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ギドラの巣「新」映像作品掲示板

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調べてみたら驚きました - なんじぇい (?)

2019/06/30 (Sun) 21:02:23

結果が全く想定外で、これはもうオタク云々の問題ではないのではないかと思えたためにここに書いておきます。


ギドラさんの意見に触発され、以下の質問を周囲のクラスメイトにいくつか聞いてみました。
「あなたが○○シリーズの監督ならどんな作品にしますか?」というものです。

聞いた人数は男性の方が多いですが、女性の方もいます。
当然オタクでない人の方が多いです。
シリーズを限定しなかったのは、ゴジラの名前しか聞いたことのない(姿形も一切知らない人もいた)人に聞いても流石にしょうがないと思えたからです。多少知っていて好きなジャンルの方がいいと考えました。

なんと答えは7割以上、既存のキャラクターを改変するものでした。男性の人からはゴジラを富士山よりでかくしたいとか、放射熱線で惑星ごと吹き飛ばしたいとか、純粋悪の仮面ライダーだけが出てきたら面白いのではないかとか、女性の方からはプリキュアのキュアブラックを黒人にしてキュアホワイトと愛し合ったりしたいというものがありました(1つ注釈しておきます。黒人をプリキュアにすることは全く問題ないし、むしろ出すべきとは思います。しかしそれは新しいプリキュアで出すべきであり、既存のキャラの顔や人種や恋愛対象を勝手に変えるべきではないでしょう)。
ちなみに、既存の設定を大切にしたいなどという意見は、たったの1つもありませんでした。

また主に改変は、有名な既存のキャラの特徴を自分好みに改変したものが多かったです(例えば富士山よりでかいゴジラや惑星ごと吹き飛ばす熱線の場合、ゴジラの「大きい」などの特徴を自分好みに強化したことになる)。

なんでそんなことをするのか、と聞くと「キャラってコロコロ変わるもんでしょ」「みんな好き勝手に作ってるんだから私にも好きにしたい」「同じのを見て喜ぶ人も分かるけど、私は違う。両方作ればいいのではないか」みたいな返答でした。
「次の作品はどんなキャラや設定になるのかが楽しい。無論嫌いな設定になることもあるが、それはその時批判したらいいじゃないか」みたいなものも多かったのです。


さすがに驚きました。私はキャラを改変するのは「赤信号みんなで渡れば怖くない」と考えていました。
しかし現実は、赤信号とすら思ってなかったようなのです。むしろ喜んでいる節があります。
そしてなんと、作家によってキャラは変わるということがどうやら創作全体のイメージになってるみたいなのです。作家性を見たい! って感じなのでしょうか。


おそらくこれは仮面ライダーもウルトラマンもゴジラもガンダムもコンテンツは作家が好き勝手にやってきていて、オタクやマニアであろうとなかろうとそういうコンテンツに多少なりとも触れている以上、千変万化するイメージになってしまっているのではないかと考えました。


もはや、末期的状況ではないかという思いがひしひしとします。
映画にしろアニメにしろ、大衆娯楽という要素が大きなウェイトを占めます。初代ゴジラにしたって、公開当時の映画パンフレットを見る限りでは大衆娯楽の要素を多分に含んでいます。
あくまで限定した世代の少人数のものなので、大衆全体がこんな認識ではないと思いたいのですが、大衆がもしそんな認識になってきているのなら、どうしたらいいのかは考えるべきだと感じました。

そして作家さんは、作品をめちゃくちゃにされないように何がなんでも遺言を残すべきだと思います(本当に好きにしていいなら、そういう遺言を残せばいい)。


ただし救いなのは、設定改変は既存のキャラのイメージを過剰に拡大させるものが多かったということで、設定が嫌いなら批判するということは共通だったことです(少なくとも無批判ではない)。
ただ裏を返せば、オタクでない人はある程度確立したイメージしか知らず、それすら自分好みに変えたがっている……ということなのかもしれません。
「変わって当然、むしろ色々変わったの見たい」が大衆の感覚になってしまったら、もうどうしたらいいのかはわかりません。既になりかけているのか、もうある程度そうなっているのかは分かりませんが……
ただ1つ言えることは、「それはやりすぎ」の感覚がどんどん緩くなっているということです。



あと「改変大好きなものと昔の設定を固持したいものの両方をつくって、両方本流扱いにしたらいいんじゃないの」という意見はどうなのかは気になりました(現代のゴジラはそれすらやっていないので、遥かにマシでしょう)。


最後になりますが、ゴジラやキングギドラをドラゴンボールばりに強化して「大きさ数百km、光線や肉弾戦で星ごと次々破壊しながら宇宙規模の怪獣バトル」みたいなものにするのはアリなのかは多少気になったりました。
まあ怪獣の強さはこれ以上ないものにはなりそうですし、映像的にはそれはそれで面白味はありそうですが……

Re: 調べてみたら驚きました - なんじぇい (?)

