのは最初のうちだけで、だんだん荒い物言いや暴言が増えていって、東宝サイドはBBSをリニューアルしたり雰囲気を変えようと努力していましたが収拾がつかなくなって閉鎖しました。
ネット倫理は未だ確立せずですから、20年近く昔ではしょうがないというべきでしょうか。
あのころは、ゴジラファンの意見を吸い上げる方法としてネットの活用を真剣に考えていたようです。
『ゴジラ2000ミレニアム』公開後に、プロデューサーがネットチャットでゴジラファンと語り合うという企画まであったのです。
批判意見も積極的に受け入れようという姿勢がありました。

ところが今はどうでしょう・・・。
(まあ、ファンたちの多くがもはや批判をしなくなったのも問題。ゴジラと名付けられていればなんでも褒めるのが正しいとでも思っているのか?)

さてさて、私も長年主張してきたのですが、
ゴジラ映画のストーリーはゴジラ退治ではいけない、ということ。
こう書くと、ゴジラに理解の浅い人は「人間に害をなす怪獣が登場するのに、なぜ退治してはいけないのだ?」と反発するでしょう。
当然、劇中世界ではゴジラ退治に努力する人々がいることになります。けれども、それをストーリーの主軸にしてはいけないのです。
ゴジラがストーリー上担う役割はなんでしょう。
極論として原水爆の象徴ということにしてみましょうか。
だとすれば、ストーリーの主軸はゴジラによる被害を丁寧に描写して、核兵器の恐ろしさを伝えることに置くべきで、ゴジラがいかに倒されるかはメインにはならない。
そこを間違えて、ゴジラ退治の方法を事細かに追求するお話にするならば、核兵器そのものではないゴジラの弱点をあれこれ考察するストーリーとなり、反核メッセージなど消し飛んでしまう。
(『シン・ゴジラ』の後半部はそんな感じとも言えるが、あの映画にはそもそも核兵器批判の意思が希薄である)
核兵器そのものを登場させて、いかにすれば廃絶できるかと考察するなら反核メッセージになりますが、ゴジラは核兵器ではない。
『ゴジラ』(1954)のオキシジェンデストロイヤーはメインではないのか、という反論が予想されますが、オキシジェンデストロイヤーは作品全体の大テーマを背負うものではあるけれど、
ゴジラ退治のために開発された物ではありません。
オキシジェンデストロイヤー開発物語なんか描かれていないのです。
『ゴジラ』(1954)はゴジラ退治の物語ではないのです。

結末はゴジラが殺されて一巻の終わり、ですが、ゴジラが殺されることでストーリーが終結していますか?
水爆実験の影響で現れたゴジラ。人類が持つどんな武器でも殺せない怪獣。
そんなゴジラさえ殺すことが出来るオキシジェンデストロイヤー(ゴジラ対策チームが開発したものではなく、孤高・世捨て人の天才科学者が「偶然」発見したものです)を将来的に地球人類は見いだすかもしれない、
そのとき、何が起こりますか?という問題提起が主軸のストーリーです。
科学技術の倫理を問うのが『ゴジラ』(1954)のメインテーマです。
エンディングでは「核実験が続けて行われるならば、またゴジラの同類が現れるかもしれない」と締めますが、私には、まずは核実験を止めよ、というメッセージに聞こえます。
核実験のみを問題にしているのではないと感じるからです。
ゴジラが殺されても物語は終わっていないのです。

そしてゴジラは原水爆の象徴というだけではありませんから、人類には未だ解明し切れていない大自然の謎としてのゴジラであるならなおさらゴジラ退治の物語にしてはいけないことがわかるでしょう。

ところがところが、芹沢亀吉さんのご指摘の通り、1984年以後、ゴジラ退治映画が頻出します。
それでもVSシリーズには『vsメカゴジラ』や『vsデストロイア』などまだストーリーの主軸がゴジラ退治ではないものが散見されました。
(『vsスペースゴジラ』をどう見るか?ストーリーはゴジラ退治を目指してはいなかったけれど、ゴジラ退治に血道を上げる人物がメインでは・・・)
これが、『×メガギラス』以降はこれでもかというほどゴジラ退治ストーリーばかり。
『東京SOS』など、初代ゴジラの意識がゴジラをやっつけるという発狂ぶり。

なぜこんなことが起こったのか。
ひとつは1980年代の間違ったゴジラ論が原因でしょう。
曰く「ゴジラは悪役だからかっこいい」「『モスラ対ゴジラ』が最高傑作」・・・・。
どうでしょう?
年配のゴジラファンなら、自分もそんな風に考えていたという方が多いのでは?

これは間違った考え方です。
ゴジラシリーズの原典たる本多・円谷コンビ作で、ゴジラが倒されて終わるものは何本ありますか?
明確にゴジラが負けて終わるのは『ゴジラ』と『モスラ対ゴジラ』だけでしょう?
(『ゴジラの逆襲』は本多猪四郎作品ではありません)
ここに小田基義・福田純作品を加えたとしても、ゴジラの負け率はさらに下がるだけです。
ゴジラ人気はやられ役だったからではない!

悪役主役ってなんとなくクールじゃん、程度の発想なのか。
あるいは『モスラ対ゴジラ』のおもしろさを、ゴジラが負けるからだと勘違いした結果なのか?

そして『シン・ゴジラ』も怪獣をやられ役に仕立て上げている・・・。

『モスラ対ゴジラ』の工業地帯でのゴジラ、空気の悪さにイラっとした、というのは思いつかなかった!
うーむ、それもあり得ますねぇ。煙突から煙も出てましたからねぇ。素晴らしい解釈です。

Re: ゴジラ観・・その行動 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/19 (Thu) 19:01:19

殿様ギドラ様、こんばんは。

ギャレス版のゴジラがゴールデンゲートブリッジを壊す場面では橋の裂け目に飲み込まれる直前のイエローバスが映っています。わかりにくいので赤い丸で該当箇所を囲みました。落ちる場面はありませんが、直後の場面で橋の壊れた部分がやや下向きに曲がっていることを踏まえると海に落ちたと考えるのが妥当です。このゴジラにイエローバスの子ども達を助ける意志があったならその直後に橋を壊す巻き添えにしたりしません。つまりゴジラが体起こしてミサイルから子ども達を庇ったように見える場面は、たまたま体を起こしたゴジラにイエローバスに当たるはずだったミサイルが当たっただけなんですよ。数十回の核爆発の直撃に耐えたこのゴジラからすればアメリカ軍のミサイルや砲撃など反撃する価値もなかったのでしょうが、確かにここで反撃してもよかったですね。主人公の息子が助かったのはゴジラのお陰ではなく、バスの運転手のおっちゃんが奮闘したお陰なんですよ。一歩遅ければゴジラに橋もろとも潰されていました。

ギャレス版への言及はこれくらいにして本題に入りますが、確かにゴジラは原水爆の象徴だけではなくいまだに人類が完全には解き明かせていない大自然の謎そのものでもありますね。初代ゴジラの山根博士やミレニアムの篠田の主張もまさにそれです。もうお気づきでしょうが、私もゴジラ映画の要旨は単なるゴジラ退治物語であってはならないと考えていますよ。だから単なるゴジラ退治物語に堕している作品への評価は低いです。1984年版ゴジラは初代ゴジラへの原点回帰が主題らしいですが、その割には向こうから一方的に東京に攻めてきたゴジラを日本政府主導で退治する物語になっていて、日本政府の先制攻撃がゴジラを怒らせ東京炎上を招き、日本政府の武力ではどうにもならなかったゴジラを無名の天才科学者、芹沢博士が偶然作ってしまった薬品で倒す初代ゴジラとは全く別の物語になっています。ゴジラには渡り鳥同様の帰巣本能があり超音波で三原山に誘導すれば倒せるという展開は殿様ギドラ氏が仰るゴジラ退治の方法を事細かに追求する物語そのものでしょう。『VSビオランテ』や『VSキングギドラ』もどうすればゴジラを退治できるかだけを追及したゴジラ退治物語です。前者は平成ガメラみたいに自衛隊の仮想戦記になっていて、後者はターミネーターやバックトゥザフューチャーなどハリウッドの人気映画の設定をつまみ食いして設定破綻起こしているのも私にとっては低評価の要因ですよ。

その点『VSメカゴジラ』はゴジラの第二の脳発見からGクラッシャー作戦に至る部分は単なるゴジラ退治物語ですが、最終的には23世紀の技術を継承した国連製のメカゴジラさえ打倒するゴジラの破壊力を見せる展開になっていますし、ベビーゴジラを巡る種族愛も物語の軸になっていますので結構評価していたりはします。『VSデストロイア』は初めて映画館で観た時はゴジラがメルトダウン起こして死ぬ場面で泣いた記憶ありますが、そういう思い出話は別にしてもゴジラ退治に執念燃やす人物を主要人物にしてゴジラ退治物語からスペースゴジラ退治物語になっている『VSスペースゴジラ』とは違い単なるゴジラ退治物語から脱却したのは評価するべきでしょう。

まあ『VSスペースゴジラ』もゴジラを人類が制御できる存在ではないことを強調した点は評価していますよ。ゴジラが残留思念、つまり人の意思で操れる存在であることを肯定したGMKよりはずっといいです。機龍二部作に至っては初代ゴジラの骨を日本政府が制御してゴジラを叩きのめす話ですからね。一応初代ゴジラの意識が蘇って暴走する場面もありますが、『×メカゴジラ』では塩基の入れ替え以降は暴走もせずゴジラに深手を負わせて退却に追い込むという有様で完全に初代ゴジラの骨がゴジラ退治の道具として「有効活用」されていますし、『東京SOS』ではゴジラに深手を負わせて戦意喪失させるまで初代ゴジラの意識が蘇ることはなく、蘇ってからも初代ゴジラの復讐心で東京を破壊するわけでもなくゴジラを連れて日本海溝に飛び込むといった具合で結局ゴジラを日本国内から排除することに初代ゴジラが貢献する始末ですよ。『モスラ対ゴジラ』はインファント島を核実験場にされたことで文明人を憎む原住民や小美人を必死で説得する酒井らの誠実さがモスラを動かし、ゴジラとの戦いの最中に命尽きた成虫の意志を継いだ双子の幼虫が圧倒的に不利なゴジラに戦いを挑んで見事に勝利する過程を描いたのが面白いはずなんですが、『東京SOS』で双子のモスラ幼虫の糸でぐるぐる巻きにされるゴジラという『モスラ対ゴジラ』の二番煎じをやりつつゴジラをやられ役にしていることを踏まえると手塚昌明監督はゴジラはやられ役、悪役でいいと考えているのは確実でしょう。勿論GMKも去年の使徒モドキ映画もゴジラはやられ役、悪役でいいと考えている人間が製作したことは本編観ればわかります。

本来ゴジラは自分で勝手に怒ったり一方的に日本に攻めてくる存在ではないはずなんですが、「ゴジラは悪役だからかっこいい」という間違った解釈が1980年代あたりからされるようになって以来意味も無く日本を攻めてくる存在とみなす人が増えてしまいました。ファンが勝手にそう解釈しているだけならまだいいんですが、東宝がゴジラ退治物語の製作上映に力を入れることでその解釈にお墨付きを与えてしまったんですよ。ゴジラの弱点や倒す方法の追究ばかりに力を入れたゴジラ退治物語になっている映画にはゴジラが原水爆の象徴であることや人類の理解を超えている大自然の謎を体現していることへの言及がおろそかで、ゴジラの怒りを買う人類、特に為政者の愚かさやゴジラを倒しうる力を為政者が持つことがどれだけ危険なことかという部分への言及もありません。ただただゴジラを叩きのめすことを製作側や観客が楽しみ、ゴジラを倒す力を日本が持つことへの自惚れがあるだけです。

Re: ゴジラ観・・その行動 殿様ギドラ (男性)

2017/01/20 (Fri) 18:02:27

しまったー、お手数かけてしまいました。
まったく汗顔の至りです。
ギャレスゴジラが橋を歩き抜けていくところにスクールバスもちゃんといたんですね。
子供たちが巻き込まれていることをことさら強調するべきではないので、映画の視点をそこに持っていかなかったのは正解と思います。
劇中の事象として、ギャレス監督はゴジラの二面性に気を配っていたことはわかるのです。
ムートーと戦うことで人間の役には立った、けれどもゴジラが行動することは破壊ももたらす、と。
私が問題視するのは、演出としてゴジラによる破壊をきちんと見せる場面が少なすぎるということ。
スクールバスに当たりそうになったミサイルを防いだのが偶然だというのはわかりますが、ならば同時に橋とその上にいた車両・戦車をぶっ壊していく様にも視点を寄せていけばいいのにと思うのです。
橋を壊し始めたところでカメラはどんと引いてしまう・・。
それが惜しい。
(『GODZILLAゴジラ』についてあれこれ書いたとき、その怪獣観は高く評価していました。ただ、設定もデザインも気質も違うのでゴジラではないよね、と)

申し訳ないです、別作品の話でひっかかっちゃって。

芹沢亀吉さんのようにゴジラ退治物語にノーと言って下さる若い世代(と言われると失礼でしょうか)がもっと増えてくれればいいのに、と切望します。

もう84ゴジラからでも30年以上の時が過ぎ、私が虜になった本多・円谷ゴジラ作品の方が少数派となってしまいました。
さらにはこの30年来のゴジラ映画はゴジラ退治ストーリーが主流。
となると多くの人にとって、ゴジラ映画とはいかにしてゴジラを倒すかを描く映画なのでしょう。

けれどもそれは原典の精神とは違う。

ゴジラを殺すことばかり考えるから、バリエーションを増やすために違うゴジラを登場させるのかもしれない。
ゴジラが同じなら殺し方も同じになってしまうから。

不思議でしょうがないのは、ゴジラファンと言いながら、ゴジラをいじめる映画を見て楽しんでいる人たちがいること。

『怪獣大戦争』でX星にゴジラとラドンを置き去りにする富士とグレンの感想は間違っているとでもいうのか。

(vsシリーズでは『vsメカゴジラ』が一番好き!)

