HOME

ギドラの巣「新」映像作品掲示板

540990
ただいまゴジラ祭り開催中!
ただいまゴジラ祭り開催中!
 
 
 
         
             ギドラからのお願い
 レスを付けるときは、親記事の日付が現在より(一応)6ヶ月以内のものにして下さい。
 レスが付くとその記事がトップに上がってきます。
 あまり古い記事にレスを付けると親記事自体が持っていた流れが変わるので、
あとで読んだときに本来の前後関係が分からなくなります。
古い記事の内容について書きたいときは、該当記事の日付、タイトルを示した上で、
触れたい部分を引用するなどして、新規記事として投稿して下さると助かります。
 

日本の怪獣映画は映画の革新だったはずなのに 殿様ギドラ (男性)

2017/02/06 (Mon) 18:28:03

 この記事も基本的には前スレッドへのレスなのですが、すっかり長くなってしまったので仕切り直します。

 というわけで・・・。

『シン・ゴジラ』が海外でコケたのは当然の結果と思います。あの映画にはストーリーのおもしろさ(意外な展開や人間性の普遍的な本質を突く、など)はなく、
映画ならではの娯楽性(怪獣が登場するならその強大な力をスペクタクルとして臨場感たっぷりに描く。簡単に言えば怪獣が大暴れする)もないのですから、
ヒットするはずがないのです。

 こう書くと、「それは、あくまでも日本の問題を扱った作品なのだから外国人の興味を引かなくても当然なのだ」という反論が出てきそうですね。
(この掲示板には『シン・ゴジラ』をよしとする人が現れませんので、勝手に憶測しました)
では、日本で外国の問題を扱った映画がなにもかもコケているのでしょうか?ざっと思いつくところでも『シンドラー・リスト』だの『プラトーン』だの『史上最大の作戦』だの(あ、戦争がらみばかりだ)が
日本で大コケしたのでしょうか。

 さらに、『ゴジラ2000ミレニアム』より成績が悪いのはどういうことでしょう? ゴジラブランドの力を持ってしても『シン・ゴジラ』は海外でコケている。
芹沢亀吉さんに教えていただいたBox Officeのデータによると日本でだけ突出してヒットしている。

 私には謎でも何でもありません。公開当時から感じていたことで、ものすごく宣伝費を使ったのだな、という感触があります。テレビや新聞がこぞって話題にしている様は気持ち悪いほどでした。
それを裏付けるのが、このたび芹沢亀吉さんが紹介なさった記事。
 製作費が20億以上とはいうものの、80億超えないと黒字にならないとは?? 何に大金使った????

 どんな宣伝戦略だったのかは知りません。けれども、「宣伝に限界はない」(多胡部長)のですからステルスマーケティングだってなんだってやったのでしょう。
口コミヒットの代表作として『君の名は。』と並び称されていますから、そりゃ、ネット工作部隊もいたんでしょうね。同調圧力に弱い日本人をたぶらかすには最適な方法でしょう。
あ、単なる憶測です。でもね、あの映画の製作費が80億に近いとはとても思えませんよ。そりゃ映画公開のためには直接製作費だけではなくさまざまな諸経費が必要でしょうけれど、
何十億も使うとしたら何のためでしょうかね・・。

 そんな宣伝も日本国内に限定されていれば、日本でヒットして海外でコケるのは理にかなったこと。

 どこかの誰かが褒めていても(貶していても)本当か?と疑う心が理性というもの。己の知識経験、悟性を駆使して判断するべきなのだ。多数派、あるいは権威者の判断に自分を合わせることで安心してはいけない。
かつて怪獣映画はゲテモノ扱いだった。しかし、「偉い人」がなんと言おうと、自分の判断を信じて、怪獣映画とは素晴らしい映画形式であると主張しつづけた人々がいるからジャンルが続いているのではないか?
 同様に、私は『シン・ゴジラ』は世論操作のためのプロパガンダ映画であり、劇映画としての完成度もお粗末きわまりない、と主張しつづける。

 そして、そうそう、ゴジラ総選挙なるものがありましたね。日本映画専門チャンネルがギャレス版への景気づけに行ったものでした。
お恥ずかしい。私は投票してます。ゴジラファンも世代交代が著しいので、一矢報いようと『三大怪獣地球最大の決戦』に投票したと思います。(上位には平成VSものが来るだろうな、と予想しました)
蓋を開けたら、なななんと、「vsビオランテ」が一位ということで、ひっくり返ったのを覚えています。

