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ギドラの巣「新」映像作品掲示板

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あえて『キングコング対ゴジラ』を批判的に論じてみる - 芹沢亀吉 (?)  URL

2019/12/08 (Sun) 11:12:13

皆様のやり取りを拝見させて頂きました。

「最初のコラボ作品の『キングコング対ゴジラ』の時点で、そのようなものは崩壊している。あのときはキングコングに巨大化、帯電体質、耐久力の大幅な向上など相当の下駄を履かせてコラボを成立させた。本当に戦えば即座にコングが踏み潰されて終わりのはずだ。
円谷英二さん・田中友幸さん・本多猪四郎さん・関沢新一さんの製作陣はそうしなかったではないか。
偉大な原作者たちがそういうハチャメチャなコラボをしたんだから、コラボに関しては問題はないのだ」

このご指摘について私ならこう反論します。

「そもそも水爆によって目覚め通常兵器が全く通用しないゴジラと機銃で射殺出来る程度の耐久力しか無いキングコングを対等に戦える存在として扱う発想自体が噴飯もの。円谷英二氏、田中友幸氏、本多猪四郎氏らはゴジラ映画を創始し特撮映画という分野を確立させた点では偉人であるが、ゴジラとの対決を無理矢理成立させるためにコング側に下駄を履かせまくって最早コングとは呼べない別の何かに改変しハチャメチャなコラボにした点では厳しく批判されるべきだ。『キングコング対ゴジラ』自体に無理矢理なコラボという大きな問題がある以上、昨今の野放図なコラボを正当化するため『キングコング対ゴジラ』を引き合いに出すのは全く正しくない。」

以上です。円谷英二氏、本多猪四郎氏がやったことだから何でも正しいと追認するのは典型的な現状追認であり、庵野秀明がやったことだからとエヴァの使徒のパチモンをゴジラと言い張るあの愚作を崇拝するのと方向性は何も変わりません。

もし私がゴジラとコングが戦う映画作るなら、ゴジラの放射能で被曝したコングが徐々に弱っていってそのまま被曝死という結末にしますよ。先輩後輩などという人間同士でしか通用しない価値観をゴジラやコングに押し付けるより、ゴジラとコングの間にある隔たりの大きさを描くことを優先しますので。

そしてコングを最早コングとは呼べない何かに改変した円谷英二氏と本多猪四郎氏のコンビが地球人より遥かに高度な金星人の文明を滅ぼし文明の支配を全く受け入れない存在としてデザインした筈のキングギドラを、攻略法さえわかれば地球人でも攻略出来る程度の文明力しかないX星人の文明の利器で操られっぱなしのラジコンギドラに改変したのも紛れもない事実です。本来対等に戦える存在でなどではないゴジラとコングを対等に戦わせるご都合主義をゴリ押しした円谷英二氏と本多猪四郎氏は「地球侵略を企てるX星人を地球人の英知が撃退する」という物語を成立させるためにキングギドラをラジコンギドラに設定改変したわけです。勿論文明の支配を受け入れるどころか滅ぼす存在であるキングギドラを文明の利器の操り人形に甘んじ続けるラジコンギドラに改変した点は「設定を反転させ新しいものを生み出したつもりになっているオタク的発想」という意味でも批判されるべきですね。

昨今の野放図なコラボを批判するのであれば『キングコング対ゴジラ』のコラボもきちんと批判しないと筋が通りませんし、『キングコング対ゴジラ』が行ったコングの設定改変が後続の作品に与えた悪影響についてもきちんと明らかにしておくべきです。1960年代のゴジラ映画の全てがゴジラ映画の原典に値する存在なのかも見直す必要がありそうです。

そういえば次作の『モスラ対ゴジラ』では自衛隊による3000万ボルトの放電作戦で一時的には苦しむも結局自衛隊の防衛線を突破しているゴジラが、『キングコング対ゴジラ』では自衛隊による100万ボルト放電作戦で事実上撃退されているのはどうなんでしょうね?3000万ボルトの放電作戦でも防衛線突破したゴジラが100万ボルトの放電作戦に怯んで首都進攻断念って私的には非常に不可解な展開に見えるのですが皆様はどうでしょう?