Re: ゴジラ観・・その行動 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/21 (Sat) 00:46:15

いえいえ、お気になさらないで下さい。先程の画像は以前ギャレス版ゴジラと平成ガメラシリーズのガメラが似ているみたいなこと言ってた人にそれは違うというツッコミのために使ったものに赤丸で印をつけたんですよ。photoshop使えばすぐ出来ますので。あのガメラは自分を傷つけてでも子ども庇ってたけどこのゴジラは平気で子ども達が乗るバスもろともゴールデンゲートブリッジぶっ壊す奴だぞ、第一古代人の作った人工物である平成ガメラシリーズのガメラと人類どころか恐竜が地上に出現する前から生きているこのゴジラは成り立ちが全然違うみたいなことを言いました。まあ自衛隊や日本政府による抑圧や加害を一切描かない平成ガメラシリーズと、日本政府や秘密組織モナーク、そしてアメリカ軍が不当逮捕や拉致監禁、そして武力行使の巻き添えという形でフォード親子やバスで避難する子ども達を抑圧し生命の危機に晒しつつ肝心のゴジラやムートーには手も足も出ない有様を描いたギャレス版ゴジラを一緒にされてはたまらないという思いもあったわけですが。

前にもお話しましたが私は小学生時代に映画館でミレニアム観ました。つまり84ゴジラが公開された後に生まれたのが私です。小学生の頃から歴史に関心があって戦争とかも結構調べていた関係で国家や軍隊は平気で民間人を見捨てるし巻き添えにすると知っていたせいか、ミレニアムを観た時に自衛隊の戦闘機の爆風がイオに襲いかかる場面や片桐が篠田を巻き添えにする爆破作戦を強行し現場の自衛官も篠田を見捨てて撤収する展開に強い現実味を感じました。そして巻き添えという形でイオを生命の危機に晒した自衛隊の攻撃を何度受けても倒れもせず徐々に怒りを露わにするゴジラに畏敬の念のようなものを感じたんですよ。自衛隊が先制攻撃仕掛けてゴジラの怒りを買い放射熱線で壊滅させられる寸前だったのは明白なのに、岩塊さえ来なければゴジラを倒せていたと勘違いしている高田第1師団長には呆れました。勿論篠田を命の危機に晒した片桐主導の爆破作戦が全く通用しなかったUFOを一瞬で爆発炎上させるゴジラの破壊力にも驚かされましたが。

初代ゴジラを初めてビデオで観たのはその後ですが、ゴジラに先制攻撃仕掛けて怒りを買う日本政府や防衛隊の愚かさや、爆雷を受けようが機関銃で銃撃されようが高圧電流流されようが戦車や戦闘機に攻撃されようが出血さえせず途方も無い力で反撃するゴジラの生命力と破壊力が印象的で、絶対にオキシジェンデストロイヤーを為政者の手に渡してはいけないという芹沢博士の信念にも共感しましたよ。今の時点でも民間人に被害を与える強権や武力を行使できる立場にある為政者にこんなもの渡したらどれだけ危険かよくわかるからです。ところが超音波発生装置でゴジラを三原山の火口に誘導する作戦を日本政府に提案した林田のように1984年以降のゴジラ映画に登場する学者はゴジラ退治を絶対視する日本政府の方針を追認し補佐する人物として描かれる事例が目立つんですよ。山根博士や芹沢博士のようにゴジラ退治に凝り固まる日本政府に同調しない学者よりも日本政府主体のゴジラ退治に協力する事実上の御用学者の方がゴジラ退治物語を作る上では都合がいいからです。その点ゴジラ打倒に執念を燃やす日本政府高官である片桐のやり方を真っ向から批判し、純粋にゴジラの生命の謎を追うミレニアムの主人公篠田はゴジラ退治物語に登場する御用学者とは完全に一線を画しています。

何度でも言いますが、民間人を巻き添えにする為政者、国家権力の強権や武力は怪獣同然です。だから私は国家権力が主体となりゴジラ退治に全力を注ぐことを礼賛する作品には違和感や反発しか感じません。お前らも怪獣同然の存在の癖にゴジラ退治でヒーローぶるなといったところでしょうか。国家から理不尽な攻撃を受けても一切屈しないゴジラに強く共感するからこそゴジラをいじめることを主軸にした映画やそれを見て楽しんでいる連中には怒りさえ感じます。そういう連中はゴジラが好きなんじゃなくてゴジラという自分達とは異質な存在が叩きのめされることに快感を覚えているだけですよ。エメリッヒ大イグアナ映画や使徒モドキ映画観ていて頭に来たのも多分それがあると思います。どちらもゴジラと呼ぶに値する存在は一切登場しませんがそれは映画観た後だから言えることであって当初はゴジラ映画として観ましたので。私もVSシリーズでは『VSメカゴジラ』を高く評価していますがそれは23世紀のオーバーテクノロジーを用いた国連製のメカゴジラに追い詰められるものの見事に逆転勝利するゴジラに強く共感しているのが大きいでしょう。

もうお気づきでしょうが、私のゴジラ観では国家権力という怪獣同然の存在からの攻撃に一切屈さない存在という観点が重きを占めています。勿論それは放射線耐性を持ち現行兵器が一切通用しない存在、人類の理解を超えている大自然の力を体現した存在という観点にも直結しています。そんなゴジラを国家権力が退治することを手放しで礼賛する物語は真っ平御免ですよ。『モスラ対ゴジラ』では結局ゴジラは敗れますがあれは国家権力がゴジラを退治したのではなく力関係では圧倒的に不利な二匹のモスラ幼虫の勇気と知恵の勝利です。ゴジラシリーズの原典である本多・円谷コンビの作品には自衛隊や防衛隊等の国家権力側の組織によるゴジラ退治を肯定的に捉えた描写も、ゴジラが国家権力に敗北する展開も一切ありません。『怪獣大戦争』に登場するX星人の描き方は社会の構成員の生活を細かいところまで管理、造反者は即座に処刑と独裁体制を確立させた国家権力そのものですが、一度はゴジラの制御に成功はしたものの長くは続かず最後は破滅しています。

Re: ゴジラ観・・その行動 殿様ギドラ (男性)

2017/01/23 (Mon) 18:16:15

芹沢亀吉さん、なんと申し上げたらよいのでしょう。
大変うれしいです。

日本社会全般もさることながら、特撮作品のストーリー傾向も権力者や為政者への批判的視点が薄れていて、
何が正義か、という真実を見極めようとする姿勢が失われつつある現在、
ゴジラファンたる芹沢亀吉さんは社会の実相を見極めようとなさっていて、ゴジラ観も世間的な固定観念から脱却して作品そのものから読み解こうとなさっている。

そうです。
私も同じ思いです。
ゴジラの魅力は、単純化すれば「負けない」こと。

これが表面的な理解だと、他の怪獣には負けない=怪獣王、という解釈になってしまっているようです。
そうではない。

一番重要なのは、人間には負けない、ということです。

かつて、ゴジラが軋轢を引き起こすのは、対個人ではなく、対社会であるという話を書いたことがあります。
(たぶん、東宝公式ゴジラBBS)
都市のない自然の野山に人間とゴジラが共存していたとしても、ゴジラが人間を食料として狙わない限り戦う必要は無いのではないか。
人間にとってゴジラが邪魔になるのは、物質文明の発達によって人間が、ゴジラにとって邪魔な物をたくさん作り出してしまったからではないのか。
(という表現はいま初めて書きました)

ゴジラが社会と対立するということは、為政者にとって邪魔になるということです。
為政者(悪い言い方をすれば社会を動かすのが好きな人々)とは社会が無ければ存在し得ない者。

さて、我々人間は社会的動物などと言われます。
社会を作って一人一人の生活を安全に安定させる技を見いだした動物です。

でも、犯罪の抑制や富の分配などは個人の自由を制限するものでもあり、社会というものは必要だけれど息苦しいものでもあります。

そこに為政者(政治家)という人種が生まれ、社会を動かすことに生き甲斐を見いだす人々が出てきて、
社会のためだ国のためだと人々を右に左に操ろうとしているのがこの世の中。
(こういう書き方をすると無政府主義者みたいに思われそうですね。私はそこまで過激では無くて、政治とはグレーなものだと思っています。
世のため人のため、と、為政者のわがままが混在しているのが現実でしょう)

権力者でもない限り、人間誰しも心のどこかに社会不信や破壊願望を持っているのではないでしょうか?

それを映画の中で発散してくれるのがゴジラではないでしょうか?

国家だの軍隊だのには絶対負けない存在というのがゴジラの魅力だったはず!

子供たちが怪獣に強くひかれたのは、まさにそこです。
巨大であることや異形であることも重点でしょう。
けれども、子供こそ人間として未発達であるがゆえに、教育という抑圧を受けている存在です。
(教育をすることが悪いのではなく、必要だとしても子供にとってはストレスである、ということ)
そんな子供たちにとって、自分たちを制限している大人(社会)が怪獣によって大混乱している様は気持ちいいに違いない。
(いや、私がそうだった)

だから大映のガメラは子供の味方という気質を積極的に取り入れたのです。
大人にとっては脅威でも子供にとっては友達。
怪獣が持っていた一面を拡大させたのがガメラです。(そうでなければガメラではない)

話を戻して、
ゴジラ映画において「大人たち」がゴジラ対策をあれこれやるのはいい。
けれどもそのストーリーは、ゴジラが勝つものでなければなりません。

そして、ゴジラ無敵説を詳述すれば、対怪獣では必ずしも無敵ではないのがゴジラ。
実際の作品を観察すれば、東宝キングコング、ラドンとは互角。
キングギドラよりはちょっと弱い。
モスラ成虫が完調なら多分勝てない。
モスラ幼虫が二匹がかりだと負けちゃうこともあるよ、という程度でしょう。

それが平成シリーズからはゴジラのみを絶対的に強い存在としてしまって、(例外はモスラか)ほかの怪獣のスター性を薄め、
さらにはそんな強者ゴジラに人間が挑むストーリーにシフトしてしまった。
そしてゴジラはどんどん負け始める。
(『vsビオランテ』ではゴジラは二回負けている。超能力少女のテレパシーで意志を曲げられたのもゴジラの負け。抗核エネルギーバクテリアかなにかで倒れてしまったのも負けだ)

『シン・ゴジラ』に至っては怪獣はさほど強くもないし、科学的に極めていい加減なボンクラ作戦で固められてしまう。
そんな映画の何がおもしろい?

ゴジラ観 殿様ギドラ (男性)

2017/01/10 (Tue) 18:43:11

新年一発目には怪獣観の話を書こうと思いましたが、
怪獣一般となるとTV怪獣まで含むことになり、それはそれで考えるべき課題ではありますが、
話題が拡散してしまう危険があるのでここはやはりゴジラ限定とします。

というのも『シン・ゴジラ』に登場した架空の生物もただ怪獣という枠組みにおいては不正行為というほどのものではないからです。
(ヤツの数々の問題点のうち、科学考証のいい加減さを除けばゴジラと名乗ったことが致命的な不正である)

個々人のゴジラ観にブレがあるのは仕方の無いことです。
どの作品で最初にゴジラを刷り込まれたか、あるいはもともとその人が持っていた志向に影響されることもあるでしょう。

それでも、これまで存在しなかったゴジラを勝手に思い描くのはゴジラ観ではなく、すでにあるゴジラに対する不満の表明であり、
こうだったらいいな、という願望でしょう。

さて、私は同じ名前で違うものを繰り出してくるのには反対です。
言語における「名称」を機能不全にするからです。
と、難しい言い方をするまでもなく、同じ名前の別人がいたら困るでしょ、ということ。
(以前も書きましたね)

となると、ゴジラ観を考えるとき、考慮すべきは初代ゴジラと二代目ゴジラだけで十分となります。
この二匹は同じ世界に存在し、それぞれ劇中で別個体として認識されているのです。
(ならばゴジラというのは固有名詞ではなく、種族名だろうということになりますが、種族名だとしても1984年以降のゴジラたちが
初代・二代目と同一種族とは思えない。生物としての設定が違う。ま、判然としないものもいますが)

ゴジラは、水爆実験で住処を荒らされ、さまようことになった生き物。
体に放射能を帯びても生きながらえることが出来る放射線耐性を持ち、弾丸や大砲・ミサイルにも傷つくことがない不死身の体。
身長は50メートルが基本。それより大きくなる可能性を否定はしない。
体重は劇中で明らかにされないので不明。
姿形は、作品によって変化があるのでこれが正解、とは言い難いけれど、二代目ゴジラが『キングコング対ゴジラ』で大きく変貌したものの、
次の『モスラ対ゴジラ』でより初代に近いデザインに戻ったので、やはり初代か『モスラ対ゴジラ』あたりの形が基本であろう。
それから重要な気質としては、感情のある生き物であるということ。
直情型ではあろうけれど、決して好戦的ではない。(『ゴジラの逆襲』でのアンギラスとの対比、また『キングコング対ゴジラ』でも立ち去るキングコングに追い打ちはかけていない、など)

ざっくり書けばこんなところが私のゴジラ観。

みなさまのゴジラ観もお聞きしたいところです。

Re: ゴジラ観 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/11 (Wed) 20:11:11

ちょっと遅いですが、あけましておめでとうございます。

私のゴジラ観は端的に言えば龍の一種です。普段は水中に潜み一度暴れだすと人類の手には負えない存在になるという点がよく似ていますし、龍もゴジラの複数の生物の要素を併せ持つ存在だというのも見逃せません。そして龍は怒らせはしない限り凶暴な存在じゃないんですよ。逆鱗に触れるという言葉は普段は穏やかな龍でも触ってはいけない鱗がありそれに触れると龍は激怒し触れたものを殺すまで暴れるという意味ですので。殿様ギドラ氏には以前お話したように初代ゴジラも本州から遠く離れた大戸島にいたところを防衛隊が先制攻撃仕掛けたから怒って東京湾まで追いかけてきたわけですので自発的に暴れているわけではないというのも龍の気質と同じです。

そうなると大戸島を滅茶苦茶にしたのは何だったのかということになりますが、海底に眠っていたところを水爆実験で無理矢理覚醒させられたという展開を踏まえると自分が眠る前とあまりにも環境が変わり過ぎていたのでどこに何があるかもわからず彷徨うのは至って自然です。私達が野山を歩いて無意識のうちに虫を踏み潰したり蜘蛛の巣を破ったりするのと同じ感覚でゴジラも大戸島を破壊したと解釈するのが妥当でしょう。決して破壊を楽しんでいるわけではないんですよ。

そういえば大戸島の人達がゴジラの怒りを鎮めるための神楽舞を舞う場面が初代ゴジラでありましたよね。となると製作側もゴジラを海神、水神として扱う意図があったのは確実でしょう。そして龍も水神です。

放射能耐性、現行兵器が一切通用しない頑丈な体は勿論ですが、龍が逆鱗に触れない限りは怒らないのと同じように人類が光やエネルギーを濫用したり攻撃を加えたりしない限りは決して怒らないのがゴジラの気質と断定してよろしいかと。勿論逆鱗に触れた者を龍が決して許さないようにゴジラも一度怒らせればどこまでも追いかけてくる執念深さを持つ存在であることは間違いないですが。

Re: ゴジラ観 殿様ギドラ (男性)

2017/01/12 (Thu) 19:12:18

芹沢亀吉様、本年もよろしくお願いいたします。

大戸島でのゴジラは、食料を捜していたのだと考えています。
嵐の夜で視界も悪く、ただ歩いただけで家屋を壊してしまった、と。
家畜が行方不明になったと村長さんが国会で陳情していますので、その家畜はゴジラが食べたということでしょう。
そして、大戸島でのゴジラは熱線を吐いていません。
火災が起こっていないことから明らかであり、また、その後八幡山から顔を出したときも、人間たちをのぞき込むだけで敵意を見せることはありません。
一部の人々が主張するような、ゴジラは人間を憎んでいただの破壊の権化だのという意見には根拠がないと考えています。

私も芹沢亀吉さんと同様に、ゴジラは攻撃されない限り暴れたりしないものだと考えています。
(ただし、攻撃されればちゃんと怒って暴れてほしい。それが、ちんごじらには無かった。ビーム乱射なんて、脊髄反射みたいなものだった)

Re: ゴジラ観 - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/01/14 (Sat) 22:25:38

ご返信ありがとうございます。

なるほど、大戸島で食糧を探していたという見解にも肯けますね。ちなみに初代ゴジラではゴジラが東京に来る場面で山根博士が「ゴジラに光を当ててはいけません。ますます怒るばかりです。」と言っていますのでゴジラには光を嫌う性質があるのでしょう。よく考えたら強烈な光を放つ水爆で自分の故郷を荒らされたのであれば光自体を憎悪するようになるのは当然かと。防衛隊のフリゲート艦隊による爆雷攻撃でゴジラの怒りを買って東京まで呼び寄せてしまった直後の場面での台詞であることを踏まえると、爆雷攻撃で光を当てたことを踏まえて言っている可能性もありますが、いずれにせよ光を当てることがゴジラを怒らせることになるのは確実です。