 公開当時の自分の感想を思い出すと、バイオテクノロジーを絡めた国際陰謀というアイディアやドラマ構成(エピソードのつなぎ方、緩急の付け方などなど)には感心しましたが、
とにかく怪獣描写に不満がありました。ゴジラは無表情に歩くだけで感情が見えず、ビオランテは人間社会に暴れ込むわけでもなく、さらには劇中、ゴジラの細胞を分析してゴジラ退治の方法に道筋を付けてしまう。
こんなことをしてしまってはゴジラは謎の存在でも何でもなくなってしまうし、シリーズを進めていくなら、最後には人間がゴジラを倒すことになる。こんな映画はゴジラ映画落第である、と思いました。

 しかし、当時のゴジラファンにも『vsビオランテ』を好んだ人は多かったのです。(最近は公開当時ファンに不評だった説が流布していますが、そんなことはない)
怪獣映画ファンだと公言していた金子修介氏が作った偽ガメラシリーズなど、怪獣の設定やドラマの雰囲気など『vsビオランテ』の影響下にあるのは明白。

 怪獣映画を誤解しているのだ!

 ギャレス版『GODZILLA』はエメリッヒ版を超えて世界的にヒットしました。
 なぜだ?

 私は、ギャレス版が名作だとは思いません。ここで細かいことは書きませんが、さまざまな部分に瑕疵がありとても上出来とは言えないと思っています。けれども、怪獣映画として高く評価するところがあります。
それは、怪獣をあくまでも野生の生物とし、その描写には彼らなりの意識・感情があることをしっかりと見せていたこと。彼らの闘争に横やりを入れてくる人間の軍隊が怪獣の前では無力であること。
野生の勝利を謳っていることがあの映画の魅力であろうと分析しています。
 だから世界的にヒットしたのではありませんか?
(主人公が人間だったとしてもワイルドなヒーローは受けませんか?)

 怪獣映画の価値、魅力とは、怪獣を倒す人間を称揚することではない!

 繰り返しになっても大事なことは何度も書かねばなりません。
 日本の怪獣映画がその他のモンスター映画と区別されるのは、怪獣が人間に倒されることがないストーリーを成立させているからです。
悲観的なエンディングを狙って怪物が倒されずに終わるのとは違います。
 東宝怪獣映画でも初期の作品では怪獣は倒されて終わります。しかし『モスラ』(1961)で事態は大きく変わります。
『モスラ』では怪獣が殺されません。善悪の対立は人間同士にあり、ストーリーは人間の悪を突くものとなっています。
そして、劇中でモスラ退治作戦が行われていても、観客の意識を怪獣退治には向かわせません。

 そもそも『ゴジラ』(1954)におけるゴジラも決して悪ではなく、水爆実験の被害者(ゴジラ)が人間社会と交わることで起きる災害でした。
被害者ゴジラを殺して終わるのはどうにも後味が悪い。ストーリー上は核兵器の象徴のような扱いにされていますから、それを退治する劇展開になるのは仕方ないとしても、
劇中世界でのゴジラには悪意などなく、もちろん水爆の化身でもない。そんなゴジラ、およびその他の怪獣を映画の中で殺し続けるのが正しいはずがない。

『空の大怪獣ラドン』のエンディングではラドンの死を悼むような演出が施されています。

 本多猪四郎監督の述懐に
「人間が万物の霊長である、人間こそが偉いんだという立場を僕は取らない。ゴジラにしろラドンにしろ、自然の中から生まれてきたもので、我々が考え出した架空の存在ではあるけれど、
やはり人間と同じ地球上に生を受けた一つの生命体、大きな宇宙生命の一つとして向かい合っているわけです。」とあります。
(ゴジラのトランク展パンフレットより)

 そんな思考から生まれたのが日本の怪獣映画である。

 だから怪獣たちは殺し合いをしない。本多・円谷コンビの作品では怪獣対決ものでも、負けた側が死ぬことはほとんどない。(『モスラ対ゴジラ』での成虫モスラは寿命が尽きかけていたのであり、
ゴジラに殺されたのではない)
 怪獣という命を大事にする視点があるのだ。

