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ギドラの巣「新」映像作品掲示板

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円谷英二監督生誕119年 拾遺 その2 - 海軍大臣 (男性)

2020/07/14 (Tue) 23:23:38

 円谷英二年譜については、いま一つの疑問点があります。
 兵役を終えて再び上京した円谷さんが、京都の衣笠貞之助監督のグループに合流するまでの大正12年~14年の足取りにつきまして、現在の時点で一番詳細だと判断される「定本 円谷英二」に掲載の年譜では、

 大正12年後半 映画芸術協会に所属
 大正13年  小笠原プロダクションに半年ほど所属した
       後、国活再開に併せて復帰
 大正14年2月 国活解散

 としていますが、どうにも私には映画芸術協会と国活の間に小笠原プロが挟まれることが腑に落ちません。順番が逆みたいに感じられるのです。
 しかも上記のままでは、国活が解散してから翌年に京都の衣笠グループに入るまでの円谷さんの足取りが全くの空白となってしまいます。だったら、その期間、彼はいったい何処で何をしていたのでしょうか?

 問題の小笠原プロの設立は大正12年ですが、同プロは荻久保に撮影所を所有していた他、大正14年早々に閉鎖された国活の巣鴨スタジオをそのまま受け継いでいる事実からみて、円谷さんの同プロ入社は、それまで勤めていた国活が潰れた後、そのスタジオともども居抜きで移籍したのが整合性から云って、本当のところじゃないかと睨んでいます。そんな僻目で眺めて見ますと、「定本 円谷英二」の年譜の記載も、何となく編集時のミスの様にも感じられてくるのです。
 そこでふと思い立って、その辺りの記述があったと記憶する渡邉武男「円谷英二と阪妻、そして内田吐夢」(西田書店)を開いてみたところ、問題の下りで渡邉氏も円谷英二は国活が閉鎖されてから小笠原プロに移ったと、ごくあっさりと書かれていました(同著では私が問題とする「定本」の年譜での記述には一切触れないままなのです)。
 そう判断した理由について、著者の渡邉氏は特に参照した資料などを上げてはいませんが、やはりこの流れの方が、私が感じたのと同じ「座りの良さ」があるからなのだろうと思われます。
 勿論、決定的な証拠がある訳ではないので、飽くまでも一仮説にすぎないでしょうけれど、そうした辺りの検証は続けていきたいと感じております。

 なお、名前を上げました「円谷英二と阪妻、そして内田吐夢」は、天活~国活時代の巣鴨撮影所に関する先行研究書としては大変優れていてお勧めです。現在、私もこの時期の円谷さんの足取りを纏めなおそうとしているところなのですが、巣鴨時代に関しては、どう頑張っても渡邉氏の書かれている事をなぞった程度の内容に落ち着いてしまい、頭が痛いところです。
 

Re: 円谷英二監督生誕119年 拾遺 その2 殿様ギドラ (男性)  URL

2020/07/15 (Wed) 19:13:34

「円谷英二と阪妻、そして内田吐夢」、出版されたのは知っていたけれどスルーしてました。いかんいかん。

 ご指摘の件、手持ちの本でなにか書いてあるかと須賀川の研究者鈴木和幸さんの「翔びつづける紙飛行機」「特撮の神様と呼ばれた男」「大空への夢」をめくってみました。
「翔びつづける紙飛行機」では兵役の後(大正12年)しばらく須賀川にいて、大正13年に小笠原プロ、大正15年から衣笠映画連盟に入る、と非常にざっくりとしか書いてありません。
「特撮の神様と呼ばれた男」ではもう少し詳しいですが、兵役・須賀川のあと東京へ戻って小笠原プロ、その解散にともなって杉山公平の招きで京都へ行った、とあります。この本では再開した国活が出てきません。
「大空への夢」では東京に戻った英二が最初に所属するのは「映画芸術協会」であり、次に再開した国活へ移り、つづいて京都へ行ったことになっていました。小笠原プロダクションが抜けているのです。

「大空への夢」が三冊の中では一番新しいもので、いわば最新版と言えるのでしょう。国活のスタジオを小笠原プロが引き継いでいるとのことなので、小笠原プロダクションを省略してしまったのかもしれませんね。円谷英二の動きとしては巣鴨から京都へ行った、ということが大事だと考えた、とか。

 改めて円谷英二作品リストを見てみると、国活巣鴨作品はありますが、小笠原プロダクション作品は見当たらないので削られてしまったのか?