ちなみに私が高く評価しているミレニアムでも最初ゴジラは根室に上陸しますが人間を狙うことも無くただ歩いているだけです。車でトンネルを抜けた篠田一行がゴジラに鉢合わせした時も一ノ瀬記者がカメラのフラッシュで照らすまでは咆哮もしていません。フラッシュで照らされて怒るゴジラというのは先程言及した山根博士の台詞を意識したものなのは確実です。劇中では陸自の第1師団長、高田が「これまでの経験からG(=ゴジラ)は攻撃されると必ずその相手に向かって来る」と言っていますので、初代や二代目同様攻撃されると怒るゴジラであることがわかります。外見は違えど性格面はこうしたゴジラを強く意識しているといえるでしょう。実際に東海村で自衛隊を指揮してゴジラに先制攻撃を加えた片桐CCI局長は劇中終盤で東京まで追いかけてきたゴジラに叩き潰され初代と同様に東京は火の海になっています。

ところが次のゴジラ×メガギラスでは劇中冒頭で初代ゴジラの防衛隊が先制攻撃しかけた展開が無かったことにされ、一方的にゴジラが東京を襲撃したことにされてしまいました。このゴジラはミレニアムと同様に人間の作ったエネルギーを憎むとされ原発やプラズマ発電所を襲撃してはいますが、1954年当時の東京にゴジラが狙うような発電所は皆無ですので冒頭の東京襲撃だけがつじつまの合わないことになっているんですよ。そしてその次が原点回帰詐欺でおなじみのGMKです。メガギラスの冒頭場面と同じようにゴジラの方からいきなり焼津港を襲撃し、逃げる人達に向かって自分から放射熱線を吐くなどただの破壊の権化にされてしまいました。ミレニアムの冒頭の根室上陸では発電所が狙いで人間の作ったエネルギーを憎んでいることがはっきり明かされていますが、GMKでは正体不明の老人伊佐山教授による太平洋戦争の犠牲者の魂の集合体という何ともオカルト的な理由が明かされてはいるものの、結局対ゴジラ兵器でもないD03削岩弾で致命傷を負っているのではっきり言って眉唾物です。ゴジラを意味も無く暴れる破壊の権化とみなす人が増えたのはGMKの影響が大きいでしょう。しかしそれは初代ゴジラを改変し一方的にゴジラが東京を襲ったことにしたゴジラ×メガギラス、あるいは米軍が先制攻撃したわけでもないのに一方的にアメリカを襲撃したあのエメリッヒ大イグアナの流れにあるもので、ゴジラが怒る理由をちゃんと描いている初代や二代目とは別物であることはもうおわかりでしょう。

そしてちんごじら、使徒モドキですがあれも理由も無く珍妙な姿で東京に上陸して暴れているんですよね。しかも急に変異して体から出る湯気が増えたら慌てて海に帰り、今度もまた向こうから由比ガ浜に上陸ととことん意味不明です。ミレニアムのように人間の作ったエネルギーを憎むなどの理由もありません。ゴジラを意味も無く暴れる破壊の権化だとみなす一種の偏見が暴走したと言わざるを得ませんね。日本側が先に攻撃を仕掛けたことで怒り、東京まで追いかけてくるという初代ゴジラとは似ても似つかない行動原理です。

あけましておめでとうございます 殿様ギドラ (男性)

2017/01/03 (Tue) 18:45:19

みなさま、明けましておめでとうございます。

ゴジラ祭りはまだ続けます。
私の新年始動はもうちょっと先ということでひとつ・・。

(アニメのゴジラはやだな)

Re: あけましておめでとうございます - エクセルシオール (男性)

2017/01/04 (Wed) 20:49:53

 あけましておめでとうございます。昨年は『シン・ゴジラ』で良くも悪くも盛り上がった年になりましたが、今年はどうなりますかね。

 アニメ版ゴジラについては今のところほぼ背景画面だけの公式サイトしかないので何とも言えません。しかし、その絵から推定するとこれまた「ゴジラ」と名がついているだけの妙な作品にならないか、今から心配になってきます。

 ただ、ゴジラはともかく今年は12年ぶりにキングコングが復活します。この映画については今のところ相応の期待をしてもよいと思います(ゴジラほど道を踏み外すことはないでしょう)。


Re: あけましておめでとうございます 殿様ギドラ (男性)

2017/01/06 (Fri) 19:27:59

どうもです。
そうそう、コングの新作がありましたね。
こうなると、ハリウッドのほうがよほど怪獣らしい怪獣を作ってくれんじゃないかと期待してしまいますね。

本多ゴジラの原点のこと - 海軍大臣 (?)

2016/12/24 (Sat) 15:36:48

大変、ご無沙汰です。
相変わらず、シンゴジラで出版界なんかは騒がしいようですね。
芹沢亀吉様のご意見、非常に興味深く拝見させていただきました。
ここまで日本特撮界の怪獣観が絶望的に劣悪なのは、作り手側のベースになっている民俗学的なセンスに根差しているのではないかと思ってしまいます。
実は以前に仄聞したことなのですが、本多猪四郎監督が生まれ育った山形県のご実家、注連寺の天井には、本多監督の御爺様の筆による、巨大な四神獣の絵が描かれているとのことなのです。
御子息の言葉では、これが猪四郎少年にとって人生で最初に目にした怪獣に当たるのだろうとのことでしたから、もし監督ご本人がご存命ならば、幼少時にその絵から受けた印象が後の特撮作品に関わるに際して、どのような影響をご自身に与えたのか、是非お聞きしてみたかったなと思っております。
ゲゼルシャフトだとかゲマインシャフトだとか、そんな難しい言葉を社会学で教わりましたが、人間の心の根っこにくるようなものが無くなって久しい現在の民俗的な基盤で育ってしまうと、怪獣観もああまで変わってしまう(作り手のみならず、受け手の側も)ものなのかと、ため息しきりの昨今なのです。

Re: 本多ゴジラの原点のこと 殿様ギドラ (男性)

2016/12/25 (Sun) 18:45:37

お久しぶりです。
よく来て下さいました。本当にありがたいです。

怪獣観の問題は深刻ですね。
欧米の怪物とは違う精神性を持つのが日本の怪獣だったはずなのに、近年は欧米のモンスターとさほど変わらない日本産の怪獣が増えています。
それは外見だけでなく内実も含めてのことで、その嚆矢は平成ギャオスでしょうか。(あ、ビオランテのほうが早いですね)

怪獣観に関しては、ギャレス版ゴジラとムートーのほうがよほど日本的だったと思いました。
(大きな特徴として、広い意味での人間起源ではないことと人間に殺されることがないこと)

私は、大自然への畏怖と尊重が集約したものが怪獣であるべきだと思っています。(もちろん例外はあるのですが、ゴジラ限定で考えれば、必須条件である)

その感覚は、怪獣映画から学んだことなので、どの時代に生まれたとしても怪獣映画を素直に正面から受け止めていれば、大きく間違えることはないはずだと考えるのは楽観的すぎるのでしょうか・・・。
(事実、怪獣ファンだと公言する監督たちが文明・人間の従属物のような怪獣を仕立て上げてしまう現状がある・・・)

怪獣観の問題も掘り下げなければなりませんね。

追伸、今年の夏、注連寺へお参りに行ってきました。
残念ながら天井画は取り替えられてしまったらしく、四神獣ではなかったようです。

Re: 本多ゴジラの原点のこと - 海軍大臣 (?)

2016/12/26 (Mon) 12:55:41

えっ、天井絵は取り換えられてしまったのですか?
実は三年前にこのエピソードを聞き(その時は未だ絵は残っているようにお聞きしていました)、本当ならば見に行っていた筈だったのですが、親が体調を崩したため、それっきりにしてしまっていたのです。
もっと早くに行っていればと後悔しきりです。

Re: 本多ゴジラの原点のこと 殿様ギドラ (男性)

2016/12/26 (Mon) 18:13:56

注連寺の天井画は昭和初期に描かれた天女(見る角度によって輝く)、
平成元年に描かれた二頭の馬(見る位置によって親子に見えたり夫婦に見えたりする)、もっとあとに描かれたポップアートのものがありました。

記憶をたぐると、ポップアート(天井を細かく格子状に区切ってひとつひとつの中にさまざまなタッチの肖像画などが描かれている)はかなり最近描かれたものだという解説を聞いた覚えがあるので、ひょっとするともともとはここに四神獣があったのかもしれません・・・。
撮影禁止だったので、資料は注連寺のチラシしか残っていないのです。私も四神獣を見たかったなぁ。見逃したってことはないと思うんですが。

Re: 本多ゴジラの原点のこと 殿様ギドラ (男性)

2016/12/26 (Mon) 18:20:30

あ、龍はいたかもしれません。

Re: 本多ゴジラの原点のこと - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/12/26 (Mon) 20:04:35

海軍大臣さん、殿様ギドラさんこんばんは。山形の注連寺というのはこちら(http://www2.plala.or.jp/sansuirijuku/)でしょうか?鉄門海上人の即身仏で有名な寺で小学生時代から仏像や寺院に関心あった私もいつか行きたい寺の一つなんですが関西在住なので東北は遠いです(>_<)。ちなみに私龍はお気に入りでTwitterのプロフィール画像にもしています。ゴジラとも仏教とも関連性があるのが大きいでしょう。

それで怪獣の「モンスター」化なんですが、ビオランテや平成ギャオスあたりが端緒というのは私も同意します。どちらも人工物という設定なんですよね。そういえば使徒モドキ映画を絶賛している人の間でゴジラVSビオランテや平成ガメラ三部作がかなり人気のようですがやはり同じ系列ということなのでしょう。使徒モドキ映画の樋口真嗣監督は平成ガメラ三部作の特撮監督でもありますし。正直私はゴジラVSビオランテも平成ガメラ三部作も評価していませんが。

ギャレス版ゴジラやムートーは人類が生まれるもっと前から存在していた生物という設定ですし前者は数十回の核攻撃に耐えた規格外の耐久を持ち後者は半径320km圏内を停電させる電磁パルスで最新兵器が全く通用せず、核兵器の行使も住民の安全の確保どころか成長と繁殖のお膳立てというオチだったので確かに人間に殺される存在ではありませんね。

そういえばあのゴジラとも呼べない使徒モドキ、殿様ギドラさんの表現を借りればちんごじらはマキ博士が作ったかのようなほのめかしがあったようですが本当にまき博士が作ったのであれば人工物ということになりますね。まあそのあたりは庵野秀明作品でおなじみの無駄な深読みを煽る意味の無い描写に過ぎないのであまり追及したくはありませんが。いずれにせよ核兵器使わずともバンカーバスターという現行兵器で大量出血し、電車爆弾というちょっと対象が線路から離れるだけで頓挫する欠陥作戦でやられる使徒モドキに大自然への畏怖も尊重も全くないのは確実です。ゴジラ(とも呼べない使徒モドキ)も日本には勝てないという製作側の思い上がりがあるだけです。あれ?1998年にゴジラ(とも呼べない大イグアナ)もアメリカには勝てないという製作側の思い上がりが全面に出たハリウッド映画が上映されたような気が・・・。

Re: 本多ゴジラの原点のこと 殿様ギドラ (男性)

2016/12/27 (Tue) 18:25:19

芹沢亀吉さん、どうもです。

そうそう、その注連寺です。
周辺に町もない、自然に囲まれたお寺です。
本多猪四郎監督が生まれた七五三掛(しめかけ)集落は近年の地滑りで消滅してしまったというのが残念至極・・。

『シン・ゴジラ』への追い込み、まだやらなきゃいけないところなんですが、年末のごたごたで、今年の書き込みもこれが最後になるかもしれません。
年明けにはまたがんばります。

使徒モドキ映画の駄目なところをしつこく言い続けます - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/12/21 (Wed) 21:53:39

こんばんは。ゴジラに感化された者として許すまじきことがあった年がもうすぐ終わりを迎えようとしています。

Twitter上でもゴジラとも呼べない使徒モドキを礼賛する声が大きく、先日の博多の道路沈没事故も使徒モドキ映画のネタと絡めて茶化している輩が出てそんなツイートが大注目されました(参考:https://togetter.com/li/1046227)。またナンパした女性に酒を飲ませて泥酔させ、わいせつ行為をすることをヤシオリ作戦に例える輩まで出る始末です(参考:http://archive.is/3tftO)。使徒モドキ映画を妄信している輩は下手すれば人が死んでいた事故をネタとして消費したり婦女暴行の正当化のためヤシオリ作戦と言い張るなどどこまでも腐っていますよ。こうしたおぞましい風潮をTwitterの公式アカウント(https://twitter.com/godzilla_jp)が野放しにしているどころか煽っているツイートまでしているのが最低です。

そうしたおぞましい風潮に抗うためTwitter上で使徒モドキ映画の酷評を続けているとこんなところもおかしいと指摘してくれる声が寄せられるので紹介したいと思います。

一つ目は関東地方だけ助かったら他の地方は壊れてもいいみたいなことを登場人物が言っているのに他の登場人物が誰も批判しないのに違和感を感じたという声です。今までのゴジラ映画でそういう地方切り捨てを肯定する台詞はなかったですよね。いくら日本が東京一極集中の国だといっても地方を切り捨てることを映画で肯定してはいけません。というより使徒モドキ映画を過剰に礼賛している方には東京在住の人以外も大勢いるようですがその人達は自分の故郷を切り捨てる発言に何も感じないのでしょうか。感じないのであればそれはカルトに洗脳された信者と大差ありません。

二つ目は劇中で新幹線に爆弾積んで使徒モドキにぶつける場面で激怒したという声です。ご存知かもしれませんが新幹線開発には戦時中兵器開発に関わった人達が大勢関与していて、兵器開発に関わりたくないから鉄道部門へ来たと証言している人もいます。新幹線を爆弾積んで兵器にするという発想はそうした人達の思いを冒涜するので許せないのはごもっともと言う他ありません。

Twitter上でそういう声を聞いているとやはりこの使徒モドキ映画は許してはいけないという思いがますます強まりました。ちなみに「ギャレス版ゴジラは最後の核爆発の場面が甘い。」と言っていた友人にアメリカ西海岸一体に死の灰が降る恐れがあることを告げるニュースという未公開場面を収録したBlu-ray版の特典映像で見せたら「ハリウッドのゴジラ映画が死の灰が降るニュース映像の場面も撮影しているのにゴジラの本家のはずの日本は半減期二十日かよ!」と唖然とした表情で言っていました。ちなみにギャレス版ゴジラのBlu-rayに収録された未公開場面はドキュメンタリー形式になっていてフィリピン炭鉱の被爆した作業員の姿も確認できます。ギャレス監督自身2005年に広島原爆資料館を訪問し被爆者の方にも取材して『HIROSHIMA』というドキュメンタリーを製作された方なのでこういう形にしたのでしょう。最後は初代ゴジラの山根博士の台詞を髣髴とさせる解説で締めています。

Re: 使徒モドキ映画の駄目なところをしつこく言い続けます 殿様ギドラ (男性)

2016/12/23 (Fri) 18:40:25

ふぅ。
『シン・ゴジラ』に絡めてそんな愚劣なさえずりをする人間もいるんですね。
まあ、ネットの民とはそんなものですが・・。
(発言の場をネットにしか持たない私もネットの民か)

地方切り捨ての場面、細かいことは忘れてしまいましたが、なんか、官邸に集まっている報道関係者が「国を守るのは大変なんだなー」とか言うシーンに連動していたように覚えています。
結局、あの映画、ちんごじは東京周辺にしか姿を見せず、日本を守る話ではなく、東京を守る話なんですよね。
『ゴジラ』(54)も主に東京で話が展開しますが、最初にゴジラが姿を現すのは大戸島。
その後のシリーズ作でもゴジラは動き回る存在として描かれていきます。
これもゴジラを描くときには大事な要素で、怪獣の影響力の大きさを感覚的に表現しているのに・・・。
(おそらく『シン・ゴジラ』の作り手はそこに気がついていない)

ギャジラ(ギャレスゴジラの私の呼び方)との比較は、まあ、そのひとまず置いといて・・(あの作品の私の評価は2014年当時のログをご参照のこと。貶してます)
誰かが言ってた『シン・ゴジラ』が原発事故のアナロジーである説は、まったくもって噴飯ものです。
ちんごじが出す放射性物質の半減期が20日という甘々設定が醸し出すのは、原発事故もなんとかなるさという根拠のない楽観であり、原発推進派への協力姿勢としか見えません。

こんなものが第一作目の精神を引き継いでいるわけがない!

