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ギドラの巣「新」映像作品掲示板

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『シン・ゴジラ』という蒙昧を斬る(ゴジラファンとして) 殿様ギドラ (男性)

2017/03/23 (Thu) 18:32:12

『シン・ゴジラ』に登場した化け物はゴジラではない。
名前がないのも不便なので、ギドラの巣では「ちんごじら」という名称で呼ぶことにしています。
(「ごじら」という言葉を残しているところに優しさがあると思って欲しい。発案者はルー等級つつ大臣さん)

 ゴジラというのは、爬虫類とほ乳類の中間型の生き物で、水爆でも死なず、体に放射能を持っているのは水爆のせいである、という生き物です。
これは『ゴジラ』(1954)劇中で山根博士が発表するゴジラに関する説明を要約したものです。姿形を文章で説明するのは難しいので、みなさまお手持ちの写真やビデオを参考になさって下さい。

『ゴジラ』(1954)劇中で山根博士の意見を否定するような反証は出てきませんので、これがゴジラの基本設定だと考えて間違いないでしょう。
その後登場した二代目ゴジラも外見は初代とほぼ同じで、同種族の個体差と言って差し支えないでしょう。

 ここで特に注意していただきたいのは、ゴジラは核兵器の放射線で変異した生き物ではないということです。
付け加えれば、放射線によって突然変異を起こすのは被爆した個体ではなくその子孫であることも覚えておくとよいでしょう。

 上記の設定は『メカゴジラの逆襲』までは守られていました。

 ところが『ゴジラ』(1984)において、ゴジラは原発を襲い原子炉を抱えてうっとりします。この作品からゴジラは放射性物質をエネルギーとすることにされてしまいます。
二代目ゴジラが放射性物質を求める描写などありませんし、それどころか初代は大戸島で家畜を食べたことが示唆され、二代目は鯨の群れを追っている様子(『三大怪獣地球最大の決戦』)が描かれています。
オリジナルのゴジラは肉食動物であったと考えられるのに、1984年版では別の動物にされてしまいました。

 84版から繋がる平成VSシリーズにおいてはさらに設定が付け加えられて、恐竜が放射線で変異したものとされます。(科学的におかしなことになってしまった)

 私の厳しいゴジラ基準では、平成VSのゴジラももはやゴジラではないのですが、その姿形はゴジラに分類しても問題ない範囲に収まっていました。
口から吐く熱線とか発光する背びれなどその能力もゴジラと同等と言えます。
(ただし、性格や劇中での立ち位置は二代目ゴジラとは違う)

 俗にミレニアムシリーズと呼ばれるシリーズではそれぞれのゴジラに関連がなく、明らかに設定が違うのは『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃』に登場した白目ぐらいで、
その他のゴジラたちがどんな出自、生態を持っているのかは判然としません。

 ここまで大まかにゴジラ像の変遷をまとめてみましたが、そこから見えてくるのは元祖ゴジラシリーズでは見た目こそ多少の違いがあるもののゴジラという生き物の設定を改変することはなかったのに、
84版以降、ゴジラの設定は変えても良いことにされているらしいこと。

 ゴジラという同じ名前でありながら違う動物にしてしまうことをどのように正当化するのか私にはわかりません。
しかし、なぜそうなったのかはある程度想像できます。

 それは1984年以前のゴジラ復活待望論の時代にさかのぼります。
当時、ゴジラ映画は『ゴジラ』(1954)のみが傑作であり、その後の作品は付け足しであるという論調が支配的で、ゴジラファンの中にも怪獣同士が戦うものは子供っぽいから良くないという意見が多かったのです。
これは1970年代のいわゆるヒーローゴジラ(人間社会に害を為す怪獣をゴジラが倒すという形式のストーリーだった)に対する反動だったのだと思いますが、1960年代の怪獣対決映画に関する分析が不足している意見です。
さらに『ゴジラ』(1954)が傑作なのは、反核映画だからだ、という意見が支配的になりました。