2019/06/30 (Sun) 23:30:40

反省をかねて、思ったことを追加して書いておきます。
私もかなり使っていたことなのですが、「大衆娯楽だから」や「一部のマニアオタクだけでなく人間全体で見たら……」や「社会的には」みたいなものを根拠にすることは不味いのではないか、ということです。

それはいわゆる少数派を数だけで押し潰すことになってしまうことになる上に、冷静に考えたら、多数派だから正しいとかあるいは少数派だから逆に正しいとかを言うのは、いずれも全く根拠にはなり得ません。
多数派だろうと少数派だろうと、根拠が間違っていることは間違っているということです。
それに、言っていることが本当に多数派なのかなども分かりません。

これは私も使っていたことで、本当に反省の限りです。
ただし商業主義的には娯楽映画というジャンルは多くの人に受けないと話になりませんので、「大衆」の価値観や考えをある程度考慮にいれなければならないこともあり、本当に悩ましいです(いかに出来が良くても、売り上げが鳴かず飛ばずなら打ち切り以外あり得ない)。

付け加えて言うと、どうも今は作家性を重視する気配があるように見えます(キャラを作家好みに改変した方が改変しないより作家性を出せることは間違いないのは事実であり、設定の問題もギドラさんがスタートレックで挙げておられたように、パラレルワールドなどにしてお茶を濁してしまうものが後をたたない)。
さらに、「変えちゃいけないなんてそんなの誰が決めたの、むしろ色々なもの見たいんだけど」みたいな意見も個々に聞いてもオタクじゃなくても平気で飛び出します。
これが複数人から出たとき目眩がしました。しかし反論はできませんでした。



とりとめのない文章になってしまいましたが、簡潔に纏めて書くと

大衆全体(若い世代しか聞いてませんが)の考えが変わってきているような気配がする。既存の作品の影響からか分からないが、キャラや設定の改変をむしろ喜んでおり、どんなキャラになるか楽しみにしている節がある。もしこの層が多数派になった場合、どうしたらいいか分からない。
またゴジラに限らず映画や創作は、どう大衆と付き合っていけばいいのか分からない。特に娯楽映画は大衆と密接な関係があり、全く分からない。
設定重視と改変上等の両方を作るという案はアリなのかナシなのか分からない。
どこまで作家自身のオリジナリティを認めていいのかが分からない。
とても過剰な特性の強化等がどうにも受けているようで、これも是非が分からない。
そして何よりも賛同する人の数や社会的なイメージ(何せキャラが作家性や作品によってある程度変わることが、結構な人のイメージになっていそうなのだから)等を一切根拠にせず、彼らを説得する方法はまったく思い浮かばない。



こんな感じでしょうか……。
あまり簡潔ではありませんが、もはや困惑と苦悶が合わさったような形です。

最初に聞いたとき、嘘だと思いました。ですが、これは私の周囲に限っては事実だったので、本当に不味いのではないかと思いました。

Re: 調べてみたら驚きました 殿様ギドラ (男性)  URL

2019/07/01 (Mon) 19:42:43

 これは、本当に貴重で有益なアンケートをしていただいてどうもありがとうございます。

 こんなことになったらイヤだなとうすうす感じていたことが現実化しているみたいで、いよいよ「フィクション」の危機だなと思いました。

 GMKのころ、既存のキャラクターを改変しても構わないじゃないかと考える人々とのやりとりを通じて感じたことがありました。
ひょっとすると、フィクション(虚構)を鑑賞するとき、鑑賞中も「これは作り事だ」と意識しながら受け取る人が居るのではないか、ということです。

 小説でも映画でもストーリーに真実味を持たせるために「考証」ということをやります。
架空のお話でも現実化したらどうなるのか、というシミュレーションを行って、より本当らしい虚構を作るのがセオリーです。
 それは、お話が嘘くさくなると、読者・観客の心を動かすことが出来ないからです。

 蓋然性のないお話は、そこどんな感情や観念を込めようと「嘘くさい」で片付けられてしまうものでした。
(怪獣映画も怪獣なんかいるはずがないからウソだ、下らないと言われたものです。しかしそれは、既知の科学しか認めない狭量な宇宙観から来る間違った鑑賞と言える)

 従来型の物語鑑賞法は、鑑賞中には作中の事象を現実のことと考えて受け取るものだったはずです。
(ですから、強烈な個性を持つ役柄を演じた俳優は、プライベートでも役のイメージで見られてしまったりした)
シリーズ作品であれば、ストーリーが続き物でなくとも、同一キャラはその設定を守るのが当たり前でした。
それは、作中の人物はその世界に実在しているものですから、理由も無く性格や姿形が変わることに蓋然性がないからです。

 しかし、鑑賞中も常に作り手の存在を意識し、劇中存在を実在と思わず、作り手の意図を読み取ることが鑑賞だと思うようになると、
劇中の事象に対してその蓋然性を問う必要がなくなります。
 すべては作り手の内面ですから。