Re: 使徒モドキ映画の駄目なところをしつこく言い続けます - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/12/23 (Fri) 21:38:34

ご返信ありがとうございます。ギャレス版ゴジラへの評価が大きく異なる殿様ギドラ氏と私で『シン・ゴジラ』に関してはこんなのゴジラじゃないという見解で一致していることを言いたかったんですが、どうも私の書き方が曖昧だったようですね。失礼しました。

それで初代ゴジラなんですが、本州から遠く離れた大戸島近辺の海域にいたゴジラに防衛隊が爆雷攻撃を仕掛けた直後の場面で東京湾に姿を現し、今度は東京湾にいるゴジラに機銃攻撃したらその直後に東京上陸と日本側の武力行使がゴジラの怒りを買い東京壊滅のお膳立てをする展開になっています。だから山根博士はゴジラに光を当てればますます怒らせると猛反対したわけです。一方『シン・ゴジラ』こと使徒モドキ映画では日本側の武力行使が全くないのに向こうから東京に上陸しています。そういえば原点回帰詐欺で知られるゴジラモスラキングギドラ大怪獣総攻撃(通称GMK)も一方的にゴジラの方から日本を攻めてくる展開でした。あくまで日本は何もしていないのに勝手に蹂躙される被害者という描き方です。ゴジラを呼び寄せる武力行使の愚かさを描いた第一作目の精神はどこにもありません。

そしてもう一つ、ゴジラを倒す鍵を握る人物の描写にも大きな隔たりがあります。初代ゴジラの芹沢博士はオキシジェンデストロイヤーの秘密を守るため設計図を全て処分した上でゴジラとの心中を決行し自らの口を封じました。そこまでしたのは為政者がオキシジェンデストロイヤーを手に入れて兵器利用することを阻止するためです。設計図を焼きながら「これだけは絶対に悪魔に渡してはいけない設計図だ。」と言った芹沢博士ですが、この「悪魔」が為政者を指すことは私が言うまでも無いでしょう。一方使徒モドキ映画の方はマキゴロウ氏が芹沢博士の立ち位置のようですが、使徒モドキを倒す手がかりを残した上で入水自殺し矢口達巨災対のメンバーの大きな助けになるという展開でまるで自らの命を捨てて巨災対のメンバー(=為政者)の助けになるという人柱や特攻を美化したような描き方です。そこには為政者、国家権力に強大な力を与えるのは多くの人々を犠牲にする怪獣を生み出すのと同じくらい危険なことだという第一作目の精神は皆無です。

長くなりましたが使徒モドキ映画は第一作目の精神を引き継ぐどころか為政者側に都合のいいように改変しているのは確実です。これじゃ戦時中の国策映画と本質的な部分は何も変わりませんよ。最低です。

Re: 使徒モドキ映画の駄目なところをしつこく言い続けます 殿様ギドラ (男性)

2016/12/25 (Sun) 18:19:39

すいません、こちらこそ曖昧な書き方をしてしまったようです。
ROMの人のことも意識してしまい、単に芹沢亀吉さんのご意見に賛意を表明してしまうと、
口さがないネットの民に「なんだよ、殿様ギドラはギャレス版が気に入らなかったんじゃないのかよ」と揚げ足を取られそうな気がして予防線を張ったのでした。
相手を限定して書かなかったのが失敗失敗・・。

初代ゴジラの行動に関する分析には、私もまったく同意します。
初代ゴジラについて、訳知り顔の人々はやれ破壊者だの殺戮者だのと言いますが、作品をちゃんと見れば、ゴジラは決して好戦的ではなく、初めに攻撃しているのは人間側なんです。

そのあたりを誤解したまま、原点回帰だなどと勘違いしてゴジラを襲ってくるだけの破壊マシーンのように描く偽ゴジラ映画、そしてそんなものを喜ぶエセゴジラファンにはまったくうんざりします。

それから芹沢博士とオキシジェンデストロイヤーについても『シン・ゴジラ』との比較で言いたいことは私にもあります。
これは整理しておかなければならないことで、芹沢亀吉さんのご意見から書くべきことを思い出しました。
多分長くなるので、それはまた別の機会に。

『シン・ゴジラ』についての批評本が相次いで出版されています。 - エクセルシオール (男性)

2016/12/13 (Tue) 21:53:35

 『シン・ゴジラ』についてのまとまった批評を掲載した本が出版されていたので、紹介いたします。一つは河出書房新社の『「シン・ゴジラ」をどう観るか』、もう一つは青土社の芸術雑誌ユリイカの増刊号『「シン・ゴジラ」とはなにか』です。どちらも多数の論者が様々な観点から『シン・ゴジラ」を分析しています。
 河出書房新社も青土社も基本的に真面目な本を出版している会社であり、『シン・ゴジラ』への向き合い方はそこいらの適当なムック本とは雲泥の差だと思います。ただ、映画自体を作品として評価するものであるかはわかりません(視野が広い分、映画の評価としては的外れになっているものもあろう)。
 実は恥ずかしながら本屋で一部を立ち読みしただけなのですが、全般的にはやはり好意的評価が多いようです。ただ、中には厳しい批判説もありました(例えば、『「シン・ゴジラ」をどう観るか』の川村湊さんの評価は明確に否定的だった)。買うか図書館に行くかはともかく、一読する価値はあると思います。

 一方、前回紹介したように初めて批判説を掲載した『キネマ旬報』ですが、12月下旬号はまた元に戻ってしまいました。『シン・ゴジラ』のアメリカでの評価を掲載したコラムがあったのですが、曰く「上映館はあまり増えなかったが、評価は高かった」というものです。そこはまあおいておくとして、「おいおい」と思ったのは、『シン・ゴジラ』に対して「ゴジラ映画らしくない」という感想を述べた人を非難したマニア(無論、『シン・ゴジラ』支持者)の声をもって、世界中のゴジラファンの感想を代弁するものとして挙げていること。どうやらこの映画に否定的な私は「ゴジラファンではない」ことになるらしい・・・。ファンだって色々。勝手に一つにまとめられては困りますね。

Re: 『シン・ゴジラ』についての批評本が相次いで出版されています。 殿様ギドラ (男性)

2016/12/14 (Wed) 19:07:37

「『シン・ゴジラ』をどう観るか」のほうは私も少しだけ立ち読みしました。
おっしゃるとおり、さまざまな観点から内容を分析しているようでしたが、ざっとめくった限りでは、それぞれの専門分野に絡めて作品の裏を探るようなものに見えました。
記憶が曖昧なので執筆者名は伏せますが、某学者さんの章だけは全文読んでみましたが、わりと否定的な内容であるにも関わらず、映画作品としての出来についてはまるで浅い鑑賞しか出来ておらず、なんとも白けました。

昔の私なら、こんな本でも買って読んだのでしょうけれど、『シン・ゴジラ』に関しては、
“ヒットしたから名作”、言い換えれば“金になったから名作”とでも言いたそうな空気が見えていて、もう劇場鑑賞のためにお金を払ったのだから、『シン・ゴジラ』のためにこれ以上金を使うわけにいかない、という姿勢で臨みました。
(読むなら図書館で借りるのかな・・)

なんというか、やたらと「シンゴジ」本が出ているのは◯◯◯ンゲリオンと同じですね。
映画作品としての構造がむちゃくちゃなんだから、それを論じようとしたら論者の妄想で埋めていかなくてはなりません。
妄想喚起商売ですかね・・・。

それにしても、「シンゴジ」に否定的な人はゴジラファンではない、という妄想もあるんですか。
こりゃびっくりです。

ゴジラファンというのはゴジラが好きな人ですよね?
ではそのゴジラファンは何を観てゴジラ好きになったのか。
すでにある“ゴジラ”を好きなのではないでしょうか。
ちんごじらほど改変されまくったら、ゴジラと認めるのは難しいというほうがまともでしょう。

テレビのちょっとしたトークにも『シン・ゴジラ』の話が出てくることがありますが、そこに出てくる怪獣のことを大方は、シンゴジラと呼んでいます。
格別なマニアではなくても、無意識的にあれはゴジラではなくシンゴジラという新怪獣であると認識しているのではありますまいか。

特撮系ジャーナリズムによる世論操作もおかしなことになっています。
「特撮秘宝Vol.5」の読者による感想大会(ネットで募集したらしい)には肯定意見しか載っていない。
これはひどい。
どういう基準で選択したのか知らないが、肯定的な意見が大多数だったから全部肯定意見にしたのか?
(唯一、肯定なのか否定なのか判然としない短文感想があったけれど)
とすれば、多数決の暴力ですよ。
少数意見も採り上げなければ感想集にはなりません。
多数派が正しいとは限らないのですよ?

こんな出版物があることで、同調圧力に弱い日本人は多数派に流れる。
日本の理性は消えてなくなる・・・。

Re: 『シン・ゴジラ』についての批評本が相次いで出版されています。 - エクセルシオール (男性)

2016/12/18 (Sun) 12:06:02

 『特撮秘宝Vol5』の読者感想大会には私も目を通しました。仰る通り賛否不明の一つを除けば肯定的意見ばかりでした。全く否定的意見がなかったとは考えにくく、これは編集部の方で排除したものと考えざるを得ません(おかげでアンケートの信用性を疑われる結果になっている)。普通はいくら肯定説が圧倒的多数でも、「公平らしさ」を保つため少し(1割くらい)は反対説に紙面を割くものだと思っていたのですが。

 従来から、この種のサブカル専門誌は作品や業界に対する批判的視点が乏しいのが通例でした(アニメ雑誌が好例である)。また、批判すれば資料の使用を拒否され雑誌を作れなくなるという恐怖がメディアを不当に縛っている現状があります。とはいえ、読者投稿からすら異論を排斥するというのは流石に珍しい。ここまでくると単に腰が抜けているを通り越して、もはや自分たちが「縛られている」という自覚すらなく、積極的に礼賛一辺倒の状況を作り出しているのではと思えてきます。

 今や『シン・ゴジラ』に関する世の風潮は単なる「『シン・ゴジラ』は傑作である」から「『シン・ゴジラ』こそ現代のゴジラの正しい姿であり、それを受け入れられない者は時代遅れの愚か者である」になりつつあるのではないでしょうか。これまでの正統的なゴジラとかけ離れたものが「新たな正統」ということになるとすれば、これは恐ろしいことです。
 この不安はけして杞憂とは言えません。正道から大きく外れた作風が固定化してしまったらもう戻れなくなり、その逸脱した状態が新たに「正統なもの」として定着してしまうことがあるからです。日本の特撮ヒーローの代表作の一つ、仮面ライダーシリーズが良い例です。いわゆる平成シリーズに入ってからクリエイターが暴走して好き勝手に訳の分からない話を連発(「勧善懲悪」も「子どもが観るもの」という原則も半ば放棄した)。しかも特撮雑誌は無批判で一部のマニアが熱狂したため、現在では「もう「仮面ライダー」でなくてもいいのでは?」という状況になってしまいました(内容に関しては一時期よりかなりましなった感もあるが、ライダーの造形はひどくなる一方)。

 ゆえに『シン・ゴジラ』の歪みを是正する時間はそう多くありません。残念ながら現状は歪みの固定化に向けて動いているというほかなく、焦燥感がこみ上げてきます。
 それでも、「あれはゴジラではない」と言い続けることが肝要でしょう。それをやめると正統的なゴジラが復活する可能性すらなくなってしまうからです。
  
 

Re: 『シン・ゴジラ』についての批評本が相次いで出版されています。 殿様ギドラ (男性)

2016/12/19 (Mon) 18:35:25

『シン・ゴジラ』のことを考えると、童話「はだかの王様」を思い出します。

みなそれぞれ、賢くみられたいのか、王様を怒らせたくないのか、本質とは違う何かに慮って、王様は素晴らしい衣服を身につけている、と褒め称える。

私には明白に駄作に見える『シン・ゴジラ』(これは単にゴジラを別物に変えられたという怒りのみに発するものではなく、劇映画としてのクオリティが低いからである)。
それがなぜか傑作と言われる。

私の感覚が古いのではない。

論理的に駄作であることを指摘できるのだから新しいとか古いとかの問題ではない。
(まあ、筋の通らない映画でも頭脳の解像度を低くして楽しむのが現代流というのなら、確かに私は古いのかもしれないが)

逆に『シン・ゴジラ』を傑作だとする主張には感覚的なものしかなく、曰く「リアル」だの「一作目の精神を引き継いでいる」だのというお題目を述べるだけで、その根拠は薄弱である。

とくに、「一作目の精神」とはなんだ?
まず、それを説明していただきたいものだ。
『シン・ゴジラ』のどこに同じものがある?