 そこで84版では反核映画感を強めるためにゴジラ自体が放射性物質で活動することにされ、ゴジラ=核兵器の構図を強めたのだと推察されます。
(『ゴジラ1954』でのゴジラは核実験の被害者であったことにも意味があったのに・・・)
もうひとつ、84版では1954年の初代ゴジラ事件はあったことになっていますが、なぜか『ゴジラの逆襲』以後の二代目ゴジラの存在は消されています。
ここで、二代目の存在もありつつも、それとは別の放射性物質をエネルギー源とする三代目ゴジラ、ないしゴジラに見えるが別の生き物であるとしていればその後の混乱が起こることもなかっただろうと思われますが、まことに残念な結果です。

 この84版がやらかしたことに対する分析も反省もないまま、それもゴジラ史の一部となってしまいました。
それは、作り手の都合でゴジラを改変してもいい、という間違った認識を生みました。

 R・エメリッヒの偽物も同じこと。あのとき、東宝が厳重に監修して姿形や生物としての設定を守り抜いていればゴジラ像がこんなにぶれることはなかったでしょう。

 そうです。ゴジラ像はブレ続けています。

 VSもミレニアムも白目もギャレス版もみんなゴジラと呼ばれる。
もはやゴジラファンといっても同じ物が好きなわけではない。

 まず、こんなに中身の違うものを同じ名前で呼ぶことに私は反対です。

 それでも、エメリッヒ版は核実験の放射線で変異した怪物であり、その部分ではVSゴジラと同じ設定であり、核兵器との関連を守っています。
また、ギャレス版は放射線をエネルギー源とするものの、何かの生物が変異したものではなく大自然が生んだ驚異の生物という点は元祖ゴジラと同じです。

 このように84以降の改変ゴジラたちもどこかに元祖ゴジラから引き継いだ要素を入れようとはしていました。(うまくいっているとは限らないけれど)
例外は『GMK』の白目。あれは人間の意識だか霊魂だかが集合したものらしいので、根本のところでゴジラとは違う。どこかの「穿ち」好きが初代ゴジラの中に英霊の意識を勝手に感じて、『ゴジラ』感想文を発表したことに影響されているらしい。
(一例として「映画宝島 怪獣学入門!」1992年刊内「ゴジラは、なぜ皇居を踏めないか」赤坂憲雄)
しかしそれは劇中のゴジラ像を表すものではなくて、映画『ゴジラ』の解釈でしかない。個人の感想は自由なのでその人がゴジラの中に戦死者の霊を見るのは自由だが、ゴジラ映画の設定として使うべきではない。

 平成VSからゴジラに入った人にとってはゴジラはゴジラザウルスが放射線で変異したものなのでしょうけれど、歴史をたどればそれは本来のゴジラとは違うということは理解できるはずです。
しかし、そんな差異は劇中で言及されたときには違いを意識させられてしまうものの、ストーリー上で設定の違いが問題にならないときには見た目と生態でゴジラと認識しますから、たとえば『ゴジラvsモスラ』を見た私が、
「こんなのゴジラじゃねぇ」と感じるほどではありません。(こんなのモスラじゃねぇ、とか、結局ゴジラ退治かよ、とは思う)
 逆に平成VS世代の方が『モスラ対ゴジラ』を見たときに、こんなのゴジラじゃない、とは思わないでしょう?

 日本のゴジラはぎりぎりのところでゴジラ像を守ってきたのだろうと思っておりました。
(白目が登場しても次の機龍篇では比較的にまともな形に戻る)

 12年の空白ののちにギャレス版のヒットを受けて作られた日本のゴジラ映画『シン・ゴジラ』。
あの映画の作り手たちは、どうすればゴジラではないものを作ろうかと腐心したように見えます。
なんらかの海棲生物が放射性物質を食べて放射線耐性を身につけ、それが人の手で品種改変されて怪物化したのがちんごじら。
ちんごじらは変態し(ゴジラはそんな生態を持たない)、口、尾の先、背中から直線的なビームを発射する(ゴジラの熱線とは別物)。
性質も違う。
姿形も似ているのは背びれだけで、あとは何もかも違う。(ゴジラのアイデンティティは背びれだ、とでも?)
 核兵器の影響もなく科学を超える大自然の象徴でもありません。

 あれはゴジラではありません。

 ちんごじらの表層がゴジラと違っていてもその精神性はゴジラなんだ、という人もひょっとしたらいるんでしょうか?
としたら、その認識は間違っていますよ。
 ゴジラに込められた精神とは何ですか?
 冒頭に書いたゴジラの基本設定から考えて下さい。

