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ギドラの巣「新」映像作品掲示板

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円谷英二監督生誕119年 拾遺 - 海軍大臣 (男性)

2020/07/12 (Sun) 07:30:46

 前々から矛盾を覚えたいたことが一つ。

 よく円谷英二年譜の中で、「昭和8年12月に当時在籍していた日活重役立ち合いの下、スクリーン・プロセスの試験をおこなったが、上手くいかなかった」との記載があります。
 ところが小学館から出ている円谷英二写真集に掲載の、同試験に関する新聞記事には、如何にも「スクリーン・バック技術が完成された」といったニュアンスが見られ、世に伝えられている「結果は不首尾に終わった」との文意は読み取れません。
 更に不可解なのは、同記事では続けて「海外メーカーに発注済みのセルロース製スクリーンが到着した暁には、云々」だとか「圓谷技師設計による大型ホリゾント施設が来春には建設される」などといった、かなり発展性を含んだバラ色した記述が散見できるのです。
 これを一体、どう理解してよいやら悩んでおります。当時の日活での円谷さんは、いわば「外様」といった立場にあったことは犬塚稔さんの発言などでも明白ですから、そうした状況下では新たに特撮用の大規模施設を作ると云った大風呂敷を広げることを円谷さんが独断でおこなうなんて、ちょっと考えられない様に思われるからです。
 また、近く海外から到着するというセルロース・スクリーンも、その後どうなってしまったかも気になります。開戦前後だっか、映画誌上に特殊技術に関する座談会の様子が採録された際、同記事中で日活での特殊技術を代表するポジションにあった横田達之氏が、そうした研究は同社では全く行われていないとの苦言を呈されていることを思い合わせると、左記の実験から日数を置かずに起こった円谷さんの日活退社と同時にクーリングオフされてしまったんじゃないか、なんて想像も浮かんできてしまいます。

Re: 円谷英二監督生誕119年 拾遺 殿様ギドラ (男性)  URL

2020/07/12 (Sun) 16:50:33

 あっ、その件はまったく意識していませんでした。

「定本 円谷英二」の年譜と「円谷英二 日本映画界に残した遺産」の記事写真を比べてみました。
謎ですね。新聞記事(昭和8年12月25日大阪朝日新聞)は円谷式スクリーンバックと特殊オープン・ホリゾントで日活が躍進するだろうという内容ですね。

 その後の事実を考えれば、翌年早々日活を退社している(という新聞記事も写真集には載っている)わけですし、
「定本 円谷英二」の年譜昭和9年の項によると一郎さん宛の手紙で、「昨日までは例のスクリーンバックと云う新しい撮影上の機械を作って居りました・・・」と書いているのですから、
昭和8年12月25日のテストは不首尾に終わったと考えるのが妥当かと思います。

 ではどうして成功したと読める記事が載ってしまったのか。

 こういう推論はどうでしょう。

 新聞社に対して日活から映画の新技術のテストをやるから取材してくれ、という依頼があり、大まかな内容は事前に新聞社へ通知されていた。
(テストがうまくいけば?)アメリカへセルロース・スクリーンも注文する。スクリーン・バックの他にも特殊なオープン・ホリゾントの計画もある。云々。

 事件事故のような突発事態でなければ、取材前に予定稿を書いておくことがあるのではないでしょうか。
この予定稿がそのまま新聞に載ってしまったということはないでしょうか。
昭和8年12月25日の新聞であるはずなのに、試験が行われたのも12月25日というのも解せません。
ひょっとすると「円谷英二 日本映画界に残した遺産」編集上のミス(新聞は26日のものだったとか?)かもしれませんが、
予定稿がフライングで25日の新聞に載ってしまった、というのはどうでしょう。

 当時の日活における特殊技術の研究は、やはり円谷英二の退社とともに雲散霧消してしまったのでしょうねぇ。

 追伸・くだんの新聞記事で、圓谷(たに)英二技師(ぎし)と読み仮名が振られていることに苦笑。やっぱり東京オリンピックまで誰も読めなかったのか?
須賀川の現地読みでは「つむらや」らしいですが。

Re: 円谷英二監督生誕119年 拾遺 - 海軍大臣 (男性)

2020/07/13 (Mon) 07:46:19

新聞記事の件は、ギドラさんの想像されている辺りが正解なのかもしれませんね。当時は昨今以上の露骨さで、記事の形を取った宣伝行為がおこなわれていたみたいですから、文章そのものが予め用意されていたコマーシャルメッセージみたいなものだった可能性は否定できません。しかも、復刻版「円谷英二 日本映画界に残した遺産」の後付を見たら、どうやらこの記事は「(昭和8年12月25日大阪朝日新聞」のものですらないと云いますから、もうワケが判りません。

 さて、この直後に円谷さんはJOに移籍することになりますけど、私などが気になるのは、その昭和9年の足跡がハッキリしていないことです。
 もちろん一郎叔父に当てた書簡で「スクリーン・バック」用プロセスマシーンの研究を専念していたのは間違い無い様ですが、どうも漠然とし過ぎてるみたいでなりません。
 で、このJOの子会社に「太秦発声」というトーキー専門の貸し映画スタジオがあります。サイレント時代とは異なり、トーキー映画を作るにはそれ相当に設備や資金が必要になるので、それが自前では用意できない弱小プロ向けに設立されたスタジオといった感じです。
 その「太秦発声」でその頃に製作された他社のトーキー作品の中に問題の【大仏廻國】や【爆撃飛行隊】が含まれているのは注目です。勿論、これに円谷さんが直接はタッチされてはいないでしょうが、JOの技術部門の中枢に居た以上、そしてこの人物の性質から見て、脇からその撮影を見守っていたことは想像できますし、これ幸いとばかりに、先に取り上げたダニング・プロセス(トランスペランシー)の技術解析を実地に行ってのでは、との想像も湧いてきます。
 円谷英二年譜に散見される一種の虫食い状態的な情報の欠落は、今後も暫時、加筆・修正されねばならぬと愚考する次第です。

Re: 円谷英二監督生誕119年 拾遺 殿様ギドラ (男性)  URL

2020/07/13 (Mon) 19:33:29

 あっ、本当だ! 該当する記事が見当たらないと書いてある。
私が持っている「円谷英二 日本映画界に残した遺産」はもちろん復刻版でありまして・・。
 なにかの新聞に載ったのは確かなのでしょうけれど。

 昭和9年の作品は『浅太郎赤城颪』と『天下の伊賀越』しかリストに載っていませんが、「撮影」とクレジットされたものが記録として残っているだけなのだと思います。
スクリーン・プロセスではないにせよ、なんらかの特殊技術でさまざまな作品に参加していたということはないでしょうか。
 単に疎まれて仕事をさせてもらえなかっただけなのかもしれないですが・・。
 J.O.京都昭和12年(1937)作品『歌ふ弥次喜多 京・大阪の巻』冒頭にスクリーンプロセスを駆使したシーンがありますが、円谷英二はクレジットに出てきません。
スクリーンプロセスだけでなく凝ったワイプなども使っているので、おそらく円谷英二参加作品だろうと思っています。
 昭和9年にも記録に残っていない円谷作品があるのではないでしょうか。『大仏廻國』には参加していてもおかしくないような。
 その時代の作品は残っていないものが多いので確認することも出来ないのが悔しいです。

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