Re: あえて『キングコング対ゴジラ』を批判的に論じてみる - なんじぇい (?)

2019/12/08 (Sun) 14:34:35

芹沢亀吉さんの意見を読ませていただきました。

まず思うのは、「原作者の意見や思いを汲み取って制作することは現状追認なのか?」ということです。
私は今の状況では全く違うと考えます。『シン・ゴジラ』やアニゴジがあんな風になった理由は、まさしく原作者たちが初代ゴジラや2代目ゴジラに込めた思いやテーマを汲み取らなかったからです。
原作者の思いを汲み取る意思などこれっぽっちもありません(全員、作品を見て思った個人的な感想や妄想をそのまま反映している)。
「ゴジラの名の元に原作者の思いを無視して好き勝手していい」に追従することこそ、「現状」の追認ではないかと思います。


第2に私とギドラさんのやり取りでもありましたが、「原作者の思いや脚本を書き換える行為は極めて慎重にすべきである」ということです。
ギドラさんとのやり取りでもありましたが、原作者の込めたテーマや思いを汲み取って製作することと、より良い作品を作ることのどちらに比重を置くかは大変難しいことです。
加えて原作者がほぼ鬼籍に入られた今、『キングコング対ゴジラ』という創作がああなった理由を見つけるのは困難ですので、その点でも慎重になるべきだと思います。


『モスラ対ゴジラ』に関しては、ゴジラが脱出できたのは電圧を上げすぎてショートしたということもあるのではないでしょうか。
もっともゴジラがあれで死ぬとは思えませんが。


最後になりますが、私は「原作者の思いを端から汲み取らずに続編を作ることは創作の作法における論外」という他はありません。
でないと、そのシリーズが何が何やら分からなくなってしまうからです。



こみ入った話題になってしまい、いろいろ頭がこんがらがっていますが、どうにかこうにか書いています。
正直私では力不足を感じている(いつも私が質問する側ですので)ため、他の方のご意見をお聞きした方がいいとは思います。
しばらく返事は休み、見に回ることにします。

Re: あえて『キングコング対ゴジラ』を批判的に論じてみる - 芹沢亀吉 (?)  URL

2019/12/08 (Sun) 16:02:07

「ゴジラの名の元に原作者の思いを無視して好き勝手していい」と仰いますが、その原作者である筈の円谷英二氏こそゴジラにシェーのポーズをさせる等ゴジラで好き勝手している張本人じゃないですか。円谷英二氏の好き勝手はゴジラの着ぐるみを改造してウルトラマンに殺される悪役怪獣にする等明らかに度を過ぎているにも関わらず誰も批判しないのが本当に不気味です。

キングギドラに至っては産みの親である筈の本多猪四郎氏や円谷英二氏の手で異星人の操り人形で最早キングなどではないラジコンギドラに改変された上に本多猪四郎氏監督作の『怪獣総進撃』で他の怪獣に袋叩きにされ無惨に殺される有り様ですし。『怪獣総進撃』の製作に円谷英二氏は関与していないようですが円谷氏が『怪獣総進撃』本編におけるキングギドラ(とは名ばかりのラジコンギドラ)の扱いの酷さを批判したという話は聞いたことありません。

こうした原作者の好き勝手が「ゴジラで好き勝手していい」というふざけ過ぎた風潮の元凶なのに何故かその元凶への批判が少な過ぎるんですよね。円谷英二氏死去後に製作された『ゴジラ対メガロ』なんてゴジラは水爆実験の被害者シートピア人の手先から人類を守るために戦い人類側には何の被害も与えない益獣で、水爆実験で目覚めたという初代ゴジラの設定を完全に踏みにじっていますが、こうした2代目ゴジラの迷走も原作者がゴジラで好き勝手し過ぎたのが原因です。原作者の度の過ぎた好き勝手が1954年に自分達が造った初代ゴジラという映画に込めた思いを台無しにしている事実から目を背けてはいけません。

一応言っておきますが、私はあのエヴァの使徒のパチモンもアニメ映画本編に登場するアースとかフィリウスとかいうデカブツも断じてゴジラだとは認めていません。Twitter上であの愚作を批判してしつこい嫌がらせに晒されたこともあり余計にあの愚物をゴジラだと認めてはいけないとの思いが強化されました。