『三大怪獣地球最大の決戦』では、ゴジラ・ラドンが「人間はいつも自分たちをいじめているではないか」と訴えます。
 そうです。怪獣出現で被害を受ける人間たちは彼らを抹殺する努力をしますが、彼らにとっては謂われなき暴力をふるわれているのです。
怪獣たちには悪さをしている意識はない。

 それが基本。
 悪ではない者を死なせてはいけない。(大映のガメラは対戦相手を殺してしまいますが・・)

 観客が怪獣の大きさや強さに魅力を感じるのは当然として、さらにそんな怪獣が死なずに済む物語形式を確立したのが画期的なのです。対立構図を怪獣対人間ではなく、怪獣対怪獣とした怪獣対決ものの開発です。
怪獣同士が闘争することで巨大な「野生」が躍動する「祭り」になる。もはや怪獣が死ぬかどうかは問題ではなくなる。人間社会の問題は、怪獣出現という大災害を背景として人間同士のドラマという形であぶり出されるのだ。
ストーリーは、怪獣闘争が終結(勝ち負けがはっきりしなくても戦いが終われば良い)することで終わることが出来る。試合終了ということですね。

 しかし、これは革新的な発想なので理解できない人が多かったのでしょう。それでも怪獣ブームの頃に子供だった人なら体得している発想だと思っていたのですが・・。
(84ゴジラやVSビオランテなどは怪獣ファンではない人が監督でしたから、旧態依然とした怪物映画の域に戻ってしまったのだと考えていました。ぎりぎりゴジラが死なないのは、田中友幸氏がコントロールしたからだろう、と。
ただし、田中友幸氏が本多・円谷コンビと同じ思想を持っていたかどうかは怪しい。ゴジラを放射線で変異した生物だとする設定を許容しキングギドラが宇宙怪獣ではなくても良いのですから)

 先に挙げた金子ガメラの例にも明らかなように、ゴジラ退治を追求する『vsビオランテ』のフォロワーは多い。おそらく『シン・ゴジラ』も例外ではない。(白神博士とマキゴロウは似てないか?そして両者とも芹沢大助には似ていない)

 怪獣映画を限定的な形式に押し込める気はありません。怪獣退治を主眼にするものがあってもいいのでしょう。(私はあまりおもしろいと思わないけれど)
しかし、それは古い形式であると知れ!
『原子怪獣現る』や『放射能X』の時代に退行しただけなのだ。

 真に革新的であった怪獣対決映画の復活を望みます。主役怪獣が対戦相手を殺してしまうようでは、まだまだ甘い。怪獣はスターであるべきで、片方をかませ犬のように扱ってはならない。
怪獣対決映画のひとつの到達点たる『三大怪獣地球最大の決戦』では一匹も怪獣は死にませんよ。
 社会的メッセージは怪獣ドラマを背景とした人間同士の葛藤として十分描けます。怪獣出現の社会的混乱をきっかけにして人間社会の問題が浮き彫りになれば良いのです。
(なんですぐ人間の問題をストレートに怪獣に仮託するかね)

 ということは、もう十数年以上書き続けてきました。東宝さんが私の発言をまったく知らなかったはずはないけれど、上記のような怪獣映画がついに作られていないということは、
賛同を得られていないということなんでしょう。私の認識は本多・円谷コンビの特撮映画から得られました。ゴジラ映画を作るなら、その精神も引き継がなければ意味がないと考えています。
先人が残した遺産を名前だけ借りて中身を捨ててしまうのでは、偽ブランド品と同じこと。そんな不正はもう止めて下さい。

と、私の主張を述べました。
 この記事をどこのどなたがお読みになっているのか、詳しく知ることは出来ません。私の希望は、この意見をきっかけにしてお読みになった方々にそれぞれ怪獣やゴジラ映画について考え直していただくこと。
作品を見直し、ストーリーのことや演出のこと、設定が持つ意味などなど、自分の頭で考えてほしい。
 私が正しいのなら、多くの人が似たような認識にたどり着くはずだし、そうすれば正しいゴジラ映画が復活するでしょう。

 権力者(映画製作においては出資者、プロデューサー、監督であり、映画批評においては評論家やライターなどマスメディアを使える人々)の言うこと、やることが正しいとは限らないのですよ。
権力者は己の意思を通すためには大衆を欺くこともいといませんから気をつけて!!!