「大空への夢」では映画芸術協会の事務所に飛び込んできた片岡清が国活復活のニュースを伝え、そして巣鴨へ行ったことになっているので、順番としては映画芸術協会のつぎに国活巣鴨ということになるのですが・・。
ただ参考文献として「円谷英二と阪妻そして内田吐夢」も挙げられているので、同書からの引用なのかもしれません・・。

 小笠原プロより国活のほうが先に潰れているのですから、まともに考えれば国活の次に小笠原プロですよね。

Re: 円谷英二監督生誕119年 拾遺 その2 - 海軍大臣 (男性)

2020/07/16 (Thu) 11:49:36

 私も「大空への夢」の当該部分は、各種先行研究書を参考にして書かれていると思います。むしろ鈴木和幸さんの研究で大変ためになるのは、個人のブログの方に掲示されている犬塚稔監督のインタビュー記事だと思います。これなどは、極めて狭い時期に限った視点ながら、犬塚さんから見た円谷英二の人間像がよく顕れているように感じらます。
 
 また「大空への夢」でも名前が挙がっている片岡清は、枝正義郎の下で修業したカメラマンに当たり、同じ天活~国活に所属の帰山教正の作品にも携わっていました。兵役を終えて再び上京した円谷さんに映画芸術協会へ誘ったのも片岡カメラマンなのです。特に枝正監督作品【島の塚】では片岡氏が撮影を担当し、円谷さんも助監督として大活躍した(特に時代考証などについて)と聞きますから、以前より極めて親交の深かい関係にあったと推察されます。
 また渡邉武男さんによりますと、同作品には、当時まだ無名だった阪東妻三郎が、その他大勢といった端役で出演しているそうです。この時期の円谷英二の動向は不明な点が多い反面、掘れば掘るほど面白いことが判ってきそうです。

Re: 円谷英二監督生誕119年 拾遺 その2 殿様ギドラ (男性)  URL

2020/07/17 (Fri) 18:14:29

 鈴木和幸さんのwebサイトはこのごろ見ていなかったなぁ、と犬塚稔監督インタビューを読みに行ってみましたら、
あれれ、多分昔一回読んでいるような・・。
しかし、確信がないという情けなさ。犬塚監督自身による著書「映画は陽炎の如く」や朝日ソノラマ「写真集円谷英二」に載っているエッセイで読んだ話の印象が残っていたか、
とも思われ。
 なんにせよ、忘れていた話も多かったのでこの機会に読み直すことが出来てよかったです。

 ゴジラに絡む話も出てきますから、ゴジラファンにもお勧めですよ。
株式会社セルクル代表取締役 鈴木和幸のページ
http://www.cercle.co.jp/blogs/

ここにアクセス、サイト内検索に「犬塚稔」と入力、サーチすれば当該記事が出てきます。

 ちょっと話がそれますが、円谷英二生誕百年のころ伝記映画を作る企画があったようです。
実現はしなかったわけですが、円谷英二の人生に日本映画黎明期の歴史と日本史を結びつけた伝記映画(最低でも三部作か?)を作ることが出来れば文化的にも価値のあるものになるはずなのに、
とときどき夢想します。

 緻密な時代考証と映画技術の再現を行って資料性も高めましょう。
ストーリーは円谷英二を軸にしても、日本映画の歴史を語る上で重要な人物の大多数が登場することになるでしょう。
また映画界の話だけでなく、軍国日本のストーリーも織り込めるはずです。

 なんてな。そんな映画を喜ぶお客さんはあんまり居ないでしょうね。

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