私が言いたいのは円谷英二氏がやったことだから、本多猪四郎氏のやったことだからとむやみひたすら追認するのはいかがなものかということです。本来ゴジラとは対等に戦える存在などではない筈のコングに下駄履かせまくって最早コングとは呼べない存在に改変したのはコングの原作者の思いに沿ったものかどうか検討の余地がありますし、地球より遥かに高度な金星の文明を滅ぼし文明の支配を受け入れる存在ではない筈のキングギドラを文明の利器で操られっぱなしのラジコンギドラに改変した点を批判するのは『ゴジラVSキングギドラ』の23世紀製ラジコンギドラを批判する上でも避けては通れない筈です。

原典だから批判するなではなく、原典とされる作品にどのような問題点があり後の作品にどのような影響を与えたかを検証する必要があるってことです。原作者が他界しているから批判するなが通用するならシェークスピア原作『ヴェニスの商人』のユダヤ人差別丸出しな描写も批判してはいけないことになります。

そうそう『モスラ対ゴジラ』で3000万ボルトの電圧では苦しみはするものの死亡はせず最終的に防衛線突破しているゴジラなら100万ボルトの電圧攻撃くらいで防衛線突破断念とかやっぱりおかしいですよね。コングに下駄履かせ過ぎた弊害はこういうところにも出ているんですよ。

Re: あえて『キングコング対ゴジラ』を批判的に論じてみる、に乗かってみました - 海軍大臣 (男性)

2019/12/10 (Tue) 00:51:42

 芹沢亀吉さんの仰られる「あえて批判してみる」と云うのは確かに大事な思考法だと思います。
 以前少し書きましたが、私はシリーズものの人気キャラクターが時代を経る内に次第に変質を余儀なくされることについて、その是非を判断するには説話学的な変遷パターンを用いることが出来るのではないかと考えています。これはTVや映画のシリーズもので云うのならば、第一作が全ての祖型(アーケスタイプ)に当たり、以降の続編全ては派生作品(バリエーションモデル)となるが、この場合、アーケスタイプの有する主題性(噛み砕いて云ってしまえば、ハナシのツボに当たるもの)を保ってさえいれば、その枠内での改編や変質を容認できる、とされるものです。
こうした「時代が下がる」ことによる物語の変遷を、よくある仏教説話を例にして上げるなら、むかし或るところに凶悪な山賊が居て、旅人を殺しては金品を奪うなどして悪逆を極めていた。これを見たお釈迦様が山賊を改心させるため、旅人に変身してわざと自分を殺させることで相手の悔悟を誘い、仏教に帰依させた、とするのが最初にあったお話、即ち祖型となります。ところが時代が移り変わって、流石に「お釈迦様が変身して目の前に現れる」など絵空事として庶民に感じられるようになってくると、今度はお釈迦様ではなく、盗賊の肉親や恋人が旅人に化けて殺されることで男に強い後悔を喚起させ、仏道に入る切っ掛けになる、といったパターンが生まれてきます。これはストーリーの一部が最初のものから明らかに改変されてはおりますが、先に述べたハナシのツボといった点では説話の枠内に収まっていることから、派生モデルとしては「〇」との判定が付けられる訳です。

 では、これと同じ視点から芹沢亀吉さんが「あえて批判」をされているキングコング問題に目を移してみます。
映画【キング・コング】(もちろん1933年の第一作です)の主題は、ヨーロッパに古くから流布されている「王殺し」にあると考えられます。これは若き後継者が年老いた王を殺害することで世界に繁栄をもたらす、といった考えで、これを映画作品に当て嵌めてみますと、正に旧世界(ドクロ島)に君臨していた王・コングも新世界(人間界)では極めて無力な存在に過ぎないことが明瞭に描かれています。
 ところが翻って【キングコング対ゴジラ】を観てみますと、東宝版コングにはそうした部分が全く踏襲されておらず(初代とは異なり、文明社会に連れて来られても高圧電流を凌いだりするなど、容易には殺害不能でした)、前掲した仏教話とは違って明らかに説話の枠から逸脱してしまっており、バリエーション・モデルとしては「☓」という評価を下さざるを得ないことになってしまいます。
それでは何故このような改変(改悪)が為されてしまったのでしょうか? もちろん「作り手側のご都合主義」の一言で言い現わしてしまっても良さそうな観もありますが、その実、もっと根は深いようなのです。