『ゴジラVSビオランテ』について - エクセルシオール (男性)

2017/02/18 (Sat) 22:26:52

 『ゴジラVSビオランテ』は私は好きな作品です。遺伝子工学の問題性に踏み込んだり、国家と多国籍企業がゴジラ細胞をめぐって暗闘を繰り広げたり、スーパーX2の良い意味でトンデモな性能(ゴジラの放射火炎を一万倍にして反射することができる。すごい!)、次々繰り出される大作戦等々、面白い要素はたくさんありましたし、生粋の新怪獣であったビオランテもよかったです(その後もキングギドラやモスラに頼らずにどんどん新怪獣を出せばよかったと思う)。また、なんだかんだ言ってもゴジラは強く描かれており、後のミレニアムシリーズのように人間に負け続けなどということはありませんでした。その意味ではオールタイムランキングで上位に入るのは理解できます。
 
 しかし、一方で管理人さんが仰るような問題が包含されていたことも否定できません。実は自衛隊が細かく作品内容に注文をつけだしたのはどうもこの作品からだったようです。ただ、この時点では主として組織構造に関してのものであり、その後の平成ガメラ三部作やゴジラミレニアムシリーズほど露骨な「我々を強く描け」というものではなかったようですが(この愚かな要求は怪獣映画を破滅させてしまうものである)、まさに躓きの石が含まれていたと言えるでしょう。
 また、この映画におけるゴジラを衰弱させる抗核バクテリアという設定がゴジラ映画をゴジラ退治映画に変質させる危険性のあるものだったことは確かだと思います。一応ゴジラは半病人且つ腹ペコでありながらも自衛隊を打ち破り原発に迫るのですが、第二形態のビオランテとの戦いの最中についに発病してひっくり返ってしまいました。その後、海水で体温が下がって甦るのですが、打ち込まれたバクテリアはそのまま。これでは「もうゴジラは脅威ではない」ということになりかねません(白神博士は暗殺されてしまったが、他にも作る人間はいるだろう)。今思えば、どうして「ゴジラの免疫がバクテリアを駆逐してしまった」という落ちにしなかったのかと思います。
 実は初期脚本段階では抗核バクテリアという設定はありませんでした。第一段階ではゴジラは第三の怪獣デューテリオスを倒し自衛隊を蹴散らした後にビオランテと対決しますが、激闘の果て相討ちになって海に沈むというものでしたし、第二段階ではビオランテを破り自衛隊を粉砕した後に、復活したビオランテと対決し一度は吸収されかけるがビオランテが細胞崩壊を起こして難を逃れ海に帰っていくという内容でした。興味深いことにはゴジラが原発を狙うという設定もありません(この辺は『「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ』(角川書店、2010年)に載っていますので読んでみてください。)。
 そうなると、わざわざ「ゴジラ退治話」に持っていくために抗核バクテリアの設定が付け加えられたようにも思えてきます。以前にも書いたように私は基本的にVSシリーズまでは好きで、平成ガメラ三部作を経たミレニアムシリーズから「ゴジラは許容限度を超えておかしくなった」と思っていますが、VSシリーズのころから既に問題の萌芽はあったということは否定しがたいと考えます。

 なお、「○○総選挙」という企画は考えものです。大体インターネットを使用するのですが(一人の人間が複数回投票して結果をゆがめる問題もある)、概して①古い作品は不利になる。②一般向けの作品よりマニア受けする作品の方が有利になることが多いですから(例えば、今、NHKが「日本のアニメベスト100』などという企画をやっているが、上位に来ている作品には最近のとても一般向けとは思えない深夜アニメが多い。一方、『鉄腕アトム』も『サザエさん』も『ドラえもん』も50位以内にいない)。ただ、『GMK』が一位になることを考えれば『VSビオランテ』で止まったことはまだよかったと思いますよ(普通に考えれば『ゴジラ(1954)』が一位になるべきだと思いますが)。
 仮に今同じ総選挙をやったらどうなるか?おぞましいことですが、確実に『シン・ゴジラ』がダントツの一位になってしまうでしょう。

 


 
 