と、エクセルシオールさんへのレスで息巻いても仕方ないのかもしれません。

焦燥感。

私も同じです。

映画全体の出来云々を外しても、とにかく、あれはゴジラではない、ということをどうやって伝えればいいのか。

1+1=2を理解できない、しようとしない人々に何を言えばいいのか・・・。
(まだ諦めはしません。なにか考えます)

あれはゴジラじゃない、使途モドキだ! - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/11/14 (Mon) 20:49:50

ご無沙汰です。どうも『シン・ゴジラ』の劇中に出てくるアレをゴジラと呼ぶことに違和感を感じ続けていた私ですが、あの映画を持ち上げている人達が「エヴァンゲリオン」と絡めていることを踏まえ、使徒モドキと呼ぶことにしました。エメリッヒ版同様に題名がゴジラなのにゴジラと呼ぶに値する存在が全く登場しない作品をゴジラを生み出した東宝が直々に作ったんだから凄いですよ(棒読み)。

報告が遅れてしまいましたが私が使徒モドキ映画を観たのは上映初日、つまり7月29日です。正直核兵器を使わずとも現行兵器で大量出血する場面や、線路からちょっと離れればいいものの線路から動かずに爆弾積んだ電車をぶつけられてブザマによろける場面ではスクリーンに靴を投げつけたい衝動を抑えるのが大変でしたよ。上映終了時に私の隣にいた小さな男の子が「このゴジラ気持ち悪いしやられ方が物凄くかっこ悪い。こんな映画のどこがいいの?」と言っていたのでその通りだと肯きました。そうしたら母親らしき若い女性が鬼のような顔して「庵野さんの映画にそんなこと言っちゃ駄目!」と男の子を怒鳴りつけて泣かせていました。あまりにも酷かったので私がその女性を咎めると、「庵野さんの映画を悪く言ったんだからこれくらい当然」と言い出したので真夏だったのに背筋が寒くなりました。正直庵野秀明を持ち上げている人達の不気味さは前から知っていたのですが、直接目の前にそういう人がいるというのは怖かったです。Twitter上でも私がこの使徒モドキを酷評していたら「お前なんかゴジラファン辞めろ!」「庵野さんを悪く言う奴は○ね!」等色々罵詈雑言浴びせられました。映画自体も酷いですがそれを持ち上げる人達も最低ですね。ちなみに私同様に使徒モドキを酷評して嫌がらせをされていたアカウントの話によるとニコニコ動画で常連のアニメゲーム業界ゴロが本編にエキストラ出演していたとのことです。またプロパガンダに利用された演劇や映画などについて調べている辻田真佐憲氏は東宝から「シン・ゴジラを一切批判するな」と釘を刺されたと言っています。このことを踏まえると使徒モドキ映画を批判した人への嫌がらせは東宝が仕掛けている可能性も十分にありますよ。まあ東宝が仕掛けたかどうかはともかく使徒モドキを酷評した人が嫌がらせに晒されているのは事実で、Twitterのアカウントを削除するまで追い込まれた人もいます。批判の声を嫌がらせで押しつぶしてまで絶賛する価値ある映画でしょうか?少なくとも二年前にギャレス版が公開されたときはこんな事ありませんでした。

そういうことで私はますます使徒モドキを褒めようという気が失せたのは言うまでもありません。色々な意味で私が観た今までの映画で最低最悪です。こんな映画を作ってゴジラを愚弄した庵野秀明を私は一生許しませんよ。

Re: あれはゴジラじゃない、使途モドキだ! 殿様ギドラ (男性)

2016/11/15 (Tue) 19:12:05

こんばんは!
またのご来場に感謝します。

いやはや、そんなことがあったんですか・・。
ほんとにぞっとしますね。

なんでしょうね、自分が入れ込んだ作品を作った人を尊敬するのはわかりますが、貶す人を感情的に攻撃するメンタリティはヤバいですよ。
それこそ、ファシズムに通じます。(指導者が絶対正しい!!)

私は円谷英二監督や本多猪四郎監督を映画作家として尊敬していますが、貶す人がいるならば、何がダメなのかまず聞いてみます。
その上で議論しますよ。

『シン・ゴジラ』が優れた映画だと言うならば、ちんごじら(使徒モドキ)なんかをゴジラでございとうそぶくことにどれだけの理があるのか聞いてみたいもんです。

東宝が評論家やライターに批判記事を書くな、と圧力をかけるのはありそうなことです。
これは、東宝に限らず、日本の映画業界は公開中の映画を貶すのはまかりならんと考えているようで、TVの映画レビューでもまず酷評なんて見たことがありません。
だから日本映画は空洞化していくんです。(中身の薄い空洞映画が多いぞーー。とくに大予算系)

とはいえ、ネットでステルスマーケティングぐらいはやっているでしょうけれど、批判者に対する嫌がらせまで仕掛けているとは考えたくないですね。

あ、ここにはそんな嫌がらせ野郎は来ていませんから、それほど組織的なものじゃなさそうです。

とはいえ、となると、一般のネット雀が自発的に嫌がらせをしているわけで、実に気持ち悪い、人間の浅はかさを見る思いです。

いやしかし、どう考えてもあのちんごじ映画のどこがいいのか、さっぱりわからんのです。

Re: あれはゴジラじゃない、使途モドキだ! - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/11/17 (Thu) 00:13:32

こんばんは、返信ありがとうございます。こちらには嫌がらせ野郎は来ていませんでしたか、よかったです。使徒モドキの映画自体民主主義的な手続きをまどろっこしいものとして否定的に描き、終盤は与党議員で政府高官でもある矢口が電車や工事用作業車を徴用し、民間にわけのわからない液体作らせたりと国家総動員法が施行された戦前の日本そのものです。しかもその矢口の独走による弊害は全く描かれずに見事に使徒モドキに勝利するという展開なのでどう見てもファシズムを肯定的に描いた気持ち悪い映画ですよ。批判者に対して激しい攻撃を加えて黙らせることに必死になる庵野秀明信者にはこういう映画がいいのかもしれませんが、危機管理情報局(CCI)、特に局長の片桐の独走で世界規模の危機を招くUFOが引き揚げられ、フルメタルミサイルでゴジラの怒りを買い、篠田が巻き添えで死にかけた爆破作戦が結局無駄だったりと権力の暴走による被害を物語の主軸に持ってきた上で結局それは事態を悪化させるだけという扱いだったゴジラ2000ミレニアムを高く評価する身としては唾棄すべき映画ですよ。

ゴジラ映画で現実を強く意識した内容を売り文句にするのなら、権力や武力も民間人を圧迫し生命の危機に晒す点で怪獣同然という現実もちゃんと描けというのが私の持論です。それはオキシジェンデストロイヤーを得た国家権力がゴジラのように大勢の人の命を奪うことを知っていた芹沢博士が研究資料を焼き捨てた上で自らの口封じのためにゴジラとの心中を決行した初代ゴジラの設定を尊重することでもありますので。そういう意味でもニッポン(現実)対ゴジラ(虚構)と銘打ちながら国家権力の強権行使による加害を全く描いていないばかりかまるで国家が怪獣同様に振舞って何が悪いと開き直らんばかりの使徒モドキ映画は駄目だと言っておきます。

ちなみに使徒モドキ映画海外ではいまひとつで台湾では客が入らず10日で上映打ち切り、全米上映では興行収入がミレニアムの5分の1、ギャレス版ゴジラの100分の1にも満たないという有様です。日本映画の空洞化がこういう部分でも見て取れます。ハリウッドを越えた初代を超えたと舞い上がっている人もいるようですが井の中の蛙ですよ完全に。東宝はギャレス版が60カ国で上映され五億ドル以上の興行収益を得たので100カ国で上映しその上を行こうとしたようですが、見事にコケたわけです。世界的知名度のあるゴジラの名前を使っても出てくるのがゴジラとも呼べない使徒モドキだからまあ当然ですね。世界に誇るゴジラを自ら崩したのが『シン・ゴジラ』といえるでしょう。

Re: あれはゴジラじゃない、使途モドキだ! 殿様ギドラ (男性)

2016/11/17 (Thu) 19:44:35

ああ、おっしゃること、よくわかります。

権力や武力というものが、人の心を惑わせる麻薬であることを物語作家は知るべきです。
というか、それを知っていた作家こそ歴史の風雪に耐えて長く残る作品を作り得たはず。
(権力の尻馬に乗ったような作品が後世に残っていますか?)

ここまで個人名を出して批判することは控えてきましたが、
庵野秀明氏、もっとも好きな映画作家は岡本喜八であるとおっしゃる。
岡本喜八は私も好きです。
それは、彼の反権力、反骨精神に共感するから。
そんな岡本喜八を好きだと言いながら、権力者の強権発動に何の批判も加えないストーリーの映画をよくも作りやがったな、という怒りも抜きがたいです。

ゴジラを間抜けで気持ちの悪いでくの坊にした罪と同じぐらいの憤りを感じているのです!
(海外でコケましたか。当然ですね)

ようやくやっと - エクセルシオール (男性)

2016/11/07 (Mon) 22:53:04

 「社会現象を起こした」などとも評されていた映画『シン・ゴジラ』ですが、ほとんどの映画館で上映が終了し、ようやく世間も落ち着いてきたようです。これでやっと冷静な論評が行える状況になったとも言えますが、実際のところ、上映終了と同時に話題に上らなくなった感もあり、結果としてそれまであふれかえっていた礼賛意見のみが残留するという事態になってしまうおそれもあります。

 何ともお寒い状況ですが、そんな中、この作品について私が知る限り初めて批判的なコメントが映画雑誌に載っていたので紹介します。それはキネマ旬報2016年10月下旬号(1730号)の154~155頁に掲載されていた日本映画時評332(執筆者、山根貞男)。このコラムは『シン・ゴジラ』のみを取り上げたものではなく、いくつかの作品を挙げながら最近の映画は「粗雑で不明晰な表現で観客の恣意を誘い込む装置になっている」と論じたものです。そして、『シン・ゴジラ』に関しては、この作品は「ウルトラ級の粗雑な映画」であり、そのために強大極まりない誘因力を持ってしまっていると評しています。若干婉曲的な文調ではありますが、ゴジラの災厄性と東日本大震災・津波・原発事故を同列に並べると粗雑に自然災害と人災を同一次元に置くことになるとの文言もあることから、『シン・ゴジラ』に批判的な立場を採っていると考えてよいと思います。

 これは礼賛一辺倒だったこの映画に対する言説がようやく変わり始めたことを意味するのでしょうか。だったらよいのですが、同じ雑誌には他の執筆者による礼賛論も載っており、今のところあくまで例外的なものと言わねばならないでしょう。でも、公刊された雑誌それも最も有名な映画雑誌に批判的言説が載ったことは軽視できません。後に続く批判説の登場もそれなりに期待できると思います(半分願望なのですが)。

Re: ようやくやっと 殿様ギドラ (男性)

2016/11/08 (Tue) 18:26:30

おお、『シン・ゴジラ』に関しては、まだまだ追及の手を緩めてはいけないと思いつつ、作品そのものに対しての書くべきことはおおむね書ききったとの思いもあり(ほんとうに細かいことはまだいくばくかあるのだけれど)、さて、どうしたものかと行き詰まっていたところに、良い材料をいただけました。

山根貞男さんがそんな議論をなさっていましたか。

>粗雑で不明晰な表現で観客の恣意を誘い込む装置になっている

この表現には膝を打ちました。

全文は読んでいないので、誤解があるやもしれませんが、これは私が近年感じていることを短く明快に説明した文章と読みました。

おそらくその嚆矢はTVアニメ「エヴァンゲリオン」なのでしょう。
同じ手法を用いたゴジラ映画は『ゴジラモスラキングギドラ大怪獣総攻撃』。

劇中で何が起こっているのかという説明を曖昧にして、刹那の描写だけで注意を引き、描いていないことを観客が勝手に創作して楽しみとする作風。

それは表現なのか?
作品なのか?

作品を読むということは、作中に描かれたことを細かいところまで受け取って解釈することであり、
作中にまるで描かれもせず、説明もないことを観客が補足して欠陥作品を補完することは二次創作である。

『シン・ゴジラ』の欠陥を補足するためには膨大な二次創作をしなければならない。

少なくとも私が映画を見るときには、作品が何を訴えているかを受け止めようとします。
作品に中身がないときに、無理矢理補完してやる必要などない!

のですが、さて昨今のお客さんは自分本位ですから、作品が何を言わんとしているかより、見たものを材料に自分が何を編み出したかを自慢することに注力しているようでもあり・・・。

というわけで、山根貞男さんのような大ベテランの評論家ならいざ知らず、映画にまつわるトリビアの数を自慢するしか能の無いようなチンピラ評論家だと、『シン・ゴジラ』を批判するほどの映画力を持ち合わせていないでしょうから、今後の批評がどうなっていくのか、なんとも心許ないところですね。

映画が商品である以上、ヒットが正義で、映画ライター諸氏にもヒット作をこき下ろす度胸のある奴がどれほどいることか・・・。

いかんいかん、悲観的になりすぎですね。

さあ、迷っている人々、映画の偉い人が『シン・ゴジラ』を貶しているんだから、安心して貶していいんだよ!

和製エメリッヒガッズィーラ - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/09/25 (Sun) 10:37:46

こんにちは。シン・ゴジラについて言いたいことがあるので再び投稿させていただきます。

シン・ゴジラは東日本大震災を象徴しているとのたまう輩がいますが、ギャレスゴジラみたいに原発倒壊や津波にしか見えない大波が人や街を飲み込む場面も無い映画に対して何寝ぼけた事言ってるのよと呆れるばかりです。そもそもシン・ゴジラって原発について言及は少しだけあるものの肝心の原発は全然出てこなかったですし。

原発といえば、シン・ゴジラの劇中では福島原発事故の汚染水漏れ(参考:https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%81%AE%E6%B1%9A%E6%9F%93%E6%B0%B4%E6%BC%8F%E3%82%8C-189567)には一切触れず、アメリカが海中投棄した放射性物質を摂取しているという設定です。そして劇中のアメリカは自国の失態を隠すためにゴジラの存在を隠蔽しますが、これどこかで見たことありませんか?そうです、アメリカの核実験には一切降れずゴジラ誕生をフランスの核実験のせいにし、フランスはそのことを隠蔽するというエメリッヒ版ゴジラの二番煎じなんですよ。そういう意味ではカヨコはエメリッヒ版のフランス諜報員フィリップに相当するといえるでしょう。正直フランスを事件の元凶にするという筋書のためだけに出演させられたジャン・レノ氏が気の毒でなりません。

エメリッヒ版ゴジラには核爆発の直撃に耐えたイグアナがミサイル数発で死亡するという致命的な設定ミスがあります。そしてエメリッヒ版を否定しているくせにキングギドラの引力光線を吸収して強化された放射熱線を吐いた時はなんとも無かったゴジラの傷口に対ゴジラ用兵器でもないD03削岩弾であっさりと穴が開くという同じような設定ミスを繰り返したのがCMKです。そもそもエメリッヒ版にこのような設定ミスが生じたのは、製作側が最後はアメリカ軍の武力でゴジラを倒してアメリカ万歳という展開にしたからです。GMKも自国の武力でゴジラを倒すというエメリッヒ版の展開を猿真似したせいで設定ミスまで真似てしまうという間抜けな事態に陥りました。そしてシン・ゴジラもゴジラをやられ役にしてわが国万歳というエメリッヒ版と同じ種類の映画なのは疑いようの無いことです。そこには初代ゴジラにはあった人間批判の精神は全くありません。

ちなみにシン・ゴジラの劇中ではゴジラを倒す作戦はヤシオリ作戦と呼ばれますが、このヤシオリとは八岐大蛇を酔わせるためにスサノオが飲ませた酒を指すそうです。八岐大蛇退治自体中央政権による地方豪族討伐や自然開発(と称した自然破壊)を美化したものだという見方があります。私から言わせれば八岐大蛇討伐に例えること自体、核の権化であり自然の脅威の象徴でもあるゴジラも日本政府なら制圧できるという驕りそのものですよ。こういう部分もゴジラといえどもアメリカ軍には勝てないというエメリッヒ版と同じ思い上がりを感じます。どこまでも和製エメリッヒガッズィーラなんですね。

エメリッヒ版をあれだけ叩いていた日本においてそのエメリッヒ版の駄目なところを猿真似したシン・ゴジラが大ヒットしエメリッヒ版との類似性を批判的に指摘する声がまるで上がらないというのは、以前指摘したように外国のゴジラというだけでどこが駄目なのかも全く理解せず叩いているだけの日本人が多いということです。島国根性という日本人の病理を今私は痛感しています。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ 殿様ギドラ (男性)