 もともと【キングコング対ゴジラ】なる作品が製作される発端に関して、世間に流布されている「この企画を胸に抱いた田中友幸プロデューサーが渡米して交渉に当たり、遂にRKOからコングの使用許可を取り付けた」とされる逸話そのものが如何やら間違っていると思われます。
 1950年代、ハリウッドでは米ソ冷戦という時代背景を受けて、核実験が生んだモンスターや、地球を侵略にくる宇宙人(これは得体の知れない共産軍兵士の暗喩とする見方があります)を描いたB級SF映画がブームになっていました。ところが【キング・コング】を生み出したRKOは経営難のために撮影所が閉鎖される始末で、新作映画の自社製作すら不可能だったため、自身が版権を所有するキングコングと世界的に著名なモンスターキャラ(たとえばフランケンシュタイン博士の怪物など)のコラボ作品を外部に向けて呼びかけていたとされます。つまり【キングコング対ゴジラ】誕生の真相は、田中プロデューサーの武勇伝的なエピソードなどではなく、落ち目になったハリウッド発のプランに東宝が「乗っかった」とするのが正しいようなのです。
 しかもこのとき東宝が20万ドル(1ドル=360円とすると、これだけで前年公開の【モスラ】や【世界大戦争】の直接製作費に匹敵する大枚に当たります)ものライセンス料を払って手に入れたのは「キングコング」の名称の使用権に過ぎず(しかも中点無し)、キャラクターの姿形をそっくりコピーすることまでは許されませんでした。
 けれども、この点に関しては東宝側からすれば寧ろ恰好の条件だったのかも知れません。初代の姿形を踏襲しなくて良いのならば、ゴジラとタイマンを張れるだけの体格を今度のコングに付与することが可能となったのですから。勿論、作り手側はそうした改竄に対する最低限のエクスキューズとして、自社版コングとオリジナルとでは出身地が異なる別物であること(片や南洋遥かソロモン群島のファロ島で、初代はジャワやスラバヤの更に西方に位置すると設定されているドクロ島の出自です)を作中で付与しています。つまり事情は異なりながらも、後年のどう見てもイグアナのお化けにしか見えないモンスターに「ゴジラ」の名称を用いたエメリッヒ作品と全く同じことが1962年に起こってしまっていたことになりましょう。それに「オリジナルとは身体のサイズが異なる」とは云っても、最初の【キング・コング】自体がそれほど厳密に体格が統一されている訳ではなく、視覚効果の問題からかドクロ島とニューヨークのシーンでは身長が30%ほど変化してしまっている事実を付記しておきます。

 以上のような経緯を踏んで製作された【キングコング対ゴジラ】は日本国内で特大ヒットを記録したことは周知の通りですが、やはり本場アメリカでの公開時には、オリジナルとは違ってヌイグルミを用いたことに対する反発からか必ずしも評判は良くなかったと聞きます。そうした部分については、何だか昨今のCGゴジラに対する国内ファンの反応を見る気がしてなりません。
 それでもその後もRKOは東宝を突っついて、【ロビンソンクルーソー作戦】や【キングコングの逆襲】を企画・製作させたり、東映動画にアニメーション化を行わせるなど、徹底して版権で食いつなぐ姿勢を見せています。つまり現在の我が国でゴジラのキャラクタービジネスを巡って起きているのと実によく似た事象が、既に半世紀以上前にアメリカで起こっていたことになるのです。
 やはり以前に当サイトで書いたことですが、世界映画史を語る上で決して避けて通れない最初のトーキー映画【ジャズシンガー】の権利が、既に製作会社であるワーナーブラザーズから売却されてしまっているというショッキングな事実があります。ですからキングコングやゴジラが如何に偉大な作品であったとしても、やはり後世の経営者たちにとっては単なる「商品」の一つに過ぎないことになるのでしょう。
 こうして聖典化されている作品を「あえて批判して」みた結果、色々な問題が浮き出てくることが判りました。芹沢亀吉さんには、今回そうした思索を行う切っ掛けを提示くださったことになりますから、大変ありがたく感じております。なお、もう一つの問題定義であるラジコン・ギドラについてはまた別の機会に譲りたいと存じます。
 あと蛇足ながら、100万ボルトと3000万ボルトの問題についてですが、個人的な見解として、そうした部分が目につくようになった中学~高校生時分に両作品を観た際、私はゴジラにとって100万ボルトの電流すら耐えがたいものがあって、それを遥に上回る3000万ボルトを浴びせられてはかなりヤバイ感じがあり、辛くもそれを逃れ得たのは人間側の不手際(と云いますか、藤田進と津田光男の強面コンビの圧力と云った方がよろしいかも)にあったと思えたので、提起されているような矛盾は感じなかったのが正直なところです。それではまた。