Re: 日本の怪獣映画は映画の革新だったはずなのに - 芹沢亀吉 (男性)  URL

2017/02/19 (Sun) 20:38:27

最近殿様ギドラ氏と私の一対一の対談みたいになっていたのであえて投稿をせずに他の方が投稿されるのを待っていましたが、エクセルシオール氏が来られましたか。

過去の投稿を見ればおわかりでしょうが私は『VSビオランテ』への評価低いです。理由は色々ありますが、スーパーX2や抗核バクテリアといった「日本にはゴジラに立ち向かう凄い武力と技術力があるんだぞ」という自国の力を過剰に誇示する設定が鼻につき、明らかに日本が国産のブラックホール砲を開発する『×メガギラス』やキングギドラでも倒せないゴジラにこれまた国産の削岩弾で致命傷を与える『GMK』等の先駆けになっているのが大きいです。劇中で大河内誠剛が日本が抗核バクテリアを保有することを手放しで肯定する台詞がありオーディオコメンタリーで大森一樹監督が名台詞だと絶賛していることも確認済みですが、初代ゴジラの芹沢大助博士がオキシジェンデストロイヤーを日本を含むどの国の為政者にも渡さないようにゴジラと心中したことの意味をまるでわかっていないと呆れましたよ。『原子怪獣現る』や『放射能X』と同様に怪獣に立ち向かい勝利する人達を描くことに力を入れた映画なので「ゴジラが凄い」という感想よりも「自衛隊の作戦が凄い」「スーパーX2かっこいい」という感想が多くなるわけです。エクセルシオール氏の仰る通り抗核バクテリアがゴジラの免疫により駆逐されたという結末だったらもう少し評価はよくなっていたでしょう。もっともゴジラ出現を外国のテロリストのせいにするなど徹底的に外国を悪者にして日本を被害者にする映画を手放しで評価することは出来ませんが。イグアナの巨大化をフランスのせいにしてアメリカが先制攻撃したわけでもないのに一方的にアメリカを襲う大イグアナを描いた某エメリッヒ映画と同じ発想ですので。

実を言いますと私は本多・円谷コンビが怪獣同士の対決を重視するようになって怪獣に武力行使する為政者の愚かさ、罪深さに関する描写を大幅に後退させてしまったことを残念だと思っています。『三大怪獣地球最大の決戦』のキングギドラは人類側が何もしていないのに地球を攻めてくる存在で、水爆によって目覚めたゴジラやアンギラス、自衛隊に攻撃されて阿蘇山の火口に消えたラドン、研究員らに眠りを覚まされたバラン、さらわれた小美人を取り戻しにきたところを防衛隊からナパーム弾や原子熱線砲で攻撃されたモスラ、ファロ島から無理矢理連れてこられたキングコングとは違って人類の罪の要素がありません。だからといって未来人のペットが水爆で合体巨大化した怪獣にしていいわけがありませんけど。私が本多・円谷コンビの生み出した日本の怪獣映画が革新的だと考えるのは、『放射能X』や『原子怪獣現る』といった当時のハリウッドの怪獣映画では人類、というより為政者が武力で倒すべき敵という扱いだった怪獣を権力や武力を濫用する人類の愚かさ、無力さ、罪深さを観る者に思い知らせる存在に格上げしたからなんですよ。怪獣を武力で倒すこと自体が間違いであることを主張する山根博士のような登場人物を通じて自然の大いなる力を体現している怪獣を敵とみなして攻撃することは本当に正しいのかと観客に考えさせるようにしたことも大きいですが。

だからこそ自衛隊などの国家機関がゴジラを攻撃することを当然視する為政者目線の映画を私は厳しく批判するわけです。それは怪獣映画じゃなくて映画化された架空戦記であって登場する怪獣は単なる国家権力の標的、サンドバッグですので。

Re: 日本の怪獣映画は映画の革新だったはずなのに(また長くなってしまったトホホ) 殿様ギドラ (男性)

2017/02/22 (Wed) 18:42:47

 エクセルシオールさん、芹沢亀吉さん、ご投稿ありがとうございます。
やはり複数の方から意見が寄せられないと話の内容が偏ってしまいますのでお二方からの書き込みは本当にありがたいです。
(『シン・ゴジラ』擁護の意見が寄せられてもいいような気もしますが、ネットを漁ってみてもさほど深い意見は見当たらないので、ま、いいや)

 近年の怪獣映画の問題点を考えるとき、どうしても『ゴジラvsビオランテ』に突き当たってしまいます。怪獣を生化学的に解明する展開に持って行きたがるのは『vsビオランテ』の影響であろうと考えられます。