2016/09/26 (Mon) 18:52:03

またのご投稿、ありがとうございます。
言いたいことはどんどん書いて下さい。

ご主張の中でちょっと気になったので、手持ちのビデオで確認しましたら、エメリッヒトカゲは、核爆発の直撃を受けているわけではなくて、核実験場の近くに生息していた海イグアナが死の灰の放射線で奇形化したものだという設定でした。
冒頭の核実験は1968年のもので、その後繰り返された核実験の影響でいつの間にかあの大イグアナが生まれたということですね。
その設定から考えれば、ミサイルで死ぬのも仕方ないところなのですが、それこそ、ゴジラとは全く別ものである証拠でもあります。

GMKの白目に関しては、私の見方では、劇中で「ゴジラは武器では殺せない。なぜなら霊だから」と言っておきながら、結局は物理的な攻撃で傷を負わせ、さらには穴から熱線漏れ、そして自爆、というどこが霊体なんだよっ、と思わせる自己矛盾がイタいです。

『シン・ゴジラ』での原発は、ちんごじらのことなんですよ。
体内に原子炉があって、その冷却がどうのこうのと生体原子力を思考実験で作ったのではなく、現実の原子炉をそのままなぞったような設定を持ち込んで、放射性物質を垂れ流すことまではなぞりながら、その放射性物質は現実の原子炉から飛散した(または冷却に使った汚染水が漏れている)放射性物質よりずーっと御しやすいものに設定して、まるで原発事故もコントロールできますと言っているような、現実無視の脳天気ストーリー。

このあたりも、どうにも権力者に媚びを売っているようにしか見えない作りです。

そんなものを作ってしまうアレな表現者が出てくることも悲しいけれど、批判の嵐が巻き起こらないのがもっと悲しい。
日本人よ、正気を失ってないか

そうそう、ヤシオリというのが八岐大蛇に飲ませた酒の名前から来ているらしいという話はその後ネットで読みました。
おっしゃるとおり、ちんごじら退治の作戦名としてそんなものを使う感覚にも、なにか危ういものを感じますね。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/09/27 (Tue) 20:25:50

返信ありがとうございます。

すみません、ちょっと誤解があったようですね。殿様ギドラ氏の過去ログを拝読してちんごじらが原発を指しているという見解は存じ上げておりましたし私も同意します。ただ私が言いたかったのは福島原発など日本の原発が全く出てこなかったという事なんですよ。水や空気だけで生存・活動ができる生物かもしれないなんて意味不明な設定を台詞で追加するより、ゴジラが福島第一原発襲撃して核エネルギーを食べる場面入れた方が単純に映像として見応えあります。第一文言で「ニッポン(現実)対ゴジラ(虚構)」と言っておきながら原発事故という重い現実に触れないのは私から言わせれば文言詐欺ですよ。ちなみに私はこの文言大嫌いです。虚構や欺瞞だらけの日本の実態に背を向けてますし本来ゴジラが象徴している重い現実を余りにも軽んじていますので。だからといって文言でニッポン(現実)とまで言っておいて原発事故に全く触れなかったり半減期20日というオチでお茶を濁す本編を褒める気には全くなれませんが。

それはそうとエメリッヒトカゲって冒頭の場面でキノコ雲が上がった方向をじっと見ていたイグアナじゃなかったんですね。正直言って大嫌いな映画でここ十年くらい全然観てなかったんで勘違いしてたみたいです。どちらにせよGMKがエメリッヒトカゲ否定してるくせに自国の武力が敵を倒すという展開を模倣して強化された放射熱線吐いた時は何ともなかった傷口に対ゴジラ兵器でもない削岩弾であっさり穴が開くという致命的な設定ミスをしたことや、ちんごじらが自国の罪を棚に上げてゴジラ出現の元凶を他国のせいにした上にゴジラをやられ役にしてわが国万歳というエメリッヒ版の駄目な部分を猿真似したことに代わりはありませんが。
※あの大イグアナもちんごじらもゴジラとは呼べない存在ですが今回は便宜上ゴジラと表記しました。

ちなみに私ちんごじら観る前はあの焼けただれたように見える姿は核爆発の直撃に耐えた証と思っていました。ところがいざ本編を観るとあの珍妙な姿のお陰でただ変異してああなっただけで核爆発とは無関係だという事が判明したので見掛け倒しかと呆れました。その上ちんごじらが現行兵器であっさりと大量出血する場面を観た時はあの大イグアナがやられる場面観た時に感じたのと同じ種類の怒りを感じましたよ。自衛隊の総火力攻撃で微動だにしなかったのに、爆弾積んだ電車をぶつけるという幼稚な作戦でよろめくちんごじらの姿は威厳のかけらも無くて出来の悪いヤラセ番組にしか見えませんでしたし。正直映画自体は駄目でもゴジラが魅力的な存在なら帰りにフィギュア買おうと思いましたがその気も完全に失せました。私がミレニアムを評価する理由の一つにゴジラの放射熱線を食らったオルガが原爆の犠牲者みたいに焼けただれた姿になる場面を入れたことがあります。それだけにちんごじらの焼けただれたように見える姿がただの突然変異で核とは無関係と判明した時は大いに落胆したんです。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ 殿様ギドラ (男性)

2016/09/28 (Wed) 18:26:25

あ、そういう意味だったんですね。原発が出てこない、ということ。

それは、私も大いに同感です。
ニッポン(現実)などと言っているから、当然、劇中で3.11に触れるものだと思っていたら、あの大災害、大人災にはまるで触れず。
あの日本はどこの日本なんでしょうか?てな案配でした。

そうそう、そして、現実の原発事故という日本の大きな罪に触れることなく、きわめて曖昧にマキゴロウの妻がむにゃむにゃとお茶を濁し、
挙げ句の果てにそのマキ氏がちんごじらを作ったかのようなほのめかし。

ゴジラは核実験の影響で姿を現したものであり、ゴジラと核エネルギーの関係に言及するなら核兵器を批判する構図でなければならない。

しかし、『シン・ゴジラ』が現政権にすり寄る映画なら、核兵器を否定するわけにはいかないのでしょう。
(劇中のこまごましたところに、いまの政府の方針を支持するようなくだりがある)
アメリカの核兵器を自国のために使ってほしい、と思っているんじゃ、核兵器廃絶なんて言えませんからね。
『シン・ゴジラ』後半で主人公が核攻撃を回避しようと努力して見せても、それは東京に核爆弾が落とされるのは嫌だと言っているだけで、核兵器そのものを否定する視点はない。
おそらく、敵国に撃ち込むなら大賛成なのでしょう。

おっと、いけない、また腹が立ってきました。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ - エクセルシオール (男性)

2016/09/29 (Thu) 22:53:38

 ヤシオリ作戦については劇中で主人公の矢口蘭堂がその名称を言った時、何の説明もなかったので面食らいました。誰か一人くらい「ヤシオリってなんすか?」と聞いてくれると思っていたら、みんな疑問も抱かず物語が進行したのでもやもやしたまま映画を観ることになりました。「ヤマタノオロチに飲ませた酒」の名前なんか知る人の方が少ないでしょうに。この辺は、スタッフのオタク的発想がさく裂した感じです。

 さて、おそらく本作品のゴジラが東日本大震災とその後の原発災害を象徴しているという見方は、多分もたらした被害とゴジラが凍結されただけで危機は存続しているから、福島第一原発と同じであると解釈しているのでしょう。しかし、青空の下でゴジラが固まっている構図は危機と言っても完全にコントロール下にあるという風にしか見えません(現実はまるで違うのに)。あれでも、曇天の下、廃墟の中で主人公たちが沈痛な顔をして立ち尽くしているところで終わっていたり、最後にゴジラの活動再開を示す描写があったりしたらまだしも、そうではないのですから、本作品のゴジラが東日本大震災(と原発災害)の象徴と言うのは無理があります。

 笑えるのは矢口にしてもカヨコ・アン・パタースンにしても、沈痛さの欠片もないこと。やれ「首相になる」「総選挙だ」「大統領になる」云々、お前ら自分の出世しか頭にないのか?と思いたくなります。カヨコの将来がどうなるかは知りませんが、少なくとも矢口達の未来は明るい。「ゴジラを倒して日本を救った英雄」として彼と彼の所属する政権与党は総選挙で圧勝するでしょう。なお、その与党をわざわざ「保守第一党」としている点がきな臭いですね(野党、特に革新政党はまるで出てこないのに)。

 それから日本政府が核兵器の使用を認めてしまったことには驚きました。徹底的に反対したのに核攻撃が強行されたというシナリオならばまだしも、自ら容認してしまうという展開はやってはいけないことでしょう。これをリアリティなどという言葉で正当化されてはたまりません。
 思えば、1984年の『ゴジラ』ではゴジラに対して核攻撃を行おうとした米ソ両大国に対して、小林桂樹演じる三田村首相は非核三原則を盾にその要求をはねつけ、両国首脳を説得しました(「安全な核兵器などありえない。一度使われるとおしまいである」「あなたたちの首都ワシントンやモスクワでためらわずに核を使えるのか」と)。孤立も恐れず信念と理想を貫いた三田村と比べて、本作品の政治家たちは何と情けないことでしょうか。なお、本作品では東京核攻撃に関して、わざわざ「ニューヨークでも同じ」という台詞が入れられています(アメリカは自国ではないから平気で核兵器が使えるのでは?」という疑問を打ち消している。そこまでする必要があったのか)。

 もしも、矢口達の奮闘で事態が収拾されかけたにもかかわらず、アメリカが自国の思惑で核攻撃を決行し、東京は消滅、そのうえでゴジラがさらに強化され「我々の良く知っているゴジラ」になるという結末だったならば、この作品はそれなりに高評価できたかもしれません。でも、実際にできたのは今までのゴジラシリーズの真面目な部分をとうとう根こそぎにしてしまった作品だったと思います(これまでも特にミレニアムシリーズでじわじわと壊されてはいたのですが)。

 余談ですが、『新世紀エヴァンゲリオン』の「決戦、第三新東京市」というエピソードで登場した第5使徒ラミエルは、一定の距離に近づいた物体を強力なビーム砲で自動的に排除するという存在でした(本作品のゴジラに類似)。そしてラミエルを倒した作戦が「ヤシマ作戦」でした(日本中の電力を徴発して陽電子砲を発射する作戦)。『シン・ゴジラ』については「エヴァンゲリオン風ゴジラ」という意見がありますが、当たらずとも遠からずですね。なお、「エヴァ風」については肯定的に見る人が結構多いですが、私は「ゴジラはゴジラだ。エヴァンゲリオンじゃない。なんてことをするのだ」と思いました。

Re: 和製エメリッヒガッズィーラ 殿様ギドラ (男性)

2016/10/03 (Mon) 18:32:39

エクセルシオールさん、遅レスすいません。

『シン・ゴジラ』が原発事故のアナロジーだなんて評は噴飯ものですね。
たしかに、表面的にはちんごじらは動く原子炉であり、放射性物質をまき散らすのですから、あの原発事故からヒントを得ているとは言えるでしょう。
けれども、現実に起こった原発事故よりはるかに軽微な放射能汚染しかもたらしていない。
原発事故にさほど関心の無い層が見れば、原発事故も為政者が解決してくれるだろう、という観念を植え付けられる可能性が高いです。
『シン・ゴジラ』の悪質さはそこにある。

戦時中の国策映画に似ているのです。
(たしか『五人の斥候兵』1938日活だったと思うのですが、日本の高邁な理想を理解できない中国人が抵抗しているのだ、という理屈で侵略を正当化している)

さまざまにポンコツな映画ではありますが、東京への核攻撃が強行されその結果怪獣災害以上の惨禍が巻き起こるというエンディングだったら、私もここまで怒りはしなかったでしょう。
あるいは、ヤシオリ作戦は人間の浅知恵でしかなく、怪獣にはなんの効力もなくて、ちんごじらの怒りを買ってさらに被害拡大なら・・・。(実は、エンドロールが流れ始めるまで、それをやるんじゃないか、と一縷の希望にすがっていた)
ダメですね。あの怪獣は人間が作ったもの、という発想ですから、そりゃ、人間の(エセ)英知で倒されますわな。

「エヴァンゲリオン」との共通点で喜んでいる輩は、一個一個の作品とは何か、という創作物への向き合い方が狂ってますよ。
同じ作者なら似たところが出てくるのも仕方ないでしょうが、設定にせよ演出にせよ、その作品に適合しているかどうかが問題であって、他作品との共通自体は何の意味も無い。

『シン・ゴジラ』礼賛ファシズム? - エクセルシオール (男性)

2016/09/18 (Sun) 16:40:18

 十数年前に何回か投稿したことがある者です。今回、久しぶりに投稿させていただきます。

 話題の映画『シン・ゴジラ』ですが、私もひどい映画だと思いました。その理由の多くは管理人さん達がすでにおっしゃられているので簡潔にまとめますが、①こんな気色の悪い肉塊は「ゴジラ」などとは言えない、②現実に存在する兵器で進撃が止まったり、重傷を負ったりするなど許せない、③日米連合軍でゴジラを倒すなどきな臭すぎる点が多い、④人間のキャラクターにシンパシーが抱けずまるで機械みたいに無味乾燥、⑤解釈次第だが「原子力ムラ」が喜びそうなラスト、⑥初代ゴジラまで「無かったこと」にするなどけしからん(しかも今回のゴジラは「アメリカの核兵器実験で生まれたという設定ではない」)等々といったところです。

 ただ、私が気持ち悪いと思っているのは、この映画に関して、現在のところほとんど礼賛一辺倒になっていることです。ギャレス版『ゴジラ』の場合も上映当時好評価が大勢でしたが、厳しい批判を浴びせる人も少なからずいました(例えば映画監督の想田和弘氏等)。しかし、本作品に関しては物議を醸しそうな要素が大量にある映画であるにもかかわらず、批判らしい批判をほとんど目にしません(一例として代表的な映画雑誌『キネマ旬報』のここ最近のいくつかの号における本作品の評価)。右も左も上も下も礼賛ばかりでまるでファシズムみたいな感じです(そういえば『シン・ゴジラ』に「58点」をつけていた人がネットで袋叩きにされていたこともあった)。

 思うに、この映画を積極的に評価する論者は、作品を深読みし過ぎているのではないか?本来、素直に作品を観て受け止めるべき部分に無用の考察を行い、結果として好意的に解釈してしまう、その結果批判すべきところが分からなくなっているような気がします(特に批判的立場に立ってもよいような進歩派の論者が本作品を支持することの説明がつく)。そういえば総監督である庵野氏の代表作『新世紀エヴァンゲリオン』だって似たような経過をたどっていました。誰も彼も作品を深読みして、その実態は「中途半端で終わってまともな落ちをつけられなかったにすぎない」アニメを、深慮遠謀に基づいた大傑作のようにしてしまいました。これは困った傾向です。

 このような「礼賛ファシズム」のような現状で、きちんと体系だった批判をしてくださった管理人さんと他の利用者の方々には感謝の一言です。「おかしい」と思っている人が自分だけではないと知ったのみでもほっとします。

 私はVSシリーズくらいまでは好きでミレニアムシリーズくらいから「ゴジラは許容限度を超えておかしくなった」と思っている者なのですが(特に『GMK』)、とうとう行き着くところまでいってしまったみたいです。『シン・ゴジラ』みたいな映画が「ゴジラ映画史上最高傑作」などと言われるのは、おそるべきことです。この映画はせいぜい「シン・ゴジラ」というゴジラとは別種の怪獣が登場する作品と解するべきでしょう。なお、余談ですが「ゴジラ」の名を持つゴジラ以外の怪獣と言うのは実在します。特撮ヒーロードラマ『ミラーマン』にハリゴジラ、モスゴジラという名の怪獣が登場しています。

 最後に、次のゴジラ映画は何とアニメ映画だそうです。ゴジラのアニメは過去にも存在しましたが(確か『すすめゴジランド』という可愛いアニメがあった)、本格的な映画版となると初めてです。アニメマニアに受けている虚淵玄氏がつくるそうで、また変な話ができる虞があります。虚淵氏と言えば『魔法少女まどかマギカ』や『フェイトゼロ』といった陰鬱極まる作品で有名ですから(もっとも、『翠星のガルガンティア』のようなわりとまともなストーリーも作っているので、全くダメというわけではないが)。最低限、人間なんぞにやられない強いゴジラを作ってほしいです(もはや自衛隊と手を切らないと難しいだろうが)。

 

Re: 『シン・ゴジラ』礼賛ファシズム? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/19 (Mon) 19:16:20

おおお、エクセルシオールさん、お久しぶりです。
何年経ってもこうして再び訪問していただけるとは、感謝感激です。

そして、なんと良いタイミングでしょう。
私も、『シン・ゴジラ』そのものより、それを取り巻く批評・論評に大いなる違和感を感じ、ここでもそろそろそのあたりの話が出来るといいな、と思っていました。

私はそれほど批評記事を漁ってはいないのですが、それでもテレビ・新聞などから聞こえてくる『シン・ゴジラ』評が妙に好意的だなと感じていました。

私がどう思っているのかはさんざん書きましたから、なぜ高評価になるのか理解できないのはみなさまにも十分わかっていただけると思いますが、
では、褒める人はなぜ褒めるのか?