Re: いままで書いてきたことの繰り返しがほとんどだが 殿様ギドラ (男性)  URL

2019/12/13 (Fri) 13:56:04

 お久しぶりです、芹沢亀吉さん。

『キングコング対ゴジラ』におけるキングコングの改変はキャラクターの保全という観点からは不当です。
しかしこれを本多・円谷コンビが率先してやったとは思いません。
ゴジラとキングコングを戦わせるという企画には商売上のうまみはあっても、それぞれのアイデンティティを守ることを考えれば無理があります。
それでもやらざるを得なかった社員監督のつらさでしょう。
ですから海軍大臣さんからお話のあった大どんでん返しも発案されたのでしょう。
なんとか成立したのはエクセルシオールさんの解説が正しいと思います。
コングのサイズが拡大されたことに説明はありませんが、帯電体質に関しては劇中の出来事によって獲得したものですから設定の改変ということではないでしょう。
時が過ぎれば失われる能力かも知れません。

 また、アメリカサイドからキングコングをオリジナルとは変えてくれと要請されたことも影響はあるはずです。
(顔を変えてくれといわれたという情報もありますが、梶田興治さんのオーディオコメンタリーではただ「変えてくれ」というお話だったと思います)
のちに『キングコングの逆襲』を作るときには本来のキングコングに戻す動きがありますから、本多・円谷コンビがゴジラサイズの不死身コングでいいと考えたわけではないことがわかります。
(上の記述は海軍大臣さんの詳細な解説を読む前に書きました)

 また、私がこれまで『キングコング対ゴジラ』におけるキング・コングの改変問題をあまり強く批判してこなかったのは、キング・コングの映画はそれ以前に2本しかなく、
キング・コングのキャラクター性がそれほど強烈に確立していたとは言えなかったことがあります。付言すれば二本目にはキング・コングは登場しませんし。
 コングの個性とはこれだ、と言える材料が少ないのですから、『キングコング対ゴジラ』のキングコングを見てもそんなに強く「これじゃない」とも思えないわけです。
まあ、コングの体内に原子炉があるとか、コングが霊魂の集まりだとか言うわけでもないですしね。
(海軍大臣さんのお話にありましたが、アメリカでのウケがいまいちだったのは、彼の地には当然キング・コングマニアが多数いたからでしょう)

>『キングコング対ゴジラ』が行ったコングの設定改変が後続の作品に与えた悪影響についてもきちんと明らかにしておくべきです。

 とのことですが、『キングコング対ゴジラ』の影響下で改変キャラを出してきた作品には思い当たりません。
東宝フランケンシュタインも原作とは違うものに改変されていますが、あれは以前書いた改変もやむを得ないケースに当たるので別として考えたいですが、
改変そのものを問題にするならカウントしても良いでしょう。
けれども、映画史的に『キングコング対ゴジラ』以降有名キャラクターの改変が横行したという事実には思い当たりません。

『怪獣大戦争』

1.レディガード
 これは地球人類がX星人を倒すために開発した技術ではありません。
鳥井哲男の発明品の音がたまたまX星人を狂わせるものだったということです。それに気がついたX星人はレディガードの管理を買い取って世に出ることのないように対策しました。
しかし、波川の裏切りで計画が狂ったのです。
 地球の科学とX星の科学が拮抗していたわけではありません。