 怪獣映画のストーリーで、人間社会が怪獣対策を行うのは当然のことであり、生き物を殺そうとすればその生態や生理を研究するのは当然です。ですから怪獣退治物語のリアリティを求めればバイオテクノロジーを取り入れざるを得ないのも当然のこと。
『vsビオランテ』で抗核エネルギーバクテリアなるアイディアが出てきたのは、ゴジラを倒す、ないしゴジラの弱点を作るためだったと思われますが、それは同時に人間の科学でゴジラを倒せる、という表現に繋がってしまう。
(オキシジェンデストロイヤーとはストーリー上の立ち位置が全然違うことにも留意)
どなたの発案だったのか? 大森一樹監督?(すいません、平成ゴジラにはあまり詳しくない)とすれば、怪獣映画への無理解が引き起こした設定と考えられます。その後、怪獣映画への造詣を深めた大森監督は抗核エネルギーバクテリアを使わなくなる。
しかし、その後の多くの作品が怪獣の謎を解く道具としてバイオテクノロジーを取り入れているのはいかがなものか? 結局、現行の科学知識ないしその延長で怪獣を説明してしまう。謎が解ければ倒すことも可能。しかし、それは間違いだ。

 怪獣映画の主眼は何か、ということを考えればわかるでしょう。そもそも怪獣とは架空の生物です。何のために映画に怪獣を登場させるのか? 芹沢亀吉さんのおっしゃる「権力や武力を濫用する人類の愚かさ、無力さ、罪深さを観る者に思い知らせる」ためであっても、私の解釈である「巨大な野生の祭典」であっても、
怪獣が人類に負ける必要はない。そして怪獣が大自然の驚異を体現するものならなおさら人類の科学ごとき浅知恵で倒されてはいけない。

 科学解説を入れるとなんとなく高級っぽく見えますから、まじめに作りましたと上っ面を飾りたいときには科学用語を入れたがる傾向があります。
(『vsビオランテ』は真剣にバイオテクノロジーを怪獣映画に取り込もうとしたのでしょうけれど、その害については無自覚だった)
科学啓蒙としては怪獣映画に科学解説が出てくるのもいいでしょう。しかし、劇中で科学的に分析された結果怪獣退治の方法(ないし怪獣の生理)が明かされてはいけません。

「科学の解説が何が驚異だ!」(これも多胡部長)

 怪獣はあくまでも謎の生物でなければならない。そうでないと、日本的怪獣映画は成立しない。

 ただ、まるっきり科学的分析を無視したシナリオでは観客の反感を買うでしょう。「この世界の科学者は何をやっているのだ?」と。ですから科学的視点や科学者を登場させるなら、科学の手法では何もわからない、ということを科学的に説明すれば良いのです。

 手前味噌になりますが、『vsビオランテ』原案と同じく1985年の公募に応募した私のストーリーでは、はっきりと、怪獣は生物学ではどうしても歯が立たない存在であると規定し、「不確定性生物」という言葉をひねり出しました。科学では倒されない存在とはどういうものだろうと考えた末のぎりぎり解説でした。しかし、そんな思いつきも30年以上も昔のことで、今では、そんな解説なんかいらないと考えています。

 怪獣映画では、怪獣という現象を見せればいいのです。その姿形、動き、力、性格・・・。外から見える怪獣の在りようを見せれば良い。
 そんな生き物は現実にはいないのだから、存在理由を説明されないと現実味を感じられない、というのはあまりにも科学を知らなさすぎる。この宇宙では光速より速く移動することは出来ないというけれど、その理由を説明できる科学者がいますか?
 理論があって現象が起こるのではなく、まず現象があるのです。特殊相対性理論は宇宙の限界速度が光速である、という現象から導き出されました。劇映画はフィクションであり、どんな現象でも起こせるのがフィクションの特性です。怪獣という現象を使って科学の限界を伝えるのもSF映画としての怪獣映画の役割です。

 てなことを言うと、「なんだお前、いままでさんざんいろんな作品について科学的な誤謬を指摘してきたじゃないか」と突っ込みたくなる人もいるでしょうね。

 違いますよ。私が批判してきたのは、科学的な設定が間違っていたり既知の現象を科学的に間違った描写をした場合です。『シン・ゴジラ』で怪獣が原子力で生きているという設定が出てきたとたん、なぜか体内に原子炉があることになってしまった。核分裂湯沸かし器である原子炉を使ってどうやってあの怪獣が生きているのか、雁首そろえた専門家たちは推論できたのか?こういう馬鹿な科学解説を批判するのです。