 第一にゴジラは人間が作った物ではありません。これを誤解している人が多すぎる。そんな誤解の出発点は、ゴジラは水爆の放射線で恐竜(ないし何かの動物)が変異したものだという思い込みにあります。
核兵器は人間が作ったものであり、その影響で生まれたならゴジラも人間が作ったものだという論法があるのはそんな誤解のせいでしょう。

『シン・ゴジラ』公開当時に書いたことを繰り返します。
 ちんごじらデザイナーの一人、前田真宏氏は劇場パンフレットのインタビュー記事で「第一作では爬虫類が変化したものという説明がされますけれど」と発言している。
この勘違い。そんな説明は『ゴジラ』(1954)にはありません。
 どうして『ゴジラ』(54)を見直さずに勝手な解釈をするのですか。これは初代ゴジラの骨が溶け残っていたと勘違いしたまま突っ走った機龍二部作と同じ不勉強である。

 ちんごじらは放射線による突然変異体であり、さらには人間の手が加わって出来上がった怪物。ゴジラとの共通点はない。

 また、ゴジラは水爆でも殺せない動物とされていて、オキシジェンデストロイヤーという人類科学の行き着く先を象徴した架空の技術でようやく殺されます。発明者とともにオキシジェンデストロイヤーは永遠に失われ、
その結果人間はゴジラを殺せないという図式を作ったのが元祖ゴジラシリーズ。
それに対し、ちんごじらは核ミサイルで滅却できるという。

 ゴジラが背負っていた精神性の何をちんごじらは受け継いでいるというのか?

『ゴジラ』(54)と『シン・ゴジラ』の作品内容を比べても、両者に共通点はない。

『ゴジラ』(54)は科学技術を軍事に使うことを批判した作品であり、科学者の倫理を問う作品です。(極めて今日的なテーマである)

『シン・ゴジラ』は?
 出来の悪さを割り引けば、危機管理のためには素早い意思決定が必要だという話であり、日本の国防には米軍が必要だという主張が含まれ、なにより大災害でも国家権力がうまくやるから国民は安心しなさいという作品でしょう。
科学と人間の関係を考察するエピソードなどどこにもない。科学がらみの設定、ストーリーは極めていい加減に流している。

『シン・ゴジラ』はゴジラからなにも受け継いではいない。

 こんなものをゴジラ映画として認めるとは笑止千万である。

『シン・ゴジラ』にゴジラは出てこないし、ゴジラ映画でもない。

 さらに、ここからはゴジラファンの皆さんへの問いかけです。

 皆さんがゴジラファンなのは、どうしてですか?
 ゴジラ映画がおもしろかったことや怪獣ゴジラのキャラクター性に惹かれたのではありませんか?

 その魅力とは何ですか?
『シン・ゴジラ』にそれはありましたか?

 あった、というなら、ずいぶん浅いゴジラ観をお持ちですね。
 でかい怪物が現れて、軍隊とドンパチやるのがゴジラ映画ですか?
ならばそんな映画は世界中にたくさんありますよ。エメリッヒ版でもいいですね。ゴジラじゃなくてもいいでしょう?

 ゴジラを人類の前に立ちはだかる壁扱いし、基本的にゴジラ退治をストーリーの主眼に据えていた平成VSシリーズでは初期にはゴジラが人間の技術の前に倒れるという展開はありましたが、
軌道修正されて人間には決して倒されないものという扱いに変わっていきます。
そして、VSゴジラでもゴジラには心があるという描写はなされていましたし、ちんごじらのような感情のない脊髄反射生物のようには描かれていませんでしたよ。
『シン・ゴジラ』には平成VSとの共通点も少ない。

『シン・ゴジラ』以前からゴジラファンだったという人で、『シン・ゴジラ』もゴジラ映画に見えたという人がいるなら、どうしてなのか説明して欲しい。
私にはまったく想像も出来ない。

「特撮秘宝vol.5」に『シン・ゴジラ』エグゼクティブ・プロデューサー山内章弘氏のインタビュー記事があります。
氏は「実はこれ、ゴジラが登場しなくても成立するお話なんですよ」と発言している。
その通りです。実際にゴジラは登場しない。
ストーリーの要求に合わせた形の怪物を登場させて、ゴジラと名付けただけだ。