 こうなるとキャラ改変など当たり前ということになりますよね。

 ただし、作り手の内面だけ見るような鑑賞姿勢、そして作者の内面さえ表現出来ればいいのだという創作姿勢から生まれるのは、内向きで一般性・普遍性に欠ける特殊な作品です。
近年はそんな作品を作家性に富んでいるなどというようですが、個人の特殊性を出せばそれで良いというなら、誰でも大作家になれますよ。

 ごく一般の観客ですら、作り手の個人的こだわりが表現されていればそれでいいと考えるようになったとすれば、批評家の力不足が影響しているのかもしれません。
私はあまり映画の批評本を読みませんが、それは、多くの批評家が作品そのものを分析論評するより、作者の内面を類推してそれが作品にどのように表れているかを考えるみたいな手法をとっているからです。
それは作品の論評ではなく、当該監督の人間論評ですよ。
あるいは作品の周辺事情などを加味して、深読みのような妄想のような想像をしていたり・・・。
(ちゃんとした作品批評をしている批評家もいるんでしょうけれど・・・)

 鑑賞とは作者を読むことという姿勢が蔓延したら、良い作品があったとしても、そこから得られるのはせいぜい「共感」でしかありません。
作者の思いに共感できたらそれなりに気持ちいいでしょうけれど、作品を通じて新たな認識を得たり出来るものでしょうか。
あるいは、作者と似た性行(本来の意味ですよ)を持つ人にしか訴求しない作品ばかりになることでしょう。
 というのは極論としても、いわばもう一つの現実として作家が黒子に徹した物語に比べると、小粒になるのは確かだと思います。

 ここまでは鑑賞姿勢の話ですが、キャラ改変の問題は、創作とは何だという問題もはらんでいます。

 上で書いた虚構のリアリズムの話からは、原作者であっても一旦創造したキャラクターをころころ変えてはいけないということになりますが、
昨今の有名キャラ改変問題は、先達が作り上げた物を書き換えてしまうところにもあるわけです。

 この話になると、自身が創作している人でないと理解できないことかもしれません。
簡単な話、他人が心血注いで作った物を勝手に変えるな、ということです。

 創作物には一木一草に意味がある、などと言われます。
ある物語の世界設定や登場キャラクター設定は、作者にとって、こうでなければならないという確固たる物であるはずですし、そこまで突き詰めていないものは凡作・駄作になるのです。

 それを後輩が書き換えて良いはずがない。

 これは製作側の問題なんですよね。
創作の仁義がわからない人間が改変ものを量産してしまった結果、お客さんも改変が当たり前だと思うようになってしまった・・・。
(仮面ライダーは石ノ森氏自身が改変するものだとかなんとかおっしゃっていたらしいので、いいんでしょうけれど)

 ゴジラの話をすれば、元祖ゴジラ(初代と二代目)が持っていたキャラクター性(見た目はもちろん、その生物としての設定、気質などすべてをひっくるめます)を超えた改変ゴジラなんかいなかったと見ています。
VSゴジラは放射線で変異した動物で、放射性物質をエネルギーにするという設定からストーリーに縛りがありましたし、その性質は厳つさを全面に出し過ぎていたので、戦いは死闘ばかり。
元祖ゴジラのような自由度がありませんでした。

 以後の改変ゴジラたちとなるとほぼ毎回別物になってしまうのでそれぞれについてのコメントは割愛しますが、元祖ゴジラより魅力的なものは、私には見当たりません。
ゴジラは元祖ゴジラが極めて優れた映画キャラクターだったから歴史に残る怪獣になったのです。もし、完璧な物があったとして、それを改変するということは完璧を壊すことになるのですよ。

 この場を借りて作り手の方々にお願いします。
その改変は、原典より優れていますか?原作者が喜びますか?そこをよく考えて欲しい。

 などと書いてきましたが、商業映画は商売なので、金にさえなればなんでもやるのでしょう。
そして観客側がキャラ改変を当たり前と思わされているとなると、改変問題は止めようがない。

 いいえ、違います。
 作り手が創作上の倫理観を持てばいいのです。
 しかし、わがままな作り手は先人への尊敬もなく、自己表現でございと改悪キャラを作りたがります。
そこで出番は、評論家じゃないんですか? 新作映画は貶せない?貶すと取材させてくれなくなる?なにが取材だ。映画評論は作品そのものを見れば出来る。
監督だのキャストだのにインタビューなどする必要はない!

 映画評論家たちよ、しっかりしてくれよ。

 そして、
>設定重視と改変上等の両方を作るという案はアリなのかナシなのか

 これは百歩譲ったら、私はアリだと思います。
本流として原典を守った正調なものを作っていくのであれば、あくまでも傍流、パロディとして改変ものを公開してもいいの、かも、しれません。
それでも、名前は変えないといけませんね。ゴジラの改変であれば◯◯ゴジラみたいに区別できるようにすべきです。
いま東宝が展開しているちびゴジを悪いとは思いませんよ。

リメイクや続編の設定改変について - なんじぇい (?)