 怪獣は、説明すればするほど袋小路へ入ってしまいます。(『シン・ゴジラ』に出てくる怪獣は説明が多く、しかもその科学的なバックボーンが弱すぎてかえって信憑性を失っている)

 ゴジラは初出の『ゴジラ』が第五福竜丸事件をきっかけに企画されたものであるために、核実験によって出現した怪獣という設定が揺るがしがたいものであり、まさに人類の過ちが呼び覚ました災禍であるという「説明」がついて回ります。それは尊重すべき設定なのですが、どうも人間の業と結びついてしまっていて私としてはなんとなく居心地が悪いのも確かだったりします。
原点回帰を叫ぶ作品が、やたらとゴジラを人間の従属物にしたがるのもそのあたりに原因がありそうです。(「GMK」では人間の意識が凝り固まったものだし、『シン・』ではどうやら人造怪獣だし)

 これはグレーゾーンと申しましょうか、絶対にそうでなければならないとまでは言えないまでも、私としてはそうあって欲しいと思う怪獣観として、「究極のアウトロー」であって欲しい。
人間の行為や人間との関係の中で生まれた者とか、何らかの役割(◯◯を倒すとか守るとか)を担っていたり、その怪獣を登場させることによってストーリーになんらかの枠がかかってしまうような設定はない方が良い。
もちろん、怪獣というだけで枠は出来るわけですが、それ以上の枠はなしよ、と。

 そんなことを考えると、なんともキングギドラくんがいとおしいのであります。
 キングギドラが自由だったのは『三大怪獣地球最大の決戦』しかないけれど、それこそ、人類の過ちとも関係なく、何しに地球へ来たのかもわからないし、破壊の目的もわからない。あんなむちゃくちゃなヤツはいないです。
 それでも、わからないからこそ、逆にキングギドラがおとなしく座っていてもそれはそれで間違いではない。つまりキングギドラが登場するからといって、自動的にストーリーが規定される心配がない。この自由さがいい。
(でも、人間を助ける優しいキングギドラ、なんて絶対にNGだ。それは怪獣映画のおもしろさとはなにか、という観念が出来ていれば間違えない領域の問題でしょう)

 たしかに本多・円谷コンビの作品でも「権力や武力に対する批判」が薄いものはたくさんあります。それはストーリーのバリエーションと考えてもいいのではないでしょうか。『三大怪獣地球最大の決戦』では自衛隊(この映画では防衛軍)は怪獣に対し監視するだけで攻撃することがありません。そのため武力の無益さを伝える内容にはなっていないのですが、たびたび怪獣が現れるあの世界において怪獣に対して効力のない攻撃を加えるほど間抜けではないということでしょう。
それでも、防衛大臣がひたすら逃げの答弁を弄する様子を描いていて、権力者に対する批判を込めています。作品全体の主題はさまざまでも、その都度右に左に転向しているわけではないのでよろしいんじゃないかと・・。

(本多作品における武力や権力の扱いは細かく見ていくといろいろと興味深いところがありますが、それはまたいつか・・)

 「ゴジラ東宝特撮未発表資料アーカイヴ」、ひさびさに引っ張り出してめくってみたら、そういえば「vsビオランテ」原案コーナーに補足としてビオランテ発案者による守るべきゴジラ観があったっけな、と。
その第二条に「一、凶暴、残虐な獣性の復活」とあります。
この方、一体どの怪獣を復活させようと考えていたのでしょう?? ゴジラが凶暴残虐だったことがあったのでしょうか? 『ゴジラ』(1954)でのゴジラが「凶暴?」に暴れたのは攻撃されたからでしょう?虐げられて暴れるのが凶暴なら、ブルース・リーも相当凶暴ですな。残虐となると論外。
こんな誤解に基づいた原案からスタートしてしまったのが平成VSシリーズのつまづきであり、その後のゴジラ映画を狂わせた元ですよ。

『ゴジラVSビオランテ』について その2 - エクセルシオール (男性)