 ゴジラファンがこんなものを受け入れてはいけない。
『シン・ゴジラ』はゴジラという名前をプロモーションのために使っただけであり、はなからゴジラ映画を作るつもりはなかったのですよ。

 ゴジラはすでにブレてしまったキャラクターですが、こんな改変を受け入れていくならば「ゴジラ」という名称は何者も表さなくなり、「ゴジラ人気」など雲散霧消するでしょう。
そんなゴジラ消失を止められるのは、ゴジラファンしかいない。
 製作サイドがゴジラという名前を宣伝材料としか考えていない現在、ゴジラファンがゴジラを守らなくてどうするのですか。

 もう十数年前になりますが、ある方が「どんな出来でもゴジラ映画が作り続けられさえすれば、いつか傑作が生まれるはずだ。だから製作が止まるようなことはしない」とおっしゃいました。
それはおそらく、私が新作への批判記事を書くことが多かったので、それを牽制する意図があったのだと思われます。
このご意見、一見正しいように見えますよね。最近も身内から同じようなことを言われてびっくりしました。

 しかし、上記の考え方はあまりにも楽観的で性善説に立ちすぎです。
 前提として、ゴジラ映画を作る人はゴジラが好きでありおもしろいゴジラ映画を作るために日々研究努力しているはずだ、という思い込みがあります。

 水は低きに流れ、悪貨は良貨を駆逐するのです。

 批判にさらされなければ、人は楽な方へ流されます。
 映画の作り手も同じこと。
 ゴジラと銘打ちさえすればゴジラファンは必ず見てくれるとなれば、中身は好き放題に出来ます。何をやっても批判されないのであれば、己を律することもないでしょう。
ただ客さえ入れば良いということになる。

『シン・ゴジラ』がやったことは、昨今流行りの日本賛歌でしょう? 『永遠の0』『海難1890』あたりと並べれば良い映画ですよ。
怪獣映画の楽しみなどない。
 しかし、商売としては成功した。

 ゴジラファンがそれをよしとしてはいけません。

 ゴジラ映画が作り続けられればそれでいいという理屈にだまされてはいけません。

 違うと思うなら違うと言いましょう。おもしろくなければおもしろくないと言いましょう。

 東宝は、今度はアニメのゴジラだと息巻いていますが、客層としてアニメファンを取り込みたいんですね。
『シン・ゴジラ』もエヴァンゲリオンファンを取り込むための企画だったようですから、発想は同じですね。

 日本のアニメはガラパゴス的な進化を遂げていますから、映画全般をよく知っていても日本アニメの定石には理解しがたいところがあります。
そんな日本アニメのクリエーターが日本映画史の核に(かつては)位置していたゴジラを正しく描けるものでしょうか。
またしても作り手が自分のフィールドに引き込んでゴジラでもなくゴジラ映画でもないものにするのではありませんか?
(そして新しいゴジラ映画だと言う。騙されるな。決して変わることのないゴジラを用いて新たな物語・映像を作るのが新しいゴジラ映画である)

 それでもゴジラと名付けられていれば受け入れるのですか?

 そんな欺瞞を私は許さない。

 さらに、ここからは『シン・ゴジラ』なんかNOだ、とお考えのゴジラファンのみなさんへ。

 諦めないで!
 地道に訴え続ければ、正しいことが認められるはずです。
 社会体制も経済も多数決の時代ですが、少数派でも誠実に議論を繰り返していけば、ゴジラファンではない人の賛同も得られるでしょう。
 そして、あなたが好きだったゴジラからもらった夢を忘れないで。
 二代目もVSもゴジラは強くてかっこよかったのではありませんか?
 人間の浅知恵や武力を蹴散らすのがゴジラなのです。
 そんなゴジラが復活するまで倦まず弛まず機会を見つけてゴジラの魅力を伝承しましょう。

 私は、二代目ゴジラこそゴジラ人気を作った立役者であり、ゴジラ映画を作るなら二代目ゴジラのあり方を研究すべきと考えます。

 巨大、不死身、直情的でも屈託のない性格。もちろん外見を変更してはいけない。
 そんなゴジラが現代社会に出現する物語を現代の映画技術で描いて欲しい。

と、長々と書いてきましたが、はたしてどなたが読んでいるのか、幾人が読んでいるのか、暗闇で拳を振り回しているような気がしますが、
私は諦めません。

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