2019/07/04 (Thu) 10:45:46

>その改変は、原典より優れていますか?原作者が喜びますか?そこをよく考えて欲しい。

多分、作り手は原典より良くしたつもりなんだろうと思い込んでいるのではないでしょうか(少なくとも作り手にとっては)。
「ゴジラをもっと強く見せてやった」「仮面ライダーにバリエーションを増やしました」「既存のキャラを色々変えて、人種問題等に切り込んでみました」くらいに考えているのだと思います。
原作者に関しては分かりません。


またキングオブモンスターズは『三大怪獣地球最大の決戦』のリメイクとも言えなくもない内容なので、そちらも話題にして書いてみます。


リメイクとは作り直すことであり、コミカライズやアニメ化、映画化なども一種のリメイクと言えると思います。
しかしアニメ・特に低予算の一部深夜アニメには、恐ろしく不出来な作品がごり押しや一部の人気でアニメ化したり(こんなことが起きた場合、多数から「あまりにも不出来だからストーリーや設定を変えろ!」という陳情まで飛び出す)、原作が足りないうちからアニメ化したためにオリジナルエピソードを大量に放り込むということもとにかく横行しています。
そのため悲惨な出来の原作をコミカライズやアニメ化した際、作り手が辻褄合わせのオリジナル展開や新設定を入れてファンに歓迎された……なんていう例も少なからずあります。
このような事態になっているからこそ、設定改変も歓迎される風潮になったのかもしれません。


恐ろしく不出来な原作をリメイクする時は、どうしたらいいのかは考えなければいけないとは思います。
またリメイクする際は、どこまで修正がOKなのかも疑問です(売り上げが悲惨な以上絶対にないとは思いますが、仮にアニメゴジラを実写化リメイクすることになった場合、どこまでいじっていいのか……もし出来を良くしたいなら設定から何からいじらなければならないだろう)。
個人的にはもう明らかな欠陥は直していいとは思いますが……


そもそもの話「そんなものリメイクするな」と言いたくもなることはあります。
しかし今はファンが細分化している上に、その原作の一部だけが大好きだというファン(これは気持ちはわからなくもない)や、アニメ化したらそのファンが大量に購入して金になるという事情もありますので、なんでもかんでもアニメ化や実写化やリメイクすることが多い上の質問です。

Re: 調べてみたら驚きました 殿様ギドラ (男性)  URL

2019/07/04 (Thu) 20:40:13

 私の
>その改変は、原典より優れていますか?原作者が喜びますか?そこをよく考えて欲しい。

 この問いかけは昨今の改変ものに、原典の不備を補おうとか、オリジナル作者の意思を大事にしようという志を感じないから出てきた物です。
アニメゴジラのスタッフコメントを見ると、ゴジラを知らないからこそ新しいアイディアが出た、みたいなものがありましたね。
これを見ても、オリジナルを研究することを放棄して、ただただ別物に同じ名前(ブランド)をつけようとしている姿勢が分かります。

 前回の投稿で評論家へのメッセージとして、映画批評に監督・キャストインタビューなど必要ないと書きましたが、
批評ではなく、製作する立場となると話は変わります。
 まったく自分独自の作品を作るならほかの作家の意思を確かめる必要などありませんが、シリーズ物を引き継ぐのであれば、原典を作った人々の意図も研究すべきでしょう。
作品の魂を引き継ぐことなく、同一シリーズとは言えません。

 もちろん、あくまでも参考にすべきなのは、完成し公開された作品そのものであることを忘れてはなりませんが。
(作者の意図がそこにあったかのように没になったアイディアを掘り出してくるのは正しいのか? 何故没になったのかの考察が必要であろう)

 これは私の推論でしかありませんが、VSゴジラが放射線で変異した生物とされ、放射線ないし放射性物質をエネルギーにするというアイディアは、
ゴジラを核兵器の象徴として描くことに特化させるための改変だったのではないかと考えています。
 しかし、それは第一作『ゴジラ』の内容に対して考察不足の失策だったというのが私の意見となります。
(もちろん同じ名前で別のもの、という問題もある)

 漫画や小説を映像化する際、どうしても改変が起こってしまうのは確かですね。
そんなこんなで改変に慣らされてしまったのでしょうか。
 でも近年多い漫画の実写映画化なんかだと改変に対してファンが怒りの声を挙げていますよね。
そんなに改変が歓迎されているわけでもないように思います。

(ん、有名キャラクターが新作で出てくるときに別物になっているのは当たり前と受け止めているのか・・・)

 しかし、おっしゃるように原作の出来が悪い場合、リメイクで名作になる場合もあり得ます。
大昔「海のトリトン」というTVアニメがありました。
 私は裏番組だった「ど根性ガエル」のほうを見ていたので、「トリトン」は劇場映画として再編集されたものをかなり近年になって初めて見ました。
ずいぶん人気のあるアニメだったが、こういう内容だったのか・・・、と感心すると同時にこれまたいつだったか忘れるほど昔にTVで見た、
「トリトン」の監督だった富野由悠季氏のコメントを思い出しました。
 「原作の出来があまりよくなかったから改変した」という趣旨の発言でした。基本的には原作を改変してはいけないという流れの中でおっしゃったような気がしますが、定かではありません。