2.怪獣コントロール
 X星人は宇宙人であり、我々の世界の外からやってきた者です。
 そしてX星の文明は高度な科学力を持つとはいえ個人の意思を無視するものであり、科学の誤用を象徴するものです。
地球文明がいつか到達するかも知れないディストピアとして創案されたものと見ることに無理はないでしょう。
未だ実現していないけれどこうなったら困るよねというものなのです。
 ストーリー上の立ち位置はオキシジェンデストロイヤーに似たものだと見ています。
 ですからX星の科学は怪獣をもコントロールしてしまうのです。
(私は『怪獣大戦争』は怪獣たちが操られっぱなしで怪獣を見る楽しみは薄いなと感じますが、『地球防衛軍』『宇宙大戦争』につづく地球侵略ものとして評価しています)

 金星文明を壊滅させたキングギドラがX星人に操られていることに怪獣設定上の問題は感じません。金星文明とX星文明の比較をする材料は作品から読み取れません。
 強力無比とされたキングギドラが何者かに操られているということに作劇の問題は感じます。←これは以前から機会があれば書いていることです。
『怪獣総進撃』でのキングギドラ袋だたきもイヤだなと書いている人はいますよ。しかし、怪獣設定上の問題はありません。キングギドラも一動物。多勢に無勢では勝てないのも無理はありません。



 ゴジラという怪獣は作品を重ねる中で熟成していったキャラクターです。
原点を生み出した作者がその基準において演出を決めていったのが1960年代のものです。
 第一作目『ゴジラ』においてさえ、怪獣ゴジラは超然としたものでも悪鬼のようなものでもなく、一動物としてしっかり描写されています。怒り、暴れるだけの描写はしていませんよね?
その後、続編を作るに当たって、さまざまなシチュエーションでのゴジラを描いていくのです。
『キングコング対ゴジラ』におけるゴジラはひょうきんな面も見せています。
 ゴジラ出演映画は『キングコング対ゴジラ』以前には2作しかありません。しかも一作目に登場したゴジラは死んでいますから、二代目ゴジラの映画は1作しかなかったことになります。
この段階でひょうきん者はゴジラじゃない、と言える物ではありません。
作者たちはゴジラをただ怖いだけの存在にはしたくなかったのではないかと考えています。
私はゴジラがシェーをやったことをキャラクターの破壊とは思いません。(それが好きかどうかは受け手の問題である)
私があの「シェー」をどう見るかは以前書いていますので、過去ログを探してみて下さい。
 そして円谷演出によるゴジラ総体がゴジラの個性であると考えています。
(付言するとゴジラを作り上げたのは複数の才能でありますが、それをフィルムに定着させていったのは円谷英二にほかなりません。円谷英二以前にゴジラはありません。
円谷監督がゴジラを使って何をしたかと後世の別人がやったことを同列に見るのは間違っています)

 怪獣改変を本多・円谷コンビが容認していたとは思いません。
 外見のデザインにブレがあるのは製作上の様々な要因が影響しているでしょうけれど、怪獣たちが別物にされて出てきた試しはありません。
(キングコングについては先述の通り)

 1984年以降のゴジラ(全部ではない)を私が否定するのは、生物としての設定を改変していたり見た目の改変が大きかったりすることもさることながら、
二代目ゴジラが積み重ねたキャラクター性を無視していることも理由の一つです。
(70年代ゴジラは円谷英二不在の中、相当不味いことになっていますが、ゴジラの設定や来歴を改変してはいない。『ゴジラ対メガロ』はかなり不味い出来ですが、『ゴジラ』の精神を踏みにじったものではありませんよ。
あ、それと怪獣設定と物語構造をごっちゃにしてはいけません)


ゴジラと電撃

 初代ゴジラに5万ボルトはさほど効き目が無かったようですが、同時に砲撃もしたので怒らせてしまったのでしょう。
熱線を吐いて東京に侵攻することになってしまいました。

 さて二代目ゴジラですが、100万ボルトは結構ビリッと来たのでしょう。ゴジラにしてみればもう一度触るのはイヤですよね。
だから高圧電線を迂回して富士山方面へ行ったと思っています。ゴジラが格別に東京を目指す理由はありません。
あのときゴジラは怒ってもいません。こういうところが一動物としてのゴジラを誠実に描写することなのです。

最後に
「ウルトラマン」謎の恐竜基地をしっかりご覧になっていますか?
『怪獣総進撃』は何がテーマですか?