2017/02/28 (Tue) 20:59:58

 小林晋一郎氏の挙げた「凶暴、残虐な獣性の復活」云々という部分は、管理人さんの仰る通り違和感を覚えざるを得ないものでした。私も「ゴジラってそこまで凶暴残虐だったかな?」と思ったものです。それまでの16作品では大きく「こわいゴジラ」をメインにしたものと「親しまれるゴジラ」を強調したものとに大別できましたが、この時点では後者の方が優勢だったことを考えると、別の意味で行き過ぎていたと思います。おそらく、これは当時「子ども達のアイドルに堕落したゴジラを大人向けの正しい姿に戻すのだ」と息巻く意見が強かったので、それが極端な形になってしまったものと思われます(「子ども達のアイドル」というのはそれはそれで立派なもののはずなのですが)。

 とはいえ、そんなところからスタートしたVSシリーズも回を重ねるごとにゴジラに同情的な内容になっていきました。特にゴジラが再び「親」になってからは、「凶暴残虐な獣性」というものとはかけ離れたものになったと思います。ただ、そのことを批判するマニアが少なくないのも事実であり、その中にはその後の作品を全否定する方もいます。私自身は映画の出来は別にしてゴジラに関しては良い方向に動いていたと思うのですが。

 それに『VSビオランテ』に関しては近年解釈が変わってしまった印象もあります。最近の本作品の評価では「自衛隊がゴジラと対等以上に渡り合っている」「常に戦略的優位を保っている」等々という意見が目立ちます。黒木特佐にしても上映当時は「犠牲を顧みず勝つことしか考えていない、戦争をゲーム感覚でとらえる軍人」という否定的な見方が強かったのに、今では「これぞ軍人の鑑」みたいな持ち上げ方をされることがあり、寒心なきをえません。
 このような捉え方は内容とかけ離れています。ゴジラと何とか渡り合えたのは超現実的な性能のスーパーX2だけでその他は歯が立たず、スーパーX2も結局やられてしまいます。黒木はゴジラの出現ポイントを読み違える大チョンボをやらかし、しかもその埋め合わせを三枝未希に頼みます(女子高生をゴジラに一人で立ち向かわせるという確実に問題視される行動)。さらに、わざわざ生身の自衛官によるゴジラへの抗核バクテリア撃ち込み作戦を展開し(ゴジラがビルを壊したらおしまいであり、ほとんど特攻に近い)、権藤は殉職。総力を若狭湾に結集させてゴジラを迎え撃ちますが、ゴジラを阻止することはできず大損害。高浜原発破壊を免れたのはビオランテが現れてゴジラと戦闘になったからで、ほとんどラッキーでした。なお、ビオランテによって残った部隊が壊滅させられています。これでどこが「対等以上」なのか理解に苦しみます。『VSビオランテ』における怪獣VS自衛隊は従来の描き方からそうそう外れたものではないと考えます(それは別に悪くはない)。むしろ、対怪獣作戦は現実離れしているからこそ面白いのです。

 それがなぜ上記したような妙な解釈をされるようになったのか?無論、本作品に内包された問題や隙があったことは否定できません。しかし、私はその後の作品、特に金子修介監督による平成ガメラ三部作の影響が大きかったと思います。この作品では自衛隊によるストーリーへの不当な要求とスタッフによる自衛隊への阿りが激化し、「怪獣と対等に渡り合える強い自衛隊」が強調されました(その結果、怪獣の弱体化がおこった。例えば、第二作目の翔レギオンなど自衛隊が退治しやすくするために飛行速度がマッハ2から時速150キロに低下させられてしまった。これは大谷翔平の速球より遅い。)。本来「斬られ役」「やられ役」にすぎない防衛組織が主役である怪獣を脅かす存在になってしまった。この逸脱としか言いようのない内容に感化された人々が過去の作品も同様の視点で再解釈してしまい、付け入る隙が最も大きかった『VSビオランテ』を平成ガメラ三部作に最も近い作品と考えて、その評価を間違った形で上昇させた側面があったと思います。これは困ったものです。

 私自身は『VSビオランテ』はやはり嫌いにはなれませんし、娯楽作品として面白い映画だったと考えています。ただ、もう少し怪獣を大切に作ってほしかったとは思いますね。

 なお、今ではなかなか読めませんが角川文庫から出ている小説版ではゴジラは単なる凶暴残虐な怪獣ではないという要素も盛り込まれていたと記憶しています。例えば三枝未希が「ただ海を泳いでいるだけのゴジラに戦闘機が爆弾を落とし、ゴジラはなぜそんな目にあうのか悲しむ」という夢を見たりしており、彼女はゴジラに相当同情的な考えを持っていた姿が書かれていました。

 

名前  性別:
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
アイコン
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.