 手塚治虫の漫画だったことで「トリトン」のアニメ化が企画されたのではないかと推察しますが、
なんらかの理由で原作が不出来でも映像化することはあり得ますね。
 その場合どうするかとなると、商売としては改変すべしということになるのでしょう。

 しかし表現者の倫理を守るなら、改変してはいけません。
いいところもダメなところも、原作の表現なのですから。
 抜け道としては、原作者が現役だった場合、改変案を原作者と協議して許可取りをすればいいんじゃないかと思います。
(凡作・駄作は映像化する必要なし、と言いたいですが)

 アニメゴジラみたいな特殊な場合はどうしたらいいんでしょうね。
そもそもゴジラを改変して作っているのですから、それを本来のゴジラに戻すなら改変とは言えないんじゃないかとも思いますし、
もし、リメイクするぞということになったら、アニメゴジラの作者たちがあの作品で描きたかった観念だけは引き継いで、もっと上手に作ればいいんじゃないでしょうか。

 結局、以前書いたことの繰り返しみたいになってしまいますが、テレビであれ映画であれ、製作現場のさまざまな事情で、原作なり原典なりに完全に忠実に描くことは困難であり、
製作するごとに「ズレ」「揺らぎ」は生じてしまいます。
 そんな中、改変して良し、と認めてしまうと歯止めが効かなくなります。
その結果、どんな人気小説も漫画も、そして映画・TVのシリーズものも、ひたすら改変され別物にされてもともとの魅力がすっ飛んでしまい、
何のためにそれを映像化するのかわからなくなってしまうでしょう。←現在のウルトラシリーズはその状況に近いけれど、なんのために作るかとなるとおもちゃを売るためでしょうね。

 ですから原作ものでも、シリーズものでも、本来の姿はどういうものであったか、何が人気のもとだったのか、まずは謙虚に研究考察することが必要と思います。

>今はファンが細分化している上に、その原作の一部だけが大好きだというファン(これは気持ちはわからなくもない)や、アニメ化したらそのファンが大量に購入して金になるという事情もありますので、なんでもかんでもアニメ化や実写化やリメイクすることが多い

 この問題は、それぞれの作品のファンたちがそれぞれの事情の中で議論を深めていくべきことと思います。
そんな作品があるのかどうかはわかりませんが、たとえ中身ゼロの願望充足作品でもグッズやソフトがよく売れて商売になり、売り手も買い手もハッピーならそれでいいでしょうし。

Re: 調べてみたら驚きました - なんじぇい (?)

2019/07/05 (Fri) 14:01:22

>この問いかけは昨今の改変ものに、原典の不備を補おうとか、オリジナル作者の意思を大事にしようという志を感じないから出てきた物です。

>ですから原作ものでも、シリーズものでも、本来の姿はどういうものであったか、何が人気のもとだったのか、まずは謙虚に研究考察することが必要と思います。

これは全くその通りだと思います。昨今はこの視点は著しく欠けていると本当に思います。

ただし
>しかし表現者の倫理を守るなら、改変してはいけません。
いいところもダメなところも、原作の表現なのですから。

ただしこれは倫理的にはそうですが、表現者の最大目的から考えたら少し悩んでしまいます。
表現者の最大の目的は「良い作品をつくること」だと思うのです。これは何よりも優先されることだと思っています。
原作の明確な欠陥だと一分の隙なく指摘できる点に関しては、商業主義的ではなく、作品の出来を良くするために、改変した方がいいのではないか……? とはどうしても思ってしまいます(単なる好みで作品を変える等はダメであると断っておきます)。


しかし昨今ではそんなものとは関係もない意味が分からない改変が横行しており、もっと原作を丁寧に扱うべきだ、という意見には全くの同意見です。

Re: 調べてみたら驚きました 殿様ギドラ (男性)  URL

2019/07/08 (Mon) 19:43:14

 遅レスですいません。

>表現者の最大目的から考えたら少し悩んでしまいます。

 これはまったくおっしゃるとおりです。
そのあたりをクリアするとしたら、原作者との協議が必要ということになるのですが、
原作者がすでに他界している場合はどうするか・・。

 ただ私が、クオリティを上げればそれでいいというものでもないなと思った実例をひとつ。

 アニメ「銀魂」を見たとき、劇中の自動車があまりにもひどいフォルムをしていて、いまどきのアニメでこれはないな、と思いました。
ところがその後原作漫画を読んでみたら、ひどいフォルムの自動車は原作の絵を再現した物であることを知りました。
(「銀魂」作者の空知英秋氏はどうやら機械関係の絵が苦手のようです)
うーーん、原作の絵を大事にすれば作品全体の味が原作に忠実になるということもあるなぁ、と思う経験でした。

(科学考証など明らかな誤謬は修正して良いと思うのですが、ひょっとするとそんな間違いを許容しているユルさが原作の魅力だったりするので難しいです)

 原則としては原作改変はダメと結論づけておいたほうがいいな、と思っています。
(映画やテレビは学術的なものではないのでグレーゾーンが広いです。作り手の姿勢としては原作に忠実にすることを第一として、
その上でもしどうしても生理的にというまで受け入れられない部分は担当者の志向に合わせるというのがぎりぎりの妥協点でしょうか)

Re: 調べてみたら驚きました - なんじぇい (?)