そのヒントはすでに12年前、エクセルシオールさんがお書きになっていました。
「東京SOS」掲示板、2004年2月6日のご投稿
266 Re:キネマ旬報 エクセルシオール 2004/02/06 13:03
男性
 批評の内容については人それぞれだとは思いますが、キネマ旬報に載ったような批評を読むと、「何かずれてるな」という気持ちにとらわれま す。そこでその原因を私なりに考えてみました。

 まず、怪獣映画の独自性に対する理解が、映画評論の世界では乏しいのではないでしょうか。大抵の映画においては人間が主役であり、人間ドラマ(本編部 分)を追っていくことが中心となります。ゆえに批評もその部分が中心となり、特殊効果というものが使用されていたとしても、それは評価の中心にはなりませ ん。しかし、怪獣映画においては怪獣が主役で人間は脇役です。このことは無論、本編部分を軽視することではありません。良い本編が必要なことは当然です。 しかし、良い怪獣映画となるには怪獣が脇役であってはならないはずです。しかしながら、近年の怪獣映画はこの作品も含めて「人間が主役」になっています。 だが、そうなったとしても普通の映画と同じように人間ドラマを中心にした批評では、そのことに気づかないのではないでしょうか。もっとも、私個人はこの作 品の本編部分も評価できませんが。

 第二に、今の映画批評(この点に関しては特撮批評も同じ)の現状に批評・批判をやりにくい傾向があるのではないか、という問題があると思います。つま り、特撮業界(制作者等)が「悪口を書かれる」ことを忌み嫌うため、関連メディアが有形無形の「仕返し」をおそれて、まともな批判ができない傾向にあるの ではないかということです(アニメ業界の現状がいい例です)。もし協力関係を失えば紙面が構成できなくなる。それを恐れて欠点を感じてもその作品に対して 正面から批判できない。そんな空気を感じます。しかし、これでは「ご用記事」ばかりとなり、結局は対象となるものを駄目にします。これは個々のライターで は対処するのは困難です。

 最後に、私は自由な批評の存在は良い映画のために不可欠だと思います(たとえ耳に痛いことであっても)。しかし、今の特撮業界にはそれが乏しく、その結 果、駄作も「傑作化」させられているのではないでしょうか。
************************
全文引用しました。
『シン・ゴジラ』、怪獣を無視して人間部分だけ見ると、まるで社会派ドラマのような雰囲気です。
(それも内容が薄っぺらであることは指摘しておりますが)
怪獣映画に理解のない人は政治家や官僚が右往左往する様子だけで人間ドラマがある、と思い込むのでは?

そこに加えて、ライターたちの苦境から貶す記事が書けないとすれば、マスコミには礼賛記事があふれることになります。

映画批評に意識的でもない一般観客となると、テレビ・雑誌・新聞が褒めているなら傑作なんだろう、と思うのは当然。

さらに日本社会の特質である強い同調圧力がかかって、批判意見は圧殺される。

昨今の日本の政治状況も合わせて考えると、空恐ろしいです。
しかも『シン・ゴジラ』という映画は政府に多大な権力を与えるべし、とでも言いたげなストーリーでしたし・・・。

さて、どう対処すべきか。
いまはこんなマイナー掲示板で吠えることしか出来ないのだけれど。
(BBSというものもすっかり廃れて、いまはみなさん、ツイッターでさえずるんでしょうけれど、長文が書けないシステムでは深い議論など出来ません)

・・・あ、そうか、「ミラーマン」に◯◯ゴジラたちがいたっけ。そう、『シン・ゴジラ』に登場する奴も、名前がシンゴジラだったらまだマシだったのに。(そして、ゴジラシリーズ扱いにはしないこと!)

Re: 『シン・ゴジラ』礼賛ファシズム? - エクセルシオール (男性)

2016/09/20 (Tue) 20:39:16

 自分でも半ば忘れかけていた投稿を思い出させてくれてありがとうございました。『シン・ゴジラ』がほとんど批判を受けない理由には確かに①怪獣映画の独自性に対する等閑視、②メディアが業界の報復を恐れて批判しないというものもありますね。これらの要素も12年前よりも弱まっていることはないでしょう。

 さて、私の見立てではおそらく半年くらいは礼賛一辺倒が続くと思います。でも、上映が終了し、皆の頭が冷えてくれば、きっと「この映画はそんなに立派なのか」と考える人もある程度は増えてくるのではないか。ただ、あくまで「ある程度」なのでどこまで揺り戻しが来るかは心もとないですね。

 とはいえ、冷静になってこの映画を考えて疑問を抱いた人がいる場合、その道しるべとなるべき体系だった批判説があるのとないのとでは大違いです。その場合、管理人さんをはじめとした本サイトの批判説はきっと役に立つことと私は思います。

 それにしても「ゴジラ気色悪い」という素朴な疑問すらあまり目にしないのは驚異的です。魅力ある怪獣はどれもかっこよさが必要なはずですが、本作品の「シン・ゴジラ」にはそれがありません。おまけに「分裂する」だの「小型化する」だの「翼が生えて空を飛ぶようになる」だの、いくら何でも無茶苦茶すぎると思いました。ここについてすら「もうゴジラじゃねえ」という非難の声が聞こえてこないのですから、確かに深刻です。

 なお、余談ですが『太陽の蓋』という映画がほぼ同時期に公開されていました。東日本大震災による原子力災害をテーマにした作品でしたが、この作品の方が政府の描写も含めはるかに迫力がありました。終わり方も『シン・ゴジラ』のような能天気なものではなく、危機は全く終わっていないということがひしひしと伝わってくるラストとなっています。この映画と比べると『シン・ゴジラ』程度で「社会派」などと言うのは片腹痛いですね。

Re: 『シン・ゴジラ』礼賛ファシズム? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/22 (Thu) 17:38:21

またのご投稿に感謝いたします。

この掲示板がなんらかの役割を果たせるなら本望です。

それにしても、確かに、難しいことを抜きにしても、
「あんなもの、ゴジラじゃない!」という単純な反応すらほとんどないというのは、どうにも解せません。
有名キャラクターの変容について「時代に合わせて変わることで生き延びてきた云々」などと論評する向きもありますが、
ゴジラに限らず、改変の中身を分析、批評した論説を目にした覚えがありません。
創作に於いて新しいことに挑戦するのは必須ではあります。
しかし、新しい・変容=正当とは限らないということを忘れているのではないでしょうか。

以前も書いたことですが、キャラもので主役を変容させるのは、新奇さを打ち出す方法としては安易なやり方。
変わらぬ主人公で新たな物語を生み出すのが正当というものです。

それから、『シン・ゴジラ』に関すれば、主役の改変のみならず、映画作品としての出来も相当にポンコツ。
それなのに絶賛の嵐とは、映画読み取り能力(映画リテラシーと言ってもいいか)の低下が懸念されます。
中身を勝手に二次創作して、意味を読み解いたように勘違いするなどもってのほか。
まずは描かれたことを正面から受け止めよ、と言いたい。
(エクセルシオールさんがおっしゃったことと同じですね)

『太陽の蓋』、そんな映画があったことすら知りませんでした。
テレビ・新聞だけではちゃんとした情報が入ってこないのを痛感です。
とくに原発関連だとどうもいろいろあるみたいで・・・。
それでも劇場公開されたということは、セルソフトも出るでしょうし、放送もされるはず。
かつてノーチェックだった『東京原発』をWOWOWの放送で見たときにはぶっとんだものです。
『太陽の蓋』、機会を見つけて必ず見ます。

ちんごじら(笑) - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/09/11 (Sun) 12:46:02

はじめまして。私は以前GMKの欠陥について色々考察したまとめ(http://matome.naver.jp/odai/2146685175745147701)を作成し、ちんごじら(笑)にも多大なる不満を持っています。

最初出現した時のゴジラの姿がCG雑過ぎて出来の悪い着ぐるみにしか見えませんでしたし、早口で一本調子な話し方のせいで登場人物の大半が個性死んでますし、踏み切りにいた老人の安否の気遣いもしなかった主人公の矢口が民間人への被害を理由にゴジラへの核兵器行使を決定したアメリカ政府や国連安保理に反発したと思いきや自分は民間人が運転するコンクリートポンプ車をゴジラの間近に生かせて何台か犠牲にしてどう見ても民間人を死なせているようにしか見えないなど脚本が粗悪なせいで深刻なダブスタが発生しているんですよ。

総理に全権委任する特別立法を出すことや、矢口が国家総動員法よろしく民間の通勤電車やコンクリートポンプ車までゴジラを倒すのに使う展開は国家権力による上位下達こそ正しいという国家主義丸出して見ていて不気味でした。太平洋戦争で300万人の日本人が犠牲になったことには触れても(2000万人以上のアジア人が日本の始めた戦争で犠牲になったことには一切触れず)、その戦争を推し進めた上位下達の仕組みを全面的に肯定しているようでは駄目ですよ。

ちんごじら(笑)を福島原発事故後の日本を正確に描写していると言ってる人いましたが、二年前のハリウッド版とは違って津波も原発倒壊の場面も無く、日本政府の隠蔽工作や原発事故に無関心な大多数の日本人という実態には全く触れていないのによくもまあそんなデタラメが言えたものです。劇中ではちんごじら(笑)は日本の技術とやらで凍結させられますが、福島第一原発の凍土壁に300億円の税金使っても失敗するという日本の技術の実態とは大きくかけ離れています。「ニッポン(現実)対ゴジラ(虚構)」なんて言いながらみっともない話です。

そういえばちんごじら(笑)の中国やロシアを名指しで地政学的に敵みたいなことを言っちゃう場面がありますが、もし中国が日本を名指しで地政学的に敵と言い張る映画を製作すればちんごじら(笑)を絶賛している人の大半は「映画使って日本への敵意煽るな!」と激怒するのは目に見えています。他の国にされたら怒ることを平然とやってるのにその不味さにも気がついていないんですよ。前述のまとめにも書きましたが、GMKはエメリッヒ版を否定しているくせに自国の武力でゴジラを倒す展開を真似て同じような設定ミスを繰り返しています。そのGMKを原点回帰の傑作だと崇めている日本のゴジラオタクには客観性が欠落していることを改めて見せつけられた次第です。

そういうわけで私もちんごじら(笑)はGMKに勝るとも劣らない駄目な映画だと断言します。

Re: ちんごじら(笑) 殿様ギドラ (男性)

2016/09/12 (Mon) 19:34:23

初めまして!
そして、ようこそいらっしゃいました。ご投稿に感謝いたします。

GMKと「2000ミレニアム」比較、大変興味深く読ませていただきました。
歴史観、戦争観という観点からあの2作を比べる試みは初めて読みました。

為政者は過ちを犯すもの、といういわば常識がこの頃忘れられているように感じています。
その感覚は、ゴジラシリーズで言えば、GMKからあと、どんどんひどくなっているような気がします。
(機龍二部作にしても、日本がメカゴジラというとんでもない武力を持つことに対する批判の視点はないし、「東京SOS」に至っては機龍を使うことに反対していたはずの小美人がなぜかクライマックスでは機龍修理に力を貸す)

その極めつけが『シン・ゴジラ』ということになりますね。
権力者がうまくやるから、国民は黙ってみていろ、とでも言いたげなストーリーでした。
(行政に段取りが多いことを民主主義の根幹だ、などと見当外れなセリフもありましたなー。為政者は大衆にコントロールされなければならないのだ!)

この映画のヒットこそ、いまの日本がなにかおかしくなっていることの証左かもしれません。
お上が言うことに疑問を持たない人が増えているのでは??

ゴジラファン、というくくりだと、おっしゃる通り、外国で作ったものは全否定で、東宝さまが作ったものは全肯定という人も少なからずいるようです。
これも非常に気持ち悪い。
私はエメリッヒ版もギャレス版もさほど評価しませんが、エメリッヒ版はGMKとどっこいどっこいだし、ギャレス版のほうが『シン・ゴジラ』よりずーっとましだと思ってます。

あ、それから、『シン・ゴジラ』の映画演出があまりにポンコツなため、ちょっと断言は出来ないんですが、あのコンクリートポンプ車は無人操縦だったかもしれません。
無人車両の準備、操縦訓練は完了しています、というセリフがありました。ただ、それはあの列車爆弾のことだったかもしれず、そんなこんなもコンクリート車にせよ列車にせよ、無人で動いているのだと示す映像がまったくないのでわからないのです。

中露に関しては、ちんごじらが自国に近い場所(日本)にいるからアメリカの核攻撃に賛成した、という程度でした。
まあ、しかし、ふわっと中露は日本の都合を考えてくれないという主張をしているわけではあります。

日本は表現の自由が認められている国だし、どんな主張をしてもいいのでしょう。
けれど、映画製作に携わる者が、権力者にすり寄るような主張をするとは、実に気持ち悪い。

かつて言論の自由がなかった時代には、円谷英二や山本嘉次郎は国策映画を作らされました。
それでも彼らの戦争映画を見れば、権力者にごまをすってはいないことがわかります。
(そこまでくみ取れずに山本・円谷コンビを戦後になって転向した、みたいなことを言う者もいますが)

何を言っても良い時代に権力者礼賛みたいな映画を作ってしまう感性を疑います。(いったい何を企んでいる?とまで疑ってしまう)

Re: ちんごじら(笑) - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2016/09/12 (Mon) 21:38:23

お返事ありがとうございます。ギャレス版をそれほど評価していない方から「ギャレス版のほうが『シン・ゴジラ』よりずーっとましだと思ってます。」というお言葉をいただけただけでもありがたい限りです。ミレニアムは私の中で一怪獣に過ぎなかったゴジラの印象をガラリと変えた作品なんですよ。そしてまとめにも書いたとおり当時中学生だった私はまんまとGMKを凄い映画だと信じ込んでしまったのですが、ギャレス版を観たあたりから違和感を感じるようになり現在に至りました。もしGMKの欠陥に気づくことが出来なかったらシン・ゴジラの欠陥にも気づかなかったかもしれません。そういう意味でミレニアムとギャレス版に救われた、とでも言うべきでしょうか(苦笑)。