と、いまはここまで書くのが限界です。遺漏あるかもしれませんが、そこはどなたかフォローよろしく、なんてな。

Re: ラジコン・ギドラは許容できるか? - 海軍大臣 (男性)

2019/12/14 (Sat) 01:34:55

 今回ギドラさんの書かれた、

>本多・円谷コンビが率先してやったとは思いません。

 のご意見を読んで、興味深いことに円谷さん、本多さんお二人とも【キングコング対ゴジラ】に対しては、少し批判的な言葉を残していたことを思い出しました。
 まず円谷さんは、当時の東宝30周年記念作として「竹取物語」の大作映画化を希望していたのにそれが叶わず、「会社はゴジラとキングコングを組み合わせた珍妙な企画で私の悲願を押し流した」とする不満を書き残されています。この映画【かぐや姫】の企画は【ゴジラの逆襲】公開直後の週刊誌での誌上座談会で既に田中友幸氏が言及していて、創立25周年に当たる昭和32年の東宝ラインナップに見られる、八千草薫主演を謳った【なよたけ】がそれに当たるのではと私は踏んでいます。結局、このときは何らかの理由で没企画となったものを、円谷さんが5年後にまた復活させようと必死になっておられたのじゃないかと想像されるものです。
 また本多監督の方は、以前に当サイトで触れたことがありましたが、80年代初頭にファンからインタビューを受けた際に、御自身にとって大ヒットとなった【モスラ】の監督をうっかり引き受けてしまった結果、翌年も【キングコング対ゴジラ】を引き受けざるを得なくなり、その更なる大ヒットのため、以後も怪獣ものを撮り続けるハメになった、との可成りキビシイ本音の入った言葉を吐かれたと聞きます。【大怪獣バラン】以降【モスラ】までの3年間、本多監督は変身人間ものや宇宙SFこそ手掛けられてはおりますが、怪獣ものは全く無く、本来のプログラムピクチャーに軸足を移そうとされていたのではないでしょうか?
以上から勘案しますに、言うなれば「売り物に花飾れ!」を娯楽映画作りのモットーとされていた田中友幸プロデューサーが、御自身が大切にしていたゴジラ(何しろ例の合作映画の企画がポシャって、絶体絶命の窮地に陥っていたところを救ってくれたキャラクターなのですから)を7年ぶりにスクリーンで復活させる際の、考え得る最高の対戦相手としてキングコングを大枚払って招聘し、本多・円谷の両監督を強引に巻き込んで作ったのが本作ということになるのだと思われます。

 さて前置きが長くなりましたが、ラジコン・ギドラ問題についてです。
 前回と同じ説話学的な思考方法で【怪獣大戦争】を検証してみましょう。前作【三大怪獣 地球最大の決戦】の主題は「強大な外敵に地球の怪獣たちが結束して立ち向かい、勝利する」となりましょう。するとその派生モデルである【怪獣大戦争】のストーリーラインも、その枠内に難なく収まってしまうことが判ります。
 今回は地球側からモスラが一匹減り、キングギドラの背後にX星人という大きな存在が加わりますが、基本的な対立構造に大差は見られません。バリエーション・モデルとしては十分に「〇」が付けられることとなってしまうのです。
 となりますと、本作の評価は芹沢亀吉さんの表現されるところの「ラジコン・ギドラ」を許容できるか否かに掛かってきてしまいます。
 確かに前作での新怪獣キングギドラの存在感は圧倒的なものがありました。ですから、そんなモノスゴイ大怪獣を容易く操り人形にしてしまうX星人を「何てスゲエ科学力を持っているんだ!」と当時の子供目線で観るか、それとも研究書『大特撮』辺りで云われ始めた「怪獣の矮小化」として批難するか、ファンの間でも真っ二つに割れるところです。

 このX星人の風態は「ギャング団をイメージしてデザインされた」との逸話が残りますが、全体としては前回取り上げた50~60年代のハリウッド製B級SF映画に数多登場した宇宙人を踏襲したように感じられます。
 コスチュームどころか女性に至っては顔まで同じ(本来なら個性が出るのは男より女である筈なのに)と云う、まさに個(パーソナル)を持たない全体(マス)としてのその在り方は、冷戦当時の得体の知れない赤軍兵士、或いは更に広げると、西側世界から見たソ連人民のパブリックイメージと重なります。電子計算機を絶対的に信奉する姿勢に至っては、「党絶対」「指導者絶対」といったテーゼへと繋がる気がしてなりません。
 芹沢亀吉さんの指摘されるX星人の「脆弱な科学力」についても、実際には圧倒的な差があって、それ故に「地球上の全核兵器を使用してでも戦う」といったタカ派の物騒な発言となったものでしょう。映画の画面には実際に描かれていませんが、恐らく通常兵器しか持たない国連軍はコテンパンにやられているのではないでしょうか? 後半でAサイクル光線車部隊が味方のエアカバーを全く受けられず、ノルマンディーのドイツ軍よろしく経空脅威の下で不利な作戦行動を強いられていることが全てを語っているように受け取られるからです。
 しかし、その一方で電算機(つまりレーニン)を絶対視する姿勢は、明らかに組織の形骸化、硬直化といった脆弱性を生み出す、といった冷戦期の東側陣営批判とそっくり符合することにもなります。X星人は正にその一点を衝かれて敗亡することになる訳です。

>弱点が判れば地球人の科学でも倒せる

 との批判もありましょうが、しかし劇映画(娯楽映画)の中で、弱点を持たない完全無欠の敵役の在り方は、作劇の上では意味を持たないことは論ずるまでも無いと私は愚考いたします。
 また、それだけ進んだ科学力があるのならば、よりファジーな論理思考を有する(例えばナミカワ女史の心理的振幅まで予見してしまうくらいの)未来的なAIの様な電算機をX星人が持っていて然るべきじゃないかといった今日的な意見を持たれる最近のファンも居られるようですが、しかし、本作の根底には当時イメージされた「無味乾燥で没人間的な機械文明」を描く発想が流れていたのですから、これは些か的外れな後知恵に思えます。本作から僅か3年後に公開された【2001年宇宙の旅】での、人間そのままのトーンで会話するHAL9000の登場はSFファンには衝撃を持って迎え入れられたものの、今日とは違ってSF的なガジェットとは殆ど馴染みの薄かった当時の世間一般に広く認知されたかについては大いに疑問が残ります。
 このように見ていくと、恐ろしく発達していながらも、その実、いともたやすく崩壊してしまう機械文明への危惧、といったものを作者たちは本作中に描こうと試みていたことになりますから、勿論ストーリー上の必要性もありましょうが、あのモノスゴイ新怪獣キングギドラを今回は単なる操り人形として登場させたのも、その恐ろしく発達した科学力を端的に見せつけるための作劇上の手段だったと考えられるのです。結局のところ怪獣のラジコン化は是か非かについては、もはや結論の出ないファン個人の好みの問題となりましょう。

 ところで話は全く変わりますが、学生の頃に大学の図書館で昭和40年頃の学校新聞の記事を漁っていて意外なものを見つけました。それはウチの大学の教授が当時封切られたばかりの【怪獣大戦争】を文章に取り上げていたのです。
 読んでみると意外に高評価が下されていて驚きました。その教授の専門は造船工学だったと記憶しますが、クレオパトラカットの水野久美さんの美しさを褒める一方で、何故か映画冒頭の地球連合宇宙局の室内セットに置かれていた「木星儀」の出来栄えを絶賛されているのです。専門が異なると注目するものも違うのかと驚いた次第で、是非お会いして公開当時のお話など伺いたいも考えましたが、既にその記事から20年が過ぎており、既に教授職を退官されていたことが判り、がっかりしたことを思い出します。
 しかし、当時は子供向けと見られていた怪獣映画を大学教授ともあろう「いい歳をした大人」が真面目に取り上げられているのですから、実に勇気ある方だと考えます。三島由紀夫は撮映画と任侠映画が大のお気に入りだったとされていますし、日本画壇を代表する東山魁夷が、スケッチ旅行の先々で「ラドンを観た」「液体人間を観た」などと日記に楽し気に記述しているところから考えますに、実は意外と怪獣映画とインテリは親和性が強いのではないのしょうか。

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