2019/07/09 (Tue) 20:45:09

あえて原作そのままにすることにも利点があるということは驚きました。ありがとうございました。
とはいえ作品の過ちを糺すことに関しては、原作の味及び原作者を大事に思う心を大事にするか、良いものを見せたいという表現者の目的を大事にするかはもはや個々の主義の問題なので(どちらにも理があることになる)、そこはもう創作者の匙加減ではないかとは思います。
完璧主義者なら後者で、原作者の思いを大事にしたい方は前者をとることになるんでしょうか……

少なくともこれに関しては、どちらの考え方を取られても私は批判はしません。

とはいえ最近は吟味せずに、安易に「どっちの意見もアリ」等としてしまうことが横行しており、そうならないようには注意したいです。

Re: 調べてみたら驚きました - なんじぇい (?)

2019/07/10 (Wed) 13:21:22

付け加えておきますと、映画のリメイクでは「昔の技術で作ったから、今見たら辛い特撮やCGなどの特殊効果を、今の技術でより良くしよう」「音響を今の技術で精細に聞こえるようにしよう」「昔では予算や技術の問題で出来なかったと亡き監督がおっしゃっていたことを、今の技術で実現しよう」等も含まれます。
これらも立派な(今見たら)ダメな部分を改良したものです。
これすらダメということになると、もはやリメイクなど作る意味も理由も完全に消滅してしまいます(過去の作品を再放送するだけでいい)。

ダメだと明確に指摘できる部分を良くすることも無理ならリメイク自体の意味がなくなってしまうので、せっかくリメイクを作るならダメな部分だけは改良をした方がいいんじゃないかな、と考えてしまう理由です。
もしそれすら無理なら、リメイクを作る意味はありませんので、作らない方がいいでしょう。


また本当にダメな部分をより良くしただけのものなら、原作者さんも悪くはまず言わないと思います。ダメな部分のみ改良することすらダメだという理由は、わたしにはリメイク自体を作るなと言うもの以外にはもう偏狭な拘り以外には思い浮かびません。
仮にリメイクを作るなという可能性を考慮するなら、「リメイクは一切作ってはいけません」が一番正しいでしょう。
ただし、原作者が「リメイクを作るな」と言っていた場合は、それは従うべきでしょう。あくまで、意志がない場合の話です。

もしギドラさんが「リメイク自体作るな」というご意見なら、それは1つの意見として正しいと思います。
私を言いたいことを纏めると「リメイクを作るなら原作を尊重した上でより良くすべきで、それすらできないならもうリメイクを作る意味はないので一律禁止にすべき」ということです。



お気に障られたら申し訳ありません。どうしてももやもやした終わり方をしたくなかったので……
結局、原作者の意志の可能性か、良いものを作りたいという表現者としての目的のどちらを優先すべきかという話になるとは思います。

Re: 表現とはデリケートなものです 殿様ギドラ (男性)  URL

2019/07/10 (Wed) 20:03:45

 整理しますね。

 原作(小説や漫画)を映像化(映画・テレビ)する場合も一種のリメイクではないか、とのご意見を受け入れての話として、
リメイクでも原作が持つ内容を改変してはいけないというのが私の意見です。

 その内容といっても劇構成のことなのか、描いている観念・感情のことなのか、ドラマのための設定(人物・世界設定などなど)のことなのかさまざまです。
その中で設定面での誤謬は修正してもいいのではないか、と思っています。
 それでも原作の魅力がどこにあるのかを十分考察した上でないと、一見間違いに見える部分でも修正することで魅力をそぐ結果になりかねないと考えています。
(前回書いた「銀魂」はマンガなのでその絵も表現の一部です。たとえ絵が下手でもそれが原作の表現なのだから修正しないのが正解だろうと思ったわけです。
同様にマンガ原作の場合、原作のキャラクターデザインが現代的ではないという理由でアニメ化の際に顔かたちを変えてしまうのにも反対。
実写化だとまた話はぜんぜん変わります。マンガと同じ顔をした人間なんていませんから)