正直言って国家権力を礼賛していると解釈できる映画が製作され、それが観客動員数420万人超えの大ヒットしたことでゴジラ映画に限らず映画そのものの表現の幅が狭まっていくのではないかと心配です。ミレニアムでは自衛隊の戦闘機が起こした突風で篠田イオが転倒されそうになり、篠田自身はCCIの片桐が強行したUFO爆破作戦の巻き添えで危うく死にかける場面がありますが(しかも肝心のUFOは無傷で作戦は大失敗)、殿様ギドラ氏のご指摘通り日本のゴジラ映画はだんだんと為政者の過ちに触れるどころかシン・ゴジラに至っては民間人は為政者に黙って従えという内容にまで成り果てましたし。

Re: ちんごじら(笑) 殿様ギドラ (男性)

2016/09/13 (Tue) 20:06:13

「2000ミレニアム」は公開当時ゴジラマニアからはずいぶん叩かれた作品でした。
(いやその、私も例外ではない・・)

しかし、平成VSシリーズ終了後のゴジラ再開作として私が高く評価した点がありました。
それはゴジラの性格描写。
VSシリーズでは常に厳めしい空気をまとっていたゴジラですが、それは私の好きなゴジラではなかった。
「2000ミレニアム」とつづく「×メガギラス」でのゴジラはどこかひょうきんで、(というと言い過ぎかな)二代目ゴジラに最も近い気質だったと思います。
これは特技担当の鈴木健二監督のセンスだったんじゃないかと思うのですが、あのゴジラはよかった。
(デザインや熱線の色を変えてしまったのは、むむむ、なんですが)

そんなミレニアムゴジラでゴジラの印象が変わったとおっしゃっていただけるのは、うれしいことです。
(残念なことにその後のゴジラたちは、再び重苦しい奴らになっていく・・)

現代にはじめて巨大生物が現れるのがリアルなのか? - K4 (男性)

2016/09/08 (Thu) 01:49:29

殿様ギドラ様
様々な考察、お疲れ様でした。
シン・ゴジラを楽しめた、けれども音楽を始めひっかかることがある、と歯切れの悪い私ですが、色々と考えさせられました。
いわゆる84ゴジラ以降の平成ゴジラの中で一番の観客を動員したようで、前回書いたようにシン・ゴジラが今の時代の新しいゴジラの姿だと評価される事が果たして本当にこれでいいのかと改めて思うようになりました。
まったくの新しいゴジラ像を創るのであれば、伊福部音楽の多用はいかがなものか、という考えをさらにつきつめ、もしこのシン・ゴジラがゴジラを名乗ってなかったらここまでヒットしたのだろうか、という疑問があります。
もちろん、東宝はゴジラという作品を創るという事で東宝単独で制作費を捻出し、今回の作品をつくるに至ったわけですからゴジラを冠する事なしにこの作品は世に出てくる事はなかった。
でも、世間で評価されてる声をみてみると、現代日本にはじめて怪獣が現れた時の政府の対応、3.11に重ねた描写・・・
ここだけみるとゴジラである必要はまったくないのです。
これがゴジラではない全く新規の未確認巨大生物であったら、ここまでヒットしたでしょうか?
つまりは、偉大なる先人達がはじめに作り出した土台があってこそ、ゴジラという魅力的な「怪獣」というフォーマットを作り出したからこそ成立していることが観客側が忘れてないかと思うのです。
庵野秀明氏や樋口真嗣氏は今の日本の制作者の中では、特撮や怪獣への思いは強い方達ではあります。
近年の映画にはVFXも多用され、ハリウッドには劣るけれどもそれなりの映像になってきたと思いますが、それらと比べれば庵野・樋口氏がつくりあげた映像にはCGの中にも特撮への思いが垣間見えた気がしています。
ただマニアやオタクとしての部分を抑え、ビジネスとして今の観客にうけるものへの答えがシン・ゴジラの形だったのかもしれません。少し好意的すぎますかね。
私が特撮映画に惹かれたのは、描かれるその映像、破壊されることへのカタルシス、虚構の世界に強く惹かれたのだと思います。
やや不謹慎ではありますが、その虚構の映像に現実の世界をはめこむことを想像する楽しさ。
ついつい甘く見てしまうのはその辺があるのかもしれません。

話がうまくまとまりませんが、無理矢理まとめます。
「シン・ゴジラ」は未確認巨大生物の映画であって、怪獣映画ではなかった。それなのに「怪獣」を前提にした制作者と観客で成り立ってるやや奇形な作品だったのではないかと思います。
小さい時から「怪獣」が当たり前に存在する私たちが『「怪獣」が存在せずに現代にはじめて巨大生物が現れたら・・・と頭の中で考えた世界の話』なんでしょうね。
本当にリアルに、と思うなら怪獣もウルトラマンも意識の中にある世界でないとリアルでもなんでもないんです。

長文、駄文になり申し訳ありませんでした。




Re: 現代にはじめて巨大生物が現れるのがリアルなのか? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/08 (Thu) 19:33:47

K4さんの考えに近いものであるように思うのですが、
私が『シン・ゴジラ』に感じた問題点のひとつは、この作品がまず、怪獣映画ありきで発想されているように思えることです。

というのは、怪獣映画という概念がない状態では、このような映画は生まれ得なかったのではないか、ということ。

怪獣ないし怪獣映画というものが周知のものだから、そのバリエーションとしてこんなのはいかが?
と作っているように見えます。

いままでの怪獣映画がやらなかったことをやりました、と。

怪獣に感情を与えず、従来は背景にとどめていた政府の対応を事細かに見せる・・・。
(政府の対応に関してはリアルシミュレーションではなく、3.11対応を参考にしてなぞっただけ、のようでもありますが・・。だって、国民の反応、野党の反応などをまるで無視だもんなぁ)

そこには新味があったのは確かなのでしょう。

けれども怪獣映画が無かった、あるいは周知のものではなかった(大人には相手にされていなかった)時代の怪獣映画では、もっと怪獣を登場させることの意味を考えていました。

なぜ巨大で奔放(人間社会にとっては破壊者)な動物を映画に出すのか?と。
(この問題は細かく考えていくと長くなるので、いまは割愛。しかし、ヒントとしては大映ガメラが子供にターゲットを絞る道を選んだ理由もそこにあるんじゃないか、と)

『シン・ゴジラ』では従来の怪獣映画がやらなかったこと、にこだわったのか足を取られたのか、怪獣が脇役になり、怪獣である必要すらなくなっている。

これは、オタクと言われる人が二次創作ではまる罠そのものであるように思います。
ジャンル内でものを考えすぎて、ひねくりすぎた結果、本来の価値を失ってしまう・・。

というわけで、私から見ると『シン・ゴジラ』は実に全うなオタク映画なのです。
(昔、84ゴジラ公開後、とあるオタクさんが続編として、破壊された東京の復興に絡んでロイズ保険会社が乗り込んでくる、なんてアイディアを得々として語っていたのを思い出します)

しかし、それは本多猪四郎監督の信条、「大衆とともに楽しむ」からはかけ離れているのではないでしょうか。

ヒットしたから善、というのも映画の商業的側面からは正しいことですが、
芸術的側面からは必ずしも正しくはないでしょう。
(多数決で間違った結論を出すこともある)

ああ、そして、ゴジラと名乗らなかったら、そうですね、私も見に行かなかったと思います。
衛星放送待ちしたでしょうね。(もういまはウルトラマンの映画も劇場には行ってません)

しかし、このやり方はまずいですよ。
ゴジラの名前でひっかけて、「別の」ゴジラを出してくるなんて。
ゴジラのイメージが拡散してしまって、ゴジラのブランド力は落ちていくでしょう。
やるなら、ゴジラを中核に据えた怪獣世界を広げるべきなのです。
それは過去の東宝特撮がすでにやったこと。

『シン・ゴジラ』での政府対応を中心にする、というアウトラインを生かしたままで、新怪獣ちんごじらとゴジラが戦う物語は作れたはずです。
なんのことはない、マキゴロウだのオタク怪獣対策チームだのを省けば良いことです。
そうすれば、ゴジラ映画にはなったはず。

ゴジラにバージョン違いを作る暇があったら新怪獣をどうやって当てるかを考えてほしいものです。

無題 - K4 (男性)

2016/09/10 (Sat) 00:42:45

ゴジラでの検索が多いからでしょうか、こんなものを発見しました。
今日放送の東京ローカルの番組ですが

>おすぎ、シンゴジラを「私は評価しない」理由とは

https://www.youtube.com/watch?v=2cfzhA_neWI#t=12m30s

です。ちょっと拾うと

おすぎ
・最初のゴジラは名作である。
・円谷が作ったあの名作がどんどん大きくなって、何かわからなくなっていき、アメリカに行って余計つまらなくなったことを嘆いている。
・今度シン・ゴジラ出たって言ったところでゴジラ自体が前のものと全然違う。
・そういうことをするのは 【昔の名作をコケにされてる気がする。】
・シン・ゴジラを見た人はつまんなかったって言う人が自分のまわりには多い。
ふかわ
・大ヒットを支えてるのは最初の(ゴジラを)を知らない人たち(では?)
ミッツ
・【マーケティングがすごいされていて大衆性みたいなのが薄れている】のでは?


すべてが同じではないものの、感じている事と遠くないかなと思いました。
ギドラさんが仰っていたことと同じですが、ミッツ・マングローブの言ってる「大衆性が薄れている」というのは、私が言葉で言い表せなかったことを一言で表していると思いました。
リアルだなんだ言ってますが、これはまさにオタク映画なんですよね。
自分は深追いはしてなくともヤマト、999、ガンダム、マクロスとアニメで育ち84ゴジラにつながるオタク世代。
シン・ゴジラを楽しんだのはこの琴線にひっかかるものがあったせいでしょう。
ミレニアムの時期にネット上でゴジラファンの皆さんと話す事がなければ、怪獣映画のその本質にふれることがなく、今回、絶賛してた側だったのではないか、と思います。

ギドラさんのおかげで、映画館では楽しめたはずなのに何かが引っかかる、というモノが詰まった感覚がとれたような気がします。




Re: 現代にはじめて巨大生物が現れるのがリアルなのか? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/12 (Mon) 18:38:37

恐縮です。

この掲示板がなにかしらお役に立てたのなら光栄です。

うーむ、しかし、MXTV、やるなぁ。
いろいろなメディアがまるで『シン・ゴジラ』が傑作であるかのような煽りを繰り返す中、出演者にちゃんと本音で語らせていたんですね。

映画館では楽しめたはずのK4さんでも、マスコミが騒ぐほどの傑作とは思わなかったんじゃないかと推察します。
やっぱりなんかヘンな感じ。

シン・ゴジラ 特撮は? 殿様ギドラ (男性)

2016/09/02 (Fri) 18:21:11

さあ、総まとめ最後のパートです。

『シン・ゴジラ』その特撮。

技術的にはコンピューターグラフィクスとデジタル合成がほとんどで、その精度は現在の基準を十分クリアしていました。
合成カットの奥行き感も間違っていなかったと思いますし、当然、輪郭が浮く、なんてことはないですよね。

ただ、弾着の爆炎はいかにも素材を貼り付けましたという感じで、平面的に見えました。
実際なら、複数の爆発が同時に起これば、それぞれの爆風が影響しあうはずで、もっと炎や煙の形が変わるでしょう。

すっ飛んだ橋が落ちてくるところや爆弾列車はちとCG臭かった。

ちんごじら自体はすべてCGで描く、という噂を聞きましたが、実際はなんらかの作り物(人形?)も使っていたのでは?
デザインはともかく、巨大感などまず問題のない出来映えだったと思います。

ミニチュアワークは、住宅街(瓦屋根がアップになる)や崩れる土手あたりは、破綻はしていないまでもミニチュアだな、と映像からわかりました。

そして、今回、最大の収穫だったのは、ビルの倒壊描写です。
「巨神兵東京に現わる」でもいくつかビル破壊の実験を行っていました。
しかし、あれはビル解体の爆破を再現したようなもので、劇中のリアルではない、と当時指摘しました。

『シン・ゴジラ』でのビル倒壊は素晴らしいです。
どのような仕掛けだったのかはわかりません。映像から、CGではなくミニチュアだったのだろうと推測していますが、昔の石膏ビルのようにただ外壁がガラガラ崩れるのではなく、
内部に鉄骨や鉄筋が入っていると思わせるゆがみ方をしながら倒れていく。

やっと日本の特撮は鉄筋コンクリートビル破壊にリアルさを作り出せた。
(成田亨さんの述懐によると『ゴジラの逆襲』時にすでに試していたことだそうですが、予算と時間の問題でその後極めることが出来なかったらしい)

付言すると、『ラブ&ピース』(園子温)にもミニチュアビルを実景と合成するカットはありましたが、確信犯なのか、ミニチュアの精度が悪すぎて合成はバレていないのに、完全にミニチュアバレしている。

あとは、カメラワークとカット割りです。これは技術ではなく、演出の話。
演出の話の時、ひとつの破壊を複数のカットで見せることを書きました。
ひょっとすると、『シン・ゴジラ』でもやってるじゃないかと思った人がいるかもしれません。

第二形態が倒すマンションでも室内にカメラを切り替えていますし、凍結作戦でのビル爆破倒壊でも室内の様子や窓を割って落ちる家具(椅子や机か)折れる柱と、ビル全体が倒れるカットだけでなく、
部分の様子も見せるカットを入れていますから。

しかし、あれは、モンタージュ技法なのです。
爆破があり、ビルが倒れ始め、そこへ傾く室内や折れる柱の映像が挟まれば、見た人は「ああ、いま倒れているビルの一部なんだな」と判断します。
それぞれのカットに共通する事物が映っているわけではなく、動きが連動しているわけでもありません。
バラバラのカットを組み合わせて一続きの意味を作っているわけです。
それはたしかに映画編集の一テクニックですが、私が主張する体感的な映像にはなりにくい。

ビル外観だけでも複数のカットに分けるのです。
全体を見せたら、その動きにつながるように壁面のアップ、さらにはちんごじらに接触する瞬間のクローズアップ、砕けるビルとちんごじらのフルショットなど・・・。
一続きのアクションをカット割りし、サイズを変えて細部と全体像両方を見せることの効果は円谷特撮にたくさんお手本があります。
円谷英二はサイズを変えるだけでなく、時間の反復という特殊なこともやりますよ。

とにかく、ビル破壊の特撮はお見事でした。
あとは映画映像演出にもっと気を遣って!!

シン・ゴジラ 演出の話補足 殿様ギドラ (男性)

2016/09/02 (Fri) 18:14:02

書き漏らしがありました。

その趣旨はすでにほかのシーンについて書いたことと同じですが、ドラマ上重要なのでちゃんと書いておきます。

謎の図面が折り紙になっていることに気づいた後のこと。
折った紙は画面に映りますが、折った瞬間がない。
何を書いているのかわからなかったものが、紙を折ることで意味がわかったのですよね?
ならば、観客にも謎が解ける瞬間を見せるべきだ。

意味不明の線や記号の羅列に見えていたものが、折りたたんで離れていたパーツがつながることで文章が読めるようになったのか、
フローチャートが見えるようになったのか、化学式が書かれていたのか??

あの紙に何が書かれていたのかも見せてくれないし、まったく映画的ではないのです。

これもあとで言葉で説明すればいいだろうというやり方を押し通している・・。


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