 内容に関わる改変は原作者の許諾を得られない場合は認めないというのが私の意見です。
原作のどの部分が原作者も認める瑕疵なのか、余人には判断できません。

 それに対し今回のお話は、映画作品を映画でリメイクする話ですね。

 映画作品で原典が持つ技術的不具合を修正することを目的としたリメイクというのは極少ではないかと思いますが、スターウォーズ旧三部作の特別篇があてはまるかと思います。
私はその特別篇がオリジナル版より優れているとは思いません。合成がきれいになっても、過去には描けなかった場面をCGで見せることが出来るようになっても、全体のバランスが崩れていると見ました。
きれいでも味が変わってしまったのです。原作者自身がやったことなので、不当とは言いませんが、失敗であると考えています。

 小説・漫画が何度も映画化・テレビ化されることには反対しませんが、映画やテレビオリジナルの作品を同じ媒体でリメイクすることには反対です。
相当特殊な場合でしか成功することはないと見ています。
 小津安二郎監督の『浮草』は同監督のサイレント作品『浮草物語』をリメイクしたものと言えますが、原典に対して見劣りすることはありません。
モノクロサイレントをカラートーキーにするということは、別メディアでリメイクするのに近いのかなと思ったりします。
稲垣浩監督も『無法松の一生』を二度映画化していますが、これは原作小説があるとはいえ最初の映画化の不具合を直す意思があったと思われます。
というのも、最初のバージョンは戦中は軍によって、戦後はアメリカによる検閲で二度カットされ、不完全な形でしか残されていなかったのです。
 本来の表現を取り戻すためにリメイクしたのでしょう。
この二つの例は技術面の不具合を直したとは言えないものですが、リメイクの成功例として挙げておきました。

 話を戻して、技術のアップデートのこと。
 シリーズものの場合は状況が違ってきます。
すでに創作されている世界設定や登場キャラクターを使って新たな物語を作るのがシリーズの新作です。 
 この場合、旧作と同じ技術を使う必要はありません。
たとえ旧作の魅力に当時の技術限界が含まれていたとしても、新作がそれに準じる必要はありません。
なぜなら同一シリーズであっても新作はリメイクではなく、別作品なのですから。

 ゴジラであれば、その姿形・気質・生態を守っていれば、新作でどんな技術を使おうと効果的であれば構いません。

 私は、怪獣は着ぐるみでなければならないとか、飛行機はピアノ線で吊らなければならないなどとは思いません。
(着ぐるみ・操演の利点を考慮した上で新技術を使うべきとは思います)
中には特撮=ミニチュア・操演・着ぐるみと考える人もいるようですが、私は技術とはあくまでも手段だと考えております。
よりよい表現のために必要な技術を開発していくのが肝要です。
(大林宣彦監督は、キングコングはコマ撮り、ゴジラは着ぐるみでないとダメだとおっしゃっていましたが、そこまで固く考えてはいません。厳密には大林監督が正しいとも思いますが、
私は、キャラクターのアイデンティティを技術面にまで求めることはないだろうと考えています。)

 それでも、すでに作られてしまった作品の内容には、使われた技術の味も含まれると考えます。
ですから具体例を挙げれば、『ゴジラ』(1954)をどんな新技術でリメイクしても絶対に原典を超えることは出来ないでしょうし、良作になったとしてもそれは原典とは別物になるだけでしょう。
そういう意味で、映画のリメイクには反対の立場です。

 ダメな部分の改良とおっしゃっても、その定義が問題ですよ。
技術的な失敗を修正するだけならリメイクではなく、リテイクです。

ありがとうございました - なんじぇい (?)

2019/07/10 (Wed) 23:45:33

丁寧な説明ありがとうございました。ほぼ納得できました。
リメイクとリテイクの違いは目から鱗が落ちました。なかなか理解できず、すみませんでした。


最後に2つだけ質問をさせてください。
①内容に関しての改善はNGで、設定についての修正はいちおうOKな理由はなんでしょうか? 今の目から見たら科学技術が陳腐に見えてしまうなどの理由でしょうか?



②世の中には、商業主義的な理由で駄作のリメイクを強制的に担当させられるような例があります。
過去に『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』という駄作が出た際(エクセルシオールさんなら知っておられるかもしれません)、コミカライズを担当させられた人はあまりのひどさから「自分で書き直します」という羽目になってしまいました。

このような凄まじい作品をリメイクしろと言われた際、いったいどうしたらいいのでしょう。


分かりづらければ、自衛隊が弱すぎる敵を一方的に駆逐して、何もかもが自衛隊の都合のいいように動き(米軍にも勝ってしまいます)、日本と自衛隊をひたすら誉めそやすだけがテーマの小説(信じがたいと思いますがこれは『GATE』という作品で、作者が元自衛官で、こんなのがヒットしているのです)を映画化してくださいとギドラさんに押し付けられたとしてくださって構いません。

なぜこのようなことを聞いているのかというと、拒否権なしで駄作を下請けに押し付けられる事態が今の創作で蔓延しているからです(実は私の知り合いもそれをやらされました。嫌々やったそうですが、信条的に絶対に無理なものは変えたのです。「こんなものをそのまま描いたら作家の終わり」等と言っていました)。

Re: 突き詰めるとケースバイケースなんでしょうけれど 殿様ギドラ (男性)  URL

2019/07/11 (Thu) 21:03:00

 まず、なんじぇいさんへエールを送らせて頂きます。
議論を面倒くさがる人が多い中、きちんと粘って疑問点をクリアにしようとする姿勢は貴重です。
これからもがんばってください。

 で、ご質問にお答えします。

1番について・・。

 内容面の改善はNGと言われるとちと心苦しいのですが、突き詰めれば私はそういうことを言ってることになりますよね。
でも、そこは、原作の表現を守ることとよりよい作品を作ることのバランスであって、原作の表現に大穴(矛盾とか)が開いていた場合は慎重に検討した上で改変が必要と認めれば改変することがあってもいいんじゃないかとは思っています。
(どうも奥歯に物が挟まったような言い方になってしまいます。そこが学問ではない、芸術表現のグレーゾーンということになります)
 もうひとつ、いままであまり触れなかったことを書いておきます。
小説やマンガを映像化する場合、別の表現形式に移し替えることになりますから、何もかも原作通りというわけにはいきません。
たとえば、長編小説一冊分のストーリーを忠実に映画化すると上映時間が長くなりすぎて公開できる代物ではなくなってしまいます。
そのほか1シーンの長さの問題などさまざまに齟齬が生じますから、なんらかの改変は必須になります。
 その上で、原作の内容をゆがめるような改変はNGであると言いたいのです。

 設定面の誤謬は修正してもいいんじゃないかというのは、歴史・地理・科学理論といったその作品そのものに依存しないデータが間違っていた場合、
観客の知識と矛盾が起こり鑑賞の妨げになるからです。
作品独自の空想ならば劇中で説明すればいいことですが、現実世界と同一の背景を使う部分に間違いがあるとストーリーの信頼性が下がってしまいます。
 アニメゴジラの設定で「20世紀最後の夏」と言いながら、それが1999年であるというのは、修正すべき間違いです。
 それとは別に原作が昔の作品であった場合、科学理論の刷新で現代には通用しない設定になっていることもありますね。
これはちょっと悩みます。作品の成立には時代背景も影響しているものですから、昔書かれたものはそのままでもいいのかもしれません。

 いずれにせよ、原作者との協議が可能ならとにかく相談です。
(平成ガメラの際、担当監督は湯浅憲明監督に何の挨拶もなかったという噂を聞きました。あくまでも噂ですよ。でも、それじゃイカンだろと思います)

2番について

 拒否権なしなんですね?
 これは7月8日に書いた記事から引用します。
>作り手の姿勢としては原作に忠実にすることを第一として、
>その上でもしどうしても生理的にというまで受け入れられない部分は担当者の志向に合わせるというのがぎりぎりの妥協点でしょうか

とは言うものの・・・・。
『GATE』ってアニメ化されていましたよね? 宣伝を見た覚えがあります。そこまですさまじい作品とは知りませんでした。
そんな作品をやれと言われたなら、上記の姿勢でも追いつきませんよ。
 家族を人質に取られて脅迫でもされない限り、断りますよ。
断れないとなると、うへー、どうしましょ。
 ファンの期待を裏切るような改変はすべきではないので、職人として仕事は受けても、自分が関わったことはひた隠しにします。
スタッフ名義には「アラン・スミシー」とでも書いてもらいましょう。
 しかし、心の傷は深いでしょうね。

Re: 突き詰めるとケースバイケースなんでしょうけれど - なんじぇい (?)

2019/07/13 (Sat) 13:03:11

やっと完全に納得できました。丁寧な回答、ありがとうございました。
駄作に関してはそのように筋を通したらいいのか……と思いました。


完全な余談ですので手短ですが、一応それなりの実績のある監督なら拒否権はあります(下請けのアニメーターは当然そんなものは一切ありません。脚本に口を出す権利もありません。与えられた仕事をこなすだけです)。
ただし新人の場合は一応拒否はできるそうですが、そんな選り好みをしていたら「生意気な奴」みたいな扱いで冷飯を食うことになることが多いそうです。
また「この駄作でどれだけ面白くできるかやってみろ」みたいな扱いでノルマとして渡されることがあります。こうなると拒否権などなく、拒否するには会社をやめる以外にないでしょう。
なので実質、拒否権はほぼありません。


ただしえてしてライトノベルのアニメ化は作者が連載中にアニメ化することが多いので、作者が連載に手一杯でアニメに関われないことが多いです。

また作者が「好きにしてください」とアニメ化の際に言うことが多いらしいのです。
忙しいからなのか、餅は餅屋といった考えなのか、めんどくさいのは嫌われると考えているからなのか、あるいはバリエーションを見ることを喜んでいるのかは分かりません。
同人上がりの作者が増えているので、個人的には改変されて当たり前といった考えの人が増えているのではないかとは思います。


その為「拒否権はないけど会社や作者からお墨付きが出て、けっこう好き勝手にできます。売れたら正義です」が実際としては一番近い感